訃報を受けて(三)

週刊新潮 令和6年11月14日号より

墓碑銘 歴史教科書だけではない西尾幹二さんの現実的視点

 西尾幹二さんと言えば、独自の歴史教科書作りを進めた保守派の論客として、まず紹介されることが多い。

 だが、その名が広く知られるようになったのは、1980年代後半、外国人労働者の受け入れに反対を表明した時だ。当時、好景気による人手不足で、不法滞在の外国人が就労するケースが増えていた。

 西尾さんは、彼らを日本の労働力に組み込めば、依存する状況がやがて固定化され、日本人が避けるきつい仕事を押しつけることで“階級社会”も生まれると唱えた。そして言語、宗教、日常習慣のような違いが許容限度を超えると日本人との摩擦も起こると懸念した。かつて留学した西ドイツでの体験をもとに、目先の経済合理性のために日本が余計な災いを背負う必要はないと警句を発したのだ。

 現在生じつつある問題を約35年前に西尾さんは明確にとらえていた。だが当時、経済大国となった日本は、外国の失業者の救済という人道面も考慮して責任を果たすべきだとの意見が大勢を占めていた。

 作家の石川好さんと月刊誌の対談で論争し、討論番組「朝まで生テレビ」では“鎖国派”として孤軍奮闘。国際化で文化の多様性が深まるとの楽観論に抗し、後世に禍根を残すと主張して一歩も譲らなかった。

 長年親交があった評論家の宮崎正弘さんは振り返る。「西尾さんは欧米を基準に置いたり賛美したりしません。日本が異質な存在だとも考えなかった。観念的で詭弁を弄する人を許さない姿勢が一貫していました」

 1935年、東京生まれ。東京大学文学部に進み大学院を修了。ニーチェなどドイツ思想を研究し、65年から67年にかけて西ドイツに留学。この経験をもとにした論考は三島由紀夫に称賛された。ニーチェ研究を専門とする一方、福田恆存に師事し文芸評論でも活躍。外国人労働者問題で時の人となる。「ニーチェ研究が根底にあった。徹底して調べ、現実逃避をせず本質に迫ろうとしていた」(宮崎さん)

 97年、「新しい歴史教科書とつくる会」の設立にかかわり、初代会長に就任。従来の歴史教科書の記述が日本を貶める“自虐史観”に陥っているとして、実際に教科書作りを始める。同会の委嘱を受けて西尾さんが99年に上梓した『国民の歴史』は70万部を超えるベストセラーとなった。

 もはや動かない「過去」と、人の心の動きによって変わって見える「歴史」は別物と考えた。日本の戦争は短い時間の幅でとらえず、数百年にわたる世界の出来事の中に置いて考察しなければ理解できないと語り、単純で一方的な「歴史」観に異議を唱えた。

 大阪大学名誉教授の加地伸行さんは思い返す。

 「時代の流行や気分で発言する人ではありませんでした。左翼が大手を振っていた時代に彼らの幻想や空理空論に全く同調しなかった。保守派とひとくくりされましたが、自分が考え抜いたことに基準を置き続けた」

 つくる会が作った歴史教科書は検定に合格したが、内紛から西尾さんは2006年に離脱。その後も言論活動を続け、時には自民党や皇室も容赦なく批判した。

 「講師を呼び議論する勉強会“路の会”を90年代半ばから主宰していました。好奇心の塊で、自分と異なった意見、初めて聞く意見に異様な興味を示す。居酒屋でも議論が続いた時には、割り箸の袋にメモを書き留めていましたね。何げないことから考えを深める構想力の持ち主です。よく喋り、カラオケでは小学唱歌を歌っていました。」(宮崎さん)

 近年は膵臓癌を患うが回復し、今年『日本と西欧の五〇〇年史』を刊行した。

 11月1日、89歳で逝去。

 自由とは自らが最大の価値と信じるものを選び取り、引き受けるという決断のために存在する。自由への覚悟はあるか、と晩年も日本人に対して問いかけていた。

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