「『昭和の戦争』について」(八)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第四章 支那事変も日本の侵略戦争ではない

第一節 「抗日民族統一戦線結成の提唱」=一九三五=昭和十年

 満州事変の終結からニ年経った一九三五=昭和十年七月、モスクワで開催のコミンテルン第七回大会は、「反ファシズム統一戦線・人民戦線路線」を採択した(公安庁『国際共産主義の沿革と現状』、カワカミ五九―六〇頁)。それは、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本帝国、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツ帝国を撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ(ドイツとの不可侵条約《一九三九年》並びに日本との中立条約《一九四一年》)、日本を支那と米英、ドイツを英仏と戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略を建てたのである。日米は支那大陸でその権益を巡り、長い間冷戦(静かな戦争)を展開していたから、ズバリの戦略と言えよう(コミンテルン資料)。

 コミンテルン決議を受けて支那共産党中央は、同三五年八月一日に「抗日民族統一戦線結成」=八・一宣言を支那全土に発した。東京でゾルゲと尾崎秀実が、日支を激突させ、最終的には支那を支援する米英と日本を激突させる謀略工作を開始したのは、前年昭和九年の初夏であった。この年十月七日、広田弘毅外相(岡田内閣=同内閣は翌年二月の事件に遭遇)は、蒋作賓駐日支那大使と会談、日華提携の前提条件①排日運動の停止、②満州国の黙認、③共同防共=赤化防止政府を提示(広田三原則)したところ、支那大使は概ね同意した。しかるに蒋介石は戦後の回顧録『秘録』(十一巻、七〇―七二頁)で、広田三原則に同意した覚えは無い、広田が勝手に「支那も賛同した」と公表したのだ、我々は否定していた、と述べた。だが、「東京裁判」で日本を悪者に仕立てるために辻褄を合わせる虚偽の証言である。支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく、南京大虐殺三十万人なぞは平気の平左の嘘八百である。

 

第二節 華北分離工作への支那の抵抗――民族統一戦線結成工作の進展とその背景

 三五=昭和十年十月下旬、毛沢東の紅軍主力は、陝西省北部に到着した。(支那共産党史は、「英雄的大長征」と言っているが要するに逃避行であり、その間に凄惨なる内ゲバが続いて毛沢東がヘゲモニーを掌握)。この敗残集団である共産党を一挙殲滅せんと蒋介石は、西北剿共総司令部を西安に設置、自らが総司令、副指令に張学良を任命した。だが、張学良は乗り気でなく、寧ろ親の敵、満州掠奪の敵と恨みを重ねていて、「抗日救国」を提唱する共産党との連携を密かに進めていた。いや、寧ろ共産党側が張学良を丸め込んだのである。張学良にはコミンテルンから指令が出ていて軍資金と兵器の供与を受けていた。

 さて、満洲建国以後、支那の反発は益々強まり、日支間に小競り合いが絶えない。そこで、我邦は支那本部と満洲の間(華北)に緩衝地帯を形成しようと本腰を入れた(注・冀察政務委員会成立=委員長宋哲元。宋は華北省主席を兼ねた。また三六=昭和十一年四月一七日には華北治安維持に支那駐屯軍《通称、天津軍》を現在の千七百から五千七百に増強している)。これは「華北分離工作」と言われた(注・「華北処理要綱」という華北五省の自治強化政策案を政府が作成したのは一九三六=昭和十一年一月十三日)。満洲に支那の内戦が直接波及するのを防止するのが、我邦の意図であった。

 しかるに、国民党や支那共産党筋は、日本帝国主義は満洲掠奪だけでは飽き足らず、華北侵略・支那本部侵略を目指している証拠だと騒ぎ立て、それを受けて十二月九日(十二・九運動)、北平の学生らが「抗日救国」「華北分離工作反対」の大々的な示威運動を実行、運動は全国各都市に波及した。十二月十九日、支那共産党中央は「抗日民族統一戦線結成策」を決定した。年が明けて三六=昭和十一年正月、蒋介石は、「未だ外交的手段による失権回復は絶望的ではないが、時が来たれば抗日に立ち上がる事も有り得る」と演説した。

