足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取
――MFICとサブプライム問題の教訓<ある日本人が西半球で投じた一石>
その青年は銀行から語学研修生としてラテンアメリカのある街に派遣されていた。
街の物売りと親しくなりその家に招待されることになった。質素だが心のこもった夕食と楽しい会話のひとときが過ぎ、辞去する時間になった。その時、その家の小さな子供が青年に話しかけてきた。「お兄ちゃん今度はいつきてくれるの?」「お兄ちゃんが来てくれたので今晩お母さんが半年振りにお肉の料理を作ってくれました」と。肉料理らしいものが出てきた記憶はない。ふと思い出したのは、スープの中にそれらしい小さな破片が浮かんでいたことであった。このときのことは青年の心に刻まれ、その後も消えることはなかった。
青年はその後、四半世紀の銀行員生活を国内勤務を挟みラテンアメリカ諸国、そして米国で過ごした。
2003年、彼、栃迫篤昌氏はワシントン駐在員事務所長を最後にその銀行を辞した。同年、彼は米国で働くラテンアメリカからの移民のための金融機関、Micro Finance International Corporation (MFIC)を設立した。
米国にはラテンアメリカからの移民5千万人が働いており、彼等の母国の家族への送金額は年間合計で530億ドルに達している。ところがそこには多くの問題が内包されていた。その一つは、一般の金融機関が課している送金手数料が送金額に比して著しく高いものになっていることである。それは彼等移民の送金一件当たりの送金額の12~16%に及んでいた。
それよりもっと深刻な問題があった。それは5千万人の移民のうち3千万人が銀行口座を持たない(持たせてもらえない)”unbanked”の人々であったことである。日本人にはピンとこないが、小切手社会、カード社会の北米で銀行口座を持たないことは致命的である。ホテルのチェックインもカードなしにはままならないのである。”unbanked”の移民は受けとった賃金の小切手を現金に換えるために手数料を取られてしまう。”unbanked”の移民が働いて得た賃金200ドルを故国の家族に送金するとなると、賃金小切手の現金化手数料に20ドル程度の送金手数料が差し引かれ、国で家族が送金を受け取る際にまた手数料が取られる。
それやこれやで、当初の200ドルが家族の手に渡るときには130ドルになってしまう。実に70ドルが失われてしまうのである。
MFICは、この移民にとってはとうてい納得できない情況を是正することをビジネスの中心に据えていた。そこには彼、栃迫氏の長年の経験から、真面目に働き、定期的にきちんと郷里送金する人々は信用出来るという理論をベースとしていたのである。彼等移民はMFICの顧客になることで、小切手現金化の必要もそれに伴う手数料支払いも不要になった。
送金についても情報通信技術の進歩を活用したコスト削減により、1件当たりの手数料を一律9ドルとし、150ドル以下の送金については一律6ドルとした。こうしたことで移民の送金手数料負担の軽減を実現させた。MFICの移民顧客の多くは定期的にきちんと郷里送金する人々であり、それは貴重な情報として蓄積される。
こうした情報をベースにMFICは、愈々こうした顧客に対するローン即ちマイクロファイナンスを開始した。
従来彼等移民が借りることの出来る先は高利貸しくらいしかなく、その高金利は彼等の生活を圧迫し、貧困からの脱出の障害となっていたから、MFICによるマイクロファイナンスの実施は大きな恩典となった。真面目に働き、きちんと故国の家族に定期的に送金する。そしてきちんとマイクロファイナンスの利払いと返済を履行する。そうした一連のビヘイビアは,顧客である移民の経済的な向上のみならず社会的信用の向上につながる。こうしたことは、ラテンアメリカからの移民の個人のintegrity(誠実さ) 規範意識を育み、ラテンアメリカ移民の米国社会における社会的経済的な地位の向上につながることになろう。
こうしたことを考えれば、MFICは貧困からの脱出の道を提供していることになるのではないだろうか。
MFICは更にラテンアメリカの国々においても地元の金融機関とタイアップしてマイクロファイナンスを開始している。MFICの顧客となった移民達からは、「初めて人間らしい扱いをうけた」と言う声が上っているという。
MFICの活動は注目され始めており、ビジネスウイークが採り上げた他、米政府機関OPICが4百万ドルのクレジットの提供を決め、オランダの政府開発機関FMOも総額4百万ドルの投融資を2007年12月に実施している。近代、現代の最大の問題の一つは貧困の解消であろう。革命は解消策の答えにはならなかった。先進国や国際機関からの援助も十分満足すべき成果は得られていない。
