バーゼルに住む若い友人平井康弘さんから家族旅行の写真を添付したメールが届いた。今年はヨーロッパも異常気象で、熱波の襲来らしい。早くも会社を閉めてバカンスへとくり出す人が相次いでいるそうだ。
ご一家はアイガーやユングフラウを望みながら3時間ほどのハイキングをした後、宝石のように輝くエシュネン湖に出るとそこは断崖絶壁に囲まれ、反対側の湖岸に見える滝に近づくには手漕ぎのボートで湖を横断しなければなりませんでした、と楽しそうに書いてこられた。写真を見るとなるほど絶景である。佳き夏の日々であるようだ。
そして下欄に追伸として、バーゼル市立美術館が開催したハンス・ホルバイン展を見て来ました、と書いてあった。メトロポリタンやルーブルや大英美術館など至る処から彼の作品を集めての展示ではあるが、バーゼル市立美術館所蔵のものがやはり主流をなす、とも書いてあった。「エラスムス像や死せるキリストの絵は先生のご教示で私にとっても思い出の作品です。案内のパンフレットを後日送らせていただきます。」
間もなくパンフレットが送られてきた。見覚えのある作品が細長い紙の表にも裏にも並んでいた。あゝそうか、と私は思い出をまさぐるように画像を眺めては独りで合点していた。
私のバーゼル初訪問の若い日の記録は「ヨーロッパを探す日本人」の名で日録にも掲示させてもらったが、ホルバインを見たのもたしかあの初訪問の折である。そして、死せるキリスト、正しくは『キリストの遺骸』(1521-22)を見て衝撃を受け、文章を認めた。
私の処女作『ヨーロッパ像の転換』の第11章「ヨーロッパ背理の世界」の結びにこのときの強烈な印象が綴られている。旧著を知っている方はご記憶にあるかもしれない。しかし若い読者はこの本をもう知らないかもしれない。
昭和43年(1968年)11月号の『自由』に掲載されたと記録にある。バーゼル初訪問から二年ほど経っている。33歳になったばかりの8月か9月かに書いた文章だと思う。少し気負っているのは若さのせいとお許しいたゞきたい。
ホルバインの世界が私の処女作と今私がやっている著作との二つに期せずして関係していることを友人の手紙は思い出させてくれた。
あの・・・墓の中の死せるキリスト(Der tote Christus im Grabe)は、画像を貼ったほうがいいと思います
私はああいう絵は大嫌いなんですが、画像を貼らないとドストエフスキーがショックを受けたという、ある種のおぞましさがわからないと思います
もとは、祭壇絵ってことですから、キリストへの帰依のために、バテレンが洗脳に使った? ひょっとして
↓キリストの屍骸を見たい人はどうぞ
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/holbein_grabe.html
管理人より
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【全体図】
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暫く本ブログにご無沙汰していましたが、久々に見るとVagabondさんの意見を巡って関係者の間で火花が散っていました。斜め読みですが面白く拝承、皆さまの財政経済知識に種々教えられるところも多々あり関係各位に御礼申し上げたい気持です。
そもそも何で争論に発展したのか考えてみますと、Vagabondさんが西尾幹二先生のリニア鉄道発言と、それとの関連で「狂気の首相」という観方にご納得されていないが故に、西尾先生に失礼な言辞を吐いたということかと思います。言い分はそれなりに理解もできますが、西尾先生のブログで長々と発言されるならば、ここはVagabondさんが一言「失礼しました」と下手に出るのが良識というものでしょうね。
東埼玉人さんが冒頭、Vagabondさんを叱正し、布袋和尚さんが思いあまって同じ気持ちを吐露されたのも無理はありません。Vagabondさんの傲慢さは否定できませんし、閲覧者の大部分が同じ思いを持たれていることでしょう。Vagabondさんはたぶん、ただ言葉がすべっただけではないでしょうか。
日本の戦後における重工業産業の発展、新幹線プロジェクト・・これらが戦前の軍事技術が踏襲されていることは否定できません。西尾先生が「日本政府は戦略的に動こうとしない」と言われましたがそのとおり、トロン計画の挫折がその典型と言えましょう。JR東海の葛西敬之会長がリニアモーターカーの技術を明かされましたが、軍事産業が憲法などの制約下にある日本においては、このような技術こそが日本のコア技術であり、我が国政府が戦略的に育て上げるべきであることは言うまでもありません。しかも電磁技術は我が国がリードしており、アメリカが宇宙産業を最重要の国策としているように、電磁技術は日本の戦略技術といっても過言ではありません。リニアモーターカーを世界に先駆けて日本がまずは国内で実用化することが求められます。西尾先生の発言は戦略的に考えれば真っ当な意見であり、遅きに失したきらいもあります。それをVagabondさんは「カネを考えない机上の空論?」などと、まるで中学生をからかうような論を展開したことが、そもそもおかしいのです。二人の大人の争いに対し、聖徳太子の「和の精神」をしたり顔に、小学生に諭すようなもので、それこそ笑止千万というものです。だいたい財政措置を西尾先生が考えない筈がないでしょうに。
Vagabondさんは一例として「本四架橋3つ」の無駄遣いを挙げ、リニア鉄道も同じ類と断じました。一例が悪すぎて話になりません。本四架橋は当初から経済循環が保証されないとして批判されたものですが、リニア鉄道は国の大動脈でその比ではありません。重さが違います。東埼玉人さんは8兆円を、GDP比約1.5%として、さほどの額ではないと言われました。21世紀をリードする国策事業と考えれば、そういうことになります。男女共同参画でいかに無駄で国家破壊的な金が使われているかご存知ですね。トータル約9兆円とも聞きます。本気になれば、国家予算をゼロから仕分けし直し、かなりの費用が捻出できることも事実なのです。それこそ小泉流のリーダシップが求められるでしょう。
機械計算課長さんの論立てが実に淡々と歴史的事実を踏まえ、政治的スケールで日本の戦略を紹介されました。リニア鉄道の実用化に対しては「夢ワクワク」の感を与えてくれました。戦略を伴った国策事業とは、こういうものなのです。「技術だけなら実験線で十分だろう・・」は、なんと夢のない話だろうと私は思います。「ロケットが発射できるかのような話ですが、できるわけがありません」ともサラリと言われますが、幼稚なツマミ食いではないですか。実験線と実用線とでは、当事者意識において大きな差があります。NASAのスペースシャトル発射を見ても、タイルの剥がれなど、予期しない事象が次々と出てきます。その克服過程において、実験では得られない微妙な技術の蓄積が得られるのです。「実験線で十分だろう・・」などという発想では本当の技術者は育ちません。若い技術者が可哀そうというものです。それは、これから戦争などあり得ないのだから、ミサイルは不要だ、というかつてのサヨク政党の考え方と変わりません(今でもいますね)。
「なぜなら、80兆円の一般会計予算が今後税収で大きく膨らむことはあり得ない」は中身を大胆に再仕分けすることも考えるべきです。「今後予算編成がだんだん難しくなることは明らかで、要するに無駄な出費をなくす、減らすことがきわめて重要な課題です」・・これは家計的発想で、国家における戦略的発想から程遠いものです。
聡明なVagabondさんならお分かりでしょうが、かつての日本は貿易立国でした。つまり国を発展させるために、物づくりを基本に貿易収支を充実させようということでした。ところが2005年上半期以降、所得収支が貿易収支を上回るようになりました。つまり企業が外国投資のあがり(利子、配当、売却益など)で帳尻を合わせようという傾向が顕著になったことを表します。かつての「物づくり日本」はどうなったのか懸念される現象でもありますが、エコノミストはこれを、2005年以降、日本が貿易立国から投資立国になったと言います。ある意味、それはかつてイギリスが19世紀以降たどった道であり、イギリスが通過戦争において、アメリカにその地位を譲り渡す歴史でもありました。
これからはBRICS、つまりブラジル、ロシア、インド、中国が非常ない勢いで工業立国として台頭してくる。日本が工業立国の地位をいつか彼らに譲る日がくることを予感させるもので一抹のさみしさを覚えますが、仕方ないでしょう。しかし日本は技術的には相変わらず超先進国です。先端技術の核はしっかり把持しています。その意識をしっかり持って、常に技術の蓄積に努めれば、日本がBRICSにそう易々先を越されることもないでしょう。幸いに日本の企業はいままでかなり浮ついていましたが、最近になって「物づくり国家・日本」を強く意識し始めました。これからの世界は「資源」「エネルギー」「水」とも言われます。中国は「水」問題で将来が危ういとも言われます。世界中の資源、エネルギーを買いあさっても、水で崩れるかもしれません。未だに「治水」に手をやいている現状をみると、国も単なるGDPや軍事力だけで世界を制するものでもない、と考えさせられます。
リニア鉄道の実用化も、この流れで考えれば、国策として大きな意味があることお分かりいただけるのではないでしょうか。
今の若者はかわいそうですよ。政治も経済も、はては文化領域などでも今の大人たちのスケールが矮小化したため、雄雄しい「夢」を持つことができません。道徳のタガも緩んでいます。ホリエモンも村上も、ある意味、時代の被害者という言い方もできます。これも先輩世代の人物が矮小化し、夢を語らず、道徳面での影響力も減退したためでしょう。
私も最近、若い人たちと「言葉が通じにくい」もどかしさを感じることがしばしばあります。一人ひとりが、「塾」を興し、雄雄しい日本人を育て上げる気概を持つべきでしょう。
21世紀日本は、貿易立国(工業立国)から投資立国ではなく、より高度な貿易立国(工業立国)であり、かつ投資立国・・という気概をもって国富を増やし、高齢者大国なりの雇用形態、そして若い人にはギラギラした分野で頑張ってもらう。高齢者は彼らに無い今までの豊富な経験、ノウハウを認識し、社会に還元すると同時に、若者を精神的にサポートする。そんな社会風土を急いで創る必要を感じます。
昨夜は数十年振りに両国の花火見物に行き、ホテル屋上で数人と楽しみました。印象的だったことは、男女の浴衣姿が目立ったこと。外国人のお嬢さんまでかなりの数、浴衣姿を楽しんでいました。伝統文化がまだ日本社会に息づき、花火大会は見物人の心をひとつに結んでくれます。なぜか嬉しい気持になりました。占領軍が日本社会から「祭り」を無くさなかったことが唯一の救いであり、日本再生の秘訣をここに感じたのは、私ひとりではないでしょう。
「狂気の首相」・・・あらためて本を再読して意見を申しあげます。
皇都衛士さん
誤解ないように申し上げます。
日本の財政状況に鑑みて「リニアは無駄使いだ」といったつもりです。
いいですか、「中国の東シナ海進出は止まらない3」で、私がいろいろ書いていることは、
日本の財政事情が危機的な状況にある、だからわずかな無駄使いも許されないのではないか、
ということです。
さらに西尾さんのご意見は「ロケット技術のためにリニア新幹線を」ということでした。
以上二つの点から反対の意見を述べたので、何故傲慢なのか理解できません。
以上の2点がなければ、例えば、財政状況が良い(GDPに占める累積債務比率が
EU並みの40~50%程度であるなど)、またリニア新幹線が(ロケットのためではなく)
それ自体国家プロジェクトとしてきわめて重要である、ということならば私は(リニア新幹線建設に)
賛成します。
私が「リニア新幹線は無駄」といった根拠を崩す、
納得できる説明がなかったから取り消しはしません。
皇都衛士さん、私を傲慢と非難される以上、少なくとも財政上の疑念を晴らしてください。
(他にも無駄使いがあるじゃないか、は理由になりません)
そもそもハンス・ホルバインとどういう関係があるのですか?
皇都衛士さん
私の長文を読んでくれてありがとうございます。
経済の問題はてっくさんにお任せしてこっちのスレッドに書き込みをしておきます。
経済合理性は大事ですが、経済合理性を絶対視すればホリエモンの法を犯した点での非難はあっても、そんな強く否定できないはずです。また中国へ願望する短期の経済合理性を追求する経済界の主張を否定できなくなります。私は経済合理性が絶対じゃないだろうと論じているわけです。
私は営利企業で生きてきました。したがって経済合理性の重要性は体感的にわかっていますが、経済合理性だけがすべての解決手段ではないわけです。しかし経済合理性は数量的に把握できるものなら意義がわかりますが、ほとんどのイノベーション(新製品の開発、新生産方式の導入、新市場の開拓、新原料・新資源の開発、新組織の形成などによって、経済発展や景気循環がもたらされるとする概念)といわれているもので特に技術革新は予測できないからこそ発展性があるとしたものです。一例をあげれば誰だって携帯電話を出会い系に使うなんて思わなかったでしょう。工場で改善活動を行って商品に作り上げるというのはコアは地道な改善活動ですが、明らかに新生産方式の導入になるのでしょう。逆に日本で戦後に米国から導入した目標管理制度や事業部制度などはあんまり大きな成果を挙げていませんけどね。
問題は経済合理性だけじゃないぞという意味で私は敵対する中国という視点であの投稿を書いたのですが、残念ながらvagabondさんには理解されていないようです。
(以下余談)
中国の目的と現在わかっている弱点を考えてみれば日本の優位はその技術革新というか技術改良への指向があると私は考えています。そういう目で見ればリニヤというものは経済的な効果だけでなく技術波及の効果も大きいでしょう。だから中国との競争という面から見ても重要技術だと私も思うからです。これ以外にも重要技術はあると思いますが。トロンでも結局トヨタを中心とした自動車の制御で花を咲かせましたが、ロボット技術や微少化技術やそれに伴う省エネ技術や使用した商品の廃棄技術にも日本が花を咲かせうると私は期待しています。
日本は成長期のように大量生産で自転車操業でも赤字でもやっていける世界ではなくなっているわけです。日本の場合は下っ端から中間層の意識が高く、そういう意味では技術はしばしば部分最適化に進みます。現在の多くの家電の新商品は20年から30年かけて熟成してきた技術が花開いたわけで、この部分最適化指向を私は否定的に見ていません。付加価値から考えると川上の研究開発や試作専門やコアの部品を作成する工場が国内に存在し、それをユーザーに使ってもらいながらかつその声を収集する川下のプロセスが大事なことは言を待ちません。それは量の拡大でなく付加価値という目で私が見ているからです。
松井さん、
【問題は経済合理性だけじゃないぞ・・】と言われますが、勘違いされていませんか。
私は財政問題として考えています。。
経済と財政は、共通部分もありますが、別のものです。
私には「経済合理性・・対中国・・」として理解する能力がない、
と受け取られているのではないでしょうか。
あの・・・バガボンドさん
いつになったら気付いていただけるんでしょうか?
