日録バージョンアップとコメント一時停止のお知らせ

いつも西尾幹二のインターネット日録をご覧いただきありがとうございます。
自分は日録の管理の技術的なお手伝いをしております高木薫と申します。
このたび当日録のプログラムをバージョンアップする事になりました。
作業には数日を要する見込みでして、近日に新しいデザインでお目にかけられると思います。
つきましては作業完了まで皆様からのコメント投稿を一時停止させてください。
また日録全体が工事中と表示されることもあるかと思います。
皆様にはご迷惑をおかけして恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。

西村幸祐放送局(二)

「西村幸祐放送局」という、西村さんが主催する個人広報のYouTube中心のブログが立ち上がり、すでに活動を開始しています。今度そこに「西尾幹二の世界」という新しい企画が始まり、これは第二回の放送です。このような取り組みがなされたことに対し、謹んで西村さんに感謝します。

西尾幹二の世界 第二回

知の巨人、西尾幹二の全存在が明らかになりつつあります。
厖大な著作を完璧に網羅するこの全集は、人々を知性の冒険と感性の探究に誘ってくれます。
今回は全集第一巻の内容を中心に話を進めました。

全集第一巻『ヨーロッパの個人主義』は、西尾幹二氏の初期評論を中心に編集されています。西尾氏の処女作『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)と次に出版された『ヨーロッパ像の転換』(新潮選書)は、氏を一躍論壇の寵児としました。昭和四十四年(一九六九)に誕生日を迎える前の三十二歳の西尾氏が半年の間に次々と上梓した作品は、言うまでもなく氏のドイツ留学が基底となっていました。

若きニーチェ学徒だった西尾氏が七〇年安保騒動で騒然とする当時の日本社会に新しい切り口のテーマを提起したのです。それは、明治以降の日本の近代化が欧州に追いつけ、追い越せというコンセプトで歩んできた我が国の歩みを根本的に疑ってみるということに他なりませんでした。そして、そのテーマが四十三年を経過した現在の日本にも、鋭い刃として衝きつけられているのです。

第一巻の本書にはそんな西尾思想の原点が凝縮されています。処女作『ヨーロッパの個人主義』と第二作『ヨーロッパ像の転換』が長年版を重ね、大学入試問題の定番にまでなった作家としての幸福を、氏はデビュー時から獲得していたのです。

なお、本巻所収の「ドイツ大使公邸にて」は二〇一〇年に執筆され、竹山道雄氏との対談「ヨーロッパと日本」は雑誌「自由」(一九七〇年十一月号)に掲載され、今回初めて単行本の収録された。(西村幸祐)

入学試験問題と私(八)

 今回で「入学試験問題と私」と題したシリーズは最終回とする。とりあえずは先に問題を見ていただきたい。

群馬県立女子大 平成18年度
美学美術史学科推薦入学試験
小論文(120分)

 次の文を読んで設問に答えなさい。

 カミュの『シーシュフォスの神話』のボウトウ(1)部分は印象的である。シーシュフォスは岩を山の頂まで運び上げると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまう。彼はこの無益で、希望のない労働を永遠にくりかえさなくてはならない。神々がシーシュフォスに与えた刑罰であった。この比喩に刑罰を見る問題意識を、おそらくカミュはドストエフスキー『死の家の記録』のあのよく知られたエピソードから取っているのだと思う。ドストエフスキーはシベリアの徒刑地で、懲役の労働が囚人たちに過酷なのは、仕事の内容のつらさではないという。仕事の内容のつらさという点では農民のほうがよほど苛酷なはずだ。けれども、農民には自分のために働いているという目的がある。だが懲役の労働には目的も意味もない。それが刑罰の刑罰たるゆえんである。そこまでは『シーシュフォスの神話』の認識と同じである。

 ドストエフスキーの炯眼①はさらにその先を見ている。彼は囚人たちが他のなにかの労働ではない、例えば家を建てる仕事を与えられていると、にわかに夢中になり、生き生きしてくるさまを伝えている。強制労働で立派な家を建てても、賞金がもらえるわけではないし、刑期が短くなるわけでもない。それでも囚人たちは少しでも具合よく、良い家を仕上げようと一生懸命になるという彼の深い観察のうちに、人間の生きる目的ということの秘密が宿っているのではないだろうか。

 ひるがえってわれわれの市民生活、労働するわれわれの日常生活は、すぐ転がり落ちる岩をふたたび繰り返し山頂にまで持ち上げるあのシーシュフォスの営々たる空しい努力にも似ているといわねばならぬであろう。だからといって、われわれは必ずしも毎日の生活を「刑罰」とは感じていない。否、パスカルのような鋭敏な人なら――彼は生きるとは行く手にあるダンガイ(2)に向かって夢中で走っているようなものだと言っている――、毎日の月並みな生活をも「刑罰」と感じているのかもしれない。しかし世の中の大半のひとびと、われわれボンヨウ(3)の徒は、単調な仕事のなかに、あるいは仕事で得たホウシュウ(4)のなかに、なにがしかの目的を見出している。自分のそれなりに意味のあることなのだと信じている。が、信じきれないときもあるだろう。われわれはそのときふと幻想のヴェールAの裂け目を覗き見て、いいようのない空しさの思いにとらわれたりもするのである。