 このように情勢が目まぐるしく変転する中、二月から三月にかけて山西省方面の軍閥と戦闘中で劣勢だった毛沢東は、五月五日、周囲の状況を読んで突如今まで掲げていた「反蒋」のスローガンを「連蒋」に切り替えた(五・五通電)。八月二十五日、支那共産党中央は、公式に「反蒋・反国民党」の看板を下ろして、「共同抗日・建設民主共和国・回復国共合作」を表明したのである(八月書簡)。蒋介石の共産党掃滅作戦を思い止まらせようとの戦術転換だった。支那の激しい反日運動を米国の民主党系メディアも熱心に支援した。

第三節 西安事件――東アジア情勢の重大な曲がり角

 歴史というものは実に複雑怪奇なものである。大陸政策のギクシャクに激しい危機感を持った日本内地の陸軍青年将校の政府転覆のクーデタ未遂事件=(一九三六=昭和十一年)二・二六事件が起こった。これが支那の強硬な対日姿勢を一層促す作用を果たしたのは当然である。日本に敵対する諸勢力は、日本の政治状況の極度な不安定、内部分裂の兆候であると読んだのであろうし、それが「抗日運動」を超えて「抗日戦争」へとその意欲を高めた筈である。ソ連・コミンテルンそして支那共産党は間違いなく「抗日戦争」の確信犯であった。これに対し、蒋介石は未だに「抗日戦争」には半信半疑ながらも、共産党殲滅作戦をまず完遂しようとの決意は動いていなかった。

 共産党側が盛んに国共合作復活のサインを出し続けたのに対し、蒋介石は、この年の晩秋、北西剿共軍副指令張学良に全面攻撃を指令、十二月四日、督戦のため西安に乗り込み、副指令張学良および揚虎城らに共産軍攻撃を強化して三ヶ月以内に共産党を殲滅せよと厳命した。張学良が剿共作戦に不熱心だったからである。これが、再度のしかも共産党主導の国共合作への流れを促したのである。既に指摘したように張学良は、ソ連・コミンテルンや支那共産党と通謀していた。剿共作戦を中止して国共合作を回復し、「抗日戦争」に立ち上がろうと決意していた。ここに張学良の一世一代の大芝居が突発する。西安事件である。この事件は東アジア情勢の大転換点だ。事態の推移を時系列で確認しよう。

 ①一九三六(昭和十一)年十二月四日、総司令蒋介石、督戦に飛行機で西安に到着。この日から、張学良は剿共作戦を停止して国共合作を復活し「共同抗日」に立ち上がろうと蒋を説得し続けた。だが、蒋は頑なにそれを拒否して剿共作戦の即時強力実行を命令する。十二日、張学良は叛乱に踏み切る。陝西綏西司令揚虎城と共謀し、蒋を軟禁した。

 ②その日、示し合わせたように延安から周恩来が西安に飛来。蒋との折衝にかかる。毛沢東指導の延安共産党本部は、「蒋介石誅殺」を決議した。

 ③時を移さず、モスクワからスターリンの支那共産党宛電報が達した。「蒋介石を即時釈放せよ、さもなくんば貴党とは関係を断絶する」と言う厳命だった。蒋介石を人民裁判にかけて死刑に処し、西北抗日防衛政府を樹立する積りでいた毛沢東は、当時の力関係と従来の支配=服従関係からスターリンの命令に屈服せざるを得なかった。この時、延安は勿論西安でも「蒋介石処刑論」が圧倒的だったと言う。毛沢東はスターリンの厳命に接して地団太を踏んで悔しがったと言う。

 ④監禁された蒋介石と周恩来=中共からおよそ六項目の条件を呑まされた(田中正明『朝日・中国の嘘』一一一頁)。監禁二週間目の二十五日、蒋は釈放され、無事南京に帰還した。年が明けて一九三七=昭和十二年正月六日、蒋介石は剿共作戦を中止して西北剿共司令部を廃止した。二七年四月の蒋介石の反共クーデタ以来約十年の国共内戦は停止された。これでスターリンの東アジア戦略=日本帝国主義と蒋介石を激突させる戦略は軌道に乗ったと共に、支那共産党は殲滅の危機から脱出したのである。そして、西安事件の次に遣って来たのが盧溝橋事件である。

つづく

「「『昭和の戦争』について」(八)」への13件のフィードバック

  1. 「『侵略』ではないかもしれないけど」

     支那大陸全体に軍隊を展開させて、支那全土を戦火に巻き込んだこと自体が不問に付されれるということはないでしょう。。。

     渡部昇一氏などは、開戦責任は支那にあると主張しているし、昭和史研究所代表の中村粲さん(獨協大学名誉教授)などは、支那事変を仕掛けたのは中国共産党軍であることを詳細に実証しています。。。

