入学試験問題と私(七)

 今までここに提示したのはすべて現代国語の入試問題であったが、以下は法学の試験問題である。

 平成15年のある日、独立行政法人大学入試センター理事長の丸山工作氏の名において次のような文面とプリントが届いた。

 謹啓、時下、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。さて、当センターでは、平成十五年八月三十一日に、平成十五年度法科大学院適性試験を実施いたしましたが、同封いたしました同試験の試験問題に、貴著『ヨーロッパの個人主義』の一部を著作権法第三十六条により使用させていただきました。ここに厚く御礼申し上げます。(中略)      

敬具

独立行政法人大学入試センター理事長

丸山工作

 いかにもものものしい言いようの挨拶文で、こんな例は他にないので、印象に残っている。

 丸山氏は世界的に名高い生物学者で、今は鬼籍に入られたが、私は一度だけお目にかかったことがある。私のドイツ文学の友人の兄上であったからである。勿論これは関係のない話題であるが。

 誰の目にもはっきり分る通り、この問題は採点がこのうえなくし易い。しかし受験者にとって解答は必ずしも簡単ではない。

 私自身はこういうパズルのような智恵比べの問題が若い頃から苦手だった。大抵考えすぎて迷った揚句、間違えるのである。

 私は自分の文章でもこれは正答がどれになるかよく分らない。テキストを持っているから問1の正答は④であるとお教えしておく。が、問2問3は今もってよく分らない。

独立行政法人大学入試センター
平成15年度

第4問 次の文章を読み、下の問い(1~3)に答えよ。なお、文章中の空欄 A~Cのうち2つには、ある文が入る。また、文章中に「前の章」とあるのは、この文章の前の章を指す。
 
 さまざまな国家が乱立抗争しながら、結局は1つの文化共同体といえるヨーロッパでは、当然、その国家内部に形成される「社会」も、また、国家同士がつくり出す「社会」も、この孤立した島国特有の論理とは別種のものとなるだろう。

 つまり、ここで、改めて問われなければならないのは、ヨーロッパ人の市民意識であり、それは近代国家の成立以前に、萌芽(ほうが)としては存在していたものであったに違いない。

 個人の行動様式がつねに「社会」という場に開かれているヨーロッパ人の生き方については、すでに前の章で詳説したが、都市の作り方ひとつ例を見るだけでもそれは明瞭(めいりょう)にわかるのである。

 堅牢(けんろう)な城壁に囲まれたヨーロッパの中世都市は、外部に対し固く自己を閉鎖しながら、内部には必ず市民の集う広場をもっている。主要な通りはみなそこに集まっている。そこにある公共生活のシンボルは、市役所と中央教会(ドーム)だが、これらはいずれも垣根をもうけていない。日本の都会には公共生活の中心になりそうな特別に際立った建物はなにもない。一般の民家がただ雑然と集まって町をつくり、しかもひとつひとつが垣根をもうけ、精巧な庭をもつ。だが、ヨーロッパの民家は、ことに旧市街では、家並みが整然と並んで、どれも塀で囲まれず、個人の庭より、公園や緑地帯を大事にする。

 さらに家の構造をみるがいい。家は幾家族も集まって住むアパート形式だから、階段も廊下も往来に等しいものといってよく、したがって、「家」はいつも「町」に開いている。家に塀をめぐらさないことが決定的な要素なのである。それでいて、家の内部は、ひとつひとつ閉鎖した「私室」を並べている。日本家屋にはほんとうの意味での「私室」というものがない。要言すれば、日本人の生活様式は、あくまで「家」単位で、外部の町の公共生活に対しては己れを閉ざしているが、家の中ではたがいに寄り合って暮らすという日本的家族の特性をそのままに物語っている。[ A ]

 ヨーロッパ人の市民意識がどのような性格のものであるかは明らかであろう。個人は家を超えて、いつでも町の公共生活に直結する用意がある。「広場」がその象徴である。だが、それよりもっと重要なことは、こうした共同体意識は町の外へと超えてはいかないことである。都市は堅牢な石造りの城壁で、まわりをかたく閉ざされ、外敵に対し、城門は厳しい監視の目を怠らない。[ B ]

