産経新聞令和6年11月18日付「正論欄」より
藤岡信勝(新しい歴史教科書をつくる会」副会長
西尾幹二氏の教科書への思い
日本を代表する言論人であり、新しい歴史教科書をつくる会の創立者(初代会長)だった西尾幹二氏が去る11月1日、老衰のため亡くなられた。89歳。つくる会の会員、とりわけ氏の謦咳(けいがい)に接したことのある古参会員の喪失感は並大抵のものではない。心からご冥福をお祈り申し上げる。
教科書問題の始まり
私が西尾幹二氏と初めてお目にかかったのは平成8年1月、氏が主催する「路の会」という言論人のサロンの場であった。この会は月例で開催され、西尾氏がその時々に一番注目した人物を講師として招き、講演と討論、そして二次会での激論へと続くユニークな会である。
この直前の1月15日に、産経新聞紙上で「教科書が教えない歴史」の連載が始まっていた。この連載は当時の編集局長・住田良能(ながよし)氏の求めに応じて、小中高の現場教師からなる「自由主義史観研究会」のメンバーが執筆するという異例の企画だった。西尾氏はこの記事を目に留めて会の代表であった私を路の会に誘ってくださったのである。
その年の6月に中学校教科書の文部省(当時)による検定結果が発表され、「従軍慰安婦」が全ての歴史教科書に記載されたことがわかった。私は許せなかった。戦場の慰安婦が「強制連行」された「性奴隷」であったとするような根も葉もない、しかし反証には困難を伴う反日プロパガンダ作者の底知れぬ悪意と狡知(こうち)に戦慄しつつ、これに戦いを挑む決意をした。全教科書に噓が書かれているなら、それを書かない歴史教科書を自分たちでつくるほかないではないか。歴史教科書問題はこうして始まったのである。
自ら筆を執って牽引
私は路の会のメンバーでもあった教育研究者の高橋史朗氏に思いを打ち明けて相談した。高橋氏は西尾氏に持ちかけることを提案し、3人の会合をセットしてくださった。西尾氏は直ちに問題の意味を理解され、政治思想史の坂本多加雄氏に参加を呼びかけることにした。こうしてこの4人が幾度となく会合を重ねて会の構想が次第に形を成していった。
新しい歴史教科書をつくる会という会の名称は岡崎久彦氏(元駐タイ大使)の発案である。これはそのものズバリのネーミングで余計な説明がいらない。
設立趣意書を執筆したのは西尾氏であった。その書き出しは次のようになっている。
「私たちは、21世紀に生きる日本の子どもたちのために、新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すことを決意しました。世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持っているように、日本にもみずからの固有の歴史があります。日本の国土は古くから文明をはぐくみ、独自の伝統を育てました」
これからつくる新しい歴史教科書の一番大切なコンセプトが見事に表現されている。全体の構成といい個々の表現といい、名文である。趣意書は平成9年1月30日の創立総会で決定した。
次いで、教科書を執筆する段階では、私が指名され西尾氏と単元の構成から組み立てた。そして、オトタチバナ姫の伝承など多くの箇所を自ら筆を執って書き下ろされた。西尾氏は会の責任を背負い、敢然と役割を果たされた。
思索と行動の対照性
西尾氏の中には現状に対する燃えるような怒りと、特定の結論に安住しない懐疑の精神の二つの魂が同居していたように思われる。「最後の知識人」(小浜逸郎氏)と評された西尾氏の巨大な業績については今後多くの「西尾幹二論」が書かれるだろうが、思索のプロセスにおいては時に難解と思えるほど用意周到で慎重だった。
他方、「教育という分野では論よりも事実をつくり出さなければ意味がない」とおっしゃられたことがあり、なぜそれがお分かりになるのか不思議な思いをした。実際、十の評論よりも一つの確かな事実(授業・実践)をつくりだすほうがはるかに価値がある。
このような「教育における実践の優位性」の理解とおそらく同質のことなのだろうが、時々の政治的判断においてはストレートな主張を進んで表明された。
アメリカの大統領選挙では、トランプ氏の当選を熱望しておられた。わずか5日違いで、結果をお知らせすることができなかった。
日本の政治家では高市早苗氏を明確に支持されていた。私の記憶にある限り、政治家で路の会の講師に招かれた人は高市氏だけである。近親者のみで行われたお通夜には高市氏の姿があった。
西尾氏は誰であろうと相手の社会的地位や肩書に関わりなく、その人の発言の内容に耳を傾けた。そして、よいところは褒め、励まし、多くの言論人を育てた。
亡くなる数日前、すでに声を発することは難しかったが、意識は明瞭で、実に4時間にわたって内外の情勢を身近な人に語ってもらっていた。西尾氏は命が尽きる最期まで、世界への瑞々(みずみず)しい関心を失うことはなかった。(ふじおか のぶかつ)