 しかしドストエフスキーが示唆②するように、人間は物を作るという行為のうちに、それがよしんば小さな物であっても、他人の利益にしかならぬ物であっても、理屈ぬきでなにがしかの満足を感受する存在なのであろうか。もし、それが確かなら、人生の「目的」はどうやら大規模な、大袈裟③な種類のものである必要はない。人間はまったく絶望的な状況のなかでも――シベリアの監獄が絶望的でないはずがなかろう!――自己統一を壊さないで済むだけの生の自足感情を、物を作るというささやかな仕事のなかに見出すことに成功するというこの事実は、人間というもののヒアイ(5)を感じさせるというより、むしろ、人間の強さ、生きんとする意志の強さを感じさせる。

 しかし、これは逆にいえば、人間は時間の完全な空虚――無意味な行為の単調な繰り返し――には耐えられないきわめて弱い存在だというふうにも見ることができるのである。シーシュフォスに課せられた無益で希望のない労働と同一のことを、ドストエフスキーは次のように言う。「もしも囚人に、一つの手桶の水を他の手桶にあけ、それをまた逆に始めの手桶にあけたり、砂を搗いたり、あるいはまた、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、それをまた元へ戻すというようなことをさせたら‥…囚人はきっと四、五日も経ったら首を吊るか、でなければむしろ死んでそんな侮辱や苦痛から逃れようと思ってどんな罪でも犯すだろうと思う。」

 この彼の言葉は、完全な「退屈」が人間にとっては最大の刑罰であることを暗示しているだけではなく、じつは、われわれ市民的な日常生活の背後に、いつもこの「時間の空虚」が伏せられていてBわれわれは日々それから目を逸らし④、毎日毎日を小さな目の前の目的(用事)や、関心事や、刺戟や、くだらぬ楽しみことで紛らわし、「空虚」を無意識に埋めているだけではないかという問いをも示唆しているのである。実際われわれの暮らしや仕事もまた、つきつめて考えると「一つの手桶の水を他の手桶にあける」作業の繰り返しのようなものだと自嘲⑤せずにいられぬ一面をも具えている。

 しかしそれを刑罰とも感じないし、苦痛とも感じないのは、われわれが鈍感だからということもあるが、毎日の活動のなかに、なにか物を作る行為に似た行為によって自分で自分を生かす目的なり意味なりをいつの間にか黙って自ずと見出して、その日その日の自分を無言のうちに支えているからだともいえるであろう。否、そうまで自己説明する必要さえない。かりにお前のしていることには目的や意味はないといわれても、われわれはいっこうに動じない。われわれは生きている。その不思議さのほうがはるかに圧倒的に大きいといわねばならないのかもしれない。

 私の言いたいのは、つきつめて考えると、この人生に生きる価値があるのかどうかを問うことをわれわれはある意味では封じられているということである。Cそういう問いが心中に湧き起こるのは自然なことであり、いかにも避けられない。われわれの生には究極的に目的も意味ないのかもしれない。そう問うことは自由であり、可能である。けれども人生は無価値だと断定するのもまた虚偽なのである。なぜなら、人間は生きているかぎり、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからである。

 われわれは自分の人生の価値について客観的な判定者になれない。そのような判定者になれるのは、われわれが自分の生の外に立ったときだが、そのとき、われわれはこの世にはもはや存在しないのである。したがって生きているかぎり、われわれは自分の生を総体として把握することを封じられた存在であって、仮説をあれこれ立ててみる自由しか与えられていない。

 さまざまな問いを立て、仮説を試みることは可能だし、一方で大切なことだとは思うが、われわれがいま現に生きているというこの単純な事実の外部にあたかも立脚点を持つことができるかのようなあらゆる立論は空しいシニシズムに終わることもまた、われわれがわきまえておかなくてはならないもう一つの問題点である。

(西尾幹二『人生の価値について』1996年 新潮社)

(注)シニシズム…社会風習や道徳・理念などを冷笑・無視する態度のこと
【設問】
問(1)傍線部①~⑤の読みを書きなさい。
①炯眼  ②示唆 ③大袈裟 ④逸らし ⑤自嘲

問(2)傍線部(1)~(5)のカタカナを漢字に直しなさい。
(1)ボウトウ (2)ダンガイ (3)ボンヨウ (4)ホウシュウ (5)ヒアイ

問(3) カミュとドストエフスキーが主に活動した国の名前と文中で挙げられていない著作一点をそれぞれ答えなさい。

問(4) 赤線部Aの「幻想のヴェール」とは何を指しますか。30字以内で答えなさい。

問(5) 青線部Bの「われわれの市民的な日常生活の背後に、いつもこの「時間の空虚」が伏せられている」という著者の考えについて100字以内でわかりやすく説明しなさい。

問(6) 著者は、緑線部Cのように、「この人生に生きる価値があるのかどうかを問うことをわれわれはある意味では封じられている」と言いながらも、さまざまな問いを立て仮説を試みることを否定していない。この著者の主張に対しその根拠を説明し、あなたの考えを600字以内で述べなさい。

 問(3)でドストエフスキーのロシア、『罪と罰』くらいは答えられるだろうが、カミュのフランス、『異邦人』(あるいは『ペスト』)は、はたしてどうであろう。今の女子高生の常識のレベルを私は知らない。