 ここでは自由と秩序は一体のものである。

 市民が家族よりも、公共生活を重視するのは、城壁の外の異質物に対する警戒心と団結心から発していることは明かであろう。逆にいえば、外敵に対する用意から、市民のひとりびとりに対し、公共に生きることの要請がある。社会に対する責任と、自由の制限は、ヨーロッパ市民社会の2つの要件であり、それはまた、市民が個人の自由の無制限の拡大が何を意味するか、その恐ろしさを知っているという意味でもある。[ C ]

 ひとつの都市という「社会」の範囲が与えられることで、市民のひとりびとりが「個人」となるのである。

(西尾幹二の文章による)

問1 次の文a・bは、それぞれ文章中の空欄[ A ]~[ C ]のうち2つのいずれかに入る。この組合せとして最も適当なものを、下の①~⑥のうちから1つ選べ。
[ 12 ]〔2点〕
a つまり、市民の自由は制限の内部で最大に発揮されるものなのである。
b この我欲の相互調節が、個人の生き方にパターンのきまった「型」や「様式」をもたらすもととなる。

 ① a-A b-B  ② a-A   b-C ③ a-B  b-A
 ④  a-B b-C  ⑤ a-C  b-A ⑥ a-C b-B

問2 この文章に表題を付けるとして、最も適当なものを、次の①~⑤のうちから1つ選べ。
[ 13 ]〔1点〕
 ① ヨーロッパの中世都市
 ② 社会に開かれたヨーロッパの「家」
 ③ ヨーロッパと日本における「私室」
 ④ 日本における「家」と公共生活
 ⑤ ヨーロッパからみた日本の市民の自由

問3 この文章で述べられていることを、次の①~⑤のうちから1つ選べ。
[ 14 ]〔2点〕
 ① 日本の都会では、一般の民家が整然と並んでおり、公共生活の中心となる際立った建物は存在していない。
 ② ヨーロッパでは、異質物に対する警戒心と団結心から、市民は何よりも家族を重視するようになった。
 ③ ヨーロッパの旧市街では、家がアパート形式であることから、階段・廊下も「町」の一部を成しているといえる。
 ④ 日本においては、町の公共生活に個人が直接にかかわっており、そのことによって個人の自由が制約を受けている。
 ⑤ 日本では、「家」の中では家族は寄り添って暮らしており、「家」の代表者が外部の町の公共生活とかかわっている。

「入学試験問題と私(七)」への8件のフィードバック

  1.  いろいろな入試問題を拝見させていただきましたが、考えるにどうもこのブログの家主が主張したいことは、「何故問題を作る前に、一言声をかけてくれなかったんだ」ということでしょうか。問題を作成する姿勢への怒りというか、嘆きというか、空しさというか、憤懣が伝わってきます。もちろん中には、受験生の立場を考えたよい問題もありますが、どうもそれは少数派のようです。
     
     私もむかし、会社内の部署用の試験問題を作ったことがあります。会社が販売した機械の取り扱いを、社員が熟知しているかの確認テストの作成です。感じたことは、どちらとも受け取れる問題が一番いけないということです。あとで必ず「文句」が入りました。昇級試験でもないのに、やはり気になるのです。

     さて、当問題ですが、問2と問3がそのどちらともとれる問題の典型です。いままでの入試問題と一種違いますね。問題として体を成していない。それは問題作成者が、著者の考えを理解していないからです。ヨーロッパの個人主義には、著者の明確な問題提起・主張があるのに、試験問題作成者はそれを自分の都合のいいように解釈している。これではいい問題が作成できるわけがありません。しかも問2は、文末の括弧書きに、西尾幹二の文章による、などと入れておいて、この本の題名を当てさせるとも受け取れる姑息な問題です。