     それはそうなのでしょう。。。

     しかし、相手から仕掛けられたとか、あるいは、第3者の謀略だったとしてもですね、だからといって、支那大陸全体に軍隊を展開したことが完全に正当化されるということではないでしょう。。。

     明らかに、日本は支那大陸に侵攻しているのですからね。。。

     ただ、その責任がすべて日本にあるという論は明らかに間違いでしょう。。。

     先に仕掛けた支那側にも責任があるし、また、日本軍と国民党軍が戦火を交えるように謀略を仕掛けた中国共産党軍の責任も厳しく追及される必要があります。。。

     つまりですね、支那中共が、「日本軍は過去に中国の民衆を戦渦に巻き込んで苦しめた」と因縁を付けてきたら、「それは申し訳なかった。。。ただし、戦乱を起こした張本人はあなたなのですから、その責任も感じて中国の民衆に謝罪するべきでしょう」と切り返せばいいのですね。。。

     さらに、「蒋介石だって、日本軍だって、両方とも戦争する気なんて無かった。。。それを、共産党軍が謀略によって無理矢理に戦争に引きずり込んだのであって、そのような悪行については日本にも台湾にも謝罪して欲しいものだ」と付け加えれば、向こうは言葉に詰まってしまうでしょうね。。。

     「つまりは、中国民衆は、中国共産党軍、国民党軍、日本軍の3者によって苦しめられたのであり、この3者で共同の謝罪決議をしようじゃないか」とまで持ちかけてみたらどうでしょうか?

     まあ、日本だけが悪かったわけではないことを、まずは、自虐史観を「相対化」することが肝要ではないかと思います。。。
     それが、自虐史観の洗脳を解くきっかけとなるでしょう。。。

     日本の正義だけを強調するだけでは、なかなか多くの一般人を納得させることは難しいかと思われます。。。

    (それに、侵略かどうかを証明することが歴史学の本分であるとも思えない。。。むしろ、ある主観を全面に出してしまっている研究であるといえるかもしれない)←学問研究は、まずはなるべく中立性的な立場から取り組む必要があります。。。その結果として、「侵略ではなかった」となるならかまわないのですが。。。

  2. 皆さんが言われるように、侵略戦争ではないといいたい論文という気がします。
    わたしは、戦争には侵略戦争と自衛戦争という区別があるとは思いません。負けた国は侵略者と蔑まれ、戦勝国は自衛戦争を勝ち抜いたと宣伝する。ただそれだけです。
    侵略戦争=悪。自衛戦争=正義と言うのも、アメリカの洗脳、東京裁判史観です。侵略かどうかと言うのは、形而上のことで、現実にはあまり意味がないのです。
    イラクのフセインは、クェートを侵略して、第一次湾岸戦争になりましたが、あの時、アメリカが介入しなければ、イラクは歴史上の自国領土を回復しただけだというでしょう。また、アメリカの介入は侵略であり、イラクにとっては自衛戦争だと言ったでしょう。
    WW2も日本が勝っていれば、すべての戦争は自衛で、正義であり、アメリカの介入は悪の侵略行為で、植民地を作ろうとしたものだとなるでしょう。
    侵略戦争でどこが悪い。人類の歴史上、侵略戦争だらけではないかと、開き直るほうが、現実的でしょう。

  3. 昨年、大正十年生れの村の老人の回顧録の編さんを手伝っていた時
    村の人々がお寺の境内でお祭り姿の記念写真を見せてもらった。
    二人の地主さんを中心にして老若男女150人くらいが真剣な眼差し
    を向けて映っている。年寄りや壮年以外の青年や子供の男子は皆、
    顔にヒゲや眉を書き白い化粧を施している、額には鉢巻きをして、
    お祭りなのに楽しげに笑っている顔がない。一様に凛とした気配が
    漂っている。老人にこの写真の由来を聞くと「御大典の写真だよ。」
    という「ゴタイテン?」私は意味が分らなかった。
    「御大典というのは大正天皇が十五年に崩御し三年の喪が明けて昭
    和天皇が即位したのを祝ったお祭りなんだよ。」
    昭和三年の秋、十一月のことだという。後日ネットで検索すると日
    本全国で行われたことを知る。

