ドイツ大使館公邸にて(二)

 「ドイツ大使館には今までにおいでになったことがありますか」と大使が私に尋ねた。私は若い頃必要があって大使館を訪れたことは勿論あった。たゞ今日のように「公邸」に来たことはなかった、そう申し上げた。「留学生でしたから文化部長は会ってくれましたが、大使にお目にかゝる機会はありませんでした。」

 そう言いながら私はカーテンの外の暗い庭を見つつ思い出すまゝ遠い歳月の彼方をまさぐるように往時を振り返った。そうだった。私は自分が留学生であったときには大使館にたびたびは訪れる必要がなかった。留学生ではなくなってからむしろ日参した日々があったことをふと思い出した。さりとてその場でシュタンツェル大使に詳しくお話するようなことでもなかった。

 私が最初の留学から帰国したのは1967年だった。それより10年くらい後のことになるが、ドイツ政府交換留学生(Stipendiat des DAAD)の試験官を頼まれて、数年にわたり、春になると大使館に赴いた。試験で選ばれる人々は35歳以下の日本のドイツ語学・文学関係の大学の先生たちで、上は助教授クラスから下は大学院修士在籍中の学生までが含まれていた。

 試験官はドイツ側からと日本側からとがそれぞれ数人づつ出て、受験者は30-35人くらいいただろうか。ドイツ語学・文学専攻の留学生を選ぶ厳正な試験だった。音楽や哲学や自然科学の関係の選考は私たちとは別の試験官によって日時を違えて行われていた。日本側は私より5年ほど先輩の早川東三氏(後に学習院大学学長になった)がリーダーで、他の選考委員は私のほかには東大や阪大の先輩たちだった。日欧文化比較についてなにかと考えさせられることの多い面白い体験だった。

 あの頃はドイツ語学・文学専攻の研究者志望の人は多数にのぼった。日本独文学会も3000人を超える盛況だった。ドイツに留学するのはまだまだ困難な時代だった。私が留学した60年代半ばにはドイツに来ている日本人はまだ少数で、珍しがられた。ビヤホールでドイツ人から「日本には大学がないから勉強しに来たのかね」などと言われたこともある。

 当時国立大学の私の初任給は1万5300円で、日本より早く高度経済成長をとげたドイツで留学生として暮らす月額給付金は500ドイツマルク、約5万円だった。しかも航空運賃がべら棒に高く、ヨーロッパまで片道68万円もした。月額給付金はドイツ政府が負担し、往復航空旅費は文部教官に限って日本政府がもった。私のケースはこれだった。

 よほどの財産家でもない限り、自費で留学するのは難しい時代だった。だから政府交換留学生制度のこの枠に人が殺到するのは当然だった。両政府が関係したのだから、選抜試験官も日独両サイドから出て、試験はドイツ大使館で行われたのである。そのために文化比較の面白いテーマにいくつも出会った。

 試験は日独別々の部屋で異なる方法で行われた。どちらの側でも筆記試験と口頭試問の両方が課された。日本側は筆記試験を特に重視し、ドイツ側はその逆だった。日本側の筆記試験は独文和訳で、これに70点を与えた。ドイツ側の筆記試験はドイツ語で自由に書く課題作文で、口頭試問との比は多分50点対50点ではなかったかと思う。(このあたりは少し記憶が確かではない)。

 面白いことが起こった。今日お話ししておきたかったのはこのことである。

 日本側試験官はどなたも口頭試問に点数をつけるのを迷い戸惑った。試験官ひとりに10点づつの持ち点が与えられ、各受験生に10-20分程度の応対をするのだが(それだけでも大変な時間である)、いざ採点となると、おうよそ真中あたり、5点か6点か7点かのだいたい三つに集中し、うんといい点をつける人も、うんと悪い点をつける人もいなかった。いかにも日本的な曖昧さにみえるが、会話を交しただけで人を評価することなんてできないというペシミズムが日本人にはあった。だから合計100点に換算しても、点差がつかない。

 それに対してドイツ側は0点から100点まで劇的に大きな点差を与えていたので、合否をきめる決定権はドイツ側に握られてしまう結果になる。

 筆記試験はどうかというと、日本側で出す独文和訳には大きな点差が開いた。私たちはドイツ語の難しい文章を読解する能力を最も重視していた。受験者は大学の先生でも能力はそう高くはなかった。なんでこんな語法や用法を知らないのだろう、と、私たち試験官は採点しながら口々に嘆き声をあげたものだった。(最近は当時よりもっと力が落ちているという話を聞く。)

 ドイツ側の筆記試験は与えられた課題について好きなように書く独作文だった。ある年に「貧困について」という題目が与えられた。受験生はみな知識人である。当然ながらマルクスがどうだとか、日本社会の矛盾がどうだとか、難解なことを書きたがる。当然である。それはそれでよいと思う。

 ところが最高点を取ったのはある私大の大学院修士課程の二年生の女子学生だった。彼女は東京の家賃が高いことについて書いた。世界の他の都市に比べての東京の生活困難の原因はここにある、といったレベルのテーマを、文法の誤りのない平明な長い文章で書き綴った。日本に暮らすドイツ人は身につまされる話題であって、これを喜んだ。そしてとび抜けて高い点を彼女に与えた。

 合同判定会議でこの事実を知って日本側試験官は反論した。彼女の独文和訳の点数が低かったからだ。口頭試問でも学者としての資質の片鱗をうかがわせるものに乏しい、と日本側では判定されていたからである。

 けれどもドイツ側は反論を認めなかった。議論は平行線を辿った。そして合計点により彼女は上位で選に入った。その後彼女がどういう留学生活を送り、今何をしているかを知らない。

 日本の外国語教育は昔から読む能力を最重要視していた。私たちの世代は今でもそういう考え方の人が圧倒的に多い。だから大学が使うドイツ語のテキストは昔は教養主義的だった。しかしあの頃からすっかり変質し、だんだん会話や生活説明のような文章が多くなった。私はドイツ語の文法や読本をかなりの点数出版している。私の作った大学一年生用のテキストにはゲーテやカフカやハイデッガーの文章まで取り入れている。ほとんど例外である。

 東京の家賃の話を平明なドイツ語で綴った女子学生は賢いかもしれないが、この一件は彼女を評価したドイツ側試験官とわれわれとのメンタリティーの違いを強く意識させた出来事だった。

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