トランプよ、今一度起ち上れ!

WiLL 2023年1月号より

 なぜトランプか――それは彼の自己英雄視のロマンティシズムが時に役に立つからだからだ

高知能、低知性の時代

 米国の中間選挙の投票が終わり、注目の上院の大勢がきまらず、ジョージア、アリゾナ、ネバダの三州の行方が未定の十一月十一日にこれを書いています。予想されていた共和党の圧倒的大勝は下院にも起こらず、民主党は大敗を免れた、と安堵と喜びの声を発するだけでなく、次期大統領選挙への見通しも明るいと言わんばかりの勢いです。

 その際バイデン大統領は一貫して「民主主義」が共和党によって脅かされているという前提に立ってものを言っています。恐らく米国民の半数は、このもの言いに反発しているでしょう。いったい民主主義を危うくしていたのはどこの誰だったのか、忘れているわけではあるまい、と。けれどもメディアは気が早く、トランプの勢いに翳りが出て来たのをここに見て、共和党内部の混戦を予測し、新しいスターとしてフロリダ州のロン・デサンティスの名を持ち上げ始めています。ブッシュやクリントンやバイデンのような職業政治家の嗅味紛々たる常識を打ち破ったトランプの魅力。その大言壮語や子供っぽい所作や芝居がかったパフォーマンスの政治効果は、すでに早くも終りかけているとメディアははやし立てています。メディアはいつでも、どこでも所詮浮気なのです。ロン・デサンティスは若いのだから慌てない方がいいでしょうね。私はトランプの時代が終わったとはまったく思っていません。

 トランプは保守の思想がしっかり身についている指導者です。素朴な家族主義、伝統と信仰への信頼、初め分からなかったのですがいざというときにはっきり示された軍事力への傾斜、しかし彼は戦争嫌いで、一方軍は彼を最も信頼しているという逆説。小さな政府という理念とそれに見合った減税政策、オバマやバイデンには出来なかった徹底的な反中国政策、メキシコとの国境の壁の具体的なリアリズムに現れた確信と実行力、北朝鮮に単身乗り込んだ勇気ある人間力、等々を挙げていけば切りがありません。

 この間あるインテリぶった男がテレビでオバマは教養があり、言葉使いも豊富だけれども、トランプはワンセンテンスの単純な表現力しか持っていない、と言っていましたが、言語の力というものを知らない人間の言うことです。トランプのワンセンテンスの繰り返しには力があり、変化もあり、展開もあり、決して単調ではない。政治家は文学者ではありません。現代は知能指数は高いけれども、知性の低い人がいわゆる政界・官界・企業社会を覆い尽くしています。日本も同様です。オバマは八年間の大統領の立場を利用し、六千~八千人の体制順応派を造り、行政府の高級官僚、裁判所の判事、警察の幹部、目立つ政治家を手なづけ、今の左翼全体主義に導き、アメリカ社会を牛耳りました。彼らが司法省を抑え、FBIを支配し、今やりたい放題に振舞っています。「ロシアゲート事件」はその代表例でした。これはトランプ政権の末期に「オバマゲート事件」と名を替え、新たに告発され、民主党の悪事がとことん白日の下にさらされる切っ掛けとなるところでした。

 政権が変わらない限り法律も新たに動き出さない。法の秩序は普遍中立ではない。これが今のアメリカ社会ではないですか。

 2020~21年の大統領選挙は目も当てられない不正まみれだと日本のユーチューブで言葉の限りを尽くして罵っていたケント・ギルバートさんが、ある日突然同じメディアで選挙に不正はありませんでした、バイデン当選を認めることこそがアメリカ民主主義ですと言い出したとき、私は腰を抜かさんばかりにびっくりしました。手の平を返すような大変身ぶりを見せたのは、あのいつもは手堅いもの言いの古森義久氏にも認められました。いったい今までの自説はどこへ行ってしまったのでしょう。私はしきりに首を傾げました。しかし考えてみるとご両名はアメリカに戻ればアメリカ人として、あるいはそれに近い立場で活動をつづける人々です。右の措置はご両名のいわば運命への屈服にほかなりません。

 二年前、アメリカで何かが起こったことは間違いありません。それはアメリカの建国の理念を揺さぶるほどの、一歩間違えば内戦をも招きかねないほどの大事であったことを世界中の人々は承知しています。国連もEU諸国もみな知っていても知らぬ振りをしているのです。アメリカであれどこの国であれ、代表者が仮面を替え、国内はこれで決まったと新しい仮面を主張し始めたら、どこかおかしいと思ってもその国がそれでいいと言っている以上、他国が口出しする余地はありません。バイデン政権はそのような疑念と不安定の中を船出し、今なお本来の権威を失ったまま走航しているのではありませんか。

 それを見抜いて正確に分析し、自由な立場からアメリカをときに批判しときに教導するのが外国のメディア、日本のような同盟国の言論人の本当の仕事ではないでしょうか。言葉を封じられている病めるアメリカのメディアの口移しそのままの垂れ流しをつづけるだけの日本の新聞・テレビ・出版界のていたらくは見るも無惨というほかありません。

 そこで二年前の現実のアメリカをもう一度吟味し直す必要があります。あのとき何があったのか。トランプはなぜ権力を失ったのか。なぜ正論を貫くことが出来なかったのか。彼は実行力あるリアリストではなかったのか。それとも感情に溺れる空想家だったのか。何処でどう間違えたのか。今あらためて問い直してみましょう。

 私には当時SNS大統領選挙観戦記を書こうとしていたときの生のデータ、耳と目の経験しかありません。でも、その方がかえっていいのです。

堕ちた米民主主義

 振り返ってみてトランプを苦しめたポイントは三つありました。第一に連邦最高裁判所の徹底した無責任、逃げの姿勢です。アメリカがこれほどひどい司法の無力をさらけ出す国とは思いませんでした。無力というより司法の腐敗、堕落、背徳です。

 各州の判事、司法長官のレベル以下の逃げ口上や怠慢はまあ予想の範囲内でした。目の前に不正を見せつけられた例の夜中のジョージア州の一件。開票所の監視カメラが映したごまかしようのないシーン、何千票ものトランプ票がみるみるバイデン票にカウントされる光景を州の公聴会で見せつけられても言を左右する司法関係者を見て、傍聴席は哄笑の渦に包まれたそうです。つまり大衆は全部を知っていて大笑いだったのです。

 問題は、連邦最高裁判所の判決です。トランプは一年も前から最終決定の場として最高裁に期待し、必ずここがやってくれると確信していました。郵便投票のデタラメを罰するのもここしかないと。しかるに判決は一切の理由説明なしの「却下」でした。

 テキサスを筆頭に南部諸州が怒り出しました。北東部のペンシルバニアなど四州の憲法違反を提訴しました。「お前たちの勝手な不正投票で大統領選に番狂わせが起こるのは迷惑千万だ」と。憲法遵守は各州平等の義務のはずです。これはまったくの正論です。テキサスには全国から一斉に拍手が送られました。しかるに最高裁は狂っているとしか言いようがありません。

 最高裁は再び「却下」です。二度目には理由をつけていました。テキサスなど南部諸州はペンシルバニアなどの遠い他州の選挙を問題視する機能がないというのです。単に距離が遠いというそれだけの理由です。小学校の自治会の取り決めですら、こんな理屈はあり得ますまい。

 「廊下を走らないようにしましょう」と全校自治会が決めました。校舎のはずれにある五年生の子は授業が終わると野球やサッカーの道具を持って走り出します。違う建物の三年生の生徒から出口でぶつかって痛いと声が上がり、自治会にこれを止めさせてほしいと提訴しました。自治会はいかなる理由をもって提訴を「却下」できるでしょうか。建物や階数が違うのは理由になるでしょうか。

 戦後日本は教育をはじめアメリカ式の民主主義を文化の基本原理の一つとして受け入れました。しかし日本国民は今ここにきてアメリカの民主主義をもはやまったく認められない、と宣言すべきです。多数決の原理すら公正に運営できない国は民主国家とすらいえない。否、法治国家とすらいえないのかもしれません。西部劇時代の野蛮と非文明の地肌が再びさらけ出されました。

 連邦最高裁はただただ内乱が怖かっただけです。ロバーツ長官は判事たちに「お前たちは責任がとれるのか」と問責したという話も伝わっています。しかし、それは政治の領域の判断です。司法の番人は司法の公正に忠実であればよい。政治への出すぎた介入は慎むべきです。アメリカという国家はすでにどうしようもないほどに病んでいるといえます。

 連邦裁判所の身勝手な思い込み、差し出がましい政治への干渉をもって、米大統領選挙は事実上ここで終焉を遂げています。

 トランプ大統領はこのとき声明を発表しました。

「悲しいかな選挙は不正であり、その多くが詳細に触れることもなく、完全にゲームを変えてしまった。最高裁をはじめとするすべての裁判所は裁定(正しい判決の実行)をせず、“根性なし”だったし、そのように歴史に残るだろう」(2021年3月20日)

 このときトランプはほぼすべてのソーシャルメディアから追放されており、最後の砦であったパーラーへの参加すらアドバイザーから阻止されていると言われていたので、「Save America Now PAC」を通じてかろうじてメールでこの声明を発表することができました。