    昭和三年といえば福地先生の本稿で「満州某重大事件」=張作霖爆
    殺事件が起きた年である。情報も今程ない時代とはいえ国家を取巻
    く世界情勢に人々には不安もあっただろう。人々は天皇陛下の下、
    貧しさの中にあっても国の平和を願ったのだろう。前列にあぐらを
    かいて居並ぶ子供達の一人が老人で写真に映る人々の名前を教えて
    くれた。今は皆、先祖としてそれぞれの墓の人となっている。
    そして居並ぶ子供達は兵隊として出征し、何人かは戦死を遂げ今は
    お寺の墓地に眠っている。彼も志願して北支に渡り八路軍と戦い終
    戦の決った後も邦人居留民脱出の為、急襲するソ連軍と戦ったとい
    う。戦友の遺骨と共に帰還したが敗戦後の疲弊し物資の乏しい社会
    にあって家族の為、社会の為に奮闘してきたことを知った。

    思わず、もっと早く知りたかったと彼に言った。そして、そうした
    ことを知らされず、ただ自己の豊かな生活だけを追い求めてきた自
    分の不明を恥じた。20代はじめ中国の文化大革命を称賛する先輩の
    言に振り回されたことを恥じた。「共産主義?所詮、賄賂の世界な
    んだよ。」と同じく戦中派の伯父が喝破した。そして老人の回顧録
    のあとがきに「聖戦だと思って戦った戦争は今は侵略戦争であった
    と言う。私達は何の為に生命を賭けて戦ったのか。五年間の戦闘で
    多数の戦友諸氏が亡くなった。この人達に侵略戦争だったと今更言
    えるだろうか。」
    老人は戦後、落ち着いてきた頃、戦死者の慰霊碑を建てようと石材
    を用意し寺の若い住職に相談に行ったら、場所がないと一蹴されて
    しまったそうだ私も含め戦後教育の不明を痛切に感じた。

    自国の歴史を曲解し、先人の営みを知らず、横柄な態度で先人を卑
    しめ不遜な生き方では決して真実の幸福は得られないだろう。
    先ずはこの国を培ってきた先祖先人に対し敬意と感謝、尊敬を持つ
    ことが、この国の背骨となって誇りある日本国として世界から認め
    られると思う。・・新しい歴史教科書は背骨をつくるものだと思う。

    福地先生、頑張ってください。

  4. 「それはちょっと乱暴でしょう」

     侵略かどうかどっちでもいいとなると、今度は侵略で何が悪いと開き直る人がたまにいます。。。

     しかし、それでは、欧米列強の植民地獲得と日本の日韓併合を同列に扱うことになるし、また、ヒトラーの侵略戦争と大東亜戦争を一緒にすることにはならないでしょうか?

     これこそ、自虐派の思うツボでしょう。。。

     そんな乱暴な論理で、一般の人を説得出来るのでしょうか?

     どの国も侵略してヒドイことしているから一緒だ、日本だけが悪くない、そんな論法で子供に歴史を教えるのですか?

     そうではなくて、日本には日本の事情があったことをちゃんと教えるのが、本来あるべき歴史教育の姿ではないでしょうか?

    (東京裁判史観に対するアンチテーゼとしての歴史研究というのは、それはそれで動機としては問題ないと思います。。。ただ、それにあまりに囚われすぎてしまうことに注意が必要だと指摘しているのですね。。。)←私も、社会学では「アンチフェミニズム」で研究しています。。。ただ、バランス感覚を考えて研究するように気を付けていますが。。。

  5. 初めて書かせて頂きます。
    M78さんの意見は別に「開き直り」を奨励する物ではなく、
    戦争を区分するのに「侵略」と「自衛」という区分が既におかしい
    という事だと思いますよ。

    戦争に侵略も自衛もなく、あるのは戦争があったという事実と、勝った国、負けた国が存在する、ということだけ、ということでしょう。

    侵略と自衛という区分で議論するのではなく、
    どっちから手を出したかという事も含めて、何故戦争するに至ったか、
    ということを議論すべき。

  6. 福地先生に是非お尋ねしたい事があります。
    それは、ゾルゲ事件の尾崎の調書についてです。
    大東亜戦争はアジア共産化の為の戦争であったという説は果してどうなっているのでしょうか。
    アジア開放や自衛戦争論よりもこの辺りに興味を持っておりますが、素人には厳しいです。
    中川八洋教授が執筆していますけど、余り主力な説にはなっていないみたいです。
    御多忙かと察せられますが、どうか御指導の程宜しくお願い致します。

