坦々塾(第十五回)報告(三)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

道元禅師『正法眼藏』と私        水島 総

「道元との出会いで人生を生きられた」。水島氏は今回の講義をこういって語り始めた。

 氏の多方面にわたる行動は、改めて紹介するまでもない。一日本人として、祖国の名誉回復を願い、歪んだ歴史観に果敢に挑み、心ある多くの国民を共に行動に駆り立てて来た。そんな、情念的な行動家ともいえる水島氏であればこそ、人間としての深い苦悩があったのであろう。学生時代はドイツ文学から学び、トーマス・マンに傾倒する。やがて日本に、そして道元禅師の正法眼藏にたどり着いたという。

 キリスト教、浄土真宗は空間的意識の宗教である。禅とは、鎌倉仏教とは何か。禅の本質は時間の宗教である。ここでいう時間の感覚はヨーロッパとは違う。キリスト教徒は、つねにより良い場所を求めてさまよう。ここではないどこかにいいところがあるという意識をつねに持ち、拡げようとする。その意識は宇宙にも向けられている。

 氏はカール・ブッセの有名な詩「山のあなた」がそれをよく表しているという。

山のあなたの空遠く
幸住むと人のいふ 
噫われ人ととめゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 
幸い住むと人のいふ

 易姓革命もまた、空間の移動と拡大同様に、時間が断絶する。禅はまったく軸が違う。空間的な拡大や移動を求めない。氏は台湾の少数民族を訪ねて、そこに漂う感覚に禅に通じるものを見た。彼らは母系社会を形成し、山を隔ててそれぞれが違う文化を継承している。そこには、自然、時間、祖先を共有する生活があった。決して山を越えて領土を拡張しようという意志はない。あるいはより良い新天地を求めようとは考えない。

 般若心経における色即是空の色とは物質であり、空とは時間であり悟りである。自分が時間になりきることである。日本人が失った時間、日本の禅、空解釈を変えなくてはいけない。

 以下はテキストからの引用である。

「苦集滅道」 四諦(したい) これまでの仏教の教え。「苦」この世は苦しみ「集」欲望があるから「滅」それを滅すれば「道」悟りへの道が開く

禅の教え 「苦」頭で考えた思想・イデオロギー、理想・価値 「集」感覚でつかもうとするが、ものであり物質を基礎に考える(科学的見方・唯物論)価値の喪失 「滅」現実の物と心を双方認め、行為によってそれを示していく。(中道)正しい行いが人間生活の中心 座禅への道 この場所 現在の瞬間の行為 人間本来の姿に戻る 「道」宇宙全体の時空との関連・連動 悟りへの道が開く(時間軸に生きることへの移行)

「集」をヨーロッパでは唯物論や観念論からアプローチするも、未だに解決できない。

「滅」プラグマティズム(行為)、座禅につながる。

「道」行為に時間が入ってくる。物事すべてに時間を入れる。

となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして 一遍

 ここでは結句に「声ばかりして」とあるため、聞いている自分がそこにいて、「仏も我もなかり けり」が嘘になってしまう。未決。

 となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

 これが悟り(空)である。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

空間と時間を融合し、岩を擬人化している。ここに日本の非合理がある。

日本人の心に肉体化していた時間(もののあわれ)が減少していった。座禅はそれを再発見する道ではないか。

神道の禊ぎ、祓いも大乗の本覚に通じるものがある。本覚の悉有仏性(ことごとくに仏性はある)とは、あらゆる存在は仏性で、そのまま仏のいのちであり、仏のいのちでないものはない。道元の解釈では、過去、現在、未来という時間もまた同じである、というものである。

存在(物質)と時間は一緒である。存在が時間の上に乗っているのではない。これは近代合理主義では理解できない。

幕末における廃仏毀釈とは、近代合理主義に基づく、我が国が継承してきた時間制の喪失であった。

明治維新において我が国は空間を導入した。これは日本にとって、時間と空間による股割き状態であった。

明治の日本人は夕焼けを夜明けと勘違いした。やがてやってくる長い夜に気がつかなかった。日本人が失ったものは、自分と他者を差別しないという意識である。日本人が時間を取り戻すことができるか。できなければ、欧米キリスト教、中国の物質世界に圧倒されるであろう。

