『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の一

力石幸一 徳間書店 学芸編集部

西尾幹二様

このたびは、大役をおおせつかり、汗顔の至りです。

なんとかご著書『日本と西欧の五〇
力石幸一 徳間書店 学芸編集部 〇年史』の書評をまとめてみました。

今回のご本は、あまりにも多くの視点から歴史をとらえられているので、どこに絞りこむかに相当悩みました。ドストエフスキーの大審問官のエピソードにからめて自由の問題にも言及したかったのですが、枚数も限られており、結局取り上げられませんでした。

本文の概要を説明するだけでも精一杯で、個人的な感想などもあまり入れられませんでした。

また、理解が及んでおらず、間違った解釈をしているところもあるかもしれませんが、ご指摘いただけたら幸いです。

なにとぞよろしくお願いいたします。

力石氏『正論』2024年7月号より

従来の歴史書の概念覆す衝撃の書

 これまでの歴史書の概念をひっくり返すような衝撃的な本である。歴史について多くの人が持つイメージは、一次資料に裏付けられた事実と、その事実を時系列に沿ってストーリーで語るというものだろう。E・H・カーは、「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話」(『歴史とは何か』)だとする。いかにも優等生的な定義だが、そんな歴史が何の役に立つのか。歴史とはもっと暴力的で血なまぐさいものではなかったか。

 本書を出色の歴史書にしている大きな要因の一つは、「権力をつくる政治と権力がつくられた後の政治」を峻別したことだ。

 「どこかで権力がつくられた後、その後追い解釈で、ワシントン会議がどうだったとか、あれこれ議論しても、全部権力がつくられた後の始末というか、それをめぐる政治にすぎない。権力をつくる政治はこれとは別である。権力をつくる政治は剥き出しの暴力である」

 まさに同感だ。とりわけ戦後日本で語られてきた歴史とは、「権力がつくられた後の政治」にすぎず、今もまだそこから抜け出せていないどころか、その中にいることにすら気づいていない。「権力への意志」なきところに歴史はない。これまで歴史を読みながらずっと感じてきた違和感の正体はまさにこの点にあったことに改めて気づかされるのだ。

100年ごとに遡れば見えてくる

 本書は、歴史考察の時間軸もこれまでとはスケールを異にする。日本人は、「今次戦役の背景を知るのにせいぜい100年どまり」だったが、それでは不十分では不十分で、500年くらいは射程に入れなければいけない。まさに西欧近代500年そのものを問おうというのである。

 では西欧の500年を100年ごとに区切ったらどう見えるだろう。2015年を起点として、100年というと、1914年に第一次世界大戦が始まり、それを契機にイギリスからアメリカへ覇権が移動する。

 さらに100年をさかのぼると、ナポレオン戦争が終わり、ウィーン会議で西欧各国は絶対王政に戻ろうとするが、革命を知った歴史はもう元へ戻ることはなかった。

 その100年前には、1713年にスペイン継承戦争が終結し、スペイン=の1519年にスペイン=ハプスブルグ帝国はルイ十四世の手に落ちる。

 さらに100年前、1618年に三十年戦争が始まり、この戦争の結果ウェストファリア体制が確立し、主権国家の時代が始まる。

 その100年前の1519年にスペイン=ハプスブルグのカール五世が神聖ローマ帝国皇帝となり、太陽の沈まない帝国の基礎をつくる。

 このように100年ごとに時代を区切るだけで、西洋史の見通しがずいぶんよくなることに驚く。

 こうして西欧の500年を概観して、まず気づかされるのは、それが王朝の戦争史だったことだ。なかでも、カトリックとプロテスタントを代表する二つの王国スペインとイギリスである。五世紀にわたって一貫して覇権意志を示した両国が競い合ったのは、アジアの海洋における覇権であった。つまり西洋の500年とは、まさに大航海時代の幕開けとともに始まったのである。

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