  7. <続き①-2>   Posted by 東埼玉人

     日中国交回復と言えば、先ず田中総理の「謝罪」が問題となるだろう。
     周恩来総理主催の宴席における田中首相演説の該当部分は、次の通り。

    「…過去数十年にわたって,日中関係は遺憾ながら,不幸な経過を辿って参りました。この間わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて,私はあらためて深い反省の念を表明する。……」(1972年9月25日)

     また、日中共同声明には、次の通り記されている。

    「日本側は,過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し,深く反省する。」(1972年9月29日)

     共同声明に文章化されたことは問題であるが、本来この「謝罪」自体は、それほど大きな問題となるものではないと思う。
     先ず、これは「謝罪」ではなく「反省」である。
     我が方の意図は、首相演説にある通り「中国国民に迷惑をかけた」ことに対する反省であるが、中国側との交渉の結果、「戦争を通じて」「重大な損害を与えた」と、より具体的な記述を求められた跡が窺える。しかし、当方は、日本の戦争行為が中国国民に「迷惑をかけ」「損害を与えた」ことを「反省」しているが、それが「侵略」故であるとは認めていない。
     この「反省」に「謝罪」の意味を込めるとすれば、それは中共政府に対するものではなく、あくまでも中国「国民」に対するものである。それは、毛沢東が「日本が中国を『侵略』したお陰で我々は政権を獲得できた」と語っているのに対して、日本側の道徳的優位を証する根拠となるものである。ところが、その自覚が欠如しており、逆に中国側に「日本の反省の不十分さ」を言い立てられ、膝を屈してきたのである。
     
     戦後、日本人の間に素朴な中国に対する贖罪意識が存在する。それは必ずしも東京裁判史観や中国側のプロパガンダによるものだけではなく、大陸における戦乱が一般中国人に与えた惨害を見聞してきた日本将兵達の意識によるものがあると思う。中国における戦争が「侵略」か否か以前の問題として、日本が関わった戦争がかの地に与えた被害について感じる、日本人としては自然の意識である。(加えて、日本の政略戦略が適切さを欠き、敗戦によって親日政権とその関係者を窮地に陥れ、満洲国を滅亡させた責任もある。)
     そのような日本人の意識の表明としては、日中国交回復の時点における「反省」の弁は、最適とは言えないとしても、まずは妥当なものだったのではないか。それは、台湾との条約では問題にならなかったところの、しかし大陸中国との戦争終結においては無視し得ない日本人の心理に応えるものであったと思う。

     問題は、戦争状態の終結にとって重要なことは、決して心理的側面ではなく、国家関係を律する法規上の冷徹さだ、ということである。

     当時、中ソ対立が激化し、中共政府はソ連圏から離脱していた。そのため、日本と中共政府との間に、サンフランシスコ条約の当時と異なる関係が生じていた。つまり、日華平和条約=サンフランシスコ条約と近い線で大陸との戦争終結を実現する機会が訪れていたのである。ところがニクソン政権による電撃的米中接近の煽りを受け、バスに乗り遅れるなとばかりに中国に接近し、日本にとって有利な条件を見失っていたのである。
     そのため、中共政府の巧みな策略に誘導され、1978年の「日中友好条約」の締結に際しては、大陸との戦争終結において本来は大前提とすべき日華平和条約を自ら無効としてしまったのである。それは、「戦争終結」とは、サンフランシスコ条約が体現している通りの「過去の清算」に他ならないことを、忘れ去る結果となった。

     その後の対中屈服から村山談話以後のことは述べるまでもない。

     今日、中国からの内政干渉と闘う大前提として、対中国戦争終結の本来の法的意味に立ち返るべき所以である。              <続く>

  8. 福地先生
     「この年十月七日、広田弘毅外相(岡田内閣=同内閣は翌年二月の事件に遭遇)は、蒋作賓駐日支那大使と会談、日華提携の前提条件①排日運動の停止、②満州国の黙認、③共同防共=赤化防止政府を提示(広田三原則)したところ、支那大使は概ね同意した。しかるに蒋介石は戦後の回顧録『秘録』(十一巻、七〇―七二頁)で、広田三原則に同意した覚えは無い、広田が勝手に「支那も賛同した」と公表したのだ、我々は否定していた、と述べた。だが、「東京裁判」で日本を悪者に仕立てるために辻褄を合わせる虚偽の証言である。支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく」