 自国の大統領の最後の言論の自由すら奪ったアメリカ社会の異常心理については後に述べます。

ペンスの裏切り

 トランプを苦しめた第二のポイントは、ペンス副大統領の裏切りでした。ペンスとの仲はいまだにはっきりしません。その後、ペンスはトランプを讃える演説などをして関係を修復しようとしていたようですがペンスの果たした「ユダ」の役割は党にとっても本人にとっても致命的でした。2018、19年の二度にわたるペンスの反中国・反共産主義の名演説は世の月並みな副大統領の成し得ない洞察力に富んだもので、力量に感服しましたが、残念ながら1月6日にやるべきことをやらなかった「逃げの選択」は政治生命を左右しました。

 年末から年始にかけて選挙人投票の獲得票数は民主党若干有利のまま両党が鍔迫り合いを演じていました。ただ「不正選挙」という嵐のような国民の声が沸き起こり、大統領選の勝敗の行方はどうなるかわからないままクリスマスを迎えました。

 全米各州からの選挙人は結果を未開票のまま1月6日にワシントンの連邦議会に集まりました。通例はそこでシャンシャンと手打ち式をして無事に終わるのですが、このときは違いました。選挙人の投票は結果を初めてここで公開して、認定するか否かを裁定するのは、副大統領の仕事と決まっていました。副大統領が議長役を務めるのが年来の取り決めでした。今回はペンスの一挙手一投足に注目が集まりました。

 ペンスが問題の多いいくつかの州の選挙人獲得数は認定できない、ときっぱり言えば、驚天動地、大統領選は振り出しに戻ることになります。そして連邦議会が改めて投票によって大統領を決めることになります。ただし議員全員の多数決ではなく、各州が一票ずつ投じる百年以上前の方法に戻るべきともいわれていて、共和党が有利になり、あっというまにトランプ当選の決定が下されるともしきりに言われていました。トランプ陣営の最後の期待でもあったのでした。

 しかしペンスは不正の多いと言われる州の認定を拒否するとはついに言いませんでした。失望が走りました。と、そのとき、言っている間もなく連邦議会議事堂内部への暴徒の乱入が始まり、議場は総立ちとなり、議員はみな逃げ出し、何が何だか分からなくなってしまいました。

 私はあのときペンスが認定拒否表明さえしていれば、情勢は変わったと今でも思っています。トランプ勝利にすぐに道が開かなかったとしても、トランプに暴徒煽動の罪を被せるという「弾劾」の声をメディアが一方的に広げるわけにもいかなくなり、乱入者にはANTIFA(アンティフア)などもいることが正式に証明され、もう一つの道程が公表されるという利点があっただろうと信じるからです。

 このあたりの事情は謎だらけで、深く闇に包まれています。なぜペンスは裏切ったのか。彼は1月6日の行事を済ませた直後にイスラエルに行くことになっていました。しかし行事の何日か前にイスラエル行きは中止すると宣言されました。ペンスの身に危険が迫っていなかったとどうして言えるでしょう。一枚岩の左翼はいざとなったら何でもするのです。イスラエル行きの計画自体も、あるいはまたその中止決定も、どちらも実は身を護る手段だったのかもしれません。

 ユーチューブに「中川牧師の書斎から」という味のある時局解説のコーナーがありました。中川牧師は、トランプは戒厳令を敷いて軍の正式の協力体制の下に中国など外国の選挙介入を調査し、票の再監査を行うべきだと早くから主張していました。大統領の権力を維持している間にできる最後のチャンスを生かすべきだとも言いました。それにはペンスの命がけの協力が必要で、彼の認定拒否は神の与え給うた千年に一度の信徒としてなし得る信仰の力の見せ所だ、というようなことさえ言いました。福音派の信者たちはあのとききっと同じ心境だったのでしょう。

 ペンスの「ユダの弁明」を私は知りません。したのかどうかも知りません。ペンスに限らず共和党議員が今回危機感に乏しかったのもトランプの誤算でした。マコーネル院内総務などという米上院の「二階俊博」にトランプは怒りまくっていました。もし今回の選挙で敗退すれば共和党は二度と大統領選では勝てないだとう、というような広い危機感が党内に分有されていたようには私には見えませんでした。

 保守はどこの国でもぼんやりしているのが取り柄なのかもしれません。民主党新政権は九人いる最高裁判事をいっぺんに十三人に増員して、増やした全員を左派で占める案をすでに考えているとか、移民をどんどん入れて左派の人口を増やし同時に民主党に投票する有権者数をも比例的に増大させるなどのアイデアが実行に移されだしています。国家や国民の幸福など念頭にありません。「左翼の独裁」が目的でしょう。選挙人投票という大統領選挙の伝統的方式をすら変えようとしていると聞きます。これが実現したら共和党にもう勝ち目はなく、アメリカは今までわれわれの知るアメリカとはまったく別の国に姿だけではなく内実ともどもがらりと変わってしまうことになるでしょう。

馬淵大使「先見の明」

 トランプのぶつかった第三の壁は、すでに先にも申し上げている通り、マスメディアが堂々と憲法違反し、言論の自由を破壊し、自分の国の大統領の発言まで封殺して当然という顔をしていたことです。しかも永久封鎖まで宣言したというのは驚くべき事実です。それよりもさらに驚くべきは、これらのすべてをやり抜けて選挙を完遂したあと、あれは少しやりすぎだったと反省する人は少しいたかもしれませんが、やりすぎとの自覚があるフェイスブック、ツイッター、グーグルなどの全社を挙げての一連の行動を犯罪として摘発し、そのCEOを犯罪人として弾劾するべきだという声が少しも効力を示さないことです。

 アメリカはもはや完璧に憲法を逸脱した非民主主義国家に成り下がっています。以上に取り上げた事例は、アメリカ合衆国の権力構造に明白に異変が生じ、ホワイトハウスの大統領府を超えた何らかの新しい権力がすでに実在し、選挙を動かし、政府を取り換え、官僚の任命権を握り、軍の司令塔を左右している(軍だけは今もバイデンにではなく秘かにトランプに忠誠心を尽くしているという説もありますが)という一連の力の交代劇が行われているという恐るべき事実を示しています。

 これはやはり「革命」でなくて何でありましょう。日本の政治学者諸氏にこの点をお尋ねします。革命でなかったら何と名付けたらいいでしょうか。

 それからもう一つ。アメリカの権力構造が変動し、ホワイトハウスの上位に「超権力」が存在するらしいことは、かねてディープ・ステートの名で言われ、日本では馬淵睦夫さんが早くから指摘して周知され、「establishment」という言い方もありますね。馬淵さんが最初に言い出した頃には半ば疑わしく見え、陰謀論だという反論さえありました。しかしたとえ馬淵さんが言うほど歴史に明白なラインが引けるかどうかは今からないとしても、今度の選挙で現実に異変が存在することが具体的になりました。馬淵さんの先見の明の功績は讃えられるべきだと私は思います。

 しかし、それでも歴史として語られることが多いので、私には馬淵さんの言う政治権力の実態は今ひとつ明らかにならないのです。ディープ・ステートはウォール街の金融資本につながり、地球をワンワールドとして支配するユダヤ民族の自己解放運動に由来するといくら言われても、私に推量できるのはそういう思考心情が存在することすなわち政治心理の次元までであって、世界を現に統括する組織、機構、議会、政体までが一元的にユダヤに支配されつつあるとはとうてい思えず、これも一種の観念論のように思えてなりません。

 パワーの泉は結局は経済でしょう。それならわかります。グローバリズムの経済運営が格差社会を増幅させ、世界の富の一極集中を引き起こして、中国とも協力関係を結べる条件の広がりをもたらすということ、確かにそういう不安はあります。しかし、アメリカ政府の上にあるとされる「超権力」は習近平とはおそらく相容れず、さりとて中国の民主化・近代化に手を貸すつもりもなく、あの大陸には何らかの独裁国家が必要だと思っているに相違ない・・・・・と私はここではたと立ち止まって考えます。この「超権力」は戦前の軍閥が群雄割拠していたあの古めかしい中国のイメージに依然として囚われたままでいるのではないでしょうか。

 まあ、色んな疑問が湧いてきます。

 二年前に多くの人の予想に反しあっという間にトランプが失脚し、バイデンが正式に大統領の座を射止めた背景の動きには何があったのか、永遠の闇に終わるのか、今後少しずつ解明されて行くのか、今のわれわれにはことに外国人である私にはたしかに明確なことが何か言えるテーマではありません。しかしこの背景にはアメリカ社会の変貌があります。アメリカが今急速に中国やロシアのような全体主義国家に体質が似て来ていることは深く憂慮されます。「中川牧師の書斎から」が言っていたように、あのときトランプは戒厳令を敷いて軍の正式の協力体制の下に、中国やベネゼエラなど外国の選挙介入を調査し、票の再監査を行うべきだったのではないでしょうか。それにはトランプ自身が“右翼ファシスト”として内外から非難される覚悟を要しました。しかし実際に彼がしたことは、ワシントンDCの連邦議会議事堂前の広場に予想されるところの大群衆の支持者を呼び集めることでした。大群衆に歓呼の声で迎えられることを彼はひたすら希望していたのでしょうか。戒厳令か、それとも連邦議会議事堂前か、この二者択一は運命の岐れ目だったのではないでしょうか。

