荻生徂徠と本居宣長(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 今回はVoice5月号より、『江戸のダイナミズム』を元にした長谷川三千子先生との対談「荻生徂徠と本居宣長」を掲載します。コメントはエントリーに関するものに限りますので宜しくお願いいたします。

江戸の二大思想家が語る日本文明のダイナミズム
Voice 5月号(2007)より

西尾幹二(評論家)
長谷川三千子(埼玉大学教授)

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漢文訓読みの異常さに気づいた徂徠
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長谷川 : 久しぶりのご大著『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)、面白く拝見しました。この本は「近代とは何か」ということが隠れたテーマになっていると感じられました。ただし、いわゆる時代区分としての近代ではなくて、むしろある〈意識の在り方〉としての近代といったものが問題になっているように思われたのですが・・・・・。

西尾  : 好むと好まざるとにかかわらず、「近代的なるもの」に私たちはすでに襲来されていて、古代人のように生きることはもうできません。たとえば神話はいまや古代人のように信仰の対象とするのではなく、学問の対象です。『論語』も『聖書』もそのまま信じるのではなく、成立史それ自体に疑問を抱かざるをえない。

 日本では江戸中期に活躍した儒者・荻生徂徠が早い時期から、このような近代的な文献学の問題にぶつかりました。

長谷川 : つまり、偶像破壊としての近代意識というわけですね。ただ、本書ではそれだけに終わらず、さらに一歩踏み込んだ問題提起をなさっているように感じますが。

西尾  : 偶像破壊という意味だけでなく、聖なるものに対し、主体的自我を立てて対決するというのが、一般に考えられる近代意識ですが、それだけで終わりません。聖なるものを壊してしまって、そのあとは平板な世界でいいのかというと、そうはいきません。聖なるものをもう一度再興しなくてはならない。ただ、なぜそういう二重の手続きになるかを考えたとき、その背景には危機意識があったのです。自我の尊大がそうさせたのではなく、新しい神を求めざるをえない時代の必然性があった。

 このような危機意識は中国にもありました。「清朝考証学」が辿り着いた問題点は「音」です。あれだけ広い地域で長い時間が経過すれば、かつて使われていた「音」が把握できなくなることは自明です。そこで、「かつてと異なる音で理解するのは問題である。漢の時代まで戻ってもう一度確認したい」という意識が生まれてきたわけで、これも存在に対する危機意識のなせる業、言葉と実在の不一致の自覚のせいだったと思います。

長谷川 : 中国のように表意表音文字しか存在しないところで、「音が大事」と言い出してしまうと、漢字そのものの根本的な否定にもつながりかねない問題になりますね。

西尾  : そして同じ自覚が日本で、清朝考証学の学者より早い時代に徂徠に表れた。徂徠は『学則』のなかで、訓読みの巧みさについて述べています。もともと訓読みは、漢文が中国語であることを徹底的に無視することから生まれました。これこそ七世紀の日本人の大きなドラマをもたらし、日本が中国文明から自己を切り離し、独立する最大の力をもたらしたものです。ただ、そこから千数百年を経て、徂徠は「それはおかしい」と気づいた。

 外国語として読むべきものを日本語として読めるというのは、異常なことではないか。やはり外国語として捉え直さなければならないと、痛切に感じたのが徂徠なのです。そのために大変な努力を行ない、教育法を開発して、中国語の書物を「唐音」ですべて読み通すことをやってのけた。そうして初めて中国語を「外国語」として再認識した。奈良・平安時代から漢文で書かれた経書や仏典は日本語に読み替えて理解されてきたけれど、「じつは外国語だった」ということを卒然と悟った感動が、徂徠の一生を貫いていくし、彼の思想の基本を形作るのです。

長谷川 : じつはその発想が、国学者・本居宣長とぴったり一致しているのですね。中国語をそのままに受け入れよと主張する徂徠に対して、「きたなき漢文(からぶみ)ごころ」をしりぞけよ、と主張する宣長は、一見すると正反対のことをいっているかのごとくですが、そうではない。宣長が「からごころ」と呼んで憎むのは、むしろ中国語が外国語でなることに気付かない、日本人たちの鈍感さなのですよね。

つづく

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