 問(4)は直前に書いてあることばを拾えばよいのだから易しいが、問(5)も問(6)も容易でない。ことに問(6)は600字で、点数も最高であり、これは大変である。私は若い受験生が120分間四苦八苦している姿を想像して、断然同情的になってしまう。

 問(6)は私にだって答えられない。誰にも答えられまい。原則的にそういう問いである。ただし人生の経験をつみ、年をとれば深いことばが書けるというものでもない。若い頭脳は死を思うこと多く、案外に哲学的なのである。

 比較的最近の出題例から、八回にわたってタイプの異なる問題を選んでみた。まだ他に数多くあるが、手許にすぐ見つかるかたちに保存されていない。

 高校入試の問題も予想外に多いらしいが、これは送られてこない。代りに問題集を出版する会社から掲載許可ねがいがくるので、予想外に多いのだと気がつくのである。

 他に河合塾とか代々木ゼミとかの模擬テストの採用例となると何倍もの数になり、数え切れない。一年の終りに使用リスト一覧と謝礼金が送られて来て、どの本から年間何回ぐらい使用されたかが分るが、詳しく見ていない。

 受験生は大変だなと思う。自分が受験生だったときのことを思うと、点数を稼げるのは暗記物(私の場合は「日本史」と「世界史」)で、国語というのはうんとひどい点にもならないが、高得点も望めない教科だった。

 いくら勉強しても点のとれる保証がない。それが国語である。私の若い時代からそうだった。私の著作からの出題例をみても同じことがいえる。誰にも答えられないような人生そのものへの問いが出題されているのだから、受験勉強は何の役にも立つまい。

 受験生はうんと本を読みなさい、などと指導されているだろう。しかし本をいくら読んでも、いい答が書けるとは限らない。

 つまり国語に関しては受験勉強なんかしない方がいい。してもしなくても同じである。私は高校生の頃にそう思っていたが、今の問題群をみてもやっぱりそう思う。

 受験は評点をつけて人を評価する制度である。いくら勉強しても準備として役立たない国語は、出題側がどうしても無責任になるし、受ける側は無保証の不安定の唯中に立たされることになる。しかもそれで評点をつけられてしまうのである。

 人生そのものの理不尽に似ているのかもしれない。国語は人生の不条理そのものかもしれないな、などとふと思う。

入学試験問題と私(七)

 今までここに提示したのはすべて現代国語の入試問題であったが、以下は法学の試験問題である。

 平成15年のある日、独立行政法人大学入試センター理事長の丸山工作氏の名において次のような文面とプリントが届いた。

 謹啓、時下、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。さて、当センターでは、平成十五年八月三十一日に、平成十五年度法科大学院適性試験を実施いたしましたが、同封いたしました同試験の試験問題に、貴著『ヨーロッパの個人主義』の一部を著作権法第三十六条により使用させていただきました。ここに厚く御礼申し上げます。(中略)      

敬具

独立行政法人大学入試センター理事長

丸山工作

 いかにもものものしい言いようの挨拶文で、こんな例は他にないので、印象に残っている。

 丸山氏は世界的に名高い生物学者で、今は鬼籍に入られたが、私は一度だけお目にかかったことがある。私のドイツ文学の友人の兄上であったからである。勿論これは関係のない話題であるが。

 誰の目にもはっきり分る通り、この問題は採点がこのうえなくし易い。しかし受験者にとって解答は必ずしも簡単ではない。

 私自身はこういうパズルのような智恵比べの問題が若い頃から苦手だった。大抵考えすぎて迷った揚句、間違えるのである。

 私は自分の文章でもこれは正答がどれになるかよく分らない。テキストを持っているから問1の正答は④であるとお教えしておく。が、問2問3は今もってよく分らない。

独立行政法人大学入試センター
平成15年度

第4問 次の文章を読み、下の問い(1~3)に答えよ。なお、文章中の空欄 A~Cのうち2つには、ある文が入る。また、文章中に「前の章」とあるのは、この文章の前の章を指す。
 
 さまざまな国家が乱立抗争しながら、結局は1つの文化共同体といえるヨーロッパでは、当然、その国家内部に形成される「社会」も、また、国家同士がつくり出す「社会」も、この孤立した島国特有の論理とは別種のものとなるだろう。

 つまり、ここで、改めて問われなければならないのは、ヨーロッパ人の市民意識であり、それは近代国家の成立以前に、萌芽(ほうが)としては存在していたものであったに違いない。

 個人の行動様式がつねに「社会」という場に開かれているヨーロッパ人の生き方については、すでに前の章で詳説したが、都市の作り方ひとつ例を見るだけでもそれは明瞭(めいりょう)にわかるのである。

 堅牢(けんろう)な城壁に囲まれたヨーロッパの中世都市は、外部に対し固く自己を閉鎖しながら、内部には必ず市民の集う広場をもっている。主要な通りはみなそこに集まっている。そこにある公共生活のシンボルは、市役所と中央教会(ドーム)だが、これらはいずれも垣根をもうけていない。日本の都会には公共生活の中心になりそうな特別に際立った建物はなにもない。一般の民家がただ雑然と集まって町をつくり、しかもひとつひとつが垣根をもうけ、精巧な庭をもつ。だが、ヨーロッパの民家は、ことに旧市街では、家並みが整然と並んで、どれも塀で囲まれず、個人の庭より、公園や緑地帯を大事にする。

