結婚式と葬式 (一)

 私は4日間ほど旅に出ていた。帰ってきて風邪をひいた。体調が乱れて、予定通りの生活が出来なかった。

 このところ寒い。こういうときには死者が出る、と不吉な予感がした。「新しい歴史教科書をつくる会」事務局で平成12年夏から約1年間ほど協力してくださった私と同じ年齢の川原祐さんという実直で、律儀な方がいた。2月6日にその方が亡くなった。私が風邪熱で早く床に臥せた日だった。

 8日の夜お通夜があるとしらせが入った。7日に熱は下がったもののまだ鼻みずは出るし、すこし咳も出る。8日夜の同じ時間帯に政治家の高市早苗さんの結婚披露宴に招かれていることをすっかり忘れていた。別件で伊藤哲夫さんから8日朝に電話が入って、そのことを言われて、あゝそうだった、と思い出した。

 お通夜のあるお寺は浅草の稲荷町、披露宴は赤坂プリンスホテルである。どちらも午後6時からとなっている。私は9日には用事が入っていて、告別式には行けないからお通夜をはずせない。

 お弔いと婚礼、死と生のどちらが尊重されるべきか。といえば当然前者であろう。けれども、死は突然訪れるものだ。婚礼は約束ごとである。私は今夜の出席の返事を出している。伊藤さんが問い合わせて、立食パーティーではないらしいよというので、テーブルに空席をつくっては相済まぬと思った。私は両方をうまく果せないかと思案した。赤坂見附と稲荷町の間は地下鉄銀座線で30分ほどである。

 会の事務局に相談したら、お寺に万が一来られないケースを考えて会として弔電を今から打っておきたいという。任せるといえばよかったが、紋切り型の弔文にしては川原さんに申し訳ない、と私には思い出のある人だからと言うと、それなら急いで文章を作ってファクスで事務局に送ってほしい、電報はこちらで打ちますというから大急ぎで文章を作ったら少し長めになった。「長いなァ、これでいいかなァ」と電話口で言うと、処理は任せてくださいと、事務局長が言うものだから大丈夫かなァと心配しながら、「ぎりぎりでもお通夜に間に合うようにお寺に行くよ」と私も言い添えた。

 赤坂プリンスホテルの2階の大広間が会場だった。待ち合わせていた伊藤さんと中へ入ると、ステージで女性歌手がロック調の声をはりあげている。情報違いで、椅子がない。やはり立食パーティであった。あゝこれなら早めに退場してお寺に駆けつけることも出来るな、と好都合に思った。あとでざっと見回して、約1500人は来ていただろう。

 歌が終って漫才師のかけ合いがあり、正面スクリーンに新郎の衆議院議員山本拓氏と早苗さんが並んでインタヴューを受けている場面が大写しになっていた。ご夫君になった方を私は存じ上げない。今から13年ほど前、私が朝まで生テレビに一番よく出演していた当時、ある時期から以後高市早苗さんがしばしば私の隣席に坐るようになった。隣席だから同陣営とみなされていたのだろうが、彼女からむしろ私は噛みつかれることが多かった。「彼女は先生の天敵ですね」と言う人もいた。議員になられる前で、20代さいごの年齢ではなかったろうか。ご本人は当時のご自分の牙をもう忘れておられるだろう。

 6時になって新郎新婦が入場し、人混みをかきわけるようにして正面ステージに登った。彼女のウェディングドレス姿は、大柄なので舞台上でもひときわよく映えた。森喜朗氏、中川秀直氏、小泉純一郎氏、武部勤氏の順に挨拶があった。最初の二人が結婚の立会人ということだった。

 政治家の話はどれもうまい。とりわけ森さんは愛想良く、上手である。けれども、どなたの話であれ、後から思い出そうと思ってもどうしても内容を思い出せない。それがまた政治家の話の特徴である。