あなたが・・・
とおっしゃり、
と、念押しをされたのに対し、私はやんわりと・・・
と、書きましたよね?
にもかかわらず、いまだに
とか、
とか・・・
あなた、まともに物を調べてらっしゃった上で意見を述べてないでしょ?
自らの無謬性を信じるなと申し上げてるのに・・・誤謬に気付いてらっしゃらない
相手のメンツを考えて、いつか気付くだろうと遠まわしに言ってもダメなようなので、ハッキリ書きますね
まず、あなたが勘違いなさってたのは、マーストリヒト条約から始まって、ニース条約で強化されたERMⅡの参加基準
ちなみに、こうです
金利-長期金利が、物価上昇率(インフレ率)の最低3カ国(加盟国中)の平均値から2%以内であること
為替-ERMⅡ(為替相場変動メカニズム)に参加していること
ERMⅡの通常変動率以内を、最低2年間維持すること
為替相場の切り下げをしていないこと
財政
財政赤字-国内総生産(GDP)の3%以内であること
政府債務残高-国内総生産(GDP)の60%以内であること
物価-物価上昇率(インフレ率)が、インフレ率の最低3カ国(加盟国中)の平均値から1.5%以内であること
ちなみに、以前申し上げたのは、マクロ経済環境の改善の話です
名目成長率が長期金利(10年国債利回り)を上回っていれば、財政は好転する条件にある、ってやつです
で、マクロ経済環境が改善を目指したうえで、今度は、ストックとフローの両面でリ・ストラクチャリングに取り組むわけです
で、あなたのおっしゃっているのは、歳出・歳入というフロー面の「改革?」、つまり歳出カットの話において、EU諸国がマクロ経済と調和させようとしている財政ルールについて、少しだけ述べているわけです
しかし、日本の場合はフロー面だけでなく、ストック面の豊かさに着目しないと、単純にEUと比較しても意味がありません
というのは、我が国の政府債務残高の対GDP比は、先進国の中で一番高いんですが、一方で日本の政府資産残高も高いんです
例えば、日本の政府資産残高の対GDP比は150%程度ですが、アメリカは15%程度、一ケタ違います
また、ユーロの国々と比較しても、このように圧倒的なんですよ
各国政府の金融資産残高(対GDP比)
ついでに言うと、特別会計は50兆円ほどの余裕を持ってます
これは経済財政諮問会議でも検討されていますが、「各特別会計の改革案」として、継続中の事業を除き新規事業を行わないことを前提として、資産・負債差額(いわゆる清算バランス)の推計額がちゃんと公表されてます
これが最近言われている、いわゆる「見えない資産」です
以下は、私がよく見に行くサイトからの引用です(手抜きとも言う)
結論
・日本の財政は危機的ではない。市場参加者が正しくそのように認識しているからこそ、国債金利は低い水準で推移している。
・既存債務は大したものではないので、インフレによるその実質価値減少には大した意味はない。重要なのはこれから生じる政府債務をどうするかということ。
・政府債務の急激な増加は、人口構造のシフトによるもの。シフト期間だけでその負担をすべて賄うよりも、多世代にまたがって少しずつ賄う方が合理的。2012年までにプライマリーバランスをゼロに戻すという日本政府の目標は、現在世代に過大な負担を押付けるものであり不適当。
・将来的な国民負担率見込みを考えると、社会保障支出水準などをEU諸国並みにするならEU諸国並みに上昇するであろうし、一人当たりGDP成長率と同程度の伸び率にとどめるのであればほぼ現状どおりで問題ない。
この結論に私も同意します
ちなみに、IMFがこんな報告書を出しました
「日本はデフレ脱却、力強い回復軌道」IMF報告書
皇都衛子さんの「ハンス・ホルバイン・・」のところで見つけて、場違いと思いながら反論を書きましたが、やはりおかしいのと違いますか?
大体、関係のないところへ他人への非難を書くというのは、
このページを開いていなければ私は知らずにいるわけです。
また、テーマと関係のないことを書き込むことも、それこそ主宰者の西尾さんに失礼ではありませんか。
皇都衛士さんに大賛成です。
私は経済・防衛などの専門的なことは恥ずかしながら、全くの音痴です。皆さんが一生懸命に論じておられるのが「お国のため」となれば、私もお仲間に入れてもらえるかしらとまたお邪魔に来ました。
「食べて寝る」だけの人間は味気ない。夢を持って、できるかできないか分からないが、多少大風呂敷でもいい広げてくれる人のほうが、「うぅん?面白そうだぞ」と楽しみを与えてくれます。楽しみのあるところにはダイナミズムが生まれます。物を作る事がマニアックなほど大好きな日本人。この国民性は宝物です。経済が世界第2位の国になって、若者も持っている日本人のDNA(宝物)をどうして伸ばしてやらないのでしょう? 大人の側の問題でしょう。 度胸・勇気・判断において、腰が引けている。失敗したら妻になんと言われよう? 男が弱くなったのか、女が強くなったのか、それとも男も女もお互いに愛することを、人を愛するって何かを遠いところに置き忘れてきたのか?
皇都衛士さんのお言葉。
【今の若者はかわいそうですよ・・・。これも先輩世代の人物が矮小化し、夢を語らず道徳面の影響力も減退したためでしょう。 一人ひとりが「塾」を興し、雄々しい日本人を育て上げる気概を持つべきでしょう。 高齢者は彼らに無い豊富な経験、ノウハウを認識し、社会に還元すると同時に、若者を精神的にサポートする、そんな社会風土を急いで創る必要を感じます。】
大大大賛成です。この事に私の人生の全てを賭けてもいいなぁと思ってしまいます。若者が「喜んで何かをする」のを見ているのは嬉しいものです。
私事ばかりで恐縮なのですが(自分のことは上手く話せます・・)
私の家に息子の友達(仏人高校生)が来、挨拶が終わり、私が台所で野菜の皮をむいていたことが分かると、彼等の≪目にとまったら≫、彼等は必ず「お手伝いしましょうか」と言います。「あっそう、じゃお願いね」と、喜んでしてもらいます。適当なところで「ありがとう」と解放しますが・・・≪目にとまったら≫声をかける義務(?)がある社会です。だからメトロで妊婦さんを見たらすぐ席を譲ります。仏国社会ではすぐに権利と義務とヒューマニティが言われるのですが・・・言わないと手に入らないから・・・でも、行為としてさっと席が一つ空くのは見ていて気持ちがいいものです。息子の友だちは家で母親の手伝いをしているかと言えばしていないと思います。でも、≪目にとまったら≫次の行動ができるのです。小さい時から大人の会話と行為の中で培われてきた結果なのです。
息子は、親戚や私達の友人の家で、お世話になることが度々あるのですが、「一宿一飯の恩義は身体で返してきなさい」と私たち親は彼に言明しております。息子が「茶碗を洗うよ、おばちゃん」と。優しいおばちゃん達は「いいのよ、いいの。座っといて」と。息子に、いいと言われても行動しなさいよと。数日後息子がお世話になったとお礼を言うと、「○○ちゃんが台所手伝ってくれたのよ!」と反対に感謝されること度々。日本女性は男性のお手伝いに「こんな嬉しいことは無い」というほど喜びました。このことを私はまた、息子に「おばちゃんが凄く喜んどったわ!」と伝えます。
一つの行為が親戚中で知れ渡り、息子は行く先々で褒められたそうです。そうすると、茶碗洗いを止めるわけには行きません。嫌でもしなくてはね。家で普通に我が儘な息子でしたが・・・。
人は褒められて成長します。特に思春期から青年にかけては後々の人間関係という環境にも影響します。
日本からの若者も我家によく来るのですが、一緒に夕食のテーブルを囲みながら、仏人若者のいいところ、台所を手伝うということを、何気なく話題に出します。主人もそれに上手く乗ってくれます。だから、後片付けはお客の若者とともにすることが多いのです。「一緒にすると早く片付くね。ほんとに助かったわ」と褒めちぎります。「おばさんが喜んでくれた」ということを心の片隅にでもいい、持って日本に帰ってくれるといいなぁと。
若者は待っています。 さぁ、ビシビシ鍛えてやりましょう!
西尾先生が、「ヨーロッパ像の転換」の11章「ヨーロッパ背理の世界」の結びに
【 信仰の生きていた時代こそ、信仰の危機も生きていた時代である。近代人はイエス・キリストを「物体」として描く、ことさえもできないのだ。ドフトエフスキーの言いたかったことはそのことにほかなるまい。言うまでもなく、「物体」と言う観念が勝手に一人歩きしはじめ、物を蔽い、目を曇らすからである。現代は生の不安を蔽い隠すあらゆる遁辞に満ち、外的現象に救いを求める人に満ちあふれているではないか、彼もそう言いたかったかもしれない。・・・・】
【一方に、現実から遊離した単純きわまる理想主義者がいるかと思えば、他方に、現実改変への如何なる意志も持たない安易に妥協的な現状肯定論者がいる。実用に耐え得ない空理空論と、実用にしか価値をみない現実主義と、この二つは同じ相対主義の二面であって、久しくわが国論を二分してきた革新と保守の両極への硬直もまた、現実と戦う厳しさと同時に現実に何かを賭ける遊戯精神をもそなえた思想のほんとうの自由と言うものに、日本の湿潤な精神風土が不慣れであることと無関係では無いだろう】
(ここまで転載)
西尾先生の魅力を一言で言えば「ダイナミズムを貴方(女)に」と私達に知恵と勇気、とそして元気を下さることではないでしょうか?
先生より若い私達は・・・恥ずかしい限りです。
先生に何をプレゼントできるのでしょうか?
リニアモーターカーの実現は、ダイナミズムさが感じられなくなった日本の社会に夢を与えてくれ、そしてそれは「物作りの日本」にとって面目躍如となり、皇都衛士さんの仰しゃるようにワクワクする事柄です。新幹線とともに、リニアモーターカーは日本のブランドとなるでしょう。ロケットにもせっかくだから使いましょう。天気予報のためのロケットはメイドイン・ジャパンなのでしょうか?
顔を上げて、「空を見ろ!星を見ろ!夢を見ろ!」と、若者とともにワクワクしましょう。
先日コンコルド広場で写真をとっていた夫婦がいて、二人一緒の写真を撮ってあげました。ソニーのデジカメでした。私が「ソニーはいいね」というと、相手もにっこりしてくれました。多分中国人の夫婦だと思います。
日本は【物作りの国】です。
ふと気付いたことがある
ひょっとすると、バガボンドさんと、あっしも含めたみなさんの意見がイマイチ噛み合ってないのは、この件に限ると知識のバックグラウンドが違う・・・言い方が難しいな、要するに「日録」だけ、しかも片言隻語を捕らえるか、他の本も読んで「考え方(思想)」として理解してるかの違いがあるのでは?
日本人は何に躓いていたのかって本にもリニアの話がある
そこにこうまとめられてる
もともと、これが頭にあったから、別にそこから話が派生しても、なんとも思わなかった・・・
つーか、実験のための実験だったら無駄だよね、かえって
rational fool は嫌だなぁ、あっしは
アジアの人で初めて、ノーベル経済学賞を受賞したインドのアマティア・セン先生が、日本は「国の経済は貧しかったが、時には予算の四〇%以上を教育につぎ込んだ」って褒めてたな・・・
で、財政と国家100年の大系、つーか、国策は違います
ここでいろいろ書いてますが、実は私は心情的には功利主義とか市場原理主義とは一線を画してます
あえてリンクは貼りませんが、「アマティア・センという人 倫理経済学」ってエントリ書いてみましたんで、読みたい方だけ、というか、日本的価値観が好きな方だけご覧になってみてください
ハンス・ホルバインとは全く関係のない書き込みを、今後、するつもりはありません。
「中国の東シナ海進出はとまらない 3」に書き込みました。
管理人さんはどう考えておられるのか・・・?