 乱入事件に対しトランプに政治責任はありません。彼は煽動演説をしていませんし、乱入の始まったとき現場からはるか離れた位置にいました。けれどもなぜ連邦議会議事堂前に1月6日に大群衆を必要としたのでしょうか。左翼の罠にはまるのは目に見えていた筋書きではありませんか。私はあのときすでにそう心配していました。トランプには自己英雄視のロマンティシズムがあり、これが唯一の政治的欠点でした。

 しかし他方から見れば、米中対立、米露対立のような硬直した場面で大戦争を引き起こさないためには、固定観念に囚われないこのロマンティシズムが、いよいよになると役に立つ光であり、希望でもあり得るのです。ウクライナ戦争の行方を決めるこれからの国際政治の光景(シーン)にトランプがいないのは私は口惜しい。いざというときに自国の強さと弱さを計量できないバイデンのような職業政治家はとてもあぶない。

 大切なのは、自分の立場や姿勢を固定せず、現実の変化に当意即妙に対応できる自分に関する自由の感覚への信頼です。今の世界の指導者の中でこの自由を保持している人物がトランプのほかにいるとは私には思えません。

石田賢司さんへ

 2022年10月23日(3:31PM)に石田賢司さんという未知の方から少し気になるコメントを頂いた。

両親を今年亡くして、心のざわめきや不安や後悔などの思いをどうにか抑えようとしたとき、西尾先生の著作をむさぼるように読むようになりました。
「皇太子さまへの御忠言」には感銘と戦慄を覚えました。
「陛下はこの著作をご覧になっている」のは最近の皇室を見ても明らかなのではないでしょうか。
先生にはこれからもっともっと教えていただかなくては私自身が困ってしまいます。

 拙著『皇太子さまへの御忠言』に「感銘と戦慄を覚えた」とあるのはただごとではない。「『陛下はこの著作をご覧になっている』には最近の皇室を見ても明らか」と書かれてあるのはさらに驚きを感じさせる。説明不十分で良く分らないのは困る。もう少し言葉を補って詳しい説明をして欲しい。それに応じてまた私が追加書きすれば石田さんはさらに書いてくれるかもしれない。

 幸い私は体力も少し回復して、ブログにも若干力を注ぐことが可能になりそうな情勢にある。

 それにつけてもひとこと申し上げたいことがある。ブログのコメント欄で少し節度を失った文章、自己抑制のない文章を気侭に書きまくっている人がいる。私はできるだけ新しい、若い人にブログへの関心をもっていただきたいと願っている。旧人がのさばると新人が遠慮で引っ込む。そういうケースもあったように思う。

 石田さん、あなたのケースがそうならないように、伸び伸びと意見を開陳していただけると有難い。

全集第21巻B「天皇と原爆」の刊行

この全集目次の下に「水のかき消える滝」という随筆を掲載しています。

ようやく全集の第21巻Bが出来上がりました。
今月二十日発売です。値段は7800円+税
「坦々塾」とともに、の中に塾生の文章もあり、
写真も何枚かあり、面白い読み物となっています。

以下に目次を表示します。

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目 次

序に代えて 米国覇権と「東京裁判史観」が崩れ去るとき


Ⅰ 現代世界史放談
広角レンズを通せば歴史は万華鏡(二〇一六年)
イスラムと中国、「近代」を蹂躙する二大魔圏(二〇一六年)
世界の「韓国化」とトランプの逆襲(二〇一七年)

Ⅱ 変化する多面体アメリカにどう対するか
アメリカへの複眼(二〇〇三年)
真珠湾攻撃七十年の意味(二〇一一年)
百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(二〇一二年)
アメリカよ、恥を知れーー外国特派員協会で慰安婦問題を語る(二〇一三年)
不可解な国アメリカ(二〇一〇年)
「反米論」に走らずアメリカの「慎重さ」を理解したい(二〇一四年)
アメリカの政治意志「北朝鮮人権法」に見る正義(二〇〇四年)
ありがとうアメリカ、さようならアメリカ(二〇一二年)
「なぜわれわれはアメリカと戦争をしたのか」ではなく、「なぜアメリカは日本と戦争をしたのか」を問うてこそ見えてくる歴史の真実(二〇一一年)
日本はアメリカに何をどの程度依存しているのか(二〇一六年)

Ⅲ 朝鮮半島とオーストラリア
朝鮮は日本とはまったく異なる宗教社会である(二〇〇三年)
『日韓大討論』余聞(二〇〇三年)
金完燮氏の予期せぬ素顔(二〇〇三年)
石原慎太郎氏の発言に寄せて(二〇〇三年)
竹島・尖閣――領土問題の新局面(二〇〇四年)
韓国人はガリバーの小人(二〇〇五年)
「十七歳の狂気」韓国(二〇一四年)
韓国との交渉は「国交断絶」の覚悟で臨め――世界文化遺産でまた煮え湯(二〇一五年)
世界にうずまく「恨」の不気味さ(二〇一六年)

オーストラリア史管見

Ⅳ 二十一世紀の幕開け――世界の金融危機と中国の台頭
日本とアメリカは共産主義中国に「アヘン戦争」を仕掛けている――本来中国は「鎖国」文明である(二〇〇七年)
金融カオスの起源――ニクソンショックとベルリンの壁の崩落(二〇〇八年)
アメリカの「中国化」中国の「アメリカ化」(二〇〇八年)
金融は軍事以上の軍事なり――米中は日本の「自由」を奪えるか(二〇〇八年)

Ⅴ あの戦争はどうしたら日本の本当の歴史になるのか 
政府は何に怯えて空幕長(田母神俊雄氏)の正論を封じたか(二〇〇九年)
米国覇権と「東京裁判史観」が崩れ去るとき(二〇〇九年・本巻「序に代えて」に掲載)
アメリカ占領軍が消し去った歴史(二〇〇九年)
しつこく浮上する半藤一利氏の『昭和史』を討つ(二〇〇九年)
共同討議の書『自ら歴史を貶める日本人』(福地惇・柏原竜一・福井雄三・西尾幹二共著)の序文(二〇一二年)
旧敵国の立場から自国の歴史を書く現代日本の歴史家たち(二〇一二年)
戦後日本は「太平洋戦争」という名の新しい戦争を仕掛けられている(二〇一〇年)
「世界でも最も道義的で公明だといわれる日本民族を信じる」(フランス紙)――日本が列強の一つであった時代に(二〇〇九年)
日本的王権の由来と「和」と「まこと」――『國體の本義』(昭和十二年)の光と影(二〇〇九年)

Ⅵ 天皇と原爆
第一回  マルクス主義的歴史観の残骸
第二回  すり替った善玉・悪玉説
第三回  半藤一利『昭和史』の単純構造
第四回  アメリカの敵はイギリスだった
第五回  アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか
第六回  日本は「侵略」国家ではない
第七回  アメリカの突然変異
第八回  アメリカの「闇の宗教」
第九回  西部開拓の正当化とソ連との未来の共有
第十回  第一次大戦直後に第二次大戦の裁きのレールは敷かれていた
第十一回 歴史の肯定
第十二回 神のもとにある国・アメリカ
第十三回 じつは日本も「神の国」
第十四回 政教分離の真相
第十五回 世界史だった日本史
第十六回 「日本国改正憲法」前文私案
第十七回 仏教と儒教にからめ取られる神道
第十八回 仏像となった天照大御神
第十九回 皇室への恐怖と原爆投下
第二十回 神聖化された「膨張するアメリカ」
第二十一回 和辻哲郎「アメリカの國民性」
第二十二回 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
第二十三回 後期水戸学の確立
第二十四回 ペリー来航と正気の歌
第二十五回 歴史の運命を知れ
単行本版あとがき
付録 帝國政府聲明(昭和十六年十二月8日午後零時二十分)

Ⅶアメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか

まえがき
〔年表〕 欧米ソ列強の地球侵略史
第一章 米中に告ぐ!あなた方が「侵略者」ではないか
第二章 中国人の「性質」は戦前とちっとも変わっていない
第三章 「失態」を繰り返すアメリカに、大いに物申すとき
第四章 十六世紀から日本は狙われていた!
第五章 「日米戦争」はなぜ起こったのか?
第六章 敢えて言おう、日本はあの戦争で「目的」を果たした!
第七章 アメリカの可笑しさ、自らの「ナショナリズム」を「グローバリズム」と称する
あとがき

Ⅷ 歴史へのひとつの正眼
仲小路彰論(二〇二〇年)
仲小路彰がみたスペイン内戦からシナ事変への潮流(二〇一一年)
『第二次大戦前夜史 一九三七』の解説

追補一 秦邦彦VS西尾幹二――田母神俊雄=真贋論争
追補二 秦・西尾論争の意味     柏原竜一
追補三 『天皇と原爆』論      渡辺 望
追補四 『少年記』のダイナミズム  水島達二
追補五 「坦々塾」とともに

目次
西尾幹二  「九段下会議」から「坦々塾」へ
西尾幹二  怪異なるかな牛久大佛
小川楊司  「山野辺の道」の途上にて
阿由葉秀峰 『少年記』の故地を訪ねてー浦島太郎の錯覚と眩暈
伊藤悠可  四万温泉の落とし物
中村敏幸  「荻外荘公園」にて新緑を愛でた想い出
長谷川真美 「西尾幹二のインターネット日録」の歴史
松山久幸  書棚の中の初版本
「坦々塾」の記録―招かれた講師と演題

後記

水のかき消える滝

来年3月の刊行を目指して編集を進めている西尾幹二全集第22巻A「運命と自由」に幾つかの随筆を掲載することになっていて、先生の心に残る随筆を探している中で、平成20(2008)年1月1日の日録に載せた「水のかき消える滝」が見つかりました。

嘗て西尾先生の小石川高校時代に同級生たちが編んだ文集『礎』を、年月を経て復刊することになり、先生が平成19(2007)年3月18日発行の復刊第2号に寄稿されたものが抑々の出典です。

初めての方も多いと思いますので、原文を若干加筆修正し再び掲載します。
珠玉の随筆をどうぞ味読ください。H.M.