 さらに家の構造をみるがいい。家は幾家族も集まって住むアパート形式だから、階段も廊下も往来に等しいものといってよく、したがって、「家」はいつも「町」に開いている。家に塀をめぐらさないことが決定的な要素なのである。それでいて、家の内部は、ひとつひとつ閉鎖した「私室」を並べている。日本家屋にはほんとうの意味での「私室」というものがない。要言すれば、日本人の生活様式は、あくまで「家」単位で、外部の町の公共生活に対しては己れを閉ざしているが、家の中ではたがいに寄り合って暮らすという日本的家族の特性をそのままに物語っている。[ A ]

 ヨーロッパ人の市民意識がどのような性格のものであるかは明らかであろう。個人は家を超えて、いつでも町の公共生活に直結する用意がある。「広場」がその象徴である。だが、それよりもっと重要なことは、こうした共同体意識は町の外へと超えてはいかないことである。都市は堅牢な石造りの城壁で、まわりをかたく閉ざされ、外敵に対し、城門は厳しい監視の目を怠らない。[ B ]

 ここでは自由と秩序は一体のものである。

 市民が家族よりも、公共生活を重視するのは、城壁の外の異質物に対する警戒心と団結心から発していることは明かであろう。逆にいえば、外敵に対する用意から、市民のひとりびとりに対し、公共に生きることの要請がある。社会に対する責任と、自由の制限は、ヨーロッパ市民社会の2つの要件であり、それはまた、市民が個人の自由の無制限の拡大が何を意味するか、その恐ろしさを知っているという意味でもある。[ C ]

 ひとつの都市という「社会」の範囲が与えられることで、市民のひとりびとりが「個人」となるのである。

(西尾幹二の文章による)

問1 次の文a・bは、それぞれ文章中の空欄[ A ]~[ C ]のうち2つのいずれかに入る。この組合せとして最も適当なものを、下の①~⑥のうちから1つ選べ。
[ 12 ]〔2点〕
a つまり、市民の自由は制限の内部で最大に発揮されるものなのである。
b この我欲の相互調節が、個人の生き方にパターンのきまった「型」や「様式」をもたらすもととなる。

 ① a-A b-B  ② a-A   b-C ③ a-B  b-A
 ④  a-B b-C  ⑤ a-C  b-A ⑥ a-C b-B

問2 この文章に表題を付けるとして、最も適当なものを、次の①~⑤のうちから1つ選べ。
[ 13 ]〔1点〕
 ① ヨーロッパの中世都市
 ② 社会に開かれたヨーロッパの「家」
 ③ ヨーロッパと日本における「私室」
 ④ 日本における「家」と公共生活
 ⑤ ヨーロッパからみた日本の市民の自由

問3 この文章で述べられていることを、次の①~⑤のうちから1つ選べ。
[ 14 ]〔2点〕
 ① 日本の都会では、一般の民家が整然と並んでおり、公共生活の中心となる際立った建物は存在していない。
 ② ヨーロッパでは、異質物に対する警戒心と団結心から、市民は何よりも家族を重視するようになった。
 ③ ヨーロッパの旧市街では、家がアパート形式であることから、階段・廊下も「町」の一部を成しているといえる。
 ④ 日本においては、町の公共生活に個人が直接にかかわっており、そのことによって個人の自由が制約を受けている。
 ⑤ 日本では、「家」の中では家族は寄り添って暮らしており、「家」の代表者が外部の町の公共生活とかかわっている。

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(八)

 言論人は反政府的であるべし、と決まっているわけではない。それは古い考え方である。それでも言論人と政治家とでは役割が異なる。言語で表現するのと、行動で表現するのとの原則上の違いがある。

 昔は言論人は反政府的ときまっていた。福田恆存のような、自分は「保守反動です」とわざということがアイロニーだった時代に文字通りの保守思想界を代表した論客が、選挙で何党を支持するのかと問われて、自民党と答えず民社党と言っていたのを面白いためらいと思ったことを覚えている。

 この原稿を私は私の若い時代、60年安保騒動の思い出から始めたので、もう少し思い出を加えてみよう。さらに6年ほどさかのぼった昭和29年(1954年)に、私は大学1年で、第5次吉田内閣のたしか官房長官だった増田甲子七という人が駒場のキャンパスに来て大教室で講演をしたのを聴いたことがある。

 あの頃保守政党の政治家は学生にとっては「人間」ではなかった。会場は怒声で溢れていた。彼がなんの話をしたのか、まったく覚えていないが、次々と質問に立つ学生が「増田!貴様は・・・・」という調子で呼び捨てにするので、私はひどい連中だと秘かに彼らのほうに腹を立てていた。

 すると会場からひとり「失礼ではないか。呼び捨て止めろ」の声を挙げる者がいて、その一声で会場がサーッと波打つように静かになって、私がホッと安堵したのがはっきり記憶にある。

