「『昭和の戦争』について」(十)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第五章 偽装歴史観に裏付けられた平和憲法=「GHQ占領憲法」

第一節 「明治憲法」の本質――模範的な立憲君主制憲法

 連合国軍総司令部(GHQ)は、戦争犯罪国家=日本帝国の基礎に「明治憲法」と「教育勅語」そして「神道」があり、この国家体制は、「天皇独裁の神権主義的擬似立憲体制」だと断定した。だが、明治憲法の本質は、これとは正反対なのである。

 立憲政治体制とは、憲法を柱にした「法治主義」で特定の権力に偏らないように権力の均衡を図りながら国家を運営し国民を統治する政治体制のことである。憲法草案の起草者・伊藤博文らは、第一に歴史と文化伝統を尊重した。『皇室典範および帝国憲法制定に関する御告文』は、「惟ふに此れ皆 皇祖皇宗の後裔に貽(ノコ)したまへる統治の洪範を紹述したるに外ならず」と明言している(『憲法義解』一九一頁)。第二に、西欧の君主制国家の憲法、特にプロイセン憲法、ベルギー憲法を参考にした。この両憲法は、英国立憲君主制を模範(モデル)に制定されたものでだから、明治憲法は、君主権力と行政権、立法権、司法権、軍事権と言う権力の相互抑制のバランスを良く取っている。権力分散と公議世論政治を程よく按配した模範的立憲君主制の憲法だと当時の西欧諸国の憲法学者たちからも高く評価された秀逸な憲法なのである。

 「明治憲法」が制定され、議会政治が始まって以降、明治国家の安定は増大し、日清・日露の両戦争に良く「挙国一致」して勝利した。明治の立憲君主制国家は、欧米諸国から高い評価を得た。これがあったれ場こそ、日英同盟が成立したし、国力の増進は目覚しく、明治の御世の有り難さを多くの国民が実感したのである。つまり、明治国家体制は、独裁政治体制とは正反対のデモクラシー、複数政党制の議会制国家体制だったのである。

第二節 「GHQ占領憲法」の本質――日本弱体化の謀略法規

 我が国政府は、陸海軍の無条件降伏で辛うじて「國體護持」を保障されたと判断してポツダム宣言を受諾した。しかるに、完全武装解除した敗戦国に襲い掛かったのは、占領軍による日本弱体化のための国家改造政策の強行であった。ポツダム宣言は、日本に民主主義を復活すると謳っていたから、連合国側は戦前の日本に民主主義が定着していたことを知っていた。然るに、占領軍政府=GHQは、日本国は「無条件降伏」したのだとの巧妙な詭計をもって施政権を剥奪した我が国に対して「日本国憲法」なるものを押し付けた。施政権・外交権を完全に剥奪されて占領軍権力に身を委ねた被占領国家に、憲法制定権があろう筈が無い。

 そこで、総司令官マッカーサーは姦策を弄した。まず、「ワー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」なる情報操作を推進した。大東亜戦争が悪辣無道な侵略戦争であり、多くの日本国を不幸のどん底に叩き落したと日本国民洗脳作戦を展開した。悪逆無道な戦略者を推進した国家指導者=軍国主義者を断罪するとして「極東国際軍事裁判」なる茶番劇を演じた。次いで、帝国議会と枢密院に『大日本帝国憲法』改正手続きを踏ませて「GHQ占領憲法」に摩り替えたのである。

 「GHQ占領憲法」は、内容面でも異常である。第一に、この憲法の基本精神は我が日本の歴史と文化伝統の正統性に根差すものではない。第二に、この憲法は、日本を半身不随の中途半端な国家にする目的を持つ。日本の國體の柱である皇室制度を曖昧なものに貶め、従って、国家の元首が不明である。第三に、平和憲法と称して非武装=戦争放棄を建前とする。だから、独立主権国家としての外交・軍事を推進できない。国防の自由が無いから、外交も臆病で卑怯な外交たらざるを得ない。国家の尊厳と独立、国民の生命・財産の安全を自力で保障できないから、この憲法の本質は、国家・国民のための憲法ではなく、日本弱体化の謀略法規であると私は断言する。

