小林秀雄『本居宣長』のこと(1):西尾幹二
武田さんから右の手紙に小林秀雄『本居宣長』のことが述べられていましたので、いい機会ですから一言書いておきます。
江戸思想の研究家で西洋や中国と比較しないで日本一国に立て籠もる方法論の狭さは、ひとり小林さんだけでなく、日本のすべての研究家についていえることだと思います。私はあとがきでそう書いたはずです。
武田さんは私が自著の中で特別に小林秀雄を取り上げ、評価するなりきちんと所見を表明すべきだといいますが、それは必要なら私以外の第三者がなすべきことで、私が自著の中で、わざわざそんなことをするのはおかしいのではないでしょうか。
『江戸のダイナミズム』は本居宣長や古事記伝を論じた本ではありません。私の最初の関心は荻生徂徠でした。そこから入って清朝考証学に関心が移りました。「音」が近代中国の学問の中心をなすテーマであることを知り、徂徠がこの問題意識で中国の学者に先んじていることに驚きました。日本ではその後「音」のテーマは国学に移り、宣長から橋本進吉へ受け継がれていくことを私は学習し、漢字を使う両文明の精神史の一面として追跡し、その順序で叙述しました。
文字なき時代の言語生活の健全さ、すなわち言語は音であることは、言語学のイロハであって、これは格別誰の思想とはいえない自明の話だと思います。地球上で知られる言語の数は約三千、文字は約四百です。「言語学ではとくに断らない限り音声言語のことを言語と呼ぶ」(463ページ)のです。私はホメロスなど古代歌謡が文字を使わないで制作されたこと、中国神話の伝承には盲人がある役割を演じていたこと、釈迦の教えは仏滅から五百年間も文字に記されないで語り伝えられたこと、古代中国では文字が足りないので音だけ他字から借りる仮借がおこなわれ、これは万葉仮名の確立とも並行する現象であったこと、など、文字なき時代の言語生活をいろいろな角度から論じ、その流れは日本の仮名遣い論にまで及びました。
これらは一般的にいって宣長の学説から学んだことではありません。宣長から学ばなければ「言語は音である」とはいえないと考えたこともありません。まして小林秀雄からこの点で格別に新しい知識を得たことはありません。ホメロスも、中国神話も、釈迦の教えの伝承も、仮借も、小林が取り上げ、論述した問題点ではなかったはずです。