 当時の学生たちの「非常識」と「常識」の二面を見る思いがしたものだが、要するに保守政党の政治家は学生世論では悪の権化であり、人間の皮を被った化物なのであった。

 そのわずか2年前(昭和27年)の5月に皇居前広場で「血のメーデー事件」が起きていた。米ソ対立の代理戦争が日本の国内で白熱化していた時代だった。昭和35年はいうまでもなく60年安保で、アイゼンハウアー大統領の訪日阻止デモで私の友人の何人もが逮捕されている。

 そんな時代の空気をずっと吸って生きてきた私は、勿論まったく時代の風潮に反対であり、保守サイドに立つ私は彼らにとって裏切者で、悪魔の代弁者であったが、支持政党は何かと公式に聞かれると自民党とはあえて言わないで民社党と言った福田恆存の自己韜晦は非常によく分るのである。

 32歳の頃、私は国立大学の講師だったが、『国民協会』という自民党の新聞に一度だけ署名原稿を書いたことがある。誰かが見つけて来て、ドイツ文学界の中の私の評判はがた落ちになった。

 私だけでなく、政府に与するような議論を述べることに言論人は永い間逡巡し勝ちだった。いつの頃から情勢が変わったのだろうか。アメリカの影響だろうか。左翼が弱くなったせいもあろう。それでも、政府べったりの主張をする人間はみっともないという意識は、学者言論人の世界ではずっと普通だったし、今でも多分そうだろう。

 あの60年安保騒動の渦中にあった首相のお孫さんが総理大臣になったのかと思うと、昔を知る世代には感無量である。そして、知識人や言論人のブレーンの名が新聞に出ると、アメリカ型政治の影響であるとか何とかいわれても、半世紀でこうも変わるものかとこれまた不思議な思いが去来するのである。

 時代がどんなに変わっても、権力と知識人の間にはつねに一定の緊張が昔からある。また、なければいけない。言論人が個々の政策に口を出すのではなく、むしろ言論人が政権に黙って大きな立場から影響を与えるというくらいの存在でなければ意味がないのではないだろうか。

 言論人が政権にすり寄り、虎の威を借りて自説を補強するなどということは、最近の新しい現象かもしれない。それが言論の強化に役立つと考えるのだけは完全な錯覚である。

 それは次のような理由による。言論と違って、政治は無節操に変化するのを常とするからである。例えば安倍政権は拉致事件の解決のために中国と協議する必要上、靖国で妥協するかもしれないと不安がられている。私はそんなことはしない方が得策だという考えである。靖国で妥協してもしなくても、中国の北朝鮮政策は同じで、拉致が解決しないときは何をしてもしない。としたら、妥協したならば安倍氏は両方を失う可能性がある。そう思うからである。

 しかしそう思うのはどこまでも言論人の考え方である。政治家はまったく別の判断をするだろう。別の判断をしても仕方がないだろう。しかもそれを政治家は自分の責任においてやるだろう。言論人はこの種の政治的情勢判断を慎むべきである。民族の「信仰」の問題で他国との妥協はあり得るか否かの原則を応答すればそれでよい。

 新井白石や荻生徂徠が幕府から下問されて儒教の経書に照らして思想上の正否を述べ、それ以上口出ししなかったという態度にもこれは似ている。

 岡崎久彦氏が靖国の遊就館の展示内容をさし換えよという乱暴な発言をしたとき、文化界のある重要な立場にいる人が私に、岡崎氏は米大統領が安倍新政権にテコ入れするために二人で一緒に靖国参拝をする情報を知っていて、米大統領が参拝し易い条件をつくろうとしているのだろう、と言った。私は確かな情報か、と問い質した。すると彼は、いや、岡崎氏ともあろう人がこんな発言をするからにはそれくらいのことがあるのではないか、と、単なる観測気球をあげた。何から何まで人の好い、楽天的な、自分の好む方向を好意的に空想しているだけの話で、文化界にある人のこういう政治的観測、根拠なき情勢判断の甘さは何よりも具合が悪いと私は思った。

 言論人はこの手の政治情勢解釈を、できるだけ慎むべきである。言論人がある程度「反政府的」であらざるを得ないというのは、言論と政治の原則上の相違からくる。政治はどんどん揺れ動く。言論はそうそう揺れ動くわけにはいかないからだ。

 政治家のために言論人が奉仕すべきではなく、奉仕してもそれには自ら限界があるというのはここに由来する。

 竹中平蔵氏の運命をみても、政治に全面奉仕して、彼に残るものは何もなかった。不良債権処理と構造改革において政権の力で自分の理念を実行し得た、という自己満足は十分に残っただろうが、それが客観的に評価されるかどうかはまったく分らない。彼は政界に残っていても、安倍氏に相手にされず、もうやることがないと判明したので辞めたのだと思う。

 しかし彼は言論人であることを中止して政治家となった数少ない成功例である。彼は学者言論人にはもう戻れない。勿論、どこかの職場の一員としては戻れるだろうが、その言論活動は何を唱えても末永く「小泉」の名と結びつけて扱われることを避けることは出来ないだろう。

 学者言論人の政治との関わり方は難しい。前にも言ったが、黙っていてもその影響が政治に静かに作用しつづけるような存在でなければ本当は迂闊に政治について発言すべきではないのかもしれない。しかしその理想形態は孔子と魯国、ゲーテとワイマル公国のようなケースで、現代においてはほとんど不可能かもしれない。