そんな中MFICのうごきは瞠目すべきものがあろう。
マズローの法則から考えると、MFICは単に最低限の生理的欲求を満たさせているだけではなく、より高次元の自己実現を満たすロードマップを提供している点が、目先の生理的欲求の解消に力を入れがちな援助とは異なるのではないか。そして、ラテンアメリカの移民のため「経世済民」に寄与する一方、市場メカニズムによる資源の最適分配機能を十分生かし、利益を確保し事業を存続発展させようとしているからではないだろうか。
勿論この事業を推進している栃迫氏を、その仲間が自己実現の動機として燃えていることは言うまでもない。
<サブライム問題の本質>
MFICが米国でラテンアメリカ移民のための事業を展開していた同じ時期、米金融界は、サブプライム・ローン債券を作り大量に販売していた。それはやがて米国と世界に災厄をもたらすことになる。
サブプライム問題が内包するものは、以前に起きたエンロン、ワールドコム事件の持つものよりも遥かに深刻である。両事件は共に企業による虚偽の財務内容開示により投資家、市場に損害を与えた事件であるが、当局は直ちに規制強化を行い再発防止策をとっている。
これに対してサブプライム問題での様相は全く異なる。
サブプライム・ローンは、低所得者層向けの住宅ローンで、当初2年間だけ金利条件、返済条件を緩めたローンである。その条件緩和経過後の金利、返済条件は借入人の所得では賄えないのもである。ただ当該ローンの担保価値に余裕がある場合には「追い貸し」で表面的には利払い、返済が行なわれる形を取る。あくまで不動産価格が上昇することを前提にしているローンで不健全なローンである。即ち借入人の収入で利払い返済が成り立たないこの様なローンは、会計原則からも当局の銀行検査査定でも正常債権とは認められない性格の筈のものである。投資銀行(investment bank)や銀行など米金融機関はこのようなローンを証券化し大量に投資家に売りさばいていたのである。
これは不動産価格上昇のストップによるデフォルトのリスクを常に内包するマルチ商品にも類似した点のある商品なのであり、「ババ抜き」ゲームの性格を有する。実際に破綻が起き、先物で大量に売り予約を結んでいたGoldmansachsは膨大な利益を受け、一方多くの投資家、金融機関(日本の金融機関も含まれる)は損失を蒙った。又この証券を組み込んだ金融商品など派生商品の規模は不明である。
投資家、金融機関は大きな打撃をうけている。しかし最大の被害者は、このローンを借りた低所得者層ではなかったのか。
一時的な豊かさを享受した後、債務不履行(デフォルト)により彼等の生活はローン借り入れ前よりも苦しい生活を余儀なくさせる。デフォルトは彼等の信用を失墜させ経済的にもならず、社会的な面でも打撃を与えよう。それは米国社会の基盤を弱体化させることにつながるだろう。
このように、債権化の対象となるローン自体に不正常さを内包し、経世済民にも反する商品を米金融界が生み出し、大量販売し、米国のみならず世界の経済を揺るがしている。この様な商品が、会計制度、銀行監査制度、連邦準備制度理事会、連邦政府、議会で問題になることなく大量販売されてきたことは極めて深刻である。
サブプライムローン債券を生みだした米金融界の発想はMFICの理念と対極にある。市場原理逸れに基づくボーダレス経済は米国においても無制限に許容されているわけではない。2005年中国石油会社CNOOCは米国の石油会社UNOCALの買収にのりだした。これに対して米議会は反対の決議を行い、買収は断念されたのである。外国企業の米国内投資、米企業買収に係わる審査委員会CFIUSについても米国の国益の観点から審査の厳格化へ向けての動きが強まっている。
本来サブプライム・ローン債券は、経世済民、公序良俗の観点から規制されたとしてもおかしくなかったのである。
<生存と繁栄へのローフォマップ>
サブプライム問題が衝撃を与えた理由の一つは、この様な性格の商品が金融界で考案され販売されたことにある。
洋の東西を問わず、金融機関は融資の基本を、公共性、安全性、収益性に置いてきた。公序良俗は総てに優先するものであった。米金融界はその対極にまで来てしまっていたのである。
Max Weberは近代資本主義の担い手である経営者の精神を神への信仰、奉仕に求めた。日本の近代化の担い手であった企業家達にも同様なものが窺えた。企業家だけではなく、一般庶民の大層も、職業、生業を金だけではなく、「世のため人のため、国家・社会のため」であるとの思いがあった筈である。