Vagabondさん
相変わらずというか不思議というか。今回も話が途中で変化しているわけです。
私を勘違いと疑うのはいいですが、もともと経済(観念)という言葉を使ったのは私でなく貴方だったと思いますが、違いますか。
貴方は経済の問題じゃなくて財政の問題を議論しているという意味ですね。財政という意味は辞書では「国または地方公共団体が、その存立を維持し活動するために必要な財力を取得し、これを管理・処分する一切の作用。2 個人・家庭・団体などの経済状態。かねまわり」と書いてあるからそれも貴方は日本国家財政の問題を議論されているのでしょ。
国家財政は経済(人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係。金銭のやりくり。「わが家の―は火の車だ」費用や手間のかからないこと)活動の一つですから、また国家財政の場合は破産がない点が特異ですが、私の論は国家財政の場合でも適用できるはずです。考えて御覧なさい、国家財政の根幹である年度予算は政策によって決定されます。政策は政治経済福祉軍事教育などの広範囲にわたり決定されるものです。
私はてっくさんの論を素直に見ていますが、貴方と違いてっくさんは始めから国家財政の話をしています。
そして私自身も小泉政治の功罪の一つの功と評価される「銀行の不良債権問題の解決」とその結果で生じたとされる「景気の回復」という点につき、本当に功であったのか、またその政策によって日本の景気は回復したのかを説明が欲しいと書きました。これも貴方のおっしゃる国家財政の話なんですね。
実は私はこの小泉首相の功といわれている二つの問題の明確な回答は見たことがありません。なんとなく小泉の財政政策が効いて、そうして景気がよくなったように見えますが、銀行が不良債権で消化不良になったのを解消させたからだという論以外は私の無知を恥ずべきばかりです。勿論貴方からも回答はありませんでした。これは小泉政治の財政評価で重要な問題だと私は思いますし、貴方にも関心があるだろうと思い書いたものです。また貴方が盛んに論じている子供たちに負債を残すなという論立てでも小泉首相は何かやったんですかね。国債の発行枠を決めたまではいいですが、結局最後はこの点でも彼は公約違反をしています。その貴方が小泉財政を良く評価するのはどこかに矛盾がないですか。小泉首相が公約を守ったとかろうじて言えるのは郵政民営化と自民党の派閥の破壊でしょう。郵政民営化もこれも実際には指摘されたグローバルサービスを含めた各種問題が解決されているのかどうかは今の時点ではわかりませんけど。貴方のお好きな経済合理性から考えれば国家が地方へのサービスとしてやってきたのと同じサービスが出来るわけがないからです。
私の想像ですが、西尾先生はこの銀行対策で結局米国に不良資産を抱えた銀行を売ってしまって、その銀行が早い時期に株式再上場をして米国が多額の上場利益をあげたのを見て強い危機感を持ったのかもしれません。あることで成功した人間は同じことを郵政民営化でやりかねないという危機感ですね。何せ世界最大の民間銀行が成立するのですからそれを安く買い叩ければ米国は御の字でしょうし、中国より日本が大事にされていると喜んでいる状況じゃないと私は判断しますが。
結局今の時点では貴方は西尾先生の批判をしていても実質的には何か意味のある批判をしているのではなさそうだと判断せざるを得ないと私は考えますが。
本当は最新のエントリーに投稿すべきなんでしょうが、やはり賑わっている場所に書くことにします。
キリストの横たわる姿はあまりにも凄い。凄いの他に思い当たる言葉が見つからない私の感性はたぶんかなり品がなく貧しい限りなんだろう。
「物体」という音に物凄い意味合いがあるのは確かだ。近親者の死体を前にした初めての体験を越えるインパクトがある。
どんなに冷静に親や子供の死体を見ても、やはりここまで死体を物体化して表現することは不可能だ。ましてや信仰という魔力の基、果たしてそれが可能だろうかと、疑問を持つのが当たり前な現代だ。本当に怖いのは、出来もしないそれを無理して取り入れようとしているように写る現実なのかもしれない。
現代人の真の姿から推察すれば、到底この絵が描かれた時代の冷淡かつ計り知れない心の迷いを、簡単に理解できる可能性は薄い。
「死体」を「死」の現実と見ることは今も可能だが、「死んだ物体」とまで扱う「余裕」と「真の信仰の深さ」の存在は疑わしい。
現代は「死」という一つのインパクトを、自分以外の認識に頼って受け入れないと、感情が冷静に働かない魔病に襲われている。
つまり、その死んだ物体が自分一人では「死んだ」と認識できない弱さがある。誰か他人が「死んだ」と発さねば「死んだ」と理解できないわけだ。
現代は個人の主張が強まり過ぎたと周りは表現するが、私はそう思わない。
結論は常に逆で、どんなに形だけ強がっても、最後はしっかり他人に頼る。
因みにキリストは急所を突かれて死んだのではなく、出血死という生殺しであった。それを知れば更に「物体」という表現が重苦しくのしかかってくるのだが、いずれにせよあの眼は死にながら生きているようにさえ見えて仕方がない。
この辺に私の現代人らしさが隠し切れないでいるのは確かである。
PS:普段の私に似合わず、生意気口調の文章表現を使わせていただいたことをお許しください。
>vagabondさん
エントリーが新しくなれば、どうしてもコメントが流れていきます。四角四面の決まりはありませんが、確かに関連エントリー内のコメント欄を利用する方が適当かもしれませんね。
ただ、もう話が始まっているのであれば、ホルバインに関係なくても、そこのコメント欄を利用してもよいと思います。
長谷川さん、
(ホルバインと関係のない)話が始まっているのであれば、と言われますが、皇都衛子さんの書込みがそもそもの始まりです。
私はホルバインについては全く知りませんし、関心もありません。
だから普通なら読まないのですが、全く偶然に私を非難する皇都衛子さんの書き込みを見つけたのです。
コメントをクリックしなかったら非難がそのまま通り過ぎていったでしょう。
これでよいのですかね・・・?
あなたが管理しているのですから、それに従いますが、後で困ることが起こりませんか。
管理人さんのお許しが出たのでここに・・・
最終レスのつもりで。
元々、バガボンドさんが、「どうやらこの先生には経済観念というものがないらしい。」とか「先の小泉改革に対する評価といい、今回といい、どうも経済観念に乏しい議論が多いようだ。」などと、データも根拠も具体的にはお示しにならずに口先だけでの批判をし(主観的印象評価)、それに対する皆さんのコメントへのわけのわからないレスポンス。
あっしからみたら、批判のための批判にしか見えない、不誠実な態度というかなんというか、そういう風に見受けられまして・・・
それでも、突っ込んでみれば実際には何らかの具体的データに基づく論をお持ちなんだと思い、やり取りしてみました。
で、わざと揺さぶって、ちょこっと意地悪してました(スミマセン)
でも、もう十分でしょう・・・これ以上は気が引けるので。
バガボンドさんおっしゃるところの
「例えば、財政状況が良い(GDPに占める累積債務比率がEU並みの40~50%程度であるなど)」
「私を傲慢と非難される以上、少なくとも財政上の疑念を晴らしてください。
(他にも無駄使いがあるじゃないか、は理由になりません)」
について、実ははじめから一目瞭然の答えがありました。
この手の話をする人なら、誰でも知ってることだとは思うんですが・・・
我が国の予算は、予算の全貌を明らかにする観点から、企業の場合なら内部取引に当たる部分についても、財政法第14 条により、その歳入歳出につき各々その総額を予算に計上することとしています(総計予算主義)。
そのため、それらの歳入・歳出を単純に全て積み上げると、実質的な国の財政規模をはるかに超えた額になってしまいます。
例えば、一般会計から公共事業関係の特別会計へ繰入れを行い、その特別会計でダムを建設した場合、ダム建設費に相当する一般会計の歳入額(一般税収等)とともに、その特別会計にも重複して同額の歳入額(一般会計からの繰入額)が計上されることから、総額ベースでは倍の収入があるように見えます。
同様に、歳出についても、特別会計の歳出額(ダム建設費)だけでなく一般会計にも同額の歳出額(特別会計への繰入額)が計上されて倍の歳出があるように見えます。
したがって、一般会計と特別会計を合わせた実質的な国の財政規模を見ていくには、会計間取引額がすべてそれぞれの歳入・歳出に計上された額を合計した「総額」ではなく、総額から会計間の取引として重複計上されているものを除いた「純計」で見ていく必要があるわけです。
図で表すとこうなります。
総額ベースと純計ベースの違い
一般会計と31ある全特別会計の歳出額の総額から、会計間相互の重複計上額を除いた純計ベースの国の財政規模は、平成18 年度予算では、歳入で289.5兆円、歳出では258.7 兆円となっています。
で、実はこのままじゃ諸外国と直接比較はできません。
我が国の歳出純計額258.7 兆円には、さらに、企業ではコストと認識されておらず、アメリカ、イギリス、フランスなどの諸外国でも予算に含まれていない国債の債務償還費が含まれています。
なお、OECDによる各国比較に用いられる国民経済計算(SNA)でも、一般政府(中央政府、地方政府、社会保障基金を合わせたもの)の支出には、債務償還費や財政投融資等に係る支出は含まれていません。
そこで、我が国の財政規模を諸外国と比較する際には、会計間の取引額などの重複額を除いた純計額からさらにこれらを除く必要があります。
この場合、我が国全体の財政規模は、122.0 兆円ということになります。
で、バガボンドさんがしきりに強調してらした、OECDのデータ等による政府規模(中央政府、地方政府、社会保障基金を合わせた一般政府総支出)の各国比較は次のようになります。
ちなみにこれって、OECDのデータに基づいて、我が国の財務省が作った表です。
一般政府総支出の国際比較(実績値対名目GDP比)
これで、決着はついてしまいましたね。
累積債務については、以前示したグラフは「金融資産のみ」ですから、実物資産も含めると、対GDP比150%になりますんで、プロパガンダ用?のグロスではなく、ネットの政府債務残高を用います。
具体的な計数を上げるなら、対GDP比161%というのは過大評価で、対GDP比62%になります。
加えて、政府部門の不良債権推計値79兆円を偶発債務として債務に加算しているんですが、仮に不良債権がゼロと置けば、ネット政府債務残高(対GDP比)は46%となります。
(現在、偶発債務をゼロと置く理由は、調べればわかるはずです)
以上です。
もう、コメントはいりませんが、もしも反論したいのなら、今度は抽象的な口先だけの反論でなく、ご本をお調べになっても結構ですから、具体的な論をここに引いてください。
それであれば、それについて一つずつ潰していきます。
ついでに余談を
なんでこんなに分かりにくい会計のやり方をしてるんだと思いますか?
しかも、単式ですよ単式。
これ、みんなが文句言うところなんですが、実は起源は日露戦争にまでさかのぼります。
要するに、現金主義である予算・決算と、企業会計の考え方を活用した財務書類を比べた場合、金額として最大の違いが出てくるのが国債整理基金特別会計の支出です。
この国債整理基金特別会計ってやつは、明治39年に、日露戦争後に多額の公債を抱えることとなった明治政府が、公債管理の状況を内外に明らかにするために設けた特別会計なんですね。
金引っ張らなきゃいけないから、外国から・・・
てっくさんのご高説に対する無駄な反論を「中国の東シナ海進出は止まらない 3」に書きました。
特会を持ち出せば、墓穴を掘ることになりませんか。
バガボンドさんのコメント
http://nishiokanji.com/blog/2006/07/post_354.html#c4054
あきれたのは私・・・
実質的な国の財政規模を見ていくには、「総額」ではなく、総額から会計間の取引として重複計上されているものを除いた「純計」で見ていく必要があります
といってるんです。
つまり、純計ベースで見ないと意味がないと。
まったく・・・あなた、自説に固執して、見たくないものは読んでないでしょ、まともに
グーグルパーになりなさんなよと最初に書いてます
「特別会計」でググって(検索して)出てくる代表的なところ・・・全部知り合いです
つまり、そんなことは念頭に置いた上で話してます
依存症の独り言さんの、利権の巣窟→特別会計の闇
お付き合いのある人だから、この人のエントリを貶してるんじゃないことを先に断っときます
で、ここで挙げられてる「闇」ってのは、大枠の中の個別案件
私と話をしてたのは大枠の話
で、「闇」を一つずつ潰していけば、大枠の話の中の支出が減っていくだけのこと
そんなことすら、わかりませんか?
ついでに、このエントリのこの部分
そして、貞子ちゃんの連れ連れ日記さんの、ブラックボックス予算 特別会計で小泉内閣を切ってみる。
私のここのコメントに、ちゃんとこう書いてます
で、またもや口先だけの主観的批判、いいかげんにしなさいな
せめて、こういう最新の数字を自分でお調べになってからモノ言ってください
特別会計の資金の流れ(平成18年度予算)
他人様の文章や、松浦武志の本、しかも具体的に何も出してこない・・・多分まともに読んでないか、理解ができてないから・・・は、おやめください
もう、いいですから・・・どの程度の人かわかったんで
こういう受け答えをされるのは、あなたの頭の良し悪しをバカにしてるんじゃありませんよ、誤解のない様に
あなたのその態度が問題なんです
だから、恥をかかせるようなことをこちらも書かなきゃなんないし、あなたも子供のようなイヤミしかいえなくなる
真っ当な人には、こちらも誠心誠意頑張ってお答えしますが、そうでない人とは、時間の無駄です
追記:
財務省サイトより
主要な公的債務の現状とその管理を巡る課題について
これに関する、既に知識のある人間で行った議論
マーケットの馬車馬さん 郵貯:改革の理由(番外編) 財投機関債のお話
引用した意味は、わかりますね?
つーか、あっしもそんなにヒマじゃない
自分で調べて勉強してください
マジであなたはもういいよ・・・こっちになんのプラスにもならん
うちのブログに来られる方のご意見聞いてた方が、はるかにタメになります
あなたがペシミスト気取るのはいい、ただし、たいへんだぁ~って叫ぶだけで、何の対案も出てこない
唯一出たのが「倹約」「倹約」の一点張り
せっかく上向きになってきたGDPを落としたいのか?
どうか私のような頭の悪い人間にかまわないで下さい。
わたしのような「固い」人間には、簡単には返せそうにない借金を「悪」とする気質からは抜け出せません。
国であろうと個人であろうと・・・。
借りたものは返す、こういう庶民の道徳律に反する理論にはどうしても納得できません。
あなたがどれほど説明されようと(説明を求めたつもりもありませんが)
リニア新幹線でさらなる借金を重ね、財政事情を悪化させることには賛成できません。
この部屋の方々はあなたの理論をよく理解され、リニア新幹線は必要だと思っているのでしょうね。
財政問題については、歴史の審判を待ちましょう。
とりあえず、経済関連のレスはこれで最後になると思います。
大体において、わかりやすいと勘違いして国を家計に置き換えて説明してるマスコミに罪があるんでしょうが、
それに何の疑念も抱かずに、そのまま自分で調べもせずに鵜呑みにした挙句、一種の原理主義にまで昇華させて、
少しでも・・・会話の中の話の弾みなんていうことは全く考慮せずに・・・他人様の言葉尻をとらまえて
「経済観念に乏しい」などと斬って捨てることをして恥じない、それはどこからくるのか考えて見ました。
多分そういう人は「経済の循環」とか「三面等価の原則」と、その例外条件というものを知らないんだと思います。
一言で言えば、生産=所得=支出、これが三面等価の原則です。
それだけじゃ乱暴なので、リンク先を読んでください。
経済コラムマガジン 経済の循環(その2)
ここの説明を引用-漏出について
貯金が悪いといってるんじゃありません、日本人のお金がバクチ場へ向かうことは良しとしません、これは単なる次のステップへの説明です。
リンク先の分の中にある、乗数効果というのは、ややこしいんで割愛します。
漏出というのは、ほかにもありますし、注入というのもあります。
まあ、詳しくはリンク先を読んでください。
大きくは、間違ってませんから。
要するに、国家と家計を混同して、「オレは緊縮でいくんだ」なんて人は・・・それって、家計ならそれていいんでしょうし、誰にも迷惑はかかりませんが・・・国家の場合は出すべきものは出さないと、萎んでしまって、かえって抜き差しならなくなります。
ややもするとすると、その語感に惑わされがちですが・・・別に、倹約が美徳ではないってことです。
もちろん、無駄はなくすべきでしょうし、特別会計の闇なるものについては、去年の郵政選挙のときに、こちらでも、うちのブログでもさんざん叩いたことです。
特別会計の闇をつついて殺された、石井こうきさんの娘さんのターニャさんにもお話をお聞きしましたし、他人に言われるまでもなく、よくよく知っています。
ムダはいけませんが、出すべきことにはカネを出す、こいういことです。
ただ、それがリニアなのかどうかは私はわかりませんが。
本当にそれを選ぶんであれば、きちんと検証すれば言いだけの話、頭ごなしに「財政難でそんな余裕はない」という話ではないというだけのことです。
そういう人は、今後の新幹線や高速道路にも、どうか大きな声で反対してくださいな、あちらの方が目の前にある暴挙です。
で、私は麻生太郎支持者を自負しているんですが、彼は口の悪さやマンガ好き、またはタカ派ということしか知らない人がいます。
前回の総裁選のときの演説ですが、限られた時間の中で非常にうまいこと言ってます。
「絶望は愚者の結論」
以上、他の人とは違った面でも太郎ちゃん支持の麻生太郎マンセーブロガーでした。
お金は社会の血液、止めたらアカン・・・貧血気味です^^
ありがとう、てっくさん勉強になりました。
勉強にはなったんですが・・
「vagabond」さんが、西尾先生の記述に噛み付いた(?)事から始まった、主として「てっく」さんとの論争を、興味を持って読ませていただきました。過激は「てっく」さんのキャラと思いますが、こうした論争は素人にとって大変有意義なので喧嘩はしないで下さい。
私個人は、以前のコメントでもちょっと触れましたが、国家プロジェクト的な財政出動は、一概にムダとは言えないと言う立場です。しかし、「てっく」さんのような学識を裏付けにしていたわけではありませんので、一般国民が殆んど理解していないだろうと思われる国家経済や国家財政論について勉強させていただき、逆にますます難しさが募ったともいえます。
マスコミに登場する方々の議論も解説も,大方「vagabond」さんの言われるような論旨で展開されます。たまに専門知識のある方が、「てっく」さんのようにきちんと説明しようとすると、難しい話をするなとばかりに遮られます。当然、国民は難しい論議は敬遠し、国家財政も家計も同じ感覚で捉えます。だから、心情的に「Bagabond」さんの主張をよしとされるかもしれません。というよりも、専門家でも家計を例に出して説明しますから、専門家、政治家でもそう思っている方が多いのかもしれませんし、国家財政の本質を分からないようにする事が、国策ではないかという気もします。
私は、こうした議論が交わされる時に考えるのは、頭がいいといわれる北朝鮮のキム首領が、経済の本質を理解せず、国家を家計的な発想で捉えているために発展を阻害しているのではないかということ、もう一つは、国家財政と地方財政は基本的に違うのに同一感覚で語られるのはおかしいのではないかと言うことです。国家は「てっく」さんの如く、自治体は「vagabond」さんの如くあれと思うのですが、的外れでしょうか?