皇位の継承を水と皿(肉体)で捉える。皿は水を受け取った。この水こそ時間である。神武天皇から受け継いだ時間である。時間軸を失った国体論は、形としてとらえられた。

インディアンの特徴として、時間が自由であるということがあげられる。そこには死んだ人間も一緒にいる。日本でも、先祖霊がお盆に帰る、仏壇に仏様がいると考える。仏性は過去、現在、未来が一緒であり、いつも輝いて、瞬間瞬間を生きている。時間を取り戻すとは、大らかさを取り戻すことである。近代の流入によって失ったものがあるが、日本人には、DNA、基礎があることを思い出す必要がある。日本人がそれを世界に発信する必要がある。台湾のパイワン族も、インディアンもそういう時間を生きている。広がりを求めず、過剰を求めない。そこで自足している。一匹の猪をみんなで分け合い、次に食べる人のためにも、余分な狩りはしない。蕩尽は空間が産み出す。皇室が持っているのは時間。時間は自足している。

 ここから水島氏は、トーマス・マンを通して近代ヨーロッパについて語る。19世紀リアリズム小説である「ブッテンブローク家の人々」は、作者が鳥の目を持って俯瞰的に描いた小説である。ここでは、登場人物も物語も作者の掌中にある。その後第一次世界大戦が起き、兄のハインリッヒとの論争を行い、この戦争を文明と文化の戦いであると意識する。三島由紀夫の文化防衛論は、この論争に影響を受けているのではないかと指摘があった。

 「魔の山」「ヴェニスに死す」になると明らかに文体が変わる。登場人物と一緒に歩くようになるのだ。

 「ヴェニス」では、ヨーロッパ近代の終わりを感じた。ここに登場するギリシャの美少年とは、ギリシャ文明の象徴、外見は完璧な美を保ちながら、一点だけ歯に欠陥があった。内側は腐っている。そのことにより彼は、にせ者となる。内部に病を持つことが、近代ヨーロッパを象徴している。主人公の老作家は、少年に魅せられ、厚化粧をし、付きまとう。このさまよい歩く姿こそ、空間に呪縛されたキリスト教世界の比喩である。水島氏はこの様子を、みっともないヨーロッパの姿、と非情に辛辣に表現した。村上春樹が同じことをやっている。こっちが駄目ならあっちと、本質的にはまったく同じである。ただし、水島氏は村上春樹は民主主義者の中では現代最高の作家であるという。意識的なコスモポリタンではあるが、最高でありしかも限界でもあるという。

 冒頭触れたように水島氏は果敢な行為の人である。そんな氏を突き動かす座右の銘が最後に披露された。

典座教訓 生死事大 無常迅速 私がやらねばだれがやる。いまやらねばいつできる。

石はいつでも石。しかし、磨いて磨いてぶつけ合わせれば火花となり、遼火となって野を焼き尽くす。泥石では火花は出ない。自分を磨くことがすなわち行為である。

 講演後、西尾先生から「私も火花を散らす存在でありたい」、という感想があった。さらに、もう一度「時間」を取り戻そうとしたのが大東亜戦争ではなかったか、不合理そのものが日本の過去だった、ともいわれた。

 この言葉については、是非皆さんも一緒に考えていただければと思う。特に、散らした火花が遼火となって野を焼き尽くす、その炎を起こすために必要なことは、言葉(火花)を受けた私達が、それをどう受けとめるのかにかかっていると思うからだ。

 三人の先生方の講義は西尾先生の言葉通り「ずっしり重く坦々塾ならではの集中した時間」でした。私のつたない記録ではあの臨場感はとても伝え切れておりません。理解や表現に講師の真意と異なる点も多くあると思いますが、それらすべての責任は私にあります。特に宗教の問題に関しては基礎的な素養がなく、私にとっては困難な作業でしたが、このような機会を与えてくださった西尾先生に深く感謝申し上げます。

 なぜ御皇室は存続し続けたのか、日本にはなぜキリスト教が根付かなかったのか、ということが私の最近の関心事となっておりますが、今回の講義でその問いに対する一つの方向性を見出していただいたと思っております。本当にありがとうございました。

 今回の記録作成にあたって、過去の諸先輩方の文章を拝読し、その構成力、文章力、そして何よりも文章の土台となっている教養の深さに改めて圧倒された次第です。

文責:浅野 正美

「坦々塾(第十五回)報告(三)」への1件のフィードバック

  1. 水島さんの講演を昨夜拝聴してきました。
    会場は入りきれない人もでるほどの盛会でした。
    街頭行動での水島さんと違い穏かな話ぶりで、時に乱暴な言葉も飛び出して
    訂正なすったりと、ちょっと「やっちゃ」な面もお見せして、聴衆を和ましていました。
    お話の内容はとても濃くていらして、以前三島由紀夫研究会の公開講座で講演なすった折の拙文を持参して、それを見ながら、
    ふっと、此方の浅野さんの記録を思い出して拝読。
    昨夜の講演内容をより深く理解できました。

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