 ここまで書いて9月26日を迎え、安倍新内閣の閣僚名簿が発表された。総じて私は好感をもった。経済閣僚の人選には竹中路線が感じられ、少し先行き不安だが、安倍氏が自分の思想的同志で固めたのは心強い。論功行賞などという必要はない。首相の意志がパッと伝わる陣形がつくられたのは能率的で、「党内党」がつくられたという趣きさえある。

 そこから当然問題が生じる。首相に力が結集するこの「集中力」は安倍氏のパワーに依るものではなく、前首相の野蛮な力の遺産である。前首相と異なる人柄の良さと明るさで野蛮の根はいま覆い隠されている。しかし「集中力」はいつかほどける時がくる。

 ほどけたほうがいい。ほどけて党内不統一が生じるのが自民党らしい民主的なやり方で、もし党内統一がますます強まり、国民を「束ねる」方向へどんどん進んだらまた別の危険が生じるだろう。

 自民党は昔から、陰と陽、明と暗、動と静のカラーの交替で危機を乗り超えて来た。前首相の遺産を受け継ぎながら、前首相とは正反対の仮面を新たに表に出して、世間の目に舞台を替えて見せるのである。

 野蛮の次は今回は礼儀正さである。パフォーマンスの次は地味な実務的効率の良さである。それで目先を替えて今回もうまく行くのかもしれない。

 いずれにせよ、閣僚の中に田中真紀子とか猪口邦子といったわれわれが嘲りたくなるような人物がひとりもいないということだけでも、ホッと一安心できてありがたい。

           (終)

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(九)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

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エラスムスの肖像画:ホルバイン

 北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。

 そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです。

 彼は四つの古いギリシア語写本を資料として見つけていて、教会が必ずしも好まないことをします。聖書の写本断片と自分の拙いギリシア語の力で聖書のオリジナルを復元し、キリスト教の神に関する真実を知ろうとしたのでした。

 西洋古典文献学と聖書解釈学がその後互いにからみ合って進展するヨーロッパの精神史の発端をなすエピソードといってよいでしょう。

 ヨーロッパ人が自己同一性(アイデンティティ)を確立するのに、15-16世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教も儒教も外から来たものですが、日本人はヨーロッパ人のように、仏典や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を知りません。

 ヨーロッパの各国における言語ルネサンスがまずギリシア語の獲得に向かったのは当然です。その後科学的精緻さを駆使して、古典古代の研究が激しく情熱的に燃えあがったのも当然です。

 聖書がばらばらに解体され、文献学的解釈学によって相対化のきわどい淵にさらされたのも当然です。

 彼らの破壊は神を求めるパッションの表現そのものでした。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(二)

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 近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。

 私は物が見える(傍点)ということに対して懐疑的にならざるにはいられない。不安をごまかす観念のはびこる時代に物は見えない。私はバーゼルで見た一枚のホルバインの強烈な印象が忘れられない。

 それは高さ30センチ、長さ2メートルの細長い棺のなかに、等身大のキリストの屍体を長々と仰向けに横たえている横断図である。ほかにはなにもない。

 キリストを取り巻く群像もいなければ、十字架もない。だが、そのためもあろうか、私はこの絵の懸けてある部屋に入ったときに竦然とした。等身大の屍体は絵の枠をとび出して、あたかも立体的に、私の目の前に実際に置かれてあると思われるほど凄絶にリアルである。

 なかば開かれた目の中で眼球がひっくりかえり、白眼が剥き出している。顔は一面に青黒く鬱血し、骨ばった右腕は胴のわきにそって台架の上に無造作に置かれ、手首から先は異様に腐襴している。痩せ細った足首も黒ずみ、釘あとももう血の固まった跡らしく、どす黒い。

 これはたんなる屍体、たんなる物体である。ここにはキリストの苦悶をたたえる神話もなければ、秘蹟もない。そう言えば、これに似たものとして思い出されるのは、ダハウの強制収用所跡でみた大型の写真の中の、痩せさらばえたナチスの犠牲者の無残な屍体なのである。

 私は現代に比ぶべくもなく信仰心の篤い時代を生きたホルバインが、かかる「物」としてのイエス・キリストを描くことに成功した、その逆説に魅かれたのである。

つづく

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(一)

 バーゼルに住む若い友人平井康弘さんから家族旅行の写真を添付したメールが届いた。今年はヨーロッパも異常気象で、熱波の襲来らしい。早くも会社を閉めてバカンスへとくり出す人が相次いでいるそうだ。

 ご一家はアイガーやユングフラウを望みながら3時間ほどのハイキングをした後、宝石のように輝くエシュネン湖に出るとそこは断崖絶壁に囲まれ、反対側の湖岸に見える滝に近づくには手漕ぎのボートで湖を横断しなければなりませんでした、と楽しそうに書いてこられた。写真を見るとなるほど絶景である。佳き夏の日々であるようだ。