私はあきんどではありますが、だからといって経済学を語れるほどの資質はありません(知識が無いと言う方が適切かな?)。
ですから、一国民としてバクッと語らせてください。ただし色んな面で大目に見てください。
ハガボンドさんが心配されている点は、大まかに言えば、これ以上国民に不安を与えるような公共投資は止めてほしい・・・という認識で良いのでしょうか?
仮に私の認識が正しいとして語らせてください。
それから、てっくさんに一言。
貴兄の知識は確かに素晴らしいと思いますが、正直私には半分も理解出来ません。
なんと申しましょうか、聖書を読んだ事がない者に、聖書の中身を矛や盾にして説明しているイメージが先行しているように感じます。
出来れば多くを示さず、解りやすい部分を解りやすく説明していただきたいです。例えば一般会計とはなんぞやという基本が知りたい方もいるはず。
さて、リニアカーの例を上げて西尾先生は防衛というスタンスからの必要性を述べられました。
ところがそんな無駄になりそうな開発はやめろとバガボンドさんは語る。
そこで、一つ別の角度から語らせてください。
(貴方が感情で抵抗されているようなので、私も感情で説明させて貰います)
日本人にとって水は只・・・という概念が強いのはご存知でしょう。
でも最近は少しばかり水の大切さが意識され始めました。
以前はたんぼが至る所にあり、台風や洪水が起きてもたんぼがそれを吸い取ってくれました。
ところが減反や住宅街の増築でたんぼが減り、天災被害は増すばかりです。
そこでなんとかその対策が必要だとなり、上下水道の整備が急激に進められたわけですが、ご存知のように汲み取りから水洗にするには50万円ほどの費用負担がかかります。
今は住宅地の分譲はそれらの費用込みで売られるケースが多いですが、古くから立ち並ぶ住宅街の場合は、そうした費用を受け入れざるを得ません。
つまり下水道工事は自治体の先行投資です。
さてそこでなんですが、先行投資した以上は、それがいずれ活用されなければならない。つまり、住民が貯蓄や分割支払いで下水道の権利を買い上げなければならない。
問題は、そうした公共工事を住民が受け入れられるかが問題であります。
中には未だ支払いが不可能で汲み取りのままの方々もいますでしょうが、大体は受け入れられています。
つまり、日本という国の豊かさを表す一つの材料と見て良いわけです。
ところがお隣り韓国や中国の場合、マンションなどの大型建築物では下水管理が行き届いていますが、一戸建ての場合は汲み取りのままが多いのだとか。
この現実から判断しますと、大袈裟な言い方になるかもしれませんが、お隣りさん達は、政府から信頼されていないと見る角度も有りではないでしょうか。
生活に密着した基本中の基本が疎かなんです。
ですから、当然いつまでたっても政府を信頼する意識は国民レベルで生まれてこないと判断できませんかね(同時に政府も国民を信頼できないのかも)。結局呼応が生まれないのですよ。
それに較べ、日本はまだレスポンスがある国だと言えませんか。
なにしろ新幹線が出来た時も、ある種の総動員的な国民の理解があった。
ところが防衛に対する意識がいつの間にか薄れていくのと同時に、新幹線事業のもう一つの顔が消滅しはじめたと言えます。
確かに当時も新幹線が軍事に繋がる技術があることなど、知らなかった人が殆どだったかもしれません。
でもどうでしょう。まさかこの技術が蓄積努力なくして出来上がったとは誰も思わなかったはず。
よくもこんなものが出来上がったものだと感心したはずです。
そして、いつかこのスーパーカーに乗りたいと誰もが思ったはず。
こうした感情が私達現代人は忘れているんでしょうか?もしもそう考える事に固執なさるなら単なるアマノジャクではありませんか。せっかく使える技術とそれを受け入れる要素が残されているのに、単なる消極的な感情でその辺にある高速道路と同じ扱いにしてしまうのは、考え方の基点があまりにもずれている。
もう一度思い出してください。たんぼが無くなり水処理が必要になって、自治体がそれぞれ勇気をもって先行投資した気概を。
この線上にリニアモーターカーの必要枠は乗っかっていると私は思うんですが、如何なものでしょう。
ここ数年自衛意識は高まりつつあります。
このスタンスを受け入れた場合と、そうでない場合は結果が違うわけです。
単なる運賃だけに留まらず、国のために役立つ支払いが伴うと知れば、考え方って違ってきませんか?
ご存知だと思いますが、新幹線開発に関わった技術者が、種子島のロケット開発に受け入れられた現実は重いですよ。
なんか、田舎のダンディさんのコメントで脱力しました
あなたはそのようにしか理解なさらなかったのですね。
最初から書いているように、議論のための議論、くだらない勝ち負けのためのレトリック・・・時間の無駄です
最初から個人を攻撃してるんじゃありません、「怠慢な態度」を批判してるんです、それとその中身を
どうして、決してヒマじゃない・・・というか、恐らく一般的な方々の倍は忙しい(これは自業自得なんですが)私が、わざわざ他所のコメント欄に出向いてまでコメントしたのか
だらだら書いても仕方ないんで、このブログのエントリ読んでください
弾さんの 404 Blog Not Found:日の丸が親方である限り
貼り付けた意味がわからなければ、それで結構です
過去の失敗から何かを学ぼうとしない限り、今後もどこかで愚痴を言うだけの結果が待っているだけです。
それまで、経済評論など一切されてなかった西尾先生が、世の中に起きる事件に経済の占める比重が大きくなってきたとき、突然、経済評論をなさいました。
経済評論ですから中身については賛否両論ありましょうし、失礼ながら、部分的には若干消化不良のきらいがないこともなかったとは思います。
ただ、論文に散見される名前を見ても、山崎養世、野口悠紀雄、そしてトンデモをも含めれば浅井隆等々
本を読むにしろ、直接話を聞くにしろ、どれだけのエネルギーが要るものか想像できますか?
むしろ、あの短期間にあれだけのことを書けるという、その理解力と、費やした労力、恐らくその裡にあったであろう決然たるものを想像するに、脱帽せざるを得ませんでした。
齢70の、しかも門外漢の先生が、国家の大事には、「あれは専門外」だと逃げることをしないで、あそこまでなさった。
恐らくは、もっと若いであろう、時間の自由もあるはずの方たちが、その様を見て何も思わないんでしょうか。
ある人は、その何分の一かの労力をも割かずに、口先だけの批判、ある人は訳知り顔で調整者を気取る。
「学識なんか、関係ないんだよ、そんなものは
1人の人間が、最初から何でもわかる・・・そんなスーパーマンでなんか、あるもんか
そうじゃなくて、本当に国のことを思うなら、訊けよ、探せよ、調べろよ
今日は他人の言葉でも、消化して語ってるうちに自分の言葉になるんだよ
このままじゃ、一体誰が次代につなぐのか」
まあ、そういう想いでコメントしてました。
それでは、自分のブログに戻ることにします。
これまでてっくさんのご高説をありがたく聞いてきた。
理解しようと努めたが、私の能力では無理だった。
例えば、累積債務は60%ほどだという理論。
ところで、てっくさんのブログをチラリと読んで、財政に関する彼の説を理解する必要はないと感じた。
例えば「「A級戦犯」なんていう虚像を作り上げたのは誰?」なんてコメント読むと、
理解することが良いのか悪いのか分からない。
理解したからどう、しなかったからどうという問題はない。
しかし、麻生太郎さんの意見は理解できた。
また、こことは別に政府には債務があるが資産もある、
という意見を他のブログで見た。
金が銀行などに集まりすぎ、しかも借り手がない(ないのではなく、優良企業は借りてくれない)・・仕方なく、
政府が仲立ちして(債務を引き受けて)カネを市中に回しているのだ、これで経済が何とか回っている、
という意見はよく理解できる。
「資産があるじゃないか」という説も筋が通っている。
両者を合わせると、少々無理して(借金を重ねて)も財政支出は必要なのかな、とも思うが、じゃ何として借りたカネを返すのか?
資産を売って返せばよい・・いや、資産(例えば、本四架橋)そのものを渡せばよいかも・・。
会社が倒産したらそういうことになるのと同様に。
財政支出をどんどんやって、景気がよくなれば問題ない。
だけどこれは1990年ごろからずっとやってきた手段
じゃないのか。
リチャード・クーさんによると、今年はじめに要約バブルの清算が終わったらしい。
何でも、借金に懲りた企業は銀行から金を借りようとしないそうだ。
(だから銀行に金がダブついている)
バブル崩壊後と清算後とでは条件が違うが、景気が良くなり税収が増え借金が返せる、
なんてことになれば私は脱帽する。
これは一種の賭けだろう。
GDPの伸びより累積債務の伸びが大きかったら・・・その恐れは非常に強いが・・・例えば30年後
「オヤジや爺さんは、自分達の生活を守るために、俺達に借金苦という遺産を残した」
というのじゃないかな・・・。
そういえば「米百表」の話を思い出した。
リニア新幹線よりも教育のほうが大切ではないかな、と私は思う。
今の教育予算を増やすことではない。
小学生から大学生までもっともっとしごいて、勉強させてこの子らに期待する方が
「急がば回れ」じゃないかな・・?
てっくさんご苦労様でした。
私にとっても小泉改革を思い出すいいいきっかけになりました。前からよくわからないことが幾つかあって、小泉の財政改革で評価されている銀行の不良資産問題の解決が本当に竹中のやった政策によって達成されたのかという素朴な疑問がもともとあったのです。まさか大手銀行を安く米国に売ったから他の銀行が恐怖に駆られて預金者から提供された預金を企業に貸すようになったおかげで景気がよくなったとも思えないし。理由のないことではないのですが、不良債権の処理によって銀行が民間の設備投資などの前向きの投資に資金を使うようになったとも思えないわけです。
郵政民営化によって郵便貯金の金が中小企業へ金が回るようになるという願望が世間にありましたが、幾ら考えてもそうなるわけがなかろうと当時から思っていましたし今でもそう思っています。郵便貯金の投資先は殆どが国債です。また大手銀行の投資先の多くも国債が無視できません。
歴史というほどの期間ではないですが、不良債権の処理を竹中政策によって行ったわけですが、この結果従来から黒字であった地方の経済をささえていた地方銀行が赤字に転落し、さらに幾ら不良債権を消化してもそれ以上の不良債権が増えるという悪循環が始まり、幾つかの地方銀行が倒産したのは事実なわけです。
そういう経験がある銀行が、ましてや経験が少ない郵便銀行が投資先を国債から積極的にリスクを背負って日本の製造業の屋台骨である中小企業に金を貸すようになるとも思えないからです。
どちらにしろこの辺りは自分で考えるしかないのでしょうな。
またリニヤの件でも私はてっくさんに近い意見であって、別の基礎技術があるのならそっちへ投資を向けることはやぶさかではありません。
中国と対抗するのは米国のように川上と川下の両方を押さえるのがいいのであって、日本の製造業の現場に大卒出身者が入ってもおかしくはない(ある程度生産能力のある新製品試作工場で作られたノウハウ生産工場で日本は生きるわけです。そして川下で利用者の情報を取得してノウハウ生産工場へ返すわけです)とまで思っています。
以上てっくさんの文章を読んだ感想です。
良い借金と悪い借金
借金には良い借金と悪い借金とがある。
繰り返すが、返せる借金は「良い」、返せない借金は原則として「悪い」。
借金は遊休資本の活用であり、これによって富が増えることを期待する。
借金という制度がなかったら、経済は発展しない。
国の借金も、良い方向に使えば非常に効果的であるが、単なる「借金を返すための借金」は、
基本的に悪なのである。
話はそれるが、借金には落とし穴がある。
借りた金は「自分のものだ」とい錯覚に陥りがちだ。
そしてなによりも怖いのは、例えば月賦で、一度返却をサボると次の月が大変になり、
返す気力をなくすことだ。
財政を扱う人々には、同様に借金は「また借りればよい。」という安易な気持ち、
錯覚があるのではないだろうか。
尤も、ここまで膨らんだ借金では手のつけようがない、
といった感じだろう。
少子高齢化、若者の気力のなさ(少なさ)など将来の経済にはマイナスの要素がいっぱいある。
例えば地価を見れば、大都市圏以外はみんな下落傾向が止まらない。
多分日本経済は近い将来縮小に向かうだろう。
要するに金回りが悪くなる。
麻生さんは、
【少なくとも、いま日本では、金利は安い、土地は安い、工事費は安い、加えて工期も短いという状況下においては、
金を借りる元気のない企業の中にあって、政府は日本の未来のために、
将来の子どもたちのために、むしろ先行の投資をすべき。】
と言っているそうだが、そのために生じる借金はどうするのか、答えはない。
たぶん将来子供は「余計なもの作って・・。借金はどうするの」と嘆くだろう。
リニアが高い技術を持っていることはよく分かる。
それをいうと、本四架橋も非常に高度な技術が使われているという。
(見学に行くと、誇らしげに書かれている)
「技術」の内容は違うが、いずれも技術の粋を集めたものだ。
時代は変わってきている。
私の感想だが、1980年代以降の日本の繁栄は「特殊」と見るほうが良い。
行き過ぎは「バブル」だけではない。
いつまでも経済発展を言っている時代ではないのではないか・・・。
前に書いたように、今の子供の能力は落ちている。
もっと詳しく言うと、上のほうは高くなり、下のほうは低くなっている。
学力格差が広がっている。
教育環境を抜本的に改め、エリートを育て、底辺を引き上げることによってまた新たな技術革新、
それによる経済発展を求めるべきだと思うが、如何だろうか。
ヴァガボンさんへ
【このルームにアクセスするのは「新しい歴史教科書をつくる会」に関心が極めて深いからであり、西尾さんの意見に合致しない人は「つくる会」を語る資格はないというのでしょうか。】
【福地さんの「大東亜戦争美化論」が「つくる会」には相応しないという気持ちからアクセスが始まったわけで・・・】 は貴方のお言葉です。
「つくる会」にどのような関心がおありなのか? 自虐史観でいいと仰るのか?