この企業の社会的責任、使命感という点が失われつつあるのは日本も同様である。企業の不祥事が社員の内部告発で明らかにされる。従業員が企業、経営者を告発することには公序良俗の観念が従業員に保たれ経営からは失われていることを示している。そこには次の様な背景があろう。資本と経営の分離、資本の経営に対する優越が大きく進んだ今日、企業と経営者の評価は収益のみで計られる。株主は絶対であるのであるから。かつての日本企業は、株式持合い、銀行による株式保有による安定株主にすることで株主の関与を排除してきた。それが、グローバルスタンダーンダードの掛け声で持ち合いや銀行の株式保有が解消され、資本の絶対優位が確立し、企業、経営の評価は収益だけが基準となった。その面でもグローバル化したのである。
後述の通り日本では個人が株式投資を敬遠することもあり、株式投資の6割以上が外国人になることになる。このことを含め、資本市場の高度化で、機関投資家、各種ファンド、投資顧問業などの当事者は益々増加し、資本市場、経済の共通言語は企業の収益のみになり、企業経営から国益、公共性、公序良俗は失われる危険が高まったことは否めまい。
更にここへ来て重要な問題が生じつつある。
市場原理は資源の最適配分には最も有効な機能を有する。だが、それは前に述べた通り「一定条件の下で」と言う前提があり、市場原理以上に重視されなければならない要素つまり問題があることが明らかになりつつある。
それはCO2問題に代表される地球環境問題である。
米議会の諮問機関USCC(米、中国経済安全保障レビュー委員会)の2006年2月開催公聴会で中国のエネルギー効率は米国の1/3、日本の1/10であると証言されている。日本や米国が市場原理に則り、自国製品の購入を中国製品にシフトしてきたことは、CO2、環境の面で地球環境をそれ以前に比べ格段に悪化させていることにもなる。輸送に要するエネルギーを加えると逸れは更に悪化していることになる。市場原理のみに任せておくことはもうできなくなりつつあり、卑近な例では近郊で栽培される野菜と海外で大量生産される野菜は価格だけが決め手とはならないのである。
自動車の排気ガス規制が各国で導入されているが、地球的規模で産業に於けるCO2の排出規制は喫緊の課題である。
ヨーロッパでは、商品の表示に価格以外に店頭にもたらされるまでの消費されたCO2消費量を表示するようになってきているとのことである。市場メカニズムに総てを委ねる経済では人類は滅亡しかねない。この様な時代、現代としてこの環境問題をどう克服していけるか、ごく限られた身近なテーマからアプローチしてみたい。
日本人は預貯金志向が強くリスクへの大きい株式投資は好まないとされるが、本当にそれだけなのだろうか。前述の栃迫氏がMFICの設立に当たり最大の難関となったものは、金融機関設立の要件を満足させるだけの資本金を集めることであったことは間違いなかろう。栃迫氏はこの事業が収益だけではなく、ラテンアメリカの移民のための、「世のため」の事業であることを説明し、且つ収益計画を持ってプロスぺクタスとし、各方面に説明したのである。かくして多くの日本人は出資によりこの事業に参加する意思を示し、資本金は予定通り集まったのである。
これは、彼等が金だけではなく「世のため」になると言う明確な事業を支援することで、自己実現を図れるからであろう。栃迫氏は、その後も株主に対して、事業の展開と収益状況、将来の展望・計画を定期的に報告し説明し、コミュニケーションの徹底を期している。
株式投資や金融資産での運用は「儲け」だけを目的とする意味しか持たない今日、仕事を金だけではない「世のため」であるべきという気持ちを抱く一般の日本人がこれらを敬遠してもおかしくはないであろう。
上述のごとくCO2問題に集約される、環境・エネルギー問題は、人類存亡に係わる問題である。そのためには資源分配を市場メカニズムのみに頼ることは出来なくなった。またそれと同様に、環境・エネルギー問題のために産業、インフラ、生活様式などあらゆるところで抜本的な転換が求められるようになった。要する資金も膨大なものとなり、株式などエクィティー(自己資本)ファイナンスによるものが求められるとともに市場原理だけに依存していては上手くいかない状況になった。これからは人々が儲けだけではなく、「世のため人のため」「地球のため、後世のため」に出資することで事業に参加し、自己実現を図る事のできるロードマップを提供されなければなるまい。
今日日本を覆う「閉塞感」は、利益だけで自己実現の場が失われていることに起因するのである。
産業界、金融・証券界、そして政府の向かうべき方向は明らかであろう。そこに日本再生の鍵が存在している。
文:足立誠之