水のかき消える滝
 

 七十歳を過ぎると、さすがもう時間は迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし、日頃なにかと考えをめぐらし思い付くことは、仕事の上の新しい計画なのである。

 昨年と同じように今年に期待している、私という人間の鈍感さである。いつ急変が身を襲うかもしれないことに薄々気がついているのに、気がつかない振りをしている自分にたのもしささえ感じている。

 死の淵に臨む大病を二度しているので、あのときの感覚は分っているつもりだが、忘れるのも早いし、日々思い出すこともない。本当は分っていないのであろう。

 上田三四二という歌人がいた。何度もガンに襲われて逝った。私は彼の書いた私小説が好きで、好意的に論評し、文通もあり、死後彼の文庫本の解説も書いた。

 小説は病院とそれをとり巻く環境、たえず自分の死を見つめる心の弱さや自分への激励を書いていた。やさしい心の人で、文章も柔かく、しみじみとした味わいがあった。彼の書いた比喩の中に、死は滝壷の手前でフッと水が消えてしまう滝を上から見下ろしているようなものだ、という言い方があった。記憶で書いているので正確ではないかもしれないが、人間が生きているということは水量が多い川の流れである。それが滝になってどっと落ちる。落ちた水は滝壷に激流となってぶつかり、飛沫をあげるのが普通だが、この場合には落ちる途中でいっさいの水がいっぺんに消えてしまう場面を想定している。

 大量の奔流が落下の途中でフッとかき消え、その先はもう何もない。上田さんは、来世とか霊魂の不滅とかを自分は信じることができないと言っていた。大抵の日本人はそうであろう。仏教の教えは来世を期待することと同じではない。むしろ期待しない心を鍛えることにある。

 彼の小説を読んでいるとつねに自分の死のテーマにこだわっている。こだわり過ぎているとさえ思うことが多かった。あるとき、死を平生考えない人間がむしろ正常なのだ、という彼の感想があった。それはかえって彼における死の意識の深さを感じさせた。

 私は上田さん宛の手紙で、病いの中にあるときの私はあなたの作品に共感し、分ったようなつもりになっていたが、本当は何も分っていなかったのかもしれない。私はあなたが知っての通りどちらかといえば「社会的自我」で生きているタイプの人間で、かりに不治の病に仆れても、結局は今までの自分を変えることはできず、あなたから見て軽薄で、表面的な「社会的自我」で活動する人間であることを死ぬまで守りつづけ、追いつづけるほかない人間であろう、という意味のことを、いくらか自嘲気味に書いた覚えがある。

 苦悩する聖者を前にした浅間しい凡夫のような気持ちで、私は彼の作品を読み、論評し、かつ私的にも交流していた。

 私は本当には死の自覚を持っていない人間に違いない。一度だけこんなことがあった。

 都心から深夜高速に乗ってタクシーで一路自宅へ急いでいたときのことだった。点滅する前方の光の乱射がどういう心理作用を及ぼしたのか分らない。私は自分の意識が突然消えてなくなるということがどういうことか分らないのに、それが一瞬分るような、なにかでがくんと身体が揺さぶられるような、眩暈のような感覚にとらわれた。私はしばらく息を呑む思いがした。自分の意識が消えてなくなる?

 これはどういうことだ?

 自分がなにか違う次元の相へスリップインしたような、ついぞ体験をしたことのない異様な恐怖が私を襲った。

 うまく言葉でいえないが、それはたしかに恐ろしかった。私は目をつぶってやり過した。
 
 上田さんの、滝壷の手前で水がフッとかき消えてしまう不思議な滝の光景がしきりに思い合わされた。

 タクシーは間もなく高井戸から環状八号線に入り、いつも見慣れている馴染みの商店街を目にするにつれ、私は自分を取り戻した。携帯を取り出して、もうすぐ帰るよ、と自宅へ電話した。

 あっという間の出来事だった。

 (『礎』二〇〇七年復刊 第二号 二〇〇七年三月一八日発行からの転載)

高原あきこ氏について

<西尾幹二より高原あきこ氏あての手紙の説明文>

 「二〇二二年の参議院選挙に当たり、私は元熊本大学教授高原あきこ氏の立候補を支持し、日録にも掲載の推薦文を書いた。この一文は、投票日に先立ち、旗揚げの会場で坦々塾事務局長の浅野正美氏が朗読して会衆はシーンとしづまり返ってご静聴下さったと聞いている。残念乍ら同氏は落選した。その後、同氏はWiLL誌に発言し、これに関連して私あての私書簡でも大変に遺憾な内容の文言を表明している。公開の表現に関わるので、高原氏あての私の私信の一部を以下ブログにも掲示することにした。」

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拝復
 お手紙拝見しました。
 貴女はWiLL十一月号でわざわざ私の名を挙げ、私と交流があると知られると、仲間が離れて行くと冒頭に書きました。「こんな恐ろしい教科書を作っている人」だと言わぬでもいいことも書いています。

 直接私やつくる会を誹謗した表現としてではないけれど、こういう不用意な非難の罵倒語が文中にあると、書き手の認識にも同じ動機があると思われがちなのです。

 まるで貴女が選挙に惨敗したのは西尾のせいだと言わんばかりですね。

 貴女は私あての最新の手紙(二〇二二年十月五日付)で次のように書いています。WiLLの「同記事は九月初めにWiLL編集者(40代くらいの男性)にインタビューを受け、もともとは選挙の話や統一教会の話しなどを聞かれたのですが、安倍晋三元總理の追悼号ということであのようにまとめられたものでございます。あの文自体は私自身の生の声の逐語、私の作文ではなく、編集者の手によるものでございます。時間がなかったとはいえ、ゲラの校正を丁寧にできておりませんでした。」

 貴女は選挙に敗けたのは西尾のせい、WiLLにまずいことを書いたのは若い編集者のせいで自分ではないと言わんばかりの言い分です。

 すべての不始末は他人(ひと)のせいにして、自己責任ではないと言っています。

 貴女の正体が見えました。

 旧統一教会の問題をすべて他人(ひと)のせいにして逃げ回っている自民党議員とよく似ています。お似合いですね。

 しかし私は知っています。貴女は口が軽く、いわゆるゴシップ好きで、「チャッカリ屋」さんです。そういう性格の軽さが現地選挙民に見抜かれたのではないですか。

 さようなら
                                 西尾幹二
       二〇二二年十月十八日

病中閑あり

「九段下会議」から「坦々塾」へ

                     西尾幹二

 私は「路の会」と「坦々塾」という二つの勉強会に関与していた。二つとも政治や社会問題や歴史研究に関心のある方々から成り、月一回の会合に進んで参加して来られた方が多い。「路の会」はプロかセミプロの言論人で、「坦々塾」は私の愛読者が主だったが、やがて噂を聞きつけて集まって来た一般人もおり、会社勤めを終えたいわゆる定年組が多かった。日本では今この層が一番本も読み深く知識を求めている人々で、頼りになる階層である。

 二つの会はどちらも会費を頂かず、会員名簿も作らない。熱心に来て下さる方は歓迎され、去るものは追わず、この自由がかえって会を長続きさせた原因だった。「路の会」は二十年余の歴史があり、この内部から「新しい歴史教科書をつくる会」(以後「つくる会」と略称する)が誕生した。西尾幹二全集第17巻の後記にその経緯が説明されている。「路の会」のメンバーの中心の座にいたのは宮崎正弘氏で、この会から新人として世に出てその後存在感を示した馬渕睦夫氏のような例もある。

 ここでは「坦々塾」成立の経緯とその政治的背景を語っておきたい。私は「つくる会」の会長を2001年9月に退任し、それから2006年1月まで名誉会長の位置にあり、現場の指導は田中英道会長に委ねていた。