 そして下欄に追伸として、バーゼル市立美術館が開催したハンス・ホルバイン展を見て来ました、と書いてあった。メトロポリタンやルーブルや大英美術館など至る処から彼の作品を集めての展示ではあるが、バーゼル市立美術館所蔵のものがやはり主流をなす、とも書いてあった。「エラスムス像や死せるキリストの絵は先生のご教示で私にとっても思い出の作品です。案内のパンフレットを後日送らせていただきます。」

 間もなくパンフレットが送られてきた。見覚えのある作品が細長い紙の表にも裏にも並んでいた。あゝそうか、と私は思い出をまさぐるように画像を眺めては独りで合点していた。

 私のバーゼル初訪問の若い日の記録は「ヨーロッパを探す日本人」の名で日録にも掲示させてもらったが、ホルバインを見たのもたしかあの初訪問の折である。そして、死せるキリスト、正しくは『キリストの遺骸』(1521-22)を見て衝撃を受け、文章を認めた。

 私の処女作『ヨーロッパ像の転換』の第11章「ヨーロッパ背理の世界」の結びにこのときの強烈な印象が綴られている。旧著を知っている方はご記憶にあるかもしれない。しかし若い読者はこの本をもう知らないかもしれない。

 昭和43年(1968年)11月号の『自由』に掲載されたと記録にある。バーゼル初訪問から二年ほど経っている。33歳になったばかりの8月か9月かに書いた文章だと思う。少し気負っているのは若さのせいとお許しいたゞきたい。

 ホルバインの世界が私の処女作と今私がやっている著作との二つに期せずして関係していることを友人の手紙は思い出させてくれた。

つづく

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怪メール事件(三)

 ここで遡って私の日録の「産経新聞への対応」(一)3月29日13時50分付及び(二)4月2日16時36分付を思い出していただきたい。3月28日に理事会があり、29日の朝刊の渡辺記者報道が「つくる会」本部の「FAX通信」で訂正された、あのときのことである。

 「『西尾元会長の影響力排除を確認』『宮崎正治前事務局長の事務局復帰も検討』は明らかに理事会の協議・決定内容ではありません」という記事の訂正内容であった。ここで私の名前が出たので、初めて私の抗議行動が始まった。始めてみると次々とおかしなことが判明した。

 渡辺記者に28日夜に事実と異なる情報を流した理事会参加者がいるということは明らかとなり、天麩羅屋の一時間半の八木・新田両氏その他の会談が怪しい、なにか臭うぞ、という話になったのは周知の通りである。そしてだんだん臭うどころか、くさいものの蓋が取れて中味が次第にあからさまになってきている。

 以上の日付を再確認した後で次の展開を読んでいただきたい。3月30日に、平成5年7月3日付『赤旗』の総選挙応援の「各界各層の人びと」一覧が私に差出人不明で送られてきた。そこに、枠をつくって、舩山謙次(元北海道教育大学学長、元日本学術会議会員)の名が大きく刷られ、「藤岡先生の岳父、舩山謙次先生の活動のごく一部です」と大書されている。

 藤岡氏の岳父が共産党の有力な支持者であることがこの際何の関係があるというのだろう。西尾は共産党アレルギーだろうと思って、こんなものを送ってきて西尾と藤岡を分断させようとする人の気が知れない。こんなことをするのを「右翼」という。親族に誰がいようが、個人の思想信条に関係はない。私の叔父は野呂栄太郎の片腕、共産党草創期の党幹部で、昭和9年に治安維持法にひっかかって逮捕されている。知識人の家庭なら身内にそんな人の一人や二人は必ずいる。

 このバカバカしい一枚が八木=宮崎=新田一味ないしそれと密接に関わる方面から送られてきたことは次の「怪文書2」で十分に推定できるのである。

 4月1日、私が丁度、天麩羅屋の密談の可能性に疑問を抱きだしたか、あるいはまだその動きをキャッチしていたかいない頃のことだが、夜2時頃、ファクスの前の紙の山を整理していたら、その中に記号をすべて消した白紙に次の文字の並んだ一枚がふと目に入った。

 深夜だったせいもあるが、私は異様に不気味なイメージを受けた。

福地はあなたにニセ情報を流しています。伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。理事会で「これからは西尾が何を言っても相手にしないようにしよう」と言い出したのは福地です。西尾先生の葬式に出るかどうかの話も出ました。「フジ産経代表の日枝さんが私に支持を表明した」と八木が明かすと会場は静まり返りました。

宮崎は明日付で事務局に復帰します。

藤岡は「私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した」と証拠資料を配りました。代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう。

高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています。

                                     (怪文書2)

 私はからかわれているのであるが、理事会に出席していない私に詳しい情報はなく、不安を抱かせるに十分に巧妙に仕組まれた文章である。狡智をもってうまい所を突いていて、よく出来ている。

 「FAX通信」で産経の記事の誤報を知った私が29日13時50分付で、当日録で、「理事会に出席していたある人に電話で聞いた処によると、新聞は他にも事実に反することを書いている。八木氏が先に解任された主な理由が会長としての職務放棄、指導力不足にあったことが昨夜の理事会で確認されているのにそれは述べられていない、など。」と書いた内容に即座に反応している文面なのだ。

