謝辞 西尾幹二
私にとって出版は余技ではなく、これをいわば生業として参りましたので、私は出版記念会をしてもらうべき立場ではないと考え、今まで固辞してきました。しかし今回気が変わりました。ある人に電話でそういうお話をいただいて迷っているのだと申し上げたら、「先生、お受けになってください。先生は明日お亡くなりになっても不思議はない年齢なのですから、ぜひお受けになってください」とズバリと言われて、ああそうかと思ったからです。
私は格別健康に不安はなく、早くも次の著作へ向けて活動を開始しているのですが、言われてみればこの人の言うとおりです。私は『江戸のダイナミズム』よりもっと大きな本を書く計画ですが、運命がそれを見離すかもしれません。これが最後の大著とならないとも限りません。出版記念会を開いてお祝いしてあげようという友人知人の皆さまの声に素直に従うことにしました。
私は28歳のときドイツ文学振興会賞という学会関係の小さな賞をいただいたことがあります。修士論文を活字にしたものです。「ニーチェと学問」と「ニーチェの言語観」の二篇が対象でした。もうこれでお分かりと思います。「学問」と「言語」は『江戸のダイナミズム』の中心をなすテーマです。若い頃の処女論文のあの日から一本の道がまっすぐに今日までつづいて、そしてそのテーマを拡大深化させたのが今日のこの本だと言っていいのかもしれません。
学会に論文を推薦してくださったのが秋山英夫先生、論文審査会の審査委員長が高橋健二先生、そして、そのときのドイツ文学振興会の会長が手塚富雄先生でした。翻訳などでよく知られたこれらの先生がたのお名前を懐かしく思い出してくださる方もいるでしょう。ですが、もうどの先生もいらっしゃらないのです。
「あのときの君のあの論文が今日のこの大きな本になったのだね」と言ってくださる先生がたはもう何処にもいません。人生の悲哀ひとしおです。
本日の会を開いて頂いて、今度の本が私の一生にとっても特別記念に値する場所に位置していることを、このように改めて思い出させてもらったことも有難く思っております。
それにしても、貴重な春の宵のひとときを犠牲にして私のためにこうして皆さまに御参集いただけましたことは、望外の出来事であり、驚き、かつ深く感謝申し上げております。
会の企画を提案してくださった多数の発起人の諸先生、日本を代表する出版社のトップの方々、また具体的に今日の会を立案し、動かしてくださった事務局のスタッフの皆さまにも、厚くお礼を申し上げる次第です。
本当に有難うございました。