 時代は小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)下にあり、私が「つくる会」名誉会長の名において最も激しく時代に挑戦した最後のこの局面は、小泉首相が世間を騒がせていたあの時代とほぼぴったりと一致することになる。野党の党首菅直人までが、腹を立て私に直接電話を掛けて寄越し、そんなに大きな影響力を発揮したいなら、大学教授を辞めて代議士になって発言せよ、と腹立ちまぎれに言って来たこともある。野党から見ても私の発言はよほど目障りだったに違いない。自民党が箍の外れた水桶のように締まりのない緩んだ状況であったことは今と変わらない。自民党にはより保守的な右の勢力からの批判や攻撃が必要だった。嘗ての民社党のような勢力が必要であった。自民党は左からの批判や攻撃には十分に耐えて来たが、右からの圧力が無く、風船玉のようにフラフラと左右に揺れて来たのはそのためだろう。右からの要求は或る力が代わりをなしていて、自民党を背後から操っていた。それはアメリカだった。アメリカが右からの圧力を省いてくれ、自民党を身軽にしたということは、自民党を甘やかし無責任政党にしたということだ。それがアメリカの政策だった。

 二次占領期が訪れていた。私は思い立った。伊藤哲夫、中西輝政、八木秀次、志方俊之、遠藤浩一、西尾幹二、以上6名を代表代理人にして急遽、「九段下会議」と名付けた保守決起のグループ活動を始め、その先頭に立った。九段下にあった伊藤氏の事務所会議室を借りて運営し始めたので、この名を採用したのである。そして皮切りに月刊誌『Voice』(2004年3月号)に「緊急政策提言」という初宣言を私が書いて発表した。勿論代表代理人の討議を経て、内容は外交、国防、教育、経済ほかの各方面を見渡したものである(西尾幹二全集第21巻Aの630ページ参照)。しかも特徴的なのは、この提言を読んで関心を喚起された一般の方々の文章を募集し、独自のオピニオンを持つ方々を同会議のメンバーに加えるという会の方針を明記した。人数は忘れたが、選ばれて集まった方々は数十人を数え、会議室はいつも満杯だった。

 会議は何度も開かれ、これを聞きつけて安倍晋三、中川昭一を始め、当時勉強熱心で知られる「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などに参集していた自民党内の若い保守勢力が次第に関心を高めるようになった。安倍晋三に会議の情報を伝えたのはたぶん伊藤哲夫氏と八木秀次氏だったが、とくに伊藤哲夫氏は政治的フィクサーの役を演じ、安倍政権の成立に情熱の全てを注ぐ立場の人だった。八木氏は安倍とは妻同士が親しく昭恵夫人とツーカーの仲であることが自慢で、周囲にも吹聴していた。

 伊藤哲夫、八木秀次に中西輝政を加えた三氏はやがて安倍政権成立の前後に、「ブレーン」の名でメディアに取り上げられ、関係の近さは秘密でも何でもなく公然の事実だった。政治家も不安で、よりはっきりした思想上の拠点が欲しかった時代だった。
 
 「朝日」が後日これを嗅ぎつけて、私と安倍との繋がりを調べに来た。調査は公平で、好意的ですらあったが、出た記事内容は私にも「つくる会」にも悪意に満ちたものだった。

 この頃、小泉純一郎は靖国にこれ見よがしに参拝し、またこれを止めたり、また近づいたり、私には靖国を愚弄しているようにさえ見えた。首相と名の付く人が来て下さるだけで有難いと、靖国側の人々が卑屈に耐えているのがまた哀れで、腹立たしかった。小泉の姿勢が不誠実であり、「自民党をぶっ壊す」との暴言は知性を欠き、政策は郵政民営化一本槍で、五分もスピーチすれば話の種子は尽きるほど、郵政問題にすら深い省察を欠いている虚栄の人、から威張りの無責任男に対する不信感は、心ある人々の間で次第に高まっていた。ただ大衆は逆に小泉の煽動に操られ易く、大言壮語に付和雷同した。

 そのピークは2005年9月の「郵政選挙」だった。党内の至る所の選挙区に刺客を立てるなど、徒に恐怖を煽る小泉の手口は社会全体を不安定にした。日本は国家としてあの時少し危うかったと思っている(西尾幹二全集第21巻A461~538ページ参照)。私が『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』(2005年12月刊)という思い切ったタイトルの本を刊行したのはこの時だった。

 私には恨みもあった。「新しい歴史教科書」をダメにしたのは小泉だった。検定までは容認するが採択はさせない、という腹積もりで彼は韓国を訪問し、立ち騒ぐ韓国政府との妥協を図ったと私は見ている。また教科書採択に当たった全国の教育委員たちが、波打つように小泉政府の無言の指令を忖度して、同一行動をとった動きを私はソフトファシズムの徴候と見て、そう書きもした。「民主主義の危機」と左翼が使うような表現をすら私はついに書いた。
 
 しかし日本は習近平やプーチンのように自分の任期を勝手に無期限にする独裁国家ではなかった。「郵政選挙」から1年後の2006年9月に小泉は安倍に政権を禅譲して、国民は明るい性格の安倍に新たな期待を抱くようになった。私も千代田区立公会堂で「安倍晋三よ、『小泉』にならないで欲しい」と題した市民公開講演を行い、満席の会衆を迎えた。
 
 それに先立つ少し前、まだ小泉時代が続いていた末期に、私は小泉から「ただでは済まさない」という脅迫のメッセージを受け取った。メッセージを私に伝えたのは何と八木秀次氏だった。知らぬ間に何か異変が起こっていた。私の権力を恐れない性格をはた迷惑と冷たい目で見ている人々が私の周辺を脅かし始めていたのに、私は気づかなかった。権力に媚びてでも利益を得たい―それが人間の本性である。勿論誰もそれを非難することは出来ない。

 私はその頃、十日ほどの予定でニュージーランドに観光旅行に出かけた。短い留守中に異変は拡大していた。安倍政権擁立のための運動が具体的に進んでいて、伊藤氏はもとより水島総氏なども旗振り役に加わり、保守運動家たちの大同団結が企てられていた。その後安倍も集会などを主催し、私も一、二度呼ばれて顔を出したこともあった。そのとき分かったのは、安倍は嘗ての政治家に例のないほどに知識人や言論人を必要とし、彼らから知識や統計上の数字を知ろうとしていた。当時南京虐殺事件が国難の一つだった。事件はなかったという主張が保守側に渦巻いていた。安倍は専門家に何度も問い質し、反論のロジックの筋道や数字上の事実確認を繰り返し聞いている場面を私は目撃している。伊藤哲夫氏がその頃役に立つアドバイザーであったことは間違いない。

 その間に「九段下会議」は何処かへ行ってしまった。同じ会議室を使って伊藤氏や八木氏が密議を凝らしていたに違いない。安倍のために全てを投げ打って一致団結する人々から私は敢えて距離を置いていた。「九段下会議」で唱えた理想が継承されるという保証は何処にもなかったからだ。

 ある講演で伊藤哲夫氏は、従軍慰安婦問題について国際社会で日本が抗弁する情勢にはなく、「日本が悪い」の圧倒的な声に我が国は頭を垂れ、謝罪し続ける以外にないと語ったことがあり、私は心密かに反発していた。

 その間に「つくる会」の周辺や内部に不穏な空気が漂い始めた。理事たちの一部が藤岡信勝排斥運動を始めた。藤岡氏は「つくる会」の柱だった。これを倒そうという動きは、理事たちの一部が「日本会議」に通じている面々であることが次第に明らかになったが、それは「日本会議」による「つくる会」乗っ取り事件の様相を呈し始めた。私は慌てた。この場面でも伊藤哲夫氏は暗躍している。
 
 間もなく「つくる会」そのものも分裂した。内紛が起こった。いまさら内紛の歴史を語るつもりはない。しかし外から大きな力が働いたことは間違いない。「つくる会」運動の内部に、力ある人が外から手を突っ込んだのだ。それは小泉ではなく安倍晋三だったと私は今は考えている。あるいは小泉に命じられて安倍が動いたのか、いろいろな推論が成り立つ。しかしその後保守系言論人は雪崩を打ったように安倍晋三シンパになりたくて、一斉に走り出した。今まで黙っていた人の名も、急に安倍、安倍、安倍と叫び出した。小田村四郎氏を筆頭に、岡崎久彦、櫻井よしこ、西部邁、渡部昇一 ……の各氏。

 その頃書いた私の文章「小さな意見の違いこそが決定的違い」(西尾幹二全集第21巻A580~609ページ)を見て頂きたい。当時の保守系言論人の心の動きが手に取るように分かるだろう。

 最初のうち私も安倍を否定していなかった。むしろ肯定していた。「文芸春秋」の次の首相に誰がいいのかのアンケートに私は安倍と書き、巻頭に揚げられた。安倍自身があるパーティで私にそのことのお礼を述べたほどだ。私は安倍に媚びていたのだろうか。そう言われれば言われても仕方がない。しかし「小さな意見の違いこそが決定的違い」なのだ。私は安倍シンパではない。

 「日本教育再生機構」とやらを作って安倍のブレーンとして名を連ねたのは八木秀次氏であり、中西輝政氏、伊藤哲夫氏も含めて三人である。「九段下会議」が見事に分断されたわけだ。「九段下会議」に参集した総勢60人の一般人のうち、分派活動をした安倍シンパの側に回った者は少なく、約八割が私の側にとどまった。

 そこで彼らをどう遇するのかに迷い、「坦々塾」がこの残った反安倍勢力を中心に形成された。政治活動ではなく歴史や政治思想をもっと勉強したいとの声につられて、講演会形式の勉強会として始められ今日に至っている。その活動の実際を伝える講師・演目の一覧表(伊藤悠可氏作成)をここに掲示する。
 
