『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の三

『月刊正論』7月号より 力石幸一

略奪資本主義とアメリカ

 西欧諸国による海洋の争奪戦を主導したのは、キリスト教カトリックとプロテスタントを代表するスペインとイギリスであった。

 スペインは、カール五世が1519年に神聖ローマ帝国皇帝に就いた時から、新大陸の略奪によって一気に大帝国に成長する。その過程で、インカ帝国やアステカ帝国は、スペインの圧倒的な武力と彼らが持ち込んだ伝染病によって滅んだのは誰もが知る歴史だ。しかしここで特筆すべきは、スペイン国内で、インディオの土地や財産を奪うことは果たして許されるか否か、その前にそもそも人間であるのか否かをめぐる熾烈な論争があったことだ。

 ドミニコ会士ラス・カサスとセブールベダという哲学者の間で「パリャドリッド大論戦」があったことは有名である。しかし、この論戦の文書は残されていない。そこで本書は、サマランカ大学の神学教授であったフランシスコ・デ・ビトリアの議論を取り上げる。著者は、ここで自分の解釈を述べるのではなく、ビトリアのせりふをそのまま紹介し、議論の臨場感を示そうとしている。ここにこの本の無言の自己主張がある。

 ビトリアは、インディオの権利を擁護し、万民法を国家の上位に置き、グロティウスらに先だって「国際法の父」と呼ばれた。ビトリアはすでに「人類」という言葉を使っていた。その知性はすでに近代社会を確実に視野に入れていた。しかし、ビトリアの目指した近代社会はどこまでもキリスト教世界の内側という限界のなかにあった。

 ヨーロッパ世界は、古代とは切り離されていた。そこにイスラム経由でアリストテレスの哲学がもたらされる。スペインにおける論争では、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの神学が強く意識されたが、それらを超えて議論の中核にあったのはアリストテレスだった。しかし、彼らはアリストテレスの「先天的奴隷人説」を奴隷貿易や略奪を正当化するために巧妙に利用した。ここに西欧の欺瞞があった。その論争の内容をいまここで解説することはできない。

 ただ言えるのは、西欧は、世界に空間と権益を拡大させていく一方、彼らの精神はキリスト教中世の中にとどまっていたことだ。そしてその呪縛は今も続いている。そのことが、現代のわれわれが抱えている困難の原因なのではないかと著者は問いかける。

アメリカという国

 西欧の500年は、つきつめて言えば、イギリスがスペインを追いかけ、追い詰め、追い払う歴史だった。イギリスの植民帝国のつくり方は巧緻を極めていた。徹底して「海」から「陸」を抑え込むという独自な知恵があった。海洋覇権の方法はそれぞれの国によって違っていたが、共通していたのは富の収奪による「略奪資本主義」が基本だったことだ。そして、資本主義の発展に伴って政治体制としての王国は終わり、近代の国民国家が生まれてくる。その行き着く先がアメリカという異形の国家だった。

 アメリカという世界史のなかでも特殊な国の歴史を掘り下げるために著者は、二つの命題を立てる。第一の命題は、「アメリカに国際社会は存在しない」というものだ。アメリカは国であるが、同時に世界でもあって、他国の干渉を嫌う一方で、他国には自国の価値観を押しつける。二つ目の命題は、アメリカは旧世界に比べて退廃していない、純潔の国だという自己認識である。つまり、アメリカとは表面上は普遍的価値を謳いながら、実際の行動は他を顧みない自分勝手な力の行使を辞さないという矛盾を内包した国だということだ。

 その国土の豊かさからアメリカは植民地を必要としなかった。しかし、リンカーン時代の国務長官であるウィリアム・ヘンリー・スワードはアメリカの覇権を確立すべく権益の拡大に努め、アメリカの支配領域を着実に増大させていく。1853年に日本に渡来したペリーは同時代人であり、彼もまた拡張主義者だった。

 アメリカの西方拡大をマニフェストデスティニーといえば美しく響く。しかし、ヨーロッパに対してはモンロー主義を言いながら、実際はアメリカの権益の西方拡大と覇権主義を進めるという矛盾に満ちた行動の正当化にすぎない。その背後にあったのはやはり千年王国論である。

 それではアメリカには中世があったのか、それともなかったのか。古代の奴隷制から直接近代に入ってしまったという見方もあればアメリカはいまだに「自分の身は自分で守る」しかない中世の暴力的世界のままだという説もある。著者は、あえてどちらとも決めていない。おそらくはどちらも正しい。それだけの大きな矛盾がアメリカという国の特異性の根底に存在すると理解すべきなのだろう。

日本の自己認識

 それでは、日本の500年はどうだったのか。西欧の500年と拮抗できるだけの歴史が日本にあったのか。

 著者は、呉善花氏の「日本はイデオロギーを持たない稀な国家」という指摘に足をすくわれるような衝撃を受けたという。韓国は仏教も陽明学も捨てて朱子学に転換した。ところが日本は八百万の神といいながら、何を基準にしているのかわからないというのである。