この「美化論」という言葉は福地先生のお言葉ではなくヴァガボンさんが付けた言葉です。
ヴァガボンさんが、西尾先生や福地先生のお考えに「いや、違う!」と声を挙げられるのはご自由です。そうして何人かの方々との論争があった訳ですが・・・
時々「分かりません。教えてください」と質しておられましたが、論争をされるからには西尾先生、福地先生を充分に調べ(研究して)上げてから「論争はすべからく相手の神を撃て!」の如くなされたらと思いながら、拝見していました。
このブログは西尾先生の「大人の教科書」を楽しみにしている方々が、今度はどんな「驚き」に出会えるのだろうと集う場所でありましょう。心のなかにワクワクが生まれる場所なのです。
ヴァガボンさんも好奇心、そして国を思う心をお持ちゆえ、西尾先生に異論あり!と手を挙げられるのでしょうが、貴方には素直に皆さんのご意見を聞くお耳は持ち合わせてないようにお見受けしました。いうことを聞けという意味ではありませんよ。
分からなかったら、家でじっくり本を読んだりして勉強してからまた尋ねる。もっと程度の高い論争になるでしょう。他の方々と貴方は「何かポイントがずれている」と感じました。
あっ、そうか。ヴァガボンさんはこのブログにいるより、貴方自身がもっと「ワクワク」する他のブログがあるはずと思いました。ワクワクする時間は全てに勝ります。
【 ところで、てっくさんのブログをちらりと読んで、財政に関する彼の説を理解する必要はないと感じました。
例えば「「A級戦犯」なんていう虚像を作り上げたのは誰?」なんてコメントを読むと理解するのが良いのやら悪いのかわからない。】8月02日 23:03 のコメント
貴方の最後のコメントの中の言葉です。論争が始まってからこの日までに時間が相当経っています。
自分が論争している相手がどんな人物(どんな思想の持ち主か)か普通は知りたいものです。てっくさんはブログを貼っておられるのですから、貴方は大分前にピコッと開けて読まれていますよね。
最後のセリフにこの言葉はあまりに稚拙です。このセリフで何がいいたいのか?が伝わりません。
貴方との論争に時間を割いてこられた方々は藤岡先生ではありませんが、「ふざけるな!」といいたくなるでしょう。
A級戦犯について:上坂冬子著「戦争を知らない人のための靖国問題」「償いは済んでいる 忘れられた戦犯と遺族の歴史」 小林よしのり著「いわゆるA級戦犯」「靖国論」「戦争論」 東条由布子編集「大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書」 などをどうぞお読みになってから、
【 ところで、てっくさんのブログをちらりと読んで、財政に関する彼の説を理解する必要はないと感じました。
例えば「「A級戦犯」なんていう虚像を作り上げたのは誰?」なんてコメントを読むと理解するのが良いのやら悪いのかわからない。】
上記のお言葉を吐いてください。
てっくさんのブログで彼と堂々と論争されたら如何でしょうか? てっくさんはもう、うんざりなさっておられるかも知れませんが。
上記のような言葉は誰でも言えるのです。 以上
へ? まだ続いてたの・・・これ
というか、その読み方ってまたまた勘違いのクレームがつきそう
フランス語読みでなくても、実はdは聞こえるようには発音しないんだけどね・・・相手によっては取り違えによるトラブルの元です
で、いわゆるA区分戦犯の話と財政の話はまったくレイヤーの違う話
馬を指して鹿と言いたかったのか・・・
てことで、それはいいんです、それが変だってことがわからない人はいないはずですから
で、まだ言ってらっしゃったのね・・・借金を返す借金って(笑)
借換債のことなんだろうか・・・
いくらなんでも、60年償還ルールくらいはご存知のはずだろうし・・・
多分、この手の話だと思います
読売の消化不良の人が書いた説明 借換債(かりかえさい)
これは、2008年問題として、うちでも警鐘を鳴らしてたんですが、買入消却することになったんで、結果として借換債の発行額の増加傾向がストップすればOK
どの口が、おこがましくもそれを言う・・・ってホントは言いたい
世代間闘争はするつもりはないけど、それってバガボンドさんの世代が作った借金なんですよ
で、本来、多世代間に渡ってならして償却するはずが・・・実は我々の世代にその負担が直撃
先の子孫の話より、我々に謝ってくれよと・・・言ってもいいところを、あえて言ってませんよ、私は
で、若者の気力のなさって、どの若者のことでしょうか?
少なくとも、私の周りを見渡す限りにおいては、そんな人はいません
で、息子世代をおっしゃってるのなら、とりもなおさず親の責任
幸いにして、今は亡きうちの親は厳しかったんで、しかも先生にも恵まれたもので・・・
なんとかなってます・・・息子は、一応世間様並み以上には
ステレオタイプな不正確な物言いはやめましょう
ま、いまさらどうでもいいんですが、実は私は只今大変忙しい・・・公私共に
1人の人に割く時間はありません・・・ということで、意味のない論争には不参加を表明します
ソルベさんへ
一般にブログには誰でもアクセスできます。
しかしこのブログは、管理人がおられて相応しいかどうかをチェックしています。
私の書込みが相応しくなければ、ボツにすればよいだけです。私はちっともかまいません。
なお、「つくる会」との関係ですが、私は会費を払っている正規会員です。
つくる会の内紛と非常に深い関係のある西尾さんや福地さんの発言に神経質になるのは当然です。
これまでのつくる会はもちろん、役員は「大東亜戦争肯定論」を主張していなかったように思います。
「反共」で止めておけばよいものを、「反米(反GHQ)」にまで広げるからおかしくなるのです。
A級戦犯に関する本を読まずに発言するな、と言われますが逆に、
大東亜戦争「肯定論」の見落としている視点を研究したほうがずっとためになります。
田中康夫さんが落選しました
田中さん「ダムを造らない、借金の山を子どもたちの未来に残さない、と言ってきた(本人談)」
村井さん「借金返済優先で、必要な公共事業をしてこなかった」と田中知事の財政再建を批判。
国が抑制を目指している特別養護老人ホームの整備促進なども公約に掲げた。
だそうです
6年間、田中さんの県政を見てきた、長野の人々のジャッジ・・・さあ、結果はどう出るのでしょうか
いや、一定の短期のジャッジメントがこれなんですがね
その先を見ないと・・・
てっく様
ネットでの「議論」とはかくあるべきものか、と感服、圧倒されておりました。
vagabond氏という方は、自らの理論や論理の破綻を指摘されてもへこたれません。知って知らぬ振りをしているのか、自分でも気づいていないのかも分かりません。必ず論点をずらしてくる。そして情緒的な面には素早く反応し、最後は居直り、ふてくされ、となります。そうなったときは、すでに「議論」の勝負はついています。つまり、議論の結末は、必ず、vagabond氏の発言で終わるのです。その「最後」の発言に反論するのは無用のことです。
私は、少し言葉足らずに片付けようとしてやや手こずっていたときに貴方が「議論」を引き継いでくださったばかりか、当ブログに貴重な情報をもたらしてくれました。感謝いたしております。
もっともvagabond氏との議論がまともなものにならないと示唆してくれたのは、お忘れかも知れませんが、貴方でした。(福地先生の戦争の評価を巡る議論のとき。)そこで一呼吸おいてvagabond氏のホームページを参照して納得した次第です。
田舎のダンディ氏のコメントに脱力した、と言うことが気になりましたが、当ブロクは自由に幅広い方々が参加していることが特徴です。どうか大目に見て頂きたい。
日本の「再建」のためには、経済の再建が不可欠。そのためには「経済学」の再建が必要です。縮(ちぢみ)思考が当然のことのように思われていますが、日本の潜在的経済力(供給力}からみて(政策如何では)、なお十分に力強い経済成長は可能であると主張している(まともな)経済学者・評論家、そして政治家が、少数派ながら存在します。それらの知恵と力を結び合わせ、一つの方向にまとめていくには、経済を無視している保守派を叱責している西尾先生に、是非ともその役割の一端を担って頂くことが期待されると考えています。その意味からも、てっく様の変わらぬご支援をお願いする次第です。
布袋和尚様
遅ればせながら、エールを送って頂き、力づけられたことに感謝します。どうも有難うございます。
松井様
ぶしつけに失礼な言葉を投げつけたかも知れません。
引き続き、力強い投稿に敬服いたしております。
さて、
vagabondさん、
連合国による占領は、前半の3年と後半の3年余とでは、性格が変わっています。前半は文字どおり日本弱体化一辺倒、冷戦が激化し、中国の共産革命がなった後半は、日本を「反共の砦」として再建する方向に転換しています。
左翼は、前半を肯定的に評価し、後半を「反動化・逆コース」として否定的に評価しています。
あなたは占領を肯定的に評価していますが、せめて前半と後半とに分けて評価された方がよろしいのでは。余計なお世話かと思いますが、老婆心まで。
東埼玉人さん、あなたはかって次のように述べておられる。(07月25日 21:52)
—
vagabond氏よ
問題をすり替えるな。
君の主張していることは、世の中大多数の誰でもが言っていること
(但しマスコミでもてはやされている限りで、ということだが、)そのオウム返しに過ぎない。
その程度の認識で、人のことを「カネを考えない空論」などと生意気な決めつけをするな、
と言ったのである。
国の借金に対する国民の貸借の問題は、問題の多面性の一例としてあげたのであって、
それがどうしたとは何事か。君自身がよく考えて見よ。(おそらく考える力もあるまいが。)
間違っても、経済問題の議論の相手になりうるなどと、思い上がってもらっては困る。
—
そう、その通り。私は経済問題では素人である。
それなら素人にも分かるような論理を展開すべきではないのか。
ちっとも【思い上がって】なんかいない。
例えば、「ドーマーの定理」が出てきた。
私は幸い多少数学を知っているから、ある程度理解できたが、
なぜはじめの式が成り立つかは全く理解できない。
専門家なら、素人にも分かるように説明し、それで理解しない相手を軽蔑するのはかまわない。
実際「よく分からなかった」という人がいるではないか。
さらに、あなたは【経済の再建が不可欠】といわれる。その通りではあるが、
プロセスとして「縮み」がいいのか、財政出動による「成長(のハッパかけ)」が良いのか、
専門家の間でも意見が分かれている。
問題は財政出動すれば景気がよくなるのか否か、これによって膨らむ借金はどうするのかについて、
てっくさんの説明は難しすぎて分からなかった。
出来ればあなたに分かるように解説していただきたい。
なお、占領政策についてだが【前半は文字どおり日本弱体化一辺倒】という評価自体にすでに歪みがある。
「弱体化」の反意語は「軍国主義維持」だろうか。
「弱体化」と何の証明もなしに表現することは、私に対する非難と同じに聞こえる。
東埼玉人さんの応援メッセージを貰いましたので、調子に乗って以下の文章を公開します。
もともと私は山本七平ファンで、今回の作る会の騒動も「空気の研究」を使って分析腑分けしてみたら面白かろうと考えていました。ちょうどそこへvagabondさんの投稿があったのでその点を書いてみようと思います。
vagabondさんの論説を読むとその特徴があることに気づきます。
①議論の主題がずれてゆく。最後まで目的が明確でない。
②絶対的な確信に裏付けられている。無謬性の確信であるのかもしれない。
③普遍的な話と個人の意見が混乱している。
④裏づけがほとんどない。
⑤わかりやすいが根がない。
こういうケースの場合は私は「それは空気によって発している議論であると見なす」と、色々とわかりやすくなります。いわば世間の常識ではなく、世間の空気や雰囲気から得た知識で議論をしようとしているのだなと。
日本社会は唯物論や数量化性向や個人主義とはまったく異質な世界です。山や川だけでなく自然全体やそこに流れるすべてについて霊を感じる社会です。機械工具に注連縄を張るのは当たり前の話であり、世界有数の家電生産企業に企業を守ってくれる正一位稲荷大明神を祭る専門の管理職が存在する世界です。食べ物でもそうですね。日本料理で一番高級なのは会席料理ですが、その材料はまるで縄文時代に日本人が食べた食物とほぼ同じものです。近代化された国家で日本だけ犯罪がないのも特徴的なんでしょう。
さて幾つかある特徴の一つに人間の関係性があります。その関係性は分離独立した個人ではなく、相互により添った存在として認識されます。そして日本人は現実の人間関係性を大事にしてきましたし、その関係性によって言葉が変化するのを当然としています。言葉でいうと敬語や丁寧語なんかは典型でしょう。これは相手の社会的位置づけと自分の位置づけの関係で言葉が変化する典型的な例でしょう。これを片面から見ると日本語は繊細な心遣いを込めた気配り表現が、極めて豊富な言語でもあるわけです。これは日本語の美しさを代表する一つの大きな特徴でもあります。
まあ日本人は相互の位置づけの値踏みをしながら言葉を交わすわけで、初対面の人とは苦労が絶えないわけです。西欧の言葉への態度、例えば言葉を意味するロゴスとは論理という意味が強い点と比較すると、気配りが重視される点ではやはり違うのだなと思わざるを得ません。
日本語には霧がかかっているような表現を行います。ピントがあっていないと言い換えたら直接的表現すぎるだろうか。自己中心的、傲慢、横柄、生意気、押し付けがましいなどの悪印象を聞き手に与えないように、日本語の表現は「あいまい」や「ぼかし」が余りに多い。「ぼかし」のもとは文中の助詞と文末の表現である。文末表現については否定か肯定か最後まで行かないと意味がわからない。 などの点は確かにあります。
こういう世界で、言葉自体にも、さらには場や時がそのまま強い霊を持って日本人を規制することはありるわけです。場違いや場を心得ないとかいう言葉は場がまるで物理的に存在するように捉えられて合理的な判断を阻害することをいうのでしょう。どんな場であっても光の速度は変化しませんが、日本人の議論は変化します。これを山本七平は「臨在観的把握」という用語を作り、そこに何か存在するように日本人を規制すると述べています。それは基本的に日本人社会が相互に助け合った人間関係を持っているからでしょう。
さてvagabondさんの場合も世論の空気を読むことでそれをまるで神を見る如く把握しているのでしょう。そうとでも考えないと前に書いた
①議論の主題がずれてゆく。最後まで目的が明確でない。
②絶対的な確信に裏付けられている。無謬性の確信であるのかもしれない。