 安倍政権が実際に開始されてしばらくの間異様な動きがあった。「真正保守」とか「保守の星」と呼ばれていた安倍が期待に反し、村山談話や河野談話をすぐに認めると公言し、祖父の岸信介の戦争犯罪も認めると言い出した。「安倍さん、いったいどうなったのだろう?」と世間は首を傾げたものだった。
 
 「左に羽根を伸ばす」が伊藤氏たちブレーンの差し金による戦略であったらしい。政権の座に就く何か月か前に安倍は靖国に参拝していて、首相になった時には「靖国に行ったとも行くとも言わない」というあいまい戦術を展開した。不正直で姑息なこういうやり方に私は首を傾げた。ブレーンという名の謀略家たちは得意だったかも知れないが、安倍は評判を落とした。
 
 保守は正直で率直であることを好む。安倍は本当に自分の頭で考えているのだろうか、そういう疑問を抱くようになったのは、むしろ長期政権と言われるようになってからだった。

 2017年5月3日に、安倍は憲法九条の二項温存、三項追加という後に大きな問題を招きかねない加憲案を提起した。しかもこの案は安倍が自ら考えたのではなく、これまた伊藤哲夫氏の発案によるアイデアだった。伊藤氏自身がこれを告白している(「日本時事評論」(2017年9月1日号)。ブレーン依存はまだ続いていたのである。国家の一大事であり、安倍の存在理由でさえあった憲法改正の肝心要の発想の根源が他者依存であり、借り物であり、首相になる前から同じ一人の人間の助言に支えられているとは! 安倍ほど評価が二つに大きく分かれる政治家はいない。

 「九段下会議」の「緊急政策提言」については先に見た通りで主に私の筆になるものであるが、これを今読み返すと、如何に安倍政治にこれが反映されたか、安倍晋三の政治はむしろ彼が後日「九段下会議」の立案を下敷にして政治を行っていたのではないかと邪推したくなるほどである。「朝日」の記者が後日密かにさぐりに来たのも正にむべなるかな
である。

 例えば「外交政策」の「開かれたインド・太平洋構想」は言葉まですっかり同じ内容を踏襲している。安倍は私たちから如何によく学んだかが今にして分かるのである。しかし彼は政権を得てからほどなく、「九段下会議」の精神とは全く逆行する行動を繰り返すようになるのである。その最も早い行動は、安倍が従軍慰安婦問題で米国大統領ブッシュ(子)に謝罪するという筋の通らない見当外れな行動に討って出たことだった。これは私がこの「確信なき男」の行方に不安と混迷とを予感し始めた決定的な出来事だった。
(令和4年9月12日 記)

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 私西尾幹二は入院中ですが、二つの勉強会を振り返って「『九段下会議』から『坦々塾』へ」を綴りました。その足跡をたどるようにして、伊藤悠可氏が私の文に対して感想を寄せてくれました。読者諸氏に読んでほしい一文です。(コメント欄への皆様の投稿を希望しています)

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西尾幹二先生の「『九段下会議』から『坦々塾』へ」を読んで

伊藤悠可

 「九段下会議」は、若い頃から一度は会ってみたいと願っていた西尾幹二先生に、実際に会うことが出来た場所という点で、自分にとって大変、意義深い集いでした。また、著作や記事を通じて遠くから見ていた中西輝政さん、福田逸さん、西岡力さん等もいて、その他に各方面の専門家としてときどき媒体に登場する知識人も揃っていて、こういう席に座らせてもらうのかと胸が躍りました。

 一躍有名になられた馬渕睦夫さんの初の講義を自分は聴いています。

 先生の『voice』の「緊急政策提言」が2004年3月とありますから、自分の初参加はもっとあとの2005年の秋か冬ころだったと記憶しています。ちょうど、小泉純一郎の慢心ぶり、悪ふざけに腹が立っていたおりで、前後して『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を先生が出されたことを知って、誰か小泉を諫めてくれないのか、と思っていた自分の気分が晴れました。小泉の奇態をゆるしているのは、自民党議員であり、国民である。拍手喝采する国民はどうしようもないが、国民をちょろいと見下しながら煽動し踊らせている小泉は嫌いなタイプでした。子ブッシュの前で、プレスリーの物真似をしてふざけて帰って来た日本国の宰相は品位を貶めた罪が深い。

 書いておられるように小泉が「ただでは済まさない」と間接的に先生に言ってきたことは、あの性格なら、さもありなんと思いました。彼なりに現代版の信長になったつもりでいたのかもしれない。たぶん図星だと思う。本で急所を突かれたから、信長だから、相手を恫喝くらいしないといけない。そう思って使いを出した。その役割を果たしたのが八木氏だったと思います。

 個人的体験や記憶だとお断りしますが、八木という人は、挨拶する人と、全く挨拶しない人とに人間を分けていると国民文化研究会の友人から聞いていました。九段下の事務所に向かうとき、彼と信号待ちで出くわし、挨拶したところ、無視されたことがある。一言も返さなかった。ああ、本当だと思いました。彼は大学時代、国文研を退会するとき、先輩諸氏を前にして「あなたたちと付き合っていても自分(の將來)に何の価値もない」と言い放ったことは有名で今でも酒の肴になっているようです。

 一方で当初、伊藤哲夫さん、それからすぐ下の名前は忘れましたが、後輩のなんとかさんの二人は親切で、非常に気持ちのよい人たちだと思っていました。部屋のテーブルをカタカナの大きな「コ」の字でかこむようにして、垣根は低く自由な空気感があって、どこからだれでも発言できる会議場、討論場で、物怖じしやすい自分も、最初から何度か気軽に発言できたことをおぼえております。そのころ先生が、「伊藤哲夫さんは無私の人だ」と褒められたことをよく覚えています。

 当時、〈国家解体阻止宣言〉というスローガンもあって、自分もある種、高揚感を味わっていました。テレビでも流された「つくる会」発足の記者会見に次いで、この人たちが、ひどい国に成り下がっていた日本に覚醒の檄をとばすだけでなく、政治、外交、行政、教育、文化の他方面の領域にわたって数々の提言を行っていくのだろうと思いました。

 小泉から安倍晋三に政権の禅譲がおこなわれた2006年9月は、自分はいろいろと鮮明な記憶がある時期です。15日には、悠仁親王の誕生がありました。前年の暮れには、小泉が面倒臭そうに皇位継承に関する有識者会議をつくって、さっさと女系でも何でも決めてしまえばいいんだと、彼は考えていたと自分は見ています。政権最後のお土産程度に感じていたと自分は見ています。有識者会議のメンバーにロボット工学の博士なんかが居るのですから。

 予算委員会の中継で、安倍晋三が小泉にそそと近寄って耳打ちをしたのをおぼえています。同年2月に紀子さまご懐妊のニュースがありました。ちょうどその第一報が安倍官房長官に届けられ、小泉に知らせたのです。小泉は一瞬、息をとめて驚いたような表情をしました。安倍の功績のうち、あまり取りあげられないが、進行中の皇位継承の議論を中断せよと、きっぱり小泉に迫ったことは評価されてよいと思っています。このときの電光石化の安倍の動きは偉いと感じたものです。あの頃の小泉は、ふんぞりかえって我が世の春を謳歌していましたから。

 しかし、小泉から禅譲される前後から先生が感じておられたように、保守系言論人はそうです、雪崩を打ったように安倍、安倍と言うようになりました。政界の現場、自民党内部の求心力というものではなく、まさに外部の、それも言論人、知識人の側から、安倍大合唱が始まったのではないかと思います。

 中西輝政、伊藤哲夫、八木秀次の諸氏はご指摘どおり首相のブレーンを自他ともに認めていたと思います。公然の事実で、産経以外の大手紙や雑誌も、首相と距離が近く、重要なブレーンであると当たり前に報じていた。そのほかにも、安倍を応援する保守論壇で名の通った人々、岡崎、桜井、田久保といった人は、いくらでも数えることができます。

 「首相動向」に登場する人たちのほか、安倍晋三と会った、安倍さんが事務所に来てくれた、安倍さんの誕生会に出席して祝った、安倍さんの自宅に呼ばれた、銀座のステーキ屋で歓談した……。金美齢さんという人はテレビでしかしりませんが、熱烈なファンであることを公言していましたね。しかし、アグネス・チャンなども夫人の親友として自宅に呼ばれているというのだから、それなら、芸能人、学者に似たタレントも何人もたくさんサロンにいるのだろう。我れ先にと安倍さんとの距離を自慢していた感があります。

 そんな中で、清潔でいいな、と思ったのは曾野綾子さんでした。この人は実際安倍氏と親しかったのかどうか知らないが、大事はそっと一人でやる。フジモリ元大統領が窮しているとそっと助けてやっている。家にかくまってやったと思う。フジモリ氏が正しいか正しくないかは私は知らない。でも、だいたい、曾野綾子という人はこういう時の所作は気持ちがよい。何にも伝わってこない。曾野さんは上坂冬子さんとの開けっ広げの親交も、ユーモアと清潔感があって好ましかった。「私はこの間、安倍さんとああしてこうして」などとは、節操の問題として口にしない人であろう。