 第一の問題を敷衍すれば、西欧世界の近代啓蒙主義思想、アダム・スミス、ロック、アメリカ独立宣言、フランス革命の人権宣言および共産主義思想をミックスした思想を基礎としている。これは対日戦争を積極的に推進した米国ルーズベルト大統領(民主党)のブレーン「ニューディーラー」らは、自分たちが理想とする政治制度を有色人種の優等生日本に実験的に移植したグロテスクな代物である。冒頭に述べた「ポツダム宣言」と「ハーグ陸戦法規」に完全に違反している。「日本国憲法」は、誕生経緯と内容の異常性からして国家基本法の要件を満たしていない。(注・この間の詳細に関しては拙論「敗戦国体制護持の迷夢」、雑誌『正論』平成一六年三、四月号連載を参照されたい)。

 このような国家・国民の憲法とは言えない憲法を定着させてしまったのは、戦後政治の大失敗だったと断言せざるを得ない。失敗の一例を挙げれば、米ソ冷戦の緊張の高まりと共に、特に朝鮮戦争(一九五〇年六月~五三年七月休戦協定)を契機にアメリカは、我が国に再軍備を熱心に要請するに至った。しかるに、時の日本政府(吉田茂内閣)は、これが「日本国民の総意に基いて制定された民主的な憲法である」と、逆螺子作戦でアメリカ政府の要望に反抗したのだった。つまりは、「憲法第九条」を盾にして再軍備を拒絶した、と言う大きな捩れ現象を発生し、憲法の欠陥を自ら修正し難くすると言う赦すべからざる愚行をなしたのだ。

 しかし、吉田茂は米国の圧力を排除出来ずに、かろうじて、「戦力無き軍隊」であるとして自衛隊(一九五〇年八月警察予備隊令→五三年九月防衛庁設置法・自衛隊法)を発足させた訳である。国民全般の涙ぐましい復興努力とその後の高度成長に後押しされ、また防衛庁と自衛隊の努力研鑚もあって軍事力としては相当強力な軍隊に成長した自衛隊三軍ではあるが、「憲法第九条」と法的に中途半端な国防軍としての位置づけの故に、いざ国家有事=緊急事態となったとき身動きが取れないという異常な状態のままで今日に至ったのである。

 一九五二=昭和二七年、サンフランシスコ講和条約発効以後も、占領体制から脱却して真の独立主権国家への回復、真の戦後復興を目指そうとする政治家・国家官僚が、如何にも少なかったのは遺憾の極みである。共産主義や社会主義に幻惑されて、戦前の日本を呪詛し、このような戦後政治を背後から支えた左翼知識人(所謂進歩的文化人)とその共生勢力だった大学や大形メディアや出版界の罪責は限りなく大きい。その左翼知識人勢力に育てられた世代が今や我が国の各界の最高指導層に蟠据している。教育は戦後教育の延長線上に展開されている訳だから、「百年河清を待つ」間に、我が日本民族は数千年の歴史と伝統から断たれた日本人にして日本人ならざる民族に変性されて行くのであろうか。教育を正常化する勢力が劣勢なのだから、このままでは日本の前途は実に危ういといわざるを得ない。

むすび  現下の課題

 最後に本講義の纏めを述べよう。「昭和の戦争」は、満洲事変から敗戦までの一貫した「十五年戦争」と言うような戦争ではなかった。だが、支那事変と大東亜戦争は一連の戦争であった。支那事変は、有色人種の優等生大日本帝国の擡頭に我慢できない米英と世界の共産革命を先ず弱い部分である東アジアで成し遂げようとしていた共産ロシア(ソ連)が、支那の軍事独裁者蒋介石を背後から軍事的・政治的・財政的に支援・指導し、さらに支那共産党を介在させて闘わせた言わば代理戦争であった。ソ連や米英は支那事変を長引かせることで日本を世界戦争の舞台に引きずり出して撲滅しようと狙ったのである。共産ロシアは、米国同様に軍閥独裁者蒋介石を支援して日本と戦わせる一方で、中国共産党を育成し蒋介石の足元から支那大陸の共産化工作にも余念が無かった。 