     とありますが、「この支那大使が概ね同意した」、とは何を根拠に述べておられるのでしょうか? 
     外交史料館所蔵の「〔広田〕大臣、蒋大使会談要録」(1935年10月7日)には、
     (一)排日取締ニ関シテハ今後実際国民政府ノ局ニ当ル者ニ付キ、見ラレ度…
     (二)満州国ノ独立ヲ事実上認ムヘシトノ御意見ニ関シテハ自分限リテ決定シ応答スルヲ得サルニ付何レ本国政府ヘ申シ越スヘシ
    (三)赤化勢力ニ対スル共同方策ノ点ニ関シテハ直チニ其実行ノ必要アリヤ又其ノ方法及地域等ニ付キテハ直種々考究ヲ要スル点多カルヘシ

     とあります。この「明白な史料」を読めば、普通の歴史研究者なら、蒋作賓大使が、広田外相の要求に対し、言を左右にして言質を与えなかったことが理解できます。なお、こうした外交文書は、外交史料館に行かずとも、「アジア歴史資料センター」のホーム・ページから誰でも簡単に検索できます。どうか、ご覧下さい。「支那人は明白な史料が残っていても平気で嘘をつく」とまで断定なさるのであれば、第一次資料を確認する必要があるのではないでしょうか?
     なお、この他の部分でも、「支那国民党」(正式名称の「中国国民党」をわざわざこういう必要はないと思いますが)は、1923年10月に成立したのではありません。成立は、1919年です。
     中国共産党の「八・一宣言」は、「三五年八月一日に…支那全土に発」せられたものではありません。「八月一日」は、文書作成の際に加えられた日付にすぎず、公表は同年10月、パリの中国語新聞においてです。これらの事実は、中国現代史研究者の間では、自明の事実です。
     歴史の「評価」は別にしても、「事実」について、もっと検証がなされるべきです。

  9. 戦争を淡々と語ることが難しい。
    前年前の戦争ならまだしも、WW2のことを事実だけで述べることも難しい。経験者もその感情から抜けることはできない。

    わたしが言いたいのは、戦争に侵略とか自衛はない。すべての戦争を、侵略と名づけることもできるし、逆にすべての戦争を、自衛と言い張ることもできる。
    侵略戦争はだめだが、自衛戦争はいいというのは矛盾である。すべての戦争が、侵略であり、しかも自衛なのであれば、すべての戦争を、正義とも悪とも決め付けることができる。つまり、現実には無意味、形而上の争いに過ぎず、アメリカから自衛を正義と教えられた、戦後日本の教育から、一歩もはみ出していない。

    また、ヒトラーを世界を破壊した狂人のようにとらえるのも、アメリカが映画などを通して、世界中に広めたプロパガンダである。日本のみ正義の戦争で、ドイツの戦争は邪悪と決め付けるのも、アメリカの対ドイツ洗脳を、無邪気に信じているに過ぎない。

    結局、戦争に正義か悪かを導入すべきではない。それを導入すると、もう客観的な歴史ではなくなる。

  10. フビライが日本へ侵攻をしかけた、こりゃ良いとも悪いともいえない。そうゆう時代なのだ。
    しかし、いま進行中のイラク戦争は、こりゃ悪ぃ戦争である。

    正義の戦争か、悪の戦争か、これは時代時代によって違う。
    今は兵器が発達し、残虐性も酷くなった。今後の世界は、戦争で決着をつけるのではなく、世界的なルールの構築が求められている。その中で、ルール無視で戦争を仕掛けるのは、これは悪の戦争としなければなるまぃ。