 立ち戻りますが、九段下会議が崩壊してゆくなかで、伊藤哲夫さんはなぜ、西尾先生とあらためて肝胆相照らすというか、はらわたを見せて、語るという機会を持たなかったのか、とうとうそれが謎として残っております。政治的な助言者としてやりがいや義務を感じているなら、会議よりそちらが重いというなら、その道に行きたいと打ち明けることもできたはずです。

 安倍が生きがいだと言い放っている小川榮太郎のような人もいるわけです。なんで文芸評論家を名乗っていながら、安倍を応援することが精神の仕事になるのか。どうバランスがとれるのか。そこは理解できないとしても、伊藤哲夫さんなら西尾幹二の心の中に訴えることもできたはずです。

 それとも、やはり総理大臣の相談相手となって、単に舞い上がってしまったということなのでしょうか。たとえば田崎史郎を見ていると、何でも首相の毎日をよく知っているが、首相が日本を良くしているのか、日本を損なっているのかについては、一般の人より眼識は劣っているのではないかと思うことがある。「日本は中国に刃向かってはいけない。勝てるわけがないんだから」とテレビで言っていたことがあるが、その程度なんだと認識しました。

 会議を存続するか否かという判断は別にして、伊藤さんには自分はこういう考えであるから、先生とはこのまま一緒にやっていけない、という割り切りもあるのです。
わかりませんが、それとも出自母体とされている生長の家、その脱退後の有力な人々との見えにくい絆、日本会議との距離間のような彼にとって大事な価値観までさらしたくない何かがあったのでしょうか。

 おそらく、この場面では、私などにはわからない“雪だるま”が出来ていたのだろうと想像するのです。最初はチラチラと小雪が降っていた。小さな問題(この場合、前を向くと官邸、後ろを向くと西尾先生)も巻き込んで、拳ほどの雪玉を転がしていた。放っておくと、大きく重くなるので、その前に溶かしておくか潰しておくか、しておかなくてはならない。が、ついつい腹のうちを見せる機会を失って、雪玉は大玉転がしの大きさに育ってしまった。

 もっと勝手な邪推をすると、八木氏は八木氏で自分が安倍の最も重要な右腕だと思いたいし、自負もしている。伊藤哲夫とはまたちがう。一緒にされたくはない。しかし、政治家安倍にとっては、皆同じ大切な人くらいに、みえるし、またその形で頼りにしている。優劣はない。中西輝政氏はそういうタイプではないから、そこまで個人的交際はしたくないと考えていた。こんな関係性を肩に背負っていると、結構煩雑である。

 安倍晋三には子供がいない。子供がいない人は歴史がわからない。歴史というより、本当の歴史がわからない、と言いかえた方がいいかもしれない。歴史がわからない人は、「次代を担う子供たち」「後世を託す子孫たち」と叫ぶとき、熱い何かが欠けてしまう。或いは、熱い何かの半分が欠けてしまう。従軍慰安婦問題で、さあこれが一番大事だというとき、安倍はアメリカで間違ってしまった。これは取りかえしがつかない。決して譲ってはならない態度と言葉。それを冒してしまった。謝罪するべきは韓国であって、日本ではないのに。

 なのに、彼は謝ってしまった。彼は、「もう後世の子供たちに謝罪を繰り返させたくない」というような演説を行った。辻褄が合わない。

 日本国内では、そうとうに安倍という保守シンボル像が建立されていたため、このとき自分のように驚いたり怒ったりしている人は少なかった。みんな、安倍にすがっているんです。信じているわけではない、すがっている。

 「子供たちに謝罪を繰り返させたくない」といいながら、日本も悪かったと言って頭を下げてしまった。彼の心の中には、想像の上でも、子供たちの表情や姿は映らなかったんだと思う。将来の子供たち、というとき、彼には教科書の挿絵のような印刷の子供がうかんでいたのかもしれないと思う。子供のいない人を差別しているのではありません。ひりひりした心配は理解できないだろうと言っているのです。子供のいない人は歴史を半分しか感じないでいる。

 西尾先生は麻生太郎が首相の折りにも、手紙で大事を進言されたことがあると聞いたことがあります。具体的なことは忘れましたが、麻生は大事な一点を守れなかった。それで退陣してしまった。安倍はたくさん人を回りにつけながら、西尾先生は敬して遠ざけていたのだと思います。それは苦いからですし、恐いからだと思います。それでもって、少し甘い、心地のよい、やさしい伊藤哲夫、中西輝政を近づけたのかな、と思います。八木に関しては、なんだかわかりません。

 ほんとうは政権なんて短命でいいのに、短命だから言いたいことが言えるのに、だいたいは、長期だけを目指す。こういうことも先生は言っておられました。

 また尻切れ蜻蛉の感想になりましたが、ここに書きつらねました。

参議院議員選挙立候補予定者 高原朗子さんへの激励メッセージ

 第26回参議院議員選挙全国区 に立候補を予定している自民党公認候補の元熊本大学教授の高原朗子(あきこ)氏に対し、6月7日靖国会館で開かれた「高原あきこを励ます会」に西尾幹二が寄せた激励のメッセージです。当日の代読者は坦々塾幹事長の浅野正美氏です。

 「高原さんと私の出会いは、もうかれこれ22年になります。
 私が歴史教科書改善運動を始めていて、高原さんは有力な協力者の一人でした。
 私が長崎で講演をした折、聴衆の一人として前に座っておられたのが最初の出会いでした。

 その時は確か長崎大学の助教授だったと思いますが、国立大学の教官で、しかも政治文化運動の協力者であったのはありがたく、女性であってきっぱりとした意思の持ち主であることもたのもしく、何かと力になっていただき、貴重なご存在でした。

 専門は心理学、特に臨床心理学と聞いています。これは、直接人の為に役立つ学問です。

 弱い立場にある個人への心理学的支援というのが目的の学問でしょう。そういう専門知を目指す人が、いつの間にか国家社会の安全保障を考えるまでに大きく変貌かつ成長されました。それは、必然的な変化でもあったのです。

 どちらも危機救済という点で根は一つだという彼女の思想の深さに私は感動しています。

 自分が関わっている障害者の救済、その背後にある家族、郷土、ひいては国家社会の問題、その存立と安全を考える国防というところまで手を伸ばした開かれた姿勢とパワーに敬意を表します。さらに、日本を守るためには今の憲法を変えていくことが重要ですが、その点も高原さんは深く認識し、すでに精力的に行動を始めています。

 さて、ロシアがウクライナに突如侵攻してから三ヶ月が過ぎました。

 現代日本の今後の運命をどう考えるべきかという課題は、あれ以来ロシアのこの戦争と切り離して論ずることは出来なくなりました。

 端的に言います。日本が大切にし、あの戦争が露骨に奪ったものは、一体何でしょうか。たくさんありますが、最大なものは「自由」と「民主主義」だったと思います。日本は、自由の度合いが行き過ぎたくらいに自由の国であり、議会制民主主義も守られています。もし、ロシアが日本に侵攻したら、日本人は「自由」でなくなり、民主主義も奪われます。空気や水のように、当たり前に思っているわれわれの自由、われわれの民主主義的諸制度が失われることを考えてみて下さい。

 それなら自由と民主主義の産みの親、母体をなすものは何でしょうか。

 国際主義でしょうか。外国から来た理想の言葉でしょうか。国連などの日本の外の組織でしょうか。そう言うものも、無関係ではありませんが、自由と民主主義を生み出し、育てて来た発展の泉をなしてきたもの、それは、外にあるものではなく、国の中にあり、歴史が育んできたものであり、自分自身に発したものです。

 私はあえて次の四つの言葉を強調します。

 すなわち、(一)家族、(二)民族、(三)国民国家、(四)ナショナリズム(この四番目の言葉は、「愛国主義」と言い換えても構いません)

 この四つは戦後久しく自由と民主主義の敵であるかのように言われてきました。それは完全な間違いです。

 四つをもう一度言います。

 家族、民族、国民国家、ナショナリズム、これら四つは自由と民主主義の敵ではなく、むしろ自由と民主主義の側にあり、自由と民主主義を守り育ててきた母胎があったものと敢えて言いたいのです。

 アメリカナイズされた第二次世界大戦後の日本ではなく、明治の開国以来の日本の姿を思い浮かべて下さい。家族制度は健全に守られ、日本人は民族一丸となって誇りを持ち、恐らく幕藩制下に確立されたいち国家の意識も高く、そしてナショナリズムはすべての文化、教育、社会活動の隅々まで行き渡っていました。それが、今のわれわれの自由と民主主義を培ってきたのです。

 日本は、もう一度あのレベルまでよみがえらせなくてはなりません。

 それには、人材が必要です。高原朗子が、今、私の述べたすべてを理解し、体現されている方です。

 今の時代、女性で国家観がある政治家が必要です。その代表格は、高市早苗自民党政調会長でしょうが、高原朗子さんも彼女を支える有力な同志として国政に行くべきであります。こういう理念を体得した高原さんこそが今の日本の政界に特に必要な人材です。

