書 評
注:小冊子には三分の一に縮小されていますが、ここでは全文を掲げます。(文・長谷川)
宮崎正弘(中国評論家):「宮崎正弘の国際ニュース早読み」2月19日号より
平成の本居宣長の意味 (3)
▼重大命題は「いまの価値観」で当時を推し量る愚
西尾氏はこうも言われる。
「いかに江戸時代は躍進する時代であったか、もはやことさらに言い立てるまでもないが」、従来の「歴史教科書の記述と歴史教育学会の意識は、いまの知識の先端のレベルからいかに遅れていることか。古くさい情報、黴の生えたようなマルクス主義の理念にまだ囚われているせいではないか」と激しく固定観念を批判する。
乱麻を断つ白刃。
まして江戸と明治のあいだに「断層」はなかった、と西尾さんは結語、江戸時代は厳密な封建社会でもなかったのではないか、と問いかけて下記の重大な「命題」がでてくる仕組みになっている。
「江戸時代を暗い前近代として否定的に描出することも、明るい初期近代として肯定的に評価することも、われわれの現在の立場や価値観を江戸時代に投げかけて、現在からみての一つの光景を作り出している結果といえないこともありません。しかしほんとうに江戸時代を生きていた当時のひとびととは、いまのわれわれの立場や価値観を知る由もありません(中略)。江戸時代の歴史を知るには、あくまでも完結した一つの閉鎖状態の人間の生き方をそれ自体として知るようにつとめ、明暗いずれにせよ現在のわれわれの立場や価値観の投影によって固定的評価に陥らぬように気を付けるべきです」
さて細かな話を飛ばして、江戸の安定期に、なぜ本居宣長がでてきたのか。
それまでの体制御用、官製の儒学を乗り越えて、自立する思想家、国学の巨星がどういう時代背景から飛び出したかが、さらりと語られる。
宣長論が本書の肯綮である。
日本の神道は「自然なかたちで習合する思想」なれど、自立して闘う理論が弱かった。
「本格的に思想家として自己防衛したのは本居宣長一人であった」
「宣長が『遠い山』と言った、肉眼ではよく見えない日本人の魂の問題は、ますます現代人の知性の限界からかけ離れて、どんどん果てしなく遠くへ逃げ去っていくように思えます。そういう時代にいまわれわれはあるといえないでしょうか。日本人の魂の問題を守ろうとした宣長の守勢的、防衛的姿勢は、日本人の主張のいわば逆説的スタイルとして、いよいよ必要とされる時代になっている」(227p)
本書の冒頭部分には長い文献学の説明がなされていることは述べたが、何故といぶかしむ読者がきっと多いだろう。これは後半の謎解きへと結節してゆくために読み落とせない前提なのである。
キリストにせよ、儒教なるものにせよ、いったいイエスや孔子は本当のところ、何を教え、どういう中身を生徒らに喋ったのか。
それはソクラテス同様にテキストが残っておらず、弟子達が孔子の教えとして数百年の歳月をかけて解釈をひろげていく裡に、大きく解釈の異なる流派がうまれ、儒学は侃々諤々の学問的論争と発展し(その実、学閥・セクト間の闘争でもあるのだが)、体制御用や反政府的な学閥がうまれ、集散離合し、主導権争いが産まれ、権力に近づき、あるいは疎外され、弾圧され、希有の運命をともにした。