③普遍的な話と個人の意見が混乱している。
④裏づけがほとんどない。
⑤わかりやすいが根がない。
の説明がつきません。
日本人の強固な人間関係性を使ってvagabondさんの論説をモデルを作って演繹的に解剖してみたけど、こういう空気という「ないのに在るが如き強い影響を及ぼすもの」が生まれたのはいつからなのだろうか。
日本語で考える人間を日本人とすればそれは日本語の中に存在していただろうし、古い時代から日本語が相手との関係性が完成しないと言葉として成立しない点も影響があるだろう。関係性を重視するからこそ関係性が完成しないと言葉として成立しないようなことが起きるのだろう。敬語や丁寧語や尊敬語や謙譲語は相手との関係性が明確でないと正確な使い方は出来ない。
もしも本当にこのようなモデルが正しいなら逆に日本の文化の中にはそれを防御する構造があったはずである。山本七平はそれは「水」であって「その場の空気」に「水」を掛ける作用によって熱をさますことであり、この水に相当するものは現実認識や常識であると述べている。そういえば皆がB29の空襲でおびえているときに竹やりを使った軍事訓練を行っていて、そこで誰かが「竹やりでB29が落とせるのですか」と言ったら、言われた人間は言った人間を罵倒するしか仕方がないだろう。これは明らかにその場の空気に水を掛けて現実に戻す作用があったのだろう。
今回の一連の騒動でも同じことが言えるかもしれない。
今回の作る会の騒動でも興味深いのは「思想」と「仲間」の選択という側面があるのではないだろうか。思想家としての思想原理主義者と書いたら誤解を生じるが、A)思想の自由を掲げ和して同ぜずで思想を曲げることが大嫌いな西尾幹二とB)「仲間」(この場合は保守というくくりでくくられるグループ)との関係性を重視するグループとC)個人の欲望に負けたグループの一対二の争いだという風にも見える。Bのグループでは保守の人間が怪しげなことをしてもそれを隠すのが是とする判断になるのかな。保守の人間は正義でなければならないという建前があるから、「あら王様は裸じゃないか」といわれたら相手を罵倒するか、ないことにして隠すしか方法はないだろう。
おそらく「裸の王様」と同様に外国でもまわりの空気に阻害され合理的判断をしていないケースって幾らでもあるだろう。こういうことは別に戦後に始まったことじゃない。ただ日本の場合は重要度の判断や善悪の判断が狂っている場合と、欧米思想の異質文化の影響を受けて、思想が空回りしていて、すっかり水の効果がなくなったのじゃないだろうか。今回の作る会の騒動ではやはり善悪の判断がもともと狂っていたのじゃないかと思える人もいる。考えてみれば明治20年台ごろに完成した近代教育と称する知育中心教育でかつ集団で効率よく知識を与えてゆくという教育はその前の時代の寺子屋教育とはまったく逆であったようにも見えるが。
例えば開戦前の米国の評価である。当時の米国の評価は豊かであるが精神的に病に冒されている。近い将来米国は崩壊するだろうという空気があった。これは理解できるのであって、禁酒法で狂乱時代を向かい、SEXや欲望を是として精神の弱い唯物論文化のように当時の日本人には見えたのだろう。米国をなめたのは参謀本部の若手参謀だけじゃないだろうと思う。
日本の場合やっかいなのは一度空気が出来ると関係性が強すぎるために、それに引っ張られてますます空気の再生産がなされることだろう。ある一定方向へ一斉に走りだす。独逸がすごいという空気が出来上がれば一斉に親独に変化し、中国の大躍進を見てそのすごさに感じ入り、ほりえもんがすごいとなれば一斉にミニほりえもんが誕生する。
小人は養い難しという言葉が何となく理解できるし、どっかで西尾先生が言っていた一斉に海に飛び込むレミングの集団のようだ。
松井さん
あなたは vagabond は質問に答えていない、とか、独善とか非難される。
一例を出して私の考えを述べたい。
例えば、福地さんの論文に対し、私の
—-
イ:(日露戦争後日本軍が満州に)居座ったとしても、日本の主導で「門戸開放」すべきだったか、
ロ:独占すべきだったか、で見方が分かれる。
私はイ:門戸を開放し共存すべきだったと考える。しかし実際は独占的な居座りに決まった。
ここに「ボタンの掛け違い」がある。
福地さんは掛け間違えたボタンを前提に議論しており、エッセイとはいえ一方的な見解には
(「つくる会」の副会長としての発言としては)承服しかねる。( 2006年06月21日 16:57 )
—-
・・・との発言に対し、06月21日 21:27高木さんから
—-
vagabond さんの「ボタンのかけ違え」論ですが、そもそも二つの論のうち、
どうして片方が正しくて片方が間違っているのか説明がありません。
それぞれの論には背景があります。
簡単に片方の論を正しいように論ずるのは、福田(福地)さんを攻撃する
結論が先にありきの印象があって、おだやかではありません。
—-
という質問をいただいた。
これに答えてはいないが、それは答えようがないからである。
私はいわゆる「支那事変」は間違いだったという見解を持っている。(後述)
その間違いの根本原因は「ボタンの掛け違いにある」と言ったのであって、
質問のように【片方が正しくて片方が間違っている】とは云っていないのである。
なお、あなたは空気がどうのこうの書かれた上で、そういうことでなければ、
①議論の主題がずれてゆく。最後まで目的が明確でない。
②絶対的な確信に裏付けられている。無謬性の確信であるのかもしれない。
③普遍的な話と個人の意見が混乱している。
④裏づけがほとんどない。
⑤わかりやすいが根がない。
の説明がつきません。
と言っているが、もっと分かるように説明していただきたいものだ。
\\\\\\\\\
支那事変が間違いである、という考えの中心は「支那事変の目的=(日本としての)大義」は
何だったのか、についての答えがないことである。
要するに(日本は)何をしたかったのか、当時はもちろん今に至るも納得できる答えはない。
福地さんの論文を読んでもいっこうに分からない。
松井さん、
あなたの08/07 22:01 の書き込みに
【日本社会は唯物論や数量化性向や個人主義とはまったく異質な世界です。
山や川だけでなく自然全体やそこに流れるすべてについて霊を感じる社会です。
・・・・近代化された国家で日本だけ犯罪がないのも特徴的なんでしょう。】
というのがあります。
この部分はあなたが、5つ挙げた特徴の中で、
②絶対的な確信に裏付けられている。無謬性の確信であるのかもしれない。
④裏づけがほとんどない。
⑤わかりやすいが根がない。
にぴったりではないですか。
個人主義とは全く異質だとか、日本に犯罪がないなんて、お笑い種です。
「狂気の首相」などという言葉を平気で使う人はどんな「霊」を持って(感じて)いるのでしょう。
また「霧」がかかっているようですが、きわめて直截的な言葉であり、
むしろ霧がかかっているのは別のところじゃないでしょうか。
—-
【場違いや場を心得ないとかいう言葉は場がまるで物理的に存在するように捉えられて
合理的な判断を阻害することをいうのでしょう。
・・・それは基本的に日本人社会が相互に助け合った人間関係を持っているからでしょう】
「つくる会」の内紛でやり取りされる言葉のどこに【相互に助け合った人間関係】
を感じることが出来るのでしょうか。
【さてvagabondさんの場合も世論の空気を読むことでそれをまるで神を見る如く把握しているのでしょう。】
申し訳ないが、私は「世論」に「神」なんか感じません。
むしろあなたが、西尾さんなどの言葉に「神」を感じているのではありませんか。
–
また、08/09 17:52 の書き込みに、
【日本の場合やっかいなのは一度空気が出来ると関係性が強すぎるために、
それに引っ張られてますます空気の再生産がなされることだろう。ある一定方向へ一斉に走りだす。
・・・小人は養い難しという言葉が何となく理解できるし、どっかで西尾先生が言っていた
一斉に海に飛び込むレミングの集団のようだ。】
というのがあります。
そのとおりです。
だからこそ、大東亜戦争肯定論や極東軍事裁判否定論が出ると、
一斉に走る人々が現れるのでしょう。
私について余りエエ加減なことを書かれると、天に唾することになりかねませんよ。
vagabond様
あなたの投稿に関連した投稿を、最新のエントリー(10日付)にしておきました。
vagabond様
失礼しまsた。9日付でした。
Vagabondさん私は理由のないことは書きません。
反論するのなら根拠を書いてください。
少なくともどの項目見ても私は書いていない部分が書いた部分の十倍以上あります。貴方のように無根拠で印象による断定なんかしません。
また後で書きますが、私は常にモデルを掲示して書いています。批判するならそのモデルの批判を行ってください。
話が拡散するのがいやですからリニヤの話題に戻りますが、私は何か議論をするとき必ず自分で立てたモデルを使って考えてゆきます。そしてそのモデルまたは仮説でもいいですが、を現実に当てはめて整合性が取れているかを考えます。そして多くのモデルが廃棄されます。貴方の議論「満州で日本人が欲をかき過ぎたから」でも結局何か根拠があったのですか。日本社会に伝統的に存在する欲の抑制の存在を私は否定しませんが、それがどうして国際社会に通用するのでしょう。これも結局返事はありませんでした。
今回のリニヤの件でも背景に中国との競争があって出てきた話題ですから、まず私は共通の土俵を作ろうとしました。そこで中国に対する認識を合わせようとしたわけです。それに対する反応はありませんでしたね。
そして自分の社会人としての経験から技術開発のモデルを次のように考えています。
技術研究というプロセスから見ると、<探索研究→新技術の発見>→<応用研究>→<商品の製造>→<市場での摘要と評価プロセス>という非常に大雑把な分類ですが、まあ今回の話の目的からはこれでいいでしょう。
<探索研究→新技術の発見>は<発明>とでもいう部分でしょうし、<応用研究>とは商品化技術とでもいうものです。そしてこれは両方とも重要です。
なお実際にはこうでない場合もあります。市場のニードを発見してそれを商品化する場合や組織や仕組みを変更することなども大きな発明(イノベーション)です。これはインターネット技術の応用なんかを見ればよくわかります。
さて日本が強いのはどこかというとそれは明らかに応用研究(商品化技術)と市場の声を素直に聞く点でしょうか。これも根拠のないことでなく米国商務省のデータからの評価ですが。
米国商務省の評価では、先端複合材、メモリー、MPU、半導体レザー、光ファイバー、液晶、半導体検査装置、マルチメディア機器、ロボット、デジタル時計、自動焦点カメラ、ファジー応用、NC制御工作機、ABS、品質管理技術などは米国より日本が有利な商品化技術を持っていると書かれています。一方で先端通信機器、スパコン、CAD、ロケット、軍事用レーダー、民間ジェット、ジェットエンジン、医薬品、バイオ技術、分子制御技術などは商品化技術で米国が圧倒的に優位という評価です。これらの殆どの基礎技術は欧州か米国が開発したものです。それと特許研究でも日本は世界に冠たるものですが、それも主として商品化研究で生まれたものです。
米国が中国でやっているのは<探索研究→新技術の発見>→<応用研究>→<商品の製造>→<市場での評価プロセス>のうち川上の<探索研究→新技術の発見>と川下の<市場への摘要と評価プロセス>をやって儲けているわけです。
さて日本が応用研究に強いのは日本人が意図的にやったことでなく日本の会社の特殊性から生じた面もあります。それはトップの指示により全体最適化で進むのでなく部分最適化の累積が全体最適になるような結果を生む仕組みをいいます。
①日本の会社では社員の役割を曖昧にしておく
②部門ごとに役割が重なるようになっている
これは無駄といえば無駄ですが、二重にチェックされますから効率は悪いですが、間違いが少なくなります。
③役割や目的は指示されるものでなく自分で発見することを期待されている
見たことはないですかね、「言われた通りやります」と部下が言い出したら、「それならお前は俺が死ねといったら死ぬのか」と上司が非難していることを。日本では役割は社員個人が自分で探すものなんですね。それは自発的に発見した役割や目的意識なら自分の身から出たものですから応用が利くからです。それが理解できない若い社員が確かに多くなりました。
④仕事と自己の一体化
今回のテーマではこれが一番大事な点で自分がつくるものはその社員にとっては自己表現そのものなのです。自己と製品が一体化するわけです。そうするとその製品に関して徹底的な部分最適化改良が無限に続きます。わずかな差が日常の仕事に影響しますから、この僅かな差の製品改良の積み上げは結果的に日本の製品の品質評価につながってゆきます。戦後は日本は価格競争をしているといわれていますが実際は製品の改良競争をしているわけです。
従って現在までのところでは世界第二位の経済大国でありながら、原理型発明発見が少ないという結果を生んでいます。しかし創造性は自分に関心がある部分に生じますから、関心が商品化の方向へ向きやすい環境にありますからこれはこれで仕方がないことです。
さて創造性はどういう条件で発揮されるでしょう。
簡単に述べればそれは関心や興味のない所には発揮しません。次に出来るか出来ないかわからないからこそ創造性は発揮されます。そして努力が蓄積することも創造性発揮には大事なことです。
そして考えてみると、vagabondさんの論説に見られるリニヤについても実は経済性云々を言い出すと論理的な矛盾に衝突します。なぜかというとこういう新規技術はどのように使われるかわからないわけです。日本が持っている商品化各種技術でも何かありそうだから面白いのであってそれは上に書いた創造性発揮の条件から考えた結論です。どのような飯の種があるかどうかわからないからこそ技術の競争力になり、ハイリスクハイリタンの効果があるわけです。経済性とはデジタル的に数量化できるから考えられる概念であって、どうなるかわからんものは経済性云々の以前の話です。
どうしてこれで西尾先生がリニヤという技術を提言したのに経済が弱いという判断になるのでしょう。質の違うものを同一基準で評価するというのは少なくとも私には出来ません。
数量化できる範囲で技術的に見ると線路との摩擦で動いていた鉄道が新幹線では全車両に動力車をつけて300キロの高速化を達成しました。そしてリニヤはさらにこの摩擦とは違った手段で500キロを達成しようとしています。大量高速運送手段としてのリニヤ技術を使えば航空機を使うより大量の輸送が出来るわけです。東京―大阪間は飛行機で1時間弱ですが、空港まで行く時間や途中の乗り換えや乗車までの時間や乗車後の時間などを考えると、もしかすると実質レベルでももっと短く東京ー大阪間が移動できるわけです。東海道新幹線が老朽化していますからそういう点からだけ見てもリニヤを無駄だという判断にはならないでしょう。