 「早苗さんは落選しなければ大臣になっていたが、そうならば結婚はできなかったろう。」「30代で結婚したいってしきりに言っていたが少し間に合わなかった。」「落選したので秘書をしていた弟さんを山本議員に引き取ってもらった。そうしたらお姉さんまで引き取ってもらうことになった。」みんな仲間なのだろう。誰いうとなく遠慮のないそんな言葉がスピーチの中に飛び交っていた。自民党はこういうときになるとやはり派閥で集まるものらしい。

 議員になってから早苗さんは私の方へ近づいてきた。ことに「新しい歴史教科書をつくる会」の熱心な応援者になって下さった。夫婦別姓反対の女性議員の代表格でもあった。従って「山本早苗」になったはずである。

 小泉首相はステージの真中で両腕をあげて語ったが、何を言っていたかをやはりどうしても思い出せない。たゞ山本拓副幹事長はわが郵政改革の支持者だ、と胸を張って振り返るようにして言い、みなを笑わせた。そういう程度の仕草でも人が笑うような会場の雰囲気だった。

 それから30~40人くらいの氏名が次々と呼び上げられ、ステージに登壇することを求められた。森派の有力政治家が大部分だったが、評論家も何人かはいた。その中に私の名があったので、後方にいた私は混雑をかきわけて前方ステージへ登った。

 私は出席を返事していた。風邪とお通夜の件もあってよほど欠席しようかと思った。でも先方が私の存在を気にかけていたのだから、やはり失礼にならずに済んでよかったと思った。安倍晋三氏がステージの中央で乾杯の音唱をとった。私はそのすぐ後にいた。ステージの上で新郎とも新婦とも握手を交した。私は早苗さんに「さっき弟さんに会いましたよ。」とだけ言った。

 盃をかゝげながらステージをぞろぞろ降りる途中で町村外相と目が合った。「やあお久し振りです」と先方。前の文相時代は「新しい歴史教科書」の検定騒ぎ、韓国からの改訂要求の時代だった。「今度はあなたが外務大臣になられて、日本は腰が坐ったかんじで安心して見ていられます。」と私は応じた。

 二人は立ち止まって話す姿勢になった。「本当は私は文部大臣になりたかったんですよ。でも、今度の文部大臣はしっかりしている方で、安心です。」「今度は外も内も手堅く安全ですね、本当によかったです。」と私が応じると、「でも、教科書の内容はお手柔らかに願いますよ」と4年前に戻ったような調子で言う。「いや、すでに検定で調査官から手厳しくイジメラレテイルようですよ。」と私はあえて答え、それでそのまゝ人混みの中へ左右に別れた。

 何ということはない意味のない対話である。けれども思い出すことが一つだけある。町村さんとは4年前、検定も採択もすべて終って、秋になってからある空港の貴賓室で会談した。両者の旅が同じ時刻にクロスするのを親切な人がキャッチして、仲介したのだった。町村さんはそのとき、私たちが教科書の検定内容を大幅に受け入れたことが意外だったらしく、「あんなことならもっと削ればよかった」と冗談のように仰言った事実を思い出した。

 あの教科書の主張を少しでも「守る」のではなく「削る」のが当時の政府の、そしてひょっとすると今の政府の心の奥にあるものなのかもしれない。それを思うと心が寒々とし情けない気がする。

 この情勢が逆転しなくてはいけない。左翼の教科書を検定で少しでも「削る」。――それが政府の意向であるという風にならなくてはいけない。家永教科書裁判の時代まではそうだった。いつの間にか家永側が主流になり、こちらが少数派になった。今の日本はまだこの状態がつづいているのかもしれない。

 ステージの下に数多くの政治家がいて、挨拶を交した。元防衛庁長官の衛藤征士郎氏が近寄ってきて、私の本をよく読んでいると言い、尖閣の魚釣島に2000mの滑走路を作ること、沖の鳥島にレーダー基地を建設することを立案し、いま実現を目指してがんばっていると仰言った。実現すればまことに有難いし、心強い。

 私は尖閣もいいが、中国は先に台湾攻略を考えているので、宮古島、石垣島、与那国島といった台湾に至近のいわゆる南西諸島に自衛隊を常駐させることをもっと本気で考慮して下さいと言った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です