     おそらく大学の問題用紙は、試験後すぐに回収されてしまい、受験生は見直すことはできないと思います。したがって「文句」の言いようがありません。

  2. お久しぶりでございます。

    これは本当に懐かしい問題ですね。私はこの問題を実際に試験会場で解いたのです。

    問題2は大学入試センターの解答では②なんですよね。
    私は、最初②をマークしたんですけど後で、西尾先生の思想とちょっとあわない、これは丸山雅男的発想だなあと思って、結局試験終了前に当たり障りの無い①を選んでしまいました。
    西尾先生の本をよく読んでしまったばかりに1点を失ってしまいました。数万人が受験する試験の100点満点中の1点は数百番の差になってしまいますからね。
    まあ全体としての結果は50点満点中45点前後でしたので致命傷にはなりませんでしたが。

    読解問題で点数を上げるために試験に良く出る作家や評論家の本を読み込むことは具の骨頂です。読解問題の点数をあげるのは実際に読解問題を解きまくることが一番ですね。

  3. ちなみに西尾先生の文章の設問についてはいわゆる司法試験予備校の解答速報ではどこも正解をあてていました。難問奇問では正解が割れますからまあ読解問題としては素直な問題だったと思われます。実際受験生の正解率もまあ普通レベルだったような気がします。

    やはり読解問題というのは筆者の思想人格を抜きにして解くのが一番ですね。筆者の思想人格に遡って解きますと難問奇問の類は解けることがあるのですが標準的な問題は逆に間違ってしまうのです。

    ただ筆者と解く側では難問奇問と感じるか否か異なる部分はあるだろうとは思います。この辺りの感覚は私は解く側の立場しかしりませんからなんともわかりません。

  4. みいこさんのご投稿、興味深いのですが多少の誤解もあるようなので一言。

    まず、この種の試験問題を作る前に著作者に一言声をかけるということは、問題の漏洩につながるので禁止されています。西尾先生も長年大学教員の経験がおありですから、当然その程度のことはご存じだと思います。ただ、事後的に著作者に連絡してしかるべき使用料を払うのは、これまた常識でしょう。

    次に、問題文の最後に誰の著書から採った文章なのかを書いておくのも、現在ではごく普通に見られることです。むしろ誰の何という文章をもとにしたのか分からない場合の方が問題視されます。

    それから大学入試の問題用紙は、原則、受験生が持ち帰ることになっています。

    私は西尾先生の試験問題に関する連載をたいへん面白く拝読しています。現代文で誰の文章をもとにどういう問題を作るかは、作る側の見識が試される微妙な仕事だからです。ある種のイデオロギーが透けて見える問題文、こんな文章をよく見つけてきたなあと感嘆する問題文などさまざまです。受験生の学力と同時に、実は作題者の総合的な知力も計られているわけですね。国文学者の石原千秋氏が国語・現代文の試験問題にまつわる諸相を取り上げた本を書いていたと記憶しますが、西尾先生にもこのテーマで1冊にまとめていただければありがたいのですが。