  11. Posted by 松田

        国家は神聖である

     やはり福地先生は一種の自虐史観だと思います。
     戦勝国は勝ったわけですから、その勝利におっ被せる形で、わが方ははじめからすべて見通していた、相手はそれに気づかずに、こちらの術策にまんまと嵌ったのだと打ち明け話してみせるのが常です。そうやって相手の敗北感にさらに知的な優位を誇示して追い討ちをかけるのですね。
     福地先生やその他の論には、戦後アメリカやソ連が出してくる秘密文書みたいなものを根拠に、ほれ見たことか相手方ははじめからこちらを陥れる気でいたのだ、こっちはトンマだったから、それにひっかかてしまったのだという主張が散見されます。
     たしかに、これが個人の場合であったら、そんな狡智な作戦を隠し持っていて、他人を陥れたのなら、そいつは悪いやつだということになるのですが、国家同士の場合は違います。もし騙されたとしたら、騙された方が悪いのです。たとえば、会社が巨額の詐欺にあったとして、世間は詐欺師の悪辣さを責めるでしょうか?あるいは、その会社の危機能力のなさを責めるでしょうか?おそらく、その会社が大きな会社であればあるほど、後者だと思います。国家であればなおさらのことです。

     国家は無論個人ではなく、会社という任意の組織でもなく、理念的には至高の存在として、完全体であることを要求される組織であると思います。これはなにも絶対主義とか全体国家とかの特別な形態とは関係なく、どんな小国家であっても、どの時代であっても、近代国家とは完全を前提されている存在( sovereignty )だと思います。なぜなら、近代国家においては、すべての正義と法と秩序の源泉が国家であり、いわば神のかわりにあるのが国家だと思うからです。ですから、神と同じくひとつの完全体として表象されるのだと思います。

     ですから、国家が騙されたとか、してやられたとかいう話は、全然民族的でも愛国的な話でもなんでもないと思います。西洋人や中国人の狡智にまんまと騙され、後手後手で自衛に徹して、さいごには負けてしまったなどという日本国家論は、左翼の描く侵略戦争を戦って無惨に負けた国家よりも、なお劣等な存在としてわが国を位置づけていると思います。ちょっとそのあたりの学校右翼的な発想は完全に入れ替える必要があると思います。

       二・二六事件

    >大陸政策のギクシャクに激しい危機感を持った日本内地の陸軍青年将校の政府転覆のクーデタ未遂事件=(一九三六=昭和十一年)二・二六事件が起こった。

     ここではたった2行で済まされてしまった2.26ですが(日中戦争の記述なので当然かも)、一般にはいろいろ誤解されている事件だという気がします。私も詳しいわけではありませんが、興味のある方はぜひ松本清張氏の『昭和史発掘』(3,4)5-13 をお読みになってみられることをお勧めします。世間でいわれる皇道派と統制派という対立も、思想的な対立とはいいがたい面があったことがわかると思います。また、この事件においては反乱軍が若き昭和天皇を拉致しようと計画していたこともあまり知られていないと思います。

  12. 基本的にM78さんが正しく。ジョーイは間違っている。
    「侵略」も「自衛」も単に当事者にとっての主観的なものに過ぎない。

    好い加減に『試合には負けたが、勝負には勝った』論法は止めてもらおう。女々しいにも程がある。一言「おうよ!あの戦争はあんた達の勝ちだよ!」って潔く言うべきだ。

    中には左翼のように「僕達の戦争は正しかったですか?」とわざわざ東南アジアに赴き証言を集める東中野修道氏のような馬鹿がいる。

    考えてもみるがよい。自分の父が決闘で負けて死に際に息子に「俺は負けたが間違ってはいない!」。天晴な父親である。
    ところが「その事を決闘を見ていた周りの人に確かめてくれ!」などと言ったら、さすが息子でも穴を掘って入りたくなるだろう。

    福地論文の類なぞは単なる歴史的事実(誰でも本を買えば分かる)を恣意的に解釈しているだけの噴飯物。原因となった前史を知らなければ駄目だと言うが、その前史を形成したであろう前史はどうなるのか?どこまで遡る気か?

    A・J・P・テイラー著『なぜ戦争は起こるのか』(新評論)が一番まともな歴史の見方を提供している。
    パターンは「○年に何が起こった。○の観点から観るとこう解釈出来る。◎の観点からはこう。それで常識的にはこうなるはずだが、そうはならなかった!ビックリ!多分その『一因』はこうであるだろう」の繰り返し。彼が「原因」という言葉を使うのは何かの観点に立ってと断った時だけである。

  13.  森さんの仰っていることは大体正しいと思うが、一箇所だけおかしい。「侵略」「自衛」という判断は当事者にとっての主観的なものではなく、客観的に区別可能なもの。むしろ主観が入るのは、「侵略」か「解放」かの違いであろう。

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