 この批判には、日本は自己を捨てて多角的にものを見てきたが、中国や韓国は自己中心的で他者に照らして自分を省みないと反論することも可能だ。しかし、日本は自分を無にして西洋近代に追いつこうと努力を重ねて大国の仲間入りをした。アメリカとの戦争に敗れたとはいえ、見事に復興を果たした。ところが今、西洋近代500年はほころびを見せ始めている。日本はどこへ進むべきなのかが問われている。私たちの原理とは何なのか。そこには日本人の自己認識という問題が横たわっているのではないか。

 17世紀にはアジアの海は騒然とし始めていたが日本列島の東側の太平洋は人影も島影も見えない北太平洋という闇が広がっていた。その地政学的条件が日本を守っていた。そこにわが国の250年に及ぶ優位と迂闊さ、合理性と手ぬかりという矛盾が象徴されていると本書は鋭く指摘する。世界からの無関心に安住した日本人の迂闊さは、江戸時代だけの問題ではない。今まさに目の前に同じ問題がつきつけられているのではないか。

 本書を通読して痛感するのは、歴史において他者を認識することがいかに難しいかということだ。そして同様に自己を認識することも。

 本書を手がかりとして、さらに日本人の歴史認識が深化することを期待したい。

「『日本と西欧の五〇〇年史』への感想(四)の三」への1件のフィードバック

  1.  西尾先生の新著『日本はアメリカに民主主義を教えよう!』を拝読した。本欄への投稿は『日本と西欧の五百年史』に関するものに限るとの先生のお達しがあったが、それに続くこの新著への投稿も許容されると解釈し送らせていただきます。扱いは管理人様に一任します。
     なお、西尾氏本文のルビは、当方の勝手な判断で引用する際、最小限のものに限らせていただきました。過去の投稿の経験で、「日録」フォーマット上、本文文字の上に記したルビが本文中にカッコ付きで表記されるため、読むに煩雑と思われるためです。ご了解をお願いいたします。

     西尾氏の文章を読むのは楽しい。読みながら、ページから目を離したり前後を行きつ戻りつしたりと、あれこれものを考えさせてくれる文章であることが愉悦の源泉である。文章が真理を表わし、流れにリズミカルな諧調があり、読者は考える喜びを与えられる。そして西尾氏は思いのほか民主的で(失礼!)、難しい言葉や言い回し、説明抜きの断定や「分かる人には分かるであろう」という類の言葉は基本的に好まず、読者に分かりやすく提示されることを恐らくは信条とされているのだろう。
     以下、氏の文章に触り、味わって、徒(いたずら)に長くなったことをお詫び申し上げる

     本書はアメリカと中国を論じて日本の覚悟を問う2017年から2023年初頭までの論文集であり、巻末に1999年に書かれた解説文「不正義の国アメリカの正体を初めて解剖した書」と題する逸すべからざる一篇が付されている。巻頭の「まえがきに代えて」で言及される西尾氏の大著『全体主義の呪い』については、その結語の文章や江藤淳の推薦文を引用しながら本欄で当方も触れたことがある。東欧を襲った「後期全体主義」の恐怖は決して過去のものではなく、二〇二〇年大統領選挙下のアメリカはその一形態であった。「アメリカはもはや完璧に憲法を逸脱した非民主主義国に成り下がっています。(中略)アメリカ合衆国の権力構造に明白に異変が生じ、ホワイトハウスの大統領府を超えた何らかの新しい権力がすでに存在し、選挙を動かし、政府を取り換え、官僚の任命権を握り、軍の司令官を左右している」(P126)。西尾氏はその背後に「一本の電話に怯えている役人が十重二十重に折り重なって、息をこらし、沈黙し、事態を徒に複雑にしていったに違いない」(P6-7)という事情を見ている。「全体主義は人間性の墓場である」という同書にある氏の重い言葉が思い出される。
     収載論文には、雑誌掲載時に読んだものも、今回初読の文章もあるが、既読の論文も本に収まって読むと、氏の文章は初読の時とは違う相貌を見せ、新たな奥行きを感じさせる。いつだったか、福田恆存のご子息福田逸氏がYouTubeで語ったことが記憶に残っている。恆存の妻・逸氏の母堂が、お父さんは時事的な文章を多く書いたので小林(秀雄)さんみたいには残らないね、と語っていたが、最近、父の文章が読み返されているのを見ると、必ずしもそうではないように思えてきた、という趣旨であった。その通りであろう。西尾氏に『国家の行方』という本がある。産経新聞『正論』欄掲載の一〇一篇の論文集である。一九八五年から二〇一九年に渡って書き継がれた全エッセイに、弛緩が絶えて見られず一貫して高い強度が保たれているのは驚くべきことである。この本に対して然るべき正当な扱いがなされていないのではないかと思ってきたが、しかし今、アマゾンのサイトを見ると、四十五の評価があり平均点4.5、いくつか強い賛辞が寄せられている。一般読書界は見るべきものを見ている。氏の論文集は、断簡零墨に至るまでと言いたいくらいに、新聞雑誌に発表された文