連休の間はシステムの入れ替えで返事が出来るかどうかわかりませんが。
松井課長さん
いやー、08月11日 16:22のコメントには敬服しました。ちょっと長いのは閉口しますが、さすが専門分野の経験と知識に裏打ちされた論旨の展開は、別人の如く、毅然さに溢れていたように感じました。日本人や日本社会の、研究や組織のありようについては、私もぜひ参考にさせていただいき、どこかで使いたいと思いますのでお許し下さい。
こうした論理でリニアモーターの意義を説かれれば、ここの部分は、さすがのvagabondさんも同意せざるを得ないんではないでしょうか。
松井さん、
私が答えていない部分があると非難されますが、それはコメントが長くて、
しかも複雑で単純な私には理解できなかったせいです。
私に出来ないことで非難されるのは納得できません。
あなたの(私に対する)質問(反論)をもう一度,
簡潔に、まとめてくれませんか。
08/11 16:22 の書込みで次のことがわかったようです。
–
1.満州で欲を出しすぎた、ということの「根拠」、
それに「欲の抑制は日本だけに通用することで国際社会に通用するのか」
—
たしかに無視しました。
これは揚げ足取りだと感じたからです。
日露戦争後(日露関係が改善したのに対し)日米関係が悪化した、
それは満州で日本がアメリカと協調しなかったためだ、ということを「欲の出しすぎ」
と言ったのです。
日米関係はその後も良くならず、途中で修正もせず、結局真珠湾攻撃に至ったのです。
いいですか、途中での修正(方針の変更)はたいへん有効です。
極端な話、ハル・ノートでさえ検討すべきだったという意見もあるのです。
その後誰かが(歴史の if に関して)、「アメリカと協調していても、結局問題解決にはならない」
というようなことを書いていましたが、これは判らないでしょう。
これまた引用文で「日本は近くの大陸に進出した、なぜアメリカは遠い中国に手を出すの?」
というのがありましたが、日本の本音でしょうか・・・。
–
2.リニア新幹線について「中国に対する認識を合わせようとした」
–
云われる趣旨がわかりませんが、例えば、
「リニア新幹線は、対中国軍事戦略上必要不可欠である」
ということでしょうか。
それなら、それをあなたが証明すればよいわけです。
「証明」というのはたいへんですよ。
私の要求する証明の要件を満たしていない限り考慮の余地はありません。
繰り返します。
あなたの反論を簡潔に書いてください。
長い文章なら、その部分は読みませんので、要約をお願いします。
「・・・要するに、○○である」・・と。
そこについてだけお答えします。
面白い人だな。目的や論証したいことがどんどんずれていますね。長文の文章を読めないのじゃないかと思っていましたが、やはりそうなんでしょうね。
でもさて困ったな。簡素に書いたことが正しいと思っているのかな。実際に古典といわれた儒教の体系なんか膨大で簡素ではないですが。それなら一つだけお聞きしましょう。揚げ足取りという断定をしているわけですが、どうしてその様な判断をなさったのでしょう。これはご自分の判断されたことですから、貴方にしか答えられません。私は必ず判断に理由をつけて書いています。せめてそれぐらいしてください。
ついでに「大東亜戦争肯定論」についての私見を書いてみましょうか。
実際にはこの本は一時的な大きな反響を呼びましたが、貴方にとっては残念ですがvagabondさんがいうような一斉にレミングが突撃するような反響は得ていません。私はその理由を説明できますがどうせ説明しても無駄でしょう。簡単にいえば簡単にわかろうとするには文章が長すぎるのと、当時の時代の空気に合わなかったからですけどね。
新幹線は当時は万里の長城や戦艦大和と比較できる無用の長物であったという評価は新幹線開業当時(昭和39年に東海道新幹線開業)に新聞などに書かれた事実ですが、貴方はそれを知らないということは、今のテーマである「大東亜戦争肯定論」が出版された時期(確か昭和39年ごろではなかったでしょうか)の時代の空気を知らないと判断せざるを得ません。だから妙なことを言い出すのです。でも当時は圧倒的にマルクス主義史観が強くてそんなものを読むものじゃないという空気が大きかったように思いますね。こんなものは当時の新聞を図書館で見ればすぐわかります。
おそらく大東亜戦争には色々な側面があるのでしょう。その側面の一部だけをとり取れば「大東亜戦争肯定論」出版後でてきた色々な批評の中に「これは大東亜戦争美化論じゃないか」というものもあってもおかしくはないし、そういう空気が確かにありました。そりゃそうでしょう。肯定は全面に肯定していれば美化論になりうるからです。しかし社会の実相は常に黒とも白ともつかないグレーゾーンから成立しています。こういう状態では善悪二元論的な話はわかりやすいですが、実相を示しているわけじゃありません。大東亜戦争肯定論が全面肯定ではないという証拠は目次を見ればわかります。
目次を引用すると次のようです。
東亜百年戦争―約一世紀つづいた「一つの長い戦争」
薩英戦争と馬関戦争―予想を越えた日本の抵抗力
明治維新と英仏謀略戦―坂本竜馬スパイ説
征韓論―抑えられた出撃論
武装せる天皇制―未解決の宿題
日清戦争と三国干渉―「日本の悲壮な運命」
日露戦争の推進者―日本の「右翼」の源流
右翼とファッシズム―日本にはファッシズムはなかった
ホーマー・リー氏の日米必戦論―日米戦争開始期についての一つの傍証
朝鮮併合―ナショナリズムには牙がある
条約改正―日本は56年間不平等条約の下に苦しんだ
昭和動乱の思想的背景―大川周一と北一輝
満州事変の序曲―張作霖爆殺事件
内政派と外政派―外政派の爆発としての柳条溝謀略
日中戦争への発展―「東亜連盟」の理想と現実
昭和維新―間に合わなかった「敵前作業」
大東亜戦争開戦―破れて悔いなき戦争
ナショナリズムには牙がある―ネールの警告
日本・アジア・世界―未来へのかすかな見通し
今の歴史学から見れば不満な点はあるでしょう。
しかし私はいまでも筆者の歴史的必然とでもいう考え方に興味を惹かれます。もともと林房雄は元マルクス主義者で当時はそこで歴史的必然という考え方を学んだのじゃないかと考えたものでした。次の時代の方向を決めた原因は前の時代に存在していたという論調が林房雄の論調にはあって、それを丁寧に指摘しているからです。内包的矛盾が存在してそれによってある意味で必然的に歴史は作られてゆくという歴史観とでもいうのでしょうか。
私がこの本を読んでいて思い出したのは江戸時代に作られた朱子学の日本的理解による武士の教育によって尊王の心が豪農や豪商までに普及して、結局江戸幕府は錦の御旗に抵抗できなかったというこれも江戸時代崩壊の説明を行うための歴史観の一つでした。江戸時代を破壊した種は江戸幕府というか鎌倉幕府を継承した建前の徳川幕府の中に存在したわけです。
「次の時代の方向を決めた原因は前の時代に存在していて内包的矛盾が存在してそれによってある意味で必然的に歴史は作られてゆくという歴史観」を述べるのに武家の思想を中心に述べれば林房雄の論調は「とんでも説」や「美化論」であると単純に断定できない部分があります。また一方でこういう歴史観の考え方を使って林房雄とは違った歴史観を作ることも出来るでしょう。
原因はすでに歴史の中に内包されているという考え方が存在し、一方で西洋の歴史を批判的に見る立場で考えれば色々な歴史本が存在します。「米国の鏡日本」では日本が欧米の宗教に端を発する原理主義と弱肉強食の列強意識を持つ方向へ進んだのだから、日本を欧米は非難することは出来ないという論調でした。確かにGHQに発禁されるだけの内容はありました。この本の疑問は日本人の行動様式が欧米型に変化したという前提がないと理解しにくい点です。それほど簡単に日本人が欧米型の行動様式に変化したとも思えませんから変化したとするとそれは仮衣を着た程度の変化で、敗戦でその仮衣が脱げてしまったという考え方も出来ます。
最近でも「奢れる白人と闘うための日本近代史」でも日本人の庶民を含めた江戸社会が作り上げた行動様式と欧米の行動様式の差に焦点を当てて、日本の近代史を評価するという論調の話が出版されています。日本人は近代化=西洋化の掛け声で、またこの掛け声に対する批判はありましたが、その多くは近代化を阻止する旧弊な人間として罵倒されて沈黙させられましたが、西洋の個人主義を普遍的真理とは見ていませんし、人格主義や人間関係を重視する点やそれを律する倫理を重視している(法より実質的に日本人を規制しているのはこの倫理なのでしょう)点も、階級差が少ない点を見ても西洋化とは異質なものが存在しているように思えてなりません。私が林房雄の論調で弱いのじゃないかと考えているのは人口の8%程度の武士の思想を中心とした考え方で残りの農民や職人や町人の行動様式を軽視していいのだろうかという疑問です。
松井さん、
よく分からないですね。
あまり不毛な議論はしたくありません。
質問だけにします。
あなたの08月12日 22:56 の書込みは、私の8月12日 21:44 に対するお答えですか?
田舎のダンディーさん>
感じることがあったことをうれしく思います。
しつこく私が食い下がっているのはどうしてGHQの7年間程度の洗脳によって日本人は変化したように見えるのだろうか、洗脳を受けるのでもその理由があるはずだ、そしてその理由は日本人のい中にあるはずだという問題意識があるからです。vagabondさんの論調はその実証にいい題材だと思ったという面もあります。
また私が書いていることはある意味で小泉改革へのアンチテーゼでもあるのです。改革とは常に温故知新でなければ拒否されるとでもいうのでしょうか。欧米の経営手法を導入して幾多の会社が失敗をしてきました。その理由を書いているともいえます。これもvagabondさんが小泉マンセー(というか時代の空気マンセーに近いかな)であるから書いているわけですが。
主題である<④仕事と自己の一体化>でも書こうとしたことはまだまだあります。しかし長文は読みにくいという反響があったので小泉改革へのアンチテーゼの部分はほとんど削除しています。
以下は<④仕事と自己の一体化>で削除した部分です。
終身雇用制度とか年功序列とか古臭い制度だと拒否される場合が多いですが、しかし少し考えてみるとそれなりの理由があって存在しているわけです。
私が大手商社に入った友人を見ていて思ったのは、彼は利益を得るのを目的で働いていないな、そうじゃなくてまるで経営者の立場、すなわち商社の社会資本としての役割発揮、すなわち流通に寄与することで自分の存在を社会的な存在に昇華させているという印象でした。これも明らかに自己と仕事の一体化ですが、自己の利益のためだけじゃない点が日本人らしいと思ったものです。こういう伝統がある社会ですからホリエモンや村上ファンドの行動が批判されるのは当然です。
こういう組織では役割が自己の精神と一体化していますから、組織変更や改革と称する思いつきに対して強い抵抗感があります。昔の笑い話ですが、組織変更があってその組織の機能がどこへ移ったかを調べるのに一番簡単な方法はその組織の実力課長か実力係長の移動先を調べることだったんですね。結局個別の組織で見れば実態は何ひとつ変化はなかったわけで、まるで経営者のマスターベーションのような印象を受けたものです。
そして近年で思い出すのが富士通の目標管理制度の大失敗でした。目標管理制度は数値化できる目標を申告させて全体の目標と一致させるという組織運用の方法ですが、数値化させたものが会社の実態と乖離していたために会社の社員の意識そのものを破壊してしまったのです。社員は数値化できない部分で、いわば質の向上で会社に寄与していたのが数値化できる空虚な数値目標で動けと指示されたら会社を実質動かしている幹部社員の意識は落ちます。また組織で動きますから、誰もやらないが必要なことをやっていた人間が存在します。ところが目標管理制度ではこういうものは数値化しにくいですし、誰か手の空いている人間が手助けするというパターンではありませんから、つい仕事の質が落ちます。営業では実質実力のある営業は初めから手持ちの隠し玉を持って目標管理制度に対応しますから大きな影響はないでしょうけど、大事なこれから成長させなければいけない若手営業にはそんなことは個人では出来る実力はありません。あれやこれやで現在は知りませんが富士通は目標管理制度導入とほぼ同時に異常なくらいに業績が降下しました。
vagabondさん>
貴方が長文でわからないと苦労している文章でも何名かは理解しているようですよ。例えばソルベさんなんかはきっちり私の趣旨を読解しています。
再度確認しておきましょう。vagabondさんは次のようにお書きです。
>08/11 16:22 の書込みで次のことがわかったようです。
>–
>1.満州で欲を出しすぎた、ということの「根拠」、
>それに「欲の抑制は日本だけに通用することで国際社会に通用するのか」
>–
>たしかに無視しました。
>これは揚げ足取りだと感じたからです。
そして私はどうして「揚げ足取りだと感じたのか」の理由を教えてほしいと書きました。揚げ足取りと感じる理由は幾つかあるでしょう。
①自分が議論したいのは違うことなのに別の主題に持ってこようとしていると判断。したがってこの議論は揚げ足取りであると判断した。
②「欲の抑制」は当然のことであって言うまでもないことである。従ってこの議論は揚げ足取りであると判断した。
③「欲を出しすぎた」という意味はある基準に従って「欲を出しすぎた」のだからその基準を指摘されると自分には明確な基準が存在しない。従ってその点を指摘されると議論の主軸が崩れてしまうからそこで無視しておくのが適切だという判断があった。後で問われて揚げ足取りだと感じたと返事をした。
①は当方の立証したい目的を貴方が理解していない場合です。
②は日本の文化伝統に流れる欲の抑制文化を世界共通に普遍的に正しいとしてみれば説明するまでもないことです。実際には普遍性はないというのが私の趣旨です。
③は書いたとおりです。
まあ他人の心は推し量れませんから表層に現れたものから判断せざるを得ないのですが、私はいままでの私の論旨から実際には貴方の場合は①か②ではないかと考えています。おそらく②でしょう。
現時点では返事がないので、私がなぜそんなことを書いたのか、逆に言うと揚げ足取りでなかった理由を述べましょう。