 私が理事会の様子を教えてもらった「ある人」は福地惇氏である。後からさらに二人の協力も得たが、しかし最初の日は福地氏であった。敵はそのことを調べあげたのである。

 30日藤岡氏の岳父の情報を流した理由もここに出ている。そして1日にこれを送ってきた。「産経への対応」(一)29日13時50分付の段階で、早くもあの手この手で私を黙らせようとする。まだほんの一寸しか疑問を述べていないあの早い段階で、私の臭覚を恐れ、拡大を防ごうとする人々が知力をしぼっている。

 私は初め誰か親切な人が私に理事会での確かな事実をそっと教えてくれようとしているのかと思った。情報をもたないということは恐ろしい。もし私があのあと独房に入れられたら、内容をそのまゝ信じてしまったかもしれない。

 私は福地氏とのお付き合いはまだ浅い。氏が伊藤隆氏の弟子筋であることは知られている。福地氏が師匠に振り回されるような玉でないことは最近はっきり知ったが、そのときはまだ氏をそこまで理解していない。私の人間信頼をぐらぐら揺るがす内容だった。

 国家の情報部員でもないのに友人にこういう謀略を仕掛けるのはじつに悪魔の所業なのである。

 葬式云々はわざとらしいいやがらせであろう。不吉なイメージのことばを唐突に出す出し方はうまい。最後の「安倍、小泉、岡崎、CIA」も私を社会的に孤立させる負のイメージで、しかもCIA以外はそれぞれ理由らしきものがあるのはご承知の通りである。いかにも自民党主流派とフジサンケイグループが八木秀次氏を担いでいて、もう西尾には用はないと言っている、と言いたげな内容である。

 自民党にも、岡崎にも、CIAにも私は用はないから、どうぞご勝手にと言うだけだが、八木氏をこういう全体的イメージで自らがあるいは周囲が持ち上げようとし、種子島会長が彼のその戦略にまんまと嵌まってしまったことが今の問題でもあるのだ。

 理事会のメンバーが「今や全員八木派にならざるを得なくなった」はマッカな嘘であることは翌日にもすぐばれた。ここに述べられたことで真実は、八木氏が日枝氏の名前を自分から言い出したただその一行だけである、と複数の出席者から証言を得た。それは次のような情景だったらしい(会話は推定)。

種子島  八木氏をフジサンケイグループが支持している。
勝岡   そこにフジTVが入っているのですか。
田久保  誰が支持した、と確認しているのですか。
      つねづね産経は第一に「つくる会」の人事に無関心であり、
      第二に教科書という大目標だけを支持する。
      特定の人を支持するというはずがない。おかしいのでは?
種子島  産経はたしかに人事介入はしないと言った。
八木   (色をなして)フジの日枝さんが「あなたを支持する」と私に言った。

 このとき会場は静まり返ったのではなく、みんな鼻白んで呆れて言葉が出なかったというのが正しいらしい。

 私はよほど日枝氏に「八木さんからこんなことを言われていますよ、大丈夫ですか」と電話で聴いてみようかと思ったが、「そんなこと私は言うはずないよ。人事の件で言ったんじゃないよ」とすぐにたしなめられてしまいそうで、迷惑もかかり、失礼なので止めた。

 いったい何ということであろう。八木という人物は何を考えて生きているのであろう。

 田久保氏はいつも正々堂々としていて立派である。「怪文書2」の件で電話で全文根拠なきことの説明を受け、私は心から安心した。いったん電話を切ってから田久保氏はさっき言い忘れたともう一回掛けて来られた。大切な一語なので書き記すことを両氏にお許しいたゞく。

 「福地さんの名誉のために言っておくけど、何ヶ月か前電車で一緒に帰るとき、『自分は恩師の伊藤先生よりも今は西尾先生の方を信じます』と言っていましたよ。」

 怪文書の分断工作の直後だっただけに、田久保氏のこの内輪の話は私に深い安堵を与えた。私はずっと前から福地氏を信頼し、何かと話し合う機会が多かったが、心ない怪文書で不必要に苦しまなければならない処だった。私は人を信じるということがいかに大切か、そして今でもそれが可能であることをあらためて知ってうれしかった。

 田久保氏の誠実さ、福地氏の剛毅さ、高池氏の智謀――この三つはいまだ「つくる会」に望みを託せる人間の存在を告げ知らせてくれる。何らかのことで三氏が会を去れば、この会は本当に終焉を迎える。

 それにしても、つくる会の会長のポストは人生に損害を与えることの多い危険な仕事なのに、いつそんなにおいしいポストになったのであろうか。これは不思議でならない。

 藤岡氏と八木氏以外に有力な名前が理事に並んでいるのに会長になろうとする人がいない。藤岡氏も自ら会長に向いていないことをむしろよく知っている。それで他にいないので今の事態を迎えている。なりたいというその人の動機が「稚気」でなければよいがというのが本当に私だけでなく、多くの関係者の抱いている心からの憂慮であり、警戒なのである。

 なにしろこの「怪文書2」もまた紛れもなく、「つくる会」内部の人間関係の微妙さを良く知った人の、奸智に長けた文書であって、こんなものまで「八木サイド」から投げこまれたことはまことに人間不信の底をつく、教育者の団体ではあってはならない呆れ返った事実なのである。

「私の党籍問題について」という藤岡信勝氏の文章が「怪メール事件」(一)に掲載されています。