 高原さんは、国立大学の教授だった第一線の知識人であり、3年半前にその地位を投げ打って、今までの知識や技能を国民のために役立てようとしています。

 その人が女性であることは、女性の活力の拡大が期待されている自民党には求めても簡単に得られない人材でありましょう。

 自民党にとってもチャンスなのです。

 保守政界は、こういうチャンスをあだおろそかにしてはいけません。

 政界の知的レベルの向上は日本の政治にとって今や焦眉の急です。時代はまさに人を得たというべきではないでしょうか。

 ご健闘を祈ります。」

                         令和4年6月7日

                     

                             西尾幹二

領土欲の露骨なロシアの時代遅れ

令和4年5月24日 産経新聞正論欄より

 ロシアのウクライナ侵攻から日本人が得た最大の教訓は何だろうか。重要な教訓は単純な形をしているのが常だ。もし日本が侵攻されたら、日本人はウクライナ人のように勇猛果敢に戦えるだろうか。そのような疑問が私の心を離れない。

≪≪≪ 「平和主義」を振りかざすだけ ≫≫≫

 5月1日のNHK朝の各党党首出演の政治討論会を聴いていて驚いた。自民党から共産党までまったく同じ論調なのである。日本列島がウクライナのようになったらどうしようという国民が抱いたに違いない不安を予感させる言葉はだれの口からも出てこない。それどころか日本は輝かしい平和主義の国、平和主義を振りかざしていれば無敵、不安なし、平和主義こそが強さの根拠、と居並ぶ各党党首が口を揃えてそう語っているのだ。

 私は心底たまげた。ここまで口裏を合わせたかのような一本調子の同一論調、ロシアが再び北海道侵攻を言い出している時代だというのに、首相以下我が国を代表する政治家たちのこんな無防備、不用意な討論会を公共放送が放映する必要があるのだろうか。

 雑誌や新聞にロシアに好意的な見方が予想外に数多く見られることにも驚いている。北大西洋条約機構(NATO)が壁をつくったことにも責任があり、ロシアの反発もやむを得ないという同情論である。たしかに孤立したロシアを一方的に追い込むのは危険だという指摘はジョージ・ケナンやキッシンジャーの警告でもあり、人類が歴史に学ぶことがいかに少ないかの例証の一つではある。

 けれども現在のロシアが旧ソ連とどれほど違った新しい国に生まれ変わったかにはむしろ大きな疑問がある。スターリンとヒトラーは気脈を通じ合った同時代人であった。ネオナチは今のロシアを指す言葉だと言った方がいい。

≪≪≪ 19世紀型植民地帝国主義 ≫≫≫

 今度の侵略で目立つのはロシアの領土欲である。クリミアを手始めに露骨だった。同じことは公海に囲いをつくった中国にも言える。この両国は体制の転換期(1990年前後)に何も学習していない。対して第一次大戦後のアメリカの支配方式は「脱領土」を特徴とする。アメリカも帝国主義的支配を決して隠さなかったが、遠隔操作を手段とし、主として「金融」と「制空権」を以てした。

 第二次大戦まで国家の勢威の指標は領土の広さであったから、英仏蘭は戦後すぐ再び植民地支配に戻ったが、アメリカは国内総生産(GDP)を指標とし、世界はそれに従って今日に及ぶ。

 世界の覇権には軍事力と経済力以外に独自の文明の力を必要とする。科学技術や人文社会系の学問に秀で、映画など娯楽やスポーツ、農業生産力でも世界をリードすることが求められる。アメリカはそれをやってのけた。戦後世界を支配したのは当然である。

 今、覇権の交替を求めている中国には世界を納得させる新しい文明の型を打ち出す力はない。核大国・為替の支配・宇宙進出などアメリカの模倣である。ロシアはそれにさえ及ばない。かくて共産主義の過去に呪われた両国は今では「領土」にこだわる。19世紀型植民地帝国主義を再び演出する以外に手はないようだ。

 勿論アメリカの独自路線も少しずつ後退し、誇らしかった月面初到達も今や昔話だ。そして地球の問題を決めるのに少しずつ国際的民主化が進んでいる。

≪≪≪ いわれのない妄想捨てよ ≫≫≫

 民主化は良いことのようにみえるが、それは自由の幅を広げ、その分だけ不決断ないし無秩序が広がることを意味する。だからバイデン大統領はプーチン大統領が核に一寸でも手をつけたら、アメリカは断固モスクワを核攻撃しますよ、とは決して明言しない。ただ独裁国家の悪を道徳的に非難するばかりで、ロシアへの経済制裁とウクライナへの追加支援を積み重ねていくばかりである。誰しもが全体の状況を読み切れず一般的不安の中にいる。もし大戦争に拡大したら「貴方がこうすれば私もこうします」とはっきり言わないアメリカ大統領に半ば以上の責任がある。世界の政治はだんだん日本の政治に似てきている。「バイデン」は「岸田」に似てきている。

 5月10日、フィンランドのマリン首相が突如、日本にやってきた。訪日目的も明確ではない。フィンランドから見て、日本政界の太平天国の暢気さ、平和主義こそが自国の強さの根拠だという、いわれのない日本人の妄想が不思議でたまらず、現場に行って問い質し確かめたいと思ったのではないだろうか。岸田文雄首相は二言目には「自分は広島の出身だから」と言う。首相が広島県人であることが国の安全保障にどう関係があるというのか。できの悪い高校生みたいなことを言うな。

 日本は被爆国であるからこそ同じ体験を二度と味わわないためにはりねずみのように外敵が手を出したら直ちに同程度の報復をする準備体制を完備することがノーモア・ヒロシマの意味ではないか。今のままでいけば日本が3度目の被爆をする可能性は決して小さくはない。  (にしお かんじ)

『日本の希望』書評(3)

ゲストエッセイ
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)11月19日(金曜日)
通巻第7120号より

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「自由と民主主義は大切である。しかしそこから先が問題なのだ」
家族、民族、国民国家、ナショナリズムは自由と民主主義の敵ではない

西尾幹二『日本の希望』(徳間書店)

 約束の時間に間に合わないところだった。最初から引き込まれて半分まで読んだところで先約に気がつき、慌ただしく椅子を離れた。
 題名に「希望」とあって、一縷の望みが日本にはまだあると西尾氏は言う。
私たちが守ろうとしてきた祖国は、もはや存在しないのではないかと訝っている読者の脳幹を刺激するだろう。
現代日本は精神の曠野である。

 ものごとの本質を理解できない半藤某とかが皇室にご進講に及び、あろうことか内閣ごときが皇室典範にあれこれと口を挟む。
 日本に牙をむく中国の侵略には眼を瞑り、商売だけは続けたいと経団連につどう財界人はトランプの対中強硬策にたじろぎ、反発し、批判していた。なにしろ「人権」で中国制裁を緩めないとポーズだけは勇ましいバイデン政権だが、それを支えるウォール街とIT企業は、中国べったりでまだ儲け話があると踏んでいる。
世の中、先の読めない人だらけだ。

 「自由と民主主義は大切である。そこまでは大方の人の意見が一致する共通ラインからもしれない。しかしそこから先が問題なのだ。家族、民族、国民国家、ナショナリズムーーこれらが自由と民主主義の敵ではなく、むしろ自由と民主主義の側にあり、自由と民主主義を守り育ててきた母胎である」。
こんな基本を忘れ、家族、民族、国民国家を破壊しようとしているのがグローバリズムである。
そうだ、共産主義者が姑息に仮面としているのがグローバリズム、メディアは「新市場主義」などと持て囃す。新市場主義なるものは、左翼陰謀の隠れ蓑である。

 さて、民主主義は全知の神ではなく、次善の政治制度であり、ましてや「文化の概念ではない」。
西尾氏はこう言われる。
「日本国憲法は文化の原理である天皇の役割を冒頭に掲げ、上位概念として政治の原理を支配する文化の原理の優位を明白にしている。ならば文化の原理としての天皇の優位は何を根拠にしているのか。神話である。天孫降臨神話である。三種の神器の継承権である」。

 後鳥羽天皇は正統を求め、承久の乱を起こした。後醍醐天皇は最後まで正統を求め、戦い続けた。
ところが現代日本で教えられている歴史教科書は「縄文弥生の一万数千年を日本の歴史の始まりと定めていて、神話の格別の意味を持たせない。今なおつづく敗戦後遺症である」(17p)。
ならば中国の歴史観なるものはいったい何か。

 「唐代の韓愈は『夫れ史を為る者、人禍あらざれば、すなわち天刑あり』と言っている。歴史を書くものの身にはろくなことはおこらない」のだが、それでも史家は命がけで歴史を書いた。
孔子は魯の正史をまとめた(『春秋』)が辱められ、不遇の死を遂げた。齋の太史は殺され、司馬遷は『史記』の著して処罰を受け、『漢書』を書いた斑固も獄死している。『晋史』の王隠は誹謗されて失脚した。
 以下同様に

「北魏の国史を編纂した崔浩、『後漢書』を書いた氾華は、誅せられて一族皆殺しにされた。『魏書』の魏収は、嗣子なくして家が絶えた。齋史、梁史、陳史など多くの史書の書き手も、その身が栄達し、子孫も栄えている例があるとは聞いていない」(170p)

 歴史を叙するとはいったい何か。その行為が何を意味するかを追求したところが、本書の肯綮である。
 大病を克服中の西尾氏の最新論文集、刺激されること夥しい書物だ。
               (註「氾華」の「氾」は草冠。「華」は口篇)