さてvagabondさんの投稿は実に面白い特徴がもう一つあります。文化的に如何にも日本人が考えそうなことを書いているという点です。欲に駆られたというのも日本人では自明なことで証明が必要なことではないのでしょう。だから揚げ足取りと受け取ったという意味です。実にわかりやすい論旨ですがわかりやすいことが正しいかどうかは別の話です。わかりやすい話を書くのは日本では容易です。時代の空気に従って書けばいいだけの話だからです。わかりやすいから論理を使いますが、実は形式論理で記述されたコンピュータプログラムの論理なんか何十万ステップにもなりますからわかりやすくはないですね。
「大東亜戦争の前に中国に日本は欲をかきすぎた」とでもいう論旨のものを実は私も20年以上も前に気付いたことがあります。しかしその後の検討で、「欲をかきすぎた」というのは敗戦の結果から出てきた何かに精神的に自己満足するための結論であったと考察しました。どうしてそれに気付いたかというと日本の文化の中にある私欲の抑制という行動様式がやはり私にも存在していて、それと敗戦の結果が結びついてそういう発想になったというのが当時の私の結論です。
近代国家といわれた西洋の国々の「欲深さ」は東洋は遅れた文明でありかつ基督教を信仰しない異教徒であるから神の恩寵を受けるはずのない民族である。その人間でない民族には何をしても許されるとでもいうこじつけの理由で植民地化がされ、ペルシャの絨緞職人が英国の織物産業の保護のために利き腕を切断されるようなことがなされました。国益のためには何でもするというのが当時の世界の風潮であり、現在でも中国や米国は覇権国家ですから同じ行動様式を持っているのでしょう。日露戦争に勝利して初めて日本は普通の西洋国家=覇権国家と同じだとみなされたわけです。そしてやっと不平等条約の解消をすることが出来ました。これはむしろ「欲深い」が列強の当時の普遍的な真理でもあったことを示しています。
「欲をかきすぎた」という証拠も貴方からは出てきませんでしたが、きっとあるでしょう。
私ならば仮に当時の指導層が欲にかられたその原因を大正時代の軍縮を背景にした軍人蔑視の時代にあると考えるでしょう。社会的な蔑視により抑制が取れてしまったとでもいうのでしょうか。
神童と呼ばれ村で一番優秀な子どもが郷里の名誉を背負って幼年学校へ入学したわけです。将校になって軍営内では天皇の幕僚であると褒め称えられ、服を着るのでさえ自分より何歳も上の当番兵がついて補助してくれる身分であったわけです。世間的に見ると結婚相手さえいないし、軍縮で退役した佐官クラス(連隊長から大隊長クラスの将校)が保険の外交をやっているのですから。
その格差に世の中が狂っていると考える若手将校が出てきたっておかしくはありません。実際に戦争になれば階級が上になればなるほど給与があがり、戦時加給もあり、名誉に従って恩給も増えますから。大きな損害が出ないなら積極的に軍事行動をやめようとしない将校出てきたかもしれません。
これは現代の官僚制度の下でもそうで、官僚が法律を作るのと同期をあわせて退職したエリート国家公務員を受け入れる受け皿企業が出来がっているような面で生きていると思っています。
でも仮にそうであって、日本がそれに気づいても日本を邪魔な存在として日露戦争後に仮想敵国とみなした民主主義国家であっても覇権国家であり、かつ国益というもっと公的な欲を何より尊ぶ歴史を持った米国が日本をそのまま放置するわけがないだろうと私は考えたからです。日本の侵略性によって指導者を裁くことは国際法的には出来ませんし、仮にです、仮に日本に侵略性があったとしても大東亜戦争の主軸は米国という覇権国家と日本という覇権国家の争いが主軸に行われていますからどっちもどっちなわけです。
さらに述べると「もともと大日本帝国には侵略性があって、その欲望に負けて敗戦の憂き目を見た」というのが東京裁判の結論から得られる東京裁判後に普及した一つの考え方ですが、これも戦後生まれの日本人の多くに受け入れられたのはもともと日本人には貴方と同様の欲の抑制文化があって侵略性があったかなかったとは関係なくそれを種にして事実として受け入れてしまったのだと私は考えています。これらの判断を見て私は貴方の論は空気に従って書かれていると述べているわけです。
空気の種は日本文化を基礎にして違った文化を見る習慣にもあったわけです。
このようなクセはいつから始まったのでしょう。自分の文化を疑わずその文化の中で創った価値観や考え方や行動様式に従って相手を推測するクセは。少なくとも戦前でも米国は何時か崩壊する国家である。それはその唯物論文化と弱体の精神文化に内包されているからであるという論調が一般的でした。しかし残念ながら崩壊したのは大日本帝国でした。
vagabondさんの投稿に私だけじゃない何名かの人が無謬性への確信があることを感じた根拠を書いておきましょう。
創造や発見のプロセスを考えてみてもわかります。初めはモヤモヤした問題意識があって、それにあるきっかけがあって一瞬に答えが見えてくるような経験はないでしょうか。だれだったか塩の結晶化現象を比喩にして説明した論説があります。塩を水に溶かして過飽和溶液を作ります。そこに異物を一つ入れるとコップの中で一瞬に塩が結晶するのが見えます。これと同じことが人間の頭の中で起きるわけです。種や刺激がないとこの結晶化現象は起こりませんし、創造性でもモヤモヤした問題意識があふれるほどにならないと結晶化は起こりません。創造性では結晶化とは仮説を言葉にするという意味になります。そうしたパターンで発見した「事実」は自発的に発見したものですから強く確信に貫かれます。私が貴方の論に無謬性を感じる理由の一つはそこにあります。しかしそれは時代の空気を吸って出来たものですから時代の空気が変われば再び変化するでしょう。
繰り返しますがvagabondさんは日本文化の中でもともとある私欲の抑制を発見したわけです。それにしたがってものを考えていたら貴方の結論はおかしくはありません。しかしその結論で米国の侵略性や覇権国家としての性格が変化するわけじゃないから、問題の解決にはなりえません。これも書くのは三回目ですかね。
Vagabondさん
【私は歴史や財政については素人であり、発言に自信などありません。しかしその私でも分かることには強い言葉で応対します。】
あなたのお言葉です。
西尾先生や福地先生はプロです。
ご自分の論説で御飯を食べておられる方です。
お名前を世の中にちゃんと出してご自分の本や仕事に責任をもっておられます。
プロと素人の違いはそのことに掛ける時間の量が違います。資料となる物に掛ける費用も莫大でしょう。「つくる会」に係わっておられる先生方はまず、なんと言っても日本国を愛する心が元になっている。
愛する日本国のために知りたいことがたくさんあるのです。
西尾先生がいま取り組んでおられる焚書本、【「GHQ焚書本」で新しい歴史の端緒が開かれる】にしましても西尾先生ならこの仕事をやってくれるという強い確信を、それを収集しておられる方が、持たれたから、先生にお話が行ったのでしょう。その道で御飯を食べると言うことは凄いことです。まして「思想」で・・・。
西尾先生の現在は、私達に想像もつかない研究の質(深さ)と時間(量)、そして国を愛する心がベースだと思います。
それを Vagabondさんは乗り越えられるのですか?
【私は素人であり、発言に自信などありません。しかしその私でも分かることには強い言葉で応対します。】と言われました。
ならば、「西尾氏の福地氏の支那事変説に異議あり」や「リニアモーターの実現に異議あり」の論説をお書きになり、貴方のお考えを述べられればいいのではないでしょうか。そうなって初めて【同じテーブル上】での議論ができるのではないでしょうか?
計算課長の松井さんが素晴らしい論説を書かれました。「社会の実相は常に黒とも白ともつかないグレイゾーンから成り立っている・・・」「リニアカーの意義」など。
萎縮している日本人に「リニアモーターカーの実現」は、夢(好きな言葉ですが、最近は何かをごまかす為に?)・・・なんていうふにゃふにゃな言葉でなく、それこそ日本人ここにありという「気概」を取り戻してくれるでしょう。課長さんが貴方に対して、沢山の時間を掛け論説をお書きななったように貴方も時間を掛けて貴方の論説を書いて示してください。
【歴史を裁く愚かさ】のあとがき(PHP文庫 289ページ)より
「歴史は、過去の事実を知ることではない。事実について、過去の人がどう考えていたかを知ることである。過去の事実を直(じか)に知ることはできない。われわれは過去に関して間接的情報以外のいかなる知識も得られない。
間接的情報を組み立てて直接的事実に近づくのは、われわれの側の意思的作業である。できるかぎり過去の人の身になってみる想像力と、われわれが見えない未来を今どう見て生きようかという切なる祈願と――この相矛盾する二つのものの相克が、歴史である。
ところが、どういうわけか、現代の知識人は過去の事実を正確に把握できると信じている。事実が歴史だと思い込んでいる。そして、その事実について過去の人がどう考えていたかは捨象して、自分が事実と勝手にきめこんだ事実を以て、現在の自らに必要な欲求を満たす。
それは事実の架空化による事実への侵害である。」と西尾先生は言っておられます。
松井さん、
「欲」について哲学(テチガク)的考察をされていますが、なぜそんなに難しく考えるのかが理解できません。
「欲」は相対的な概念です。
満州における利権を日米で取り合ったら、独占しようというのは「欲張り」です。
そのような態度を揚げ足取りと云ったのです。
ソルベさん
要するにあなたは「プロの物書きにモノ申すなんて分を弁えないことをするな」
と云いたいのでしょうか。
このブログは西尾さんという「巨人」の言われることを謹んで拝聴する
ことが主な目的なのでしょうか。私にはそう読み取れます・・・僻みですかね?
管理人さんに聞くのは気の毒ですか・・・?
—
もう一つ、
私の「垂訓」していただくのは結構なのですが、その(引用文の)中に、
反論できる材料を入れるなんて・・・もっとよく考えて相応しい引用文を探してください。
で・・『歴史を裁く愚かさ』という本の引用ですが、
【現代の知識人は過去の事実を正確に把握できると信じている。事実が歴史だと思い込んでいる。】
西尾さんはそれこそ「・・・だと信じていると、信じている」
(はじめの信じているの主語は知識人、あとの信じている
の主語は西尾さん)のでしょう。
通常、現段階で「事実だと信じていること」を「真実だ」というわけです。
しかし別の新たな証拠や考え方が出てくれば、当然修正されます。
考古学の知識がしょっちゅう書き換わっていることはご存知でしょう。
また、例えば聖徳太子の肖像画について現在は間違いだとされています。
私のやる学問なんてチャチなものですが、それでも学問は固定的でないことぐらい分かります。
私に垂訓するのなら、もう少しマシな(反論の余地のない)文章を提示することをお勧めします。
Vagabondさん
【プロの物書きにもの申すなんて分を弁えないことをするなと言うことですか】はあなたのお言葉。
私のコメント文をよくお読みください。
あなたの論説を読みたいと書いたのですが・・・
プロの先生にたいして、「私は歴史や財政については素人であり、発言に自信などありません。しかしその私でも分かることには強い言葉で応対します。」と書いておられたのをお読みし、ならば「支那事変」の、「リニア」の論説を書いて示してくださいと書きました。素人は素人なりに、今日まで学ばれたご自分の知識の範囲で・・・。
「どうして私はそれに異議ありというのか」の論説はあってしかるべきではないでしょうか。
私の場合は西尾先生のブログを謹んで拝聴させて頂いています。
若いときに勉強しなかった反動でしょうか、このブログは私にとっては宝の山です。私には知りたいことが沢山あります。
西尾先生には、欧をよくご存知ゆえか、はっと冷たいものを感じる時があります。瞬間ですが・・・。その分本物だ!と感じている次第です。(僭越ですが・・・)
永吉さん
「西尾信者・・・云々・・・カルト信者そのもの」と書いておられますが、先生は強制的に本を買えとは言っておられませんよ。これは貴方の同性に対するジェラシーに聞こえますよ。
私に言って下されればよかったのに・・・。喜んでお受けしましたよ。(除くカルト信者)
「西尾信者・・・云々・・・カルト信者そのもの」は、使う側は軽蔑的な蜂の一刺しの意で溜飲を下げておられるのでしょうが、みっともない言葉です。若者に真似させたくない言葉です。
【立派な人がいてその人にあこがれる。】もろもろのモチベーションの元です。
人を大好きになることを揶揄することは生きることの基本をからかっていることです。
いま、日本の若者が恋愛をするに臆病なのは大人の責任のように思えてなりません。
大人の側に、人を好きになることに対しての素直さ、が欠けているように感じます。若者は大人のコピーです。
西郷隆盛にあこがれた(敬愛した)若者は沢山いました。その西郷隆盛は若者を愛し育てました。
村田新八 桐野利秋 別府晋介 増田宗太郎
「私は城山にきてはじめて西郷先生に接し、それ以来敬慕の情を禁じ得ないのだ。一日先生に接すれば一日の愛があり、十日接すれば十日の愛がある。だから先生の許を去るに忍びない。先生と死生を同じゅうするほかないのだ」
立派な大人がいて立派な若者が続くのです。
たった一回の人生しか持ち合わせません。立派な人、好きな人 を心に感じないそんな寂しい人生より、堂々と「好きです」とその人を敬愛して止まない人生を若者に見せましょう。
もっともっとダイナミックに!
ソルベさん
【あなたの論説を読みたいと書いたのですが・・・】
ということですが、どうも理解できません。
素人だから「リニア新幹線はカネの無駄遣い」と簡単に述べたのであって、
長い論文を書かなければ反論する資格はないと云われるのであれば、
私の書込みに対しはじめから無視すればいいじゃないですか。
「支那事変」についても、支那事変に対する日本の「大義」が説明されていない、
ということで何が不足するのですか。
なお、支那事変に関する私の意見は私のHPにいくつか書いているつもりです。
よろしければ読んでください。
—-
永吉さんに対して、
【「西尾信者・・・云々・・・カルト信者そのもの」は、
使う側は軽蔑的な蜂の一刺しの意で溜飲を下げておられるのでしょうが、みっともない言葉です。】
と言うのはそれこそみっともないですね。
永吉さんは軽く皮肉っただけです。
溜飲を下げているなんて、全く感じません。
あなたのような「過剰反応」が・・長谷川さんには申し訳ありませんが・・
「信者」などという言葉に「むべなるかな」と思わせるのです。
永吉さん、「信者」とか、「カルト」とか刺激的な言葉は避けましょう。
同じ内容を別の言葉で、やわらかく表現しなければなりませんね。