ドイツ大使館公邸にて(四)

 シュタンツェル大使は2011年に日独交流150周年を迎えるので、その記念行事の準備にいま余念がない、という新しいニュースを披露された。

 1860年秋に訪れた「ドイツの黒船」という言い方をなさった。私はすっかり忘れていた。「黒船」といえば1853年のアメリカのぺルリ来航のそれと、大半の日本人は考えるし、私も迂闊だった。プロイセンの東方アジア遠征団が1860年に江戸にやって来て、翌年幕府と修好通商条約を結んだ。これが、日独の交流の始まりだった。

 どうやら記念行事を盛り上げるための各種の相談ごとがあってのこの夜の食事会であるらしかった。私は余計な雑談を交してきたが、大使がわれわれを集めた理由の一つはここにあったらしく、座の皆さんは色めきたった。

 キルシュネライト教授は「日本の若い層にアピールするドイツがないのです。それが頭の痛いところです。」としきりに仰った。「日本の若い人の人気度において、ドイツはイタリアにもフランスにも負けているのです。」

 成程そういうことかと私は思った。たしかにお料理やワインでも、ファッションでも、観光地でも、イタリアとフランスは日本における人気でドイツをしのいでいる。しかし、音楽があるではないか。哲学があるではないか。ベートーヴェンやカントのような巨人文化が日本の若い人にも知られている、ドイツのドイツたる所以ではないか。

 私がそう言うと、「西尾先生はドイツで演奏会にいらしたことがありますか。」「最近は行っていません。」「聴衆は老人ばっかりです。クラシック音楽を若いドイツ人は聴かなくなりました。」

 でも、日本の演奏会場が老人ばかりということは決してない。「それに」と彼女はつけ加えた。「カントは誰もいま読みません。私も読みません。」

 「日本で記念切手を出してもらいたいですね。働きかけて下さい」と大使は早大の日本人教授にしきりに訴えていた。「ドイツで記念切手を出させるのは至難の業ですが、日本ではそれほど難しくなさそうですから。」

 私は日本で先年初めて行われた世界ゲルマニスト学会の開催に際して記念切手が発行されて、絵柄が森鴎外だったことを思い出して、そう言うと、この件はみな知っていた。

 大使は「皇太子殿下ご夫妻をベルリンにお招きする計画を秘かに立てています」と仰った。私は「ヨーロッパならご夫妻はきっと喜んで行かれると思いますよ。」と観測を述べた。トンガやブラジルなら行きたがらなかったけれど・・・・・・とは余計なことなので、敢えて言わなかった。

 イタリアやフランスに負けないドイツのアピール度はたしかに大使館側の頭痛の種子らしかった。しかしなぜ若い人にばかり受けることを考えるのだろう。しかも日本人にとってドイツといえば必ずしもプロイセンがすべてではなく、バイエルンもオーストリアも含まれる。ミュンヘンとウィーンは感覚的にとても相互に近いのだ。

 私は昨秋六本木の国立新美術館でハプスブルク展が行われ、若い人で一杯だったことを告げた。毎年正月一日のヨハン・シュトラウスを聴くニューイヤーコンサートは日本では絶大な人気を博す。ウィーンの会場の楽友協会大ホールからのテレビ中継には日本人の姿も数多く映し出されている。「中国ではこんなことはないでしょうね。西洋名画の美術展は毎年日本のどこかでたえず開かれています。これも他のアジア諸国では考えられないことでしょう。」

 十九世紀のオーストリアの名宰相、ウィーン会議の立役者の浩瀚な伝記『メッテルニヒ』(塚本哲也・文藝春秋刊)は、今のヨーロッパでだって出ていないような素晴らしい業績だが、昨年11月に出版されたばかりである。西洋化された日本の文化、学術水準はともかく高いのである。「中国人は西洋文化をくぐり抜けていません。日本人は子供の頃からグリム童話とかアンデルセンに馴染んでいます。これは決定的に大きな差です。」と私は言った。つい先年まで駐中国大使だったシュタンツェル氏は「中国には中華思想があるからそれが妨げとなっている」と答えた。

 私が言いたかったのは、若い人に受けのいい流行現象でイタリアやフランスと競うのではなく、ヨーロッパ文化全体の中のドイツの魅力、EUの事実上の力の源泉であるドイツを堂々とけれんみなく訴えてほしいということだった。

 ドイツの犠牲と忍耐なくしてEUはない。フランスはそれを良く知って用心深く行動している。イタリアはEUのお荷物でしかない。そんなことは日本人はみんなよく承知しているのですよ、と私は言いたかったのだ。

つづく

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