 未だ弱小だった毛沢東指導の支那共産党の後方攪乱戦術は見逃し難い重大問題である。その謀略は異常に逞しかった。大日本帝国滅亡後、共産ロシアの目論見どおり、支那共産党の大陸制覇は達成された。アメリカはトンビに油揚げを攫われた。最後の段階で参戦した共産ロシアはユーラシア大陸を略制圧、我が国固有の領土である樺太・千島を不法占拠して今に至っている。これらは、謀略情報戦に不得手で、「信義」や「誠実」をモットーとする我々日本人には中々理解できない醜い世界の出来事だった。 

 最後にもう一度言おう。満洲事変から支那事変、そして大東亜戦争に関して我が国は侵略戦争の計画は何ももたなかったのである。だから、これらの戦争は我が日本にとっては「独立自衛」を求める以外の目的はなく、侵略戦争との意識は何もない戦争だったのである。モノの見事に誤解に基づく理想世界の拡大を欲した米国と、共産ロシアの二つの謀略勢力に支那大陸の戦場に引き込まれて、結局は押し潰されたと言える。

 逆に言えば、一九三〇年代から四〇年代のアジア大陸の戦争は、米国とソ連の侵略戦争だった。アメリカは勝ち誇って「大東亜戦争」と言ってはいけない「太平洋戦争」と言えと命令したが、正にそこにアメリカのあの戦争への意欲、太平洋からアジア方面への侵略意欲が明瞭に出ているのである。これが大東亜戦争の真実である。

 米国やソ連が日本を貶めるために創作した歪曲歴史観に基づく支那・朝鮮の至極「政治的」な言い掛かり挑発に、我が国政府は気遅れする謂われは全くない。韓国・北朝鮮の言い掛かりは歴史の事実を意図的に曲解した怪しからぬ妄言なのである。また、支那共産党政府要人が、事あるごとに日本政府は反省が足りない、「歴史を鑑にせよと」説教するが、全く善人と悪人が転倒した盗人猛々しい、片腹痛い言い草なのである。彼らは、支那共産革命を達成する目的で、日本軍と軍閥蒋介石を徹底的に共倒れになるまで戦わせる悪行を働いた張本人なのである。アジアの連帯など考慮の外、モスクワの指令に従い、アジアの共産化を追及していたのである。彼らが何時も勝ち誇って言う「抗日戦争の勝利」は、彼ら自身のものではなく、モスクワの勝利のおこぼれに預かったのである。間もなくモスクワからの自立の欲求が台頭し、「中ソ対立」に至った訳である。

 戦後日本の政治家・官僚は祖国の歴史への理解度も国家・国民を正しい道に導こうとする勇気も洞察力も足りない。自尊心を失い国益追求への強い意志も失い、低次元の利害調整や私益追及に汲々たる

 木偶の坊が多過ぎるのである。その基盤には国民の歴史観の歪みが厳然としてある。

 日本民族最大の敵は、実は我々の足元に蔓延っている。我々にとって本当に大事な現下の課題は、「GHQ占領憲法」と「東京裁判史観」が、日本人から自信と勇気と品格を奪い去り、自虐的な卑怯者にしてしまった元凶だと言う真実を大悟することである。正々堂々の解決策は、国民精神と国家体制を祖国の歴史と文化・伝統の正統性に復古することである。    

完 

        

「「『昭和の戦争』について」(十)」への12件のフィードバック

  1. Posted by 松田

    日本国憲法について

    >「GHQ占領憲法」は、内容面でも異常である。

    この憲法、事実上の占領基本法については従来から以下の問題点が指摘されていますね。

    1. ハーグ陸戦協定などの国際慣習に反する占領軍による国体の変更である
    2. 大日本帝国憲法からの改正手続きが違法である。帝国憲法は摂政をおいている時期での改正を禁じている。いわんや占領軍をや。
    3. 日本国憲法は、米軍が再占領したフィリピンに課した憲法のコピーであり、このような複写物を国の基本法としていただくことは国辱ものである。ちなみに、フィリピンはすでにこの米軍憲法を改正破棄している。

