寄せられた読後感から
武田修志(鳥取大学助教授)(2)
ここで、この書を読んでいる間、ずっと気になったことを一つ、忘れないうちに書いておきたいと思います。それは、小林秀雄の『本居宣長』について、やはり、正面切って、二、三ページでも、論ずるべきであった、ということです。「あとがき」に、「名だたる文芸評論家が」うんぬんとありますが、この名だたる評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――そういう感じを、私は少し受けました。
中途半端に触れていると言うだけではなく、私などは、この『江戸のダイナミズム』を一読したとき、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」という印象さえ受けたからです。
それというのも、この書はあとがきにあるように小林の方法論の欠点を批判するところに成立している(図面を引くというやり方)わけですが、それと同時に、多くの知見を、小林の本に負うていると推察されるからです。例えば先生の主張の一つである、我が国において文字なき時代がじつに長く続いたこと、その時代には、その時代で人間の精神生活は十全におこなわれていたこと、その、文字なき時代の言語生活も、ある意味で完全であったこと、こういう洞察は、その大部分が本居宣長の発見によると言っていいのでしょうが、しかし、これらの洞察を、深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのは、やはり小林秀雄であったのではないでしょうか。
もちろん、小林の名を出さなくても、こういう知見の出所については、本居宣長本人を引き合いに出せば済むことですが、それでも一度は正面切って、小林の『本居宣長』を取り上げて、この書のすぐれている点と批判すべき点を、『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだったと私は思ったのですが、いかがお考えでしょうか。
この本を拝読して、これから「西尾日本学」のような物が書き続けられていくのではないか、という感じを強く持ちました。
勿論これまでも先生の日本史を見る視点には、独自のものがあったわけですが、この著作によって、多くの読者に先生独自の、未来を切り開く視点のあることが知られるようになってきたと思います。これは私のような一市井の人間にも「考えるヒント」を与えるものですが、広く学問界にもじわじわと影響を与えていくことになるのではないかと思います。