ドイツ大使館公邸にて(三)

 私たちは用意されていた食卓を囲んだ。私はシュタンツェル大使の右隣りに、キルシュネライト教授は大使の前に座を与えられた。席にいた方々がみな私より若いひとびとであることに気がついた。

 冒頭、大使が敢えて私に会いたかった理由は、むかし私が書いた「留学の本」が原因であると分った。『ヨーロッパ像の転換』か、あるいは『ヨーロッパの個人主義』かのどちらかだが、どちらであるかは聞き落としたものの、1969年刊のこれらの古い本の話が出てくるのをみると、私とドイツとの関係がつねに40念前のあの時代に立ち還るのを避けることはできないのだと、ことあらためて再認識したのだった。

 しかし私はあの懐しい歳月からすでにはるかに遠い処に生きていた。留学生試験官をつとめたのも1970年代末の出来事である。私は今もなおドイツの思想や歴史に研究目的の一つを置いているが、いわゆる日本のドイツ研究家(ゲルマニスト)の世界からはどんどん離れた表現世界に生きるようになって、60歳を迎えた1995年には、形骸化した関係を切って、ドイツ語学・文学の学会の会員であることも退いてしまった。だから大使館に招かれると懐しさの余りつい思い出に耽ってしまったのである。

 キルシュネライトさんは日本のある所で講演をして、とかく型にはまった文化比較がはやっていることに疑義を唱えたことがある。すなわち欧米人の個人主義と日本人の集団主義、狩猟民族の文化と農耕民族の文化といった類型的観念を歴史などの説明に持ち込むのは無意味だと彼女が語った、という話を私はインターネットを通じて知っていた。そこで、私からそれへの賛意をあえて持ち出して座を盛り立てようとした。

 「集団主義と個人主義の対比を言うのを好むのは、ドイツではなくアメリカからの見方です」と彼女は思いがけないことを言った。そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた80年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると難渋されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。

 私は1982年に日本の外務省の依頼でドイツの八つの都市を回ってわれわれの競争の公正を主張する目的の講演をして歩いたことがある。思い切って座談でその話をした。簡単な説明なので分ってもらえたかどうか不明だが、19世紀末から20世紀初頭のドイツはイギリスやフランスから同じように「集団主義」を非難されていた話をした。当時ドイツの鉄鋼生産はイギリスを追い抜き始めていた。

 「フランスの詩人ポール・ヴァレリーはいまわれわれはドイツの『集団主義』を非難しているが、ドイツの後には必ず日本が台頭し、その『集団主義』の力を示すだろう、と予言していたことがあるのですよ。日清戦争の後のことです。」と私はつけ加えた。「イギリスやフランスがドイツを恐れ、ドイツが日本を恐れた歴史の順序を踏んで『集団主義』がタームになったいきさつを考えると、キルシュネライトさんが仰るように狩猟民族は個人主義、農耕民族は集団主義というような文化類型論はたしかに成り立たないですよね。そして、今の時代はアメリカもヨーロッパも日本もみんながこぞって中国の『集団主義』を恐れ、非難する順序に立たされています。」

 するとキルシュネライトさんは、「中国への期待と恐怖は今に始まったことではなく、19世紀からあり、今お話の順序通りに歴史が流れたわけでもないでしょう」と仰った。それからこれを切っ掛けに、中国論があれこれ座を賑わせた。多くの人の関心が中国に向けられている時代にふさわしい展開だった。皆さんのそのときの話の大半をいま私は思い出せない。これらの会話の大部分は日本語で交されたことをお伝えしておく。

 八都市をめぐるドイツ講演の折に、キールの会場で手を上げ質問に立ったあるドイツ人老婆が私を叱責したエピソードを私はあえて話題にした。この老婆は外交官の夫と共に滞在した戦前の日本を知っていた。「今日のあなたの講演は日本がドイツに匹敵する国だというようなお話でしたが、私はそんな話をとうてい信じることができません。私の知る日本の都会は見すぼらしい木造の不揃いの屋並みで、夜になると提灯がぶらさがっていましたよ。いつ日本人はそんな偉そうな口がきけるようになったんですか。」伺えば彼女の記憶は1920年代、大正時代の滞日経験に基いていた。

 キルシュネライトさんは「今のドイツにはたとえお婆さんでも、そんな認識の人はもうひとりもいませんよ。」と応じた。勿論それはそうだろう。私の講演旅行は1982年で、老婆は80歳を越えた人にみえた。

 一般のドイツ人がどの程度いまの日本を認識しているかはやはり気になる処だったが、キルシュネライトさんが語った一つの小さな事柄が印象に残っている。「一般大衆も日本のことは相当知るようになっています。タクシーの運転手でも富士山の形を知っているかと聞いたら、指で正しく描いてみせたことがあって、いろんなことが広く知られるようになっていることが分ります。」

 この例話は必ずしも日本認識の発展でも深化でもなく、いぜんとしてフジヤマ・ゲイシャの類の詳細な知識の普及の一例にすぎないように思える。80年代に私にドイツのタクシーの運転手が「日本人は禅の精神で自動車を造っていると聞いたが、本当ですか」と真顔で尋ねたことを思い出させた。

つづく

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