  2. 「『洗脳』は解けつつある」

     そんな気がしています。。。

     特に、若い人間は、日米戦争も知らなかったりしますが、その分、東京裁判史観による呪縛もないという利点もあります。。。

     案外、30代以下の若者の方が、正しい日本の歴史を素直に受け取ってくれるかもしれないですね。。。(年輩の人間の方が、頭が固くなっていて、東京裁判史観に固執している気がする)

     なんとか若い人にも関心を持ってもらえるように、かみ砕いて分かり易い発言を心がける必要があると思います。。。(どこかで、ふっと耳に入って関心を持ってくれるかもしれない)

     うーん、今回の福地先生の論考ですが、まだ文体が硬くて、なかなか若人には読んでもらえないかもしれない。。。

     まずはですね、歴史にはあまり関心がない若者を想定して、そんな人間にも興味を持ってもらう為にはどうすればいいのか?どこから切り込めば関心を持ってもらえるのか?そんなことから考え始めた方が宜しいのではないかと思います。。。

    (もう一度、つくる会の組織を立て直さないと行けないのだから、ゼロから始めるくらいの気持ちで行きましょう!)

  3. ピンバック: サムライブログ
  4. vagabond 様

     貴方の「ボタンの掛け違い」論は、歴史に「IF」を持ち込んでいるだけで、とても同意できません。

     「日露戦争後日本が満州に兵を引き続き駐留させたのはポーツマス条約違反」と言われるが、それが日米関係を悪化させる決定的契機であったとは思えない。たとえ日米関係に悪影響を与えたとしても、それが「ボタンの掛け違い」となるのは、せいぜい2~3年程度のことであって、その後の30年以上にわたる日米関係悪化の原因とするのは無理がある。言ってみれば、最初の上着に「ボタンの掛け違い」があってもなくても、その後何着も上着を着替えるたびに日米関係は悪化していったのである。

     撤兵違反をさも重大事のように言われるが、それをロシアや清国の立場から言うなら兎も角、アメリカとの関係から問題にするのは本筋から外れているのではないか。ロシア・清国にとっては、「露清秘密協定」の存在一つをとっても、とても日本を非難できるような立場ではなかったろう。
     いわば、この程度の協定違反は国際政治において日常茶飯事というべきで、お人好し・馬鹿正直な日本人の中にあって、小村寿太郎は、「協定遵守」より「駐留継続」の方が国益であるとの判断を、よくぞ下せたものだと思う。(こういったからといって、小村の判断が絶対に正しかったと断定したいわけではない。そんなことは分からないことである。)

     「アメリカとの協調の機会」というのは、例えばハリマン鉄道王との満鉄の共同経営などを指すのであろうが、それが必ずうまくいったかどうかも分からない。現実の進行がうまくいかなかった(との今日の判断)から、ハリマンと協力しておいた方がよかったのではないか、と思えば思えるというに過ぎない。

     そもそも日本が欲張らなかったら、アメリカも程々に欲望を抑えてくれたという保障もない。また、日露戦争直後に日本は欲望を抑えられたとしても、後になって欲が大きくなることもあり得る。(いずれにしても、日本が当時「欲張りすぎた」こととしての話であるが。)

     アメリカは「門戸開放・機会均等」を唱えるが、それは、アメリカが支那進出の後発国だから言えたことで、実際に今日のような覇権国として当時の支那でその主張を実現できる立場だったとしたらどうなっていただろう。
     当時の支那大陸は、通商・投資を理想主義的な旗印の下に実現できるような状況になかったことは明らかである。
     
     一つの可能性として、日本はアメリカの(大陸における)覇権の後についていって、大陸での負担を免れ、経済的利益のみを享受した、というハッピーな夢を描くこともできるだろう。しかし、次のような悪夢の方がより現実味があるように思えてならないのである。

    ① アメリカが、蒋介石と同盟し、ソ連・コミンテルン・中共との闘いの最前線煮立ち、しかしベトナム戦争の大陸版のような敗北を喫する。
    ② 大東亜戦争における日米の死闘が、太平洋だけでなく支那大陸でも展開され、ソ連・コミンテルン・中共が漁夫の利を得て、日米とも大陸から惨めな撤退を余儀なくされる。