  5. 法学部出身の端くれとして、法学系の専門家の人間の言葉の使い方の傾向について感じてきたところを私なりに言いますと、法学とりわけ解釈法学の人間の人達というのは、言葉をある種「数学的」に使う術に非常に長けているように思います。「数学的」というのは、世界におきている事象を、法律という公理体系的な言葉の世界にあてはめて絶えず使う言葉の術、といえます。優れた法律家といわれる人物の大半が、見事といえるほど、贅肉のない法律家の独自の文体をもっていますが、それは公理体系と事象の間を数式を説くように展開させるからですね。彼らは法律外の文章についても、実に抜群な客観的解釈を行います。一つの解釈に関して、目の前にある文章という「公理体系」から必ず数学証明的な説明を考え抜いている、のですね。だから法律家的な人間は、現代文の試験では非常に高得点をとる傾向にあります。しかしその反面、法律家の文体の世界ほど狭い世界はない、ということも事実です。彼らの文体は、公理体系そのものを疑ったり、知的遊戯に持ち込んだりすることに関しての意欲は全く貧弱ですね。西尾先生の戸惑いも、そういうところ、つまり西尾先生の文章が、「法学的に理解されてしまう」こととはいったい何か、ということにあるのではないかと思います。法科大学院適性試験という、ある意味全国を代表する法学の試験に西尾先生の文章が使われて、法律家の隙のない解釈を施されてしまうのは、受験国語と別の意味での違和感が先生におありなのは当然だと思います。
      私は贅肉のない「法律家の文体」に感心することもあった反面、常に苛立たしい感情を彼らの文章に感じたことも随分ありました。たとえば法学の専門家を自負し、それなりの実力や名声を築いた人物の少なからずが、法学の緻密さを哲学と親近なものと考え、法学と哲学は親戚である、というような気取りが非常にみられたことですね。日本の法律体系書は数学的な証明を好みつつ、公理体系としての法律概念の説明を抽象的に行う傾向があります。一見すると「哲学書」的に思えないこともありません。たとえば、法律論としての錯誤論や意思論を理解するのは哲学概念以上に非常に難しいですが、しかしだからといって法学と哲学の世界が近いということは全然成立しません。理解するのが難しい刑法学や民法学の錯誤論や意思論も、あくまで公理体系と事象の間で、きわめて限定的な意味の幅を有するだけで、難しいのは西尾先生が言われたように、「パズル」のようなこの整然とした解答・証明・公理の間の関係を理解する、ということに過ぎません。
       だから法学の錯誤論や意思論を理解できても、錯誤そのものや意思そのものを理解したことにはなりません。哲学の世界はこのような法学の世界のような数学証明的な世界とは実に正反対です。「・・・とは何か」ということに徹底的に拘り、時として矛盾した逆接的表現さえ使いながら、世界の真実に接近しようとする、わけですね。西田幾多郎、ヘーゲル、カントといった哲学者の諸氏が、なぜこれほどまでに、というほどに捻じ曲がった文章を駆使するのか、ということに関して、少なくとも世界を「証明」しようとしているというわけではない、と思います。西尾先生のようにわかりやすく哲学論や文明論を書く思想家についても同様だと思います。出題そのものを批判したいわけではないのですが、西尾先生の文章を、法学論的パズル理解・数学的理解にあてはめようとしているこの出題は、やはりちょっと不愉快なものを感じざるをえないように私は思います。

  6. この問題は、問2の答が(2)、問3の答が(3)だと思います。
    選択肢として「直接にそうとは記述されていないがこの作者ならば言いそうなこと」を用意しておいて、
    回答者を罠にかける出題テクニックだと思います。

  7. 法学と哲学がその論議の仕方に於いて全く異質なものであるかのやうな議論もあるやうですが、
    その最終根拠を法学に頼るしかないと云ふカントの(範疇の)超越論的演繹論を思ひ浮かべただけでも、違ふのでは?
    プラトン的な空理空論(公理系)をアリストテレス・スコラ的な現実世界の実在論と結合するためには法学 - 理論を事実に適用する裁判官の方法 - が必要なのです。(それしか無いのかどうかは知りませんが、少なくともカントはさう考へた。)
    ましてヘーゲルに於てや!
    (あらずもがなの粗雑な話ですが)西田はそこを目を瞑つて飛び越えてしまつたので、哲学とは全く違ふものになつてしまつた。ヨーロッパの市民社会が(それを真似した)日本の社会とは異質なものであるのとパラレルな現象に見えます。

    一つ気になつたのですが、試験問題に(出題者の)著作権はないのでせうか?

  8. >試験問題に冠する著作権
    自分はズブの素人ですが、
    出題者の著作人格権は発生していると思います。
    著作財産権は分かりません。
    国民に周知させる価値がある法令、告示、判例などは
    そもそも著作権を認めないという考え方もありますので、
    公立の入試問題はそれに順ずる扱いでいいかなという気もします。

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