  5. 福地先生

    この度はゲストエッセイへの寄稿有難うございました。

    結局、侵略戦争だ、自衛戦争だという区分けは無意味だといっても、実際にその区分で日本が断罪され、日本人の大半がそう思って贖罪意識に苛まれているのですよね。

    それの一掃を中学歴史教科書から始めることが、つくる会の運動の原点だと思います。

    今回、福地先生の論文で「昭和の戦争」を大きく原因を眺めることにより、そういった原点を確認することが出来たと思います。

    長文、本当に有難うございました。

  6. >失敗の一例を挙げれば、米ソ冷戦の緊張の高まりと共に、特に朝鮮戦争(一九五〇年六月~五三年七月休戦協定)を契機にアメリカは、我が国に再軍備を熱心に要請するに至った。しかるに、時の日本政府(吉田茂内閣)は、これが「日本国民の総意に基いて制定された民主的な憲法である」と、逆螺子作戦でアメリカ政府の要望に反抗したのだった。つまりは、「憲法第九条」を盾にして再軍備を拒絶した、と言う大きな捩れ現象を発生し、憲法の欠陥を自ら修正し難くすると言う赦すべからざる愚行をなしたのだ。

    こりゃその通りだと吉田茂好きの私でも思うものな。もう一つは今になったからいえるのかもしれないけど、サンフランシスコ条約で日本が主権国家として独立を果たしたときに憲法改定がどうして出来なかったも残念なことでしょう。

    勉強になりました。ありがとうございました。

  7. 福地先生の長文を拝見し、日本は米ソの力が緊迫したエリアで戦いを継続しなければならなかった歴史の現実の背後に、当時着々と根付いた「思想戦争」とでも申しましょうか、それにいかに視点をおくべきかが問われているんだろうと認識しました。
    それ以前の戦争は領土拡大が最大の目的であり、第二次世界大戦当時もそれを継続していたことは間違いでないわけですが、しかしそれだけを目的としてはいられない、近い将来間違いなく招くだろう「イデオロギーの戦い」を同時に察知すべきだった事に、日本は油断しまた同時に盲目だったと言えるのではないでしょうか。
    敗戦という因子だけでは語り切れない失策が戦前・戦中から立て続けにあり、最後まで背後のそれに手を付けられなかった事が、戦後の国体の弱体化に深く関係していると思います。単に憲法や天皇制だけの問題なら、まだ何等かの解決策を図れたのではないかと思えてなりません。戦後60年の歳月を要しても、そうした問題を解決する方向に向かわない理由として、当時の国益の変化や背後の思想的衝突に着目できなかった事が上げられるのでしょう。日本人としての誇りも、歴史認識も徐々にではありますが良い方向に向かいつつあるのだろうとは思いますが、この背後の問題に対処できる逞しさはまだ窺い知る範疇にはないようです。
    では何故このような「リズム」が日本の場合蔓延りダラダラと長引くのか?正直私にもどうすればよいのか本当のところ皆目見当がつきません。それくらいこの問題は困難であり、それを助長した戦後60年という歳月の罪は大きいと思います。しかも隣国にも似たような形で問題が存在し、お互いに当事者となっている事が尚更問題解決の歯止めとなっているのが現実です。
    「百年河清を待つ」・・・という例えは誠に的を射た表現です。まさにそれが現実化しつつあるのは間違いないと思います。
    いろんな過去の政治の失策を訴える「問題先送り論」を巷でよく拝見しますが、真に先送りされているのはこのような日本人の性癖の問題ではないでしょうか。ささやかな喜びや改善に安直に反応する傾向が強い国民性が災いしているのだろうと想像しますが、世の中の重苦しい魔物のような心理を背負えない日本人の精神的体力の乏しさを、なんとか世界レベルにまで上げないかぎり、日の目は見ないと断言して良いのではないでしょうか。
    私の認識として西尾先生は常々その部分を問題視するケースが多々あります。 「歴史」というものを単に時間的には追わず、それを揺り動かす人間の感情や、時間とは無関係に存在する思想の力を常に意識しておられます。
    その集大成が「国民の歴史」には描かれており、日本で初めて歴史を思想的視点から改題した作品だと認識しています。
    ですからつくる会にとりましては「国民の歴史」は魂そのものであり、それを受け継がずして何を為せるのかと言いたいくらいです。世間では今回の騒動を色々批判していますが、ではこの騒動に蓋をして事は前進できるのかという疑問もありませんでしょうか?
    先程から申しておりますように、背後に視点をおける逞しさが一番の問題であります。それはけして女性のスカートに手を忍ばせるような下品な行動ではないのです。しかし、今回批判されている文を眺めてますと「痴漢行為」的な捉らえ方をされているものがあまりに多すぎます。
    確かに内部の問題を表面化するのは危険が伴い誤解も生じやすい。そうしたリスクは回避出来ない事実はあります。また、西尾先生の行為を小泉劇場と対比させる論もありますが、それこそボタンの掛け違いでありまして、そこに話しを向ける根拠があまりに薄弱であり、現実認識のできていない姿勢を自ら暴露していることに、ご本人はお気づきなのかを問いたいくらいです。さらに、私の紹介文以降「ファナティック」が理論点としてとり上げられるようになりましたが、小泉劇場と西尾先生の行為の差異を示す点としても大切な論点であると思います。
    神社右翼などの組織とたもとを切れない背景には「迷い」を認識できない現実と深く関わりがあり、それが欠如した場合、組織は盲目的にファナティックを呼び、政治はファッショをの鎧を着てファナティックに陥るとして、西尾先生は私の理論に共鳴していただきました。

    いずれにしましても、再三申しております「背後への着目」は、過去・現在・未来の日本に課せられた大変大きな問題であると認識します。
    数ヵ月に及ぶ関係者の方々のご苦労を労いたいと思います。
    本当にお疲れ様でした。

  8. 東埼玉人さん、旅行していたため返信が遅れました。

    また、毎日のようにページが更新されるため、前の文章を探す
    のに苦労します。そういう点で遅れたこともあります。

    さて、日露戦争後アメリカとの関係が悪化したのは、満州にお
    ける利権問題であることは明らかです。
    しかもそれがずっと「尾」をひいています。
    それは「直線的」ではなく何度も「修正」の機会があったにも
    かかわらず、その都度アメリカとの対立が大きくなっていきま
    した。

    その前に、私の立場を述べておきます。
    満州事変、支那事変、真珠案攻撃、太平洋戦争と続く一連の
    戦争は日本にとって誤りだった、どこかもっと早い時期に
    ストップしておくべきだった、しかし出来なかった(する
    能力に欠けていた)・・という「史観」です。

    満州における利権問題がその出発点である、ということです。

    もしも「何も誤りはない」というのなら、原因探しは意味が
    ありません。

  9. 福地さんはこのエッセィの終わりで次のように述べている。

     日本民族最大の敵は、実は我々の足元に蔓延っている。我々にとって本当に大事な現下の課題は、
    「GHQ占領憲法」と「東京裁判史観」が、日本人から自信と勇気と品格を奪い去り、
    自虐的な卑怯者にしてしまった元凶だと言う真実を大悟することである。
    正々堂々の解決策は、国民精神と国家体制を祖国の歴史と
    文化・伝統の正統性に復古することである。 

    彼の言う、【自信と勇気と品格】とは何をいうのだろうか。
    コミンテルンの謀略に乗って心ならずも(?)中国での泥沼に引き込まれていったことなのか。
    歴史上類を見ない「愚策」である「特攻攻撃」なのだろうか。
    泥沼に陥らない「自信と勇気」、我慢するという「品格」がなかったからあのような惨めな敗戦と
    GHQの支配をもたらしたのではないか。

    【国民精神と国家体制を祖国の歴史と文化・伝統の正統性に復古すること】
    彼はこのエッセィで「国民精神」の何たるかを述べていない。
    国家体制といえば「成り行きでずるずる引きずられた」という誠に情けない体制ではないか。

    彼の論理は全く矛盾している。
    自信も勇気も品格も失ない、
    神風に頼る「国民精神」で成り行き任せの「国家体制」だったから、
    敗戦という惨めな結果になったのではないか。

    それに戻れというのか!
    こういう人物が「歴史教科書」をつくるのなら、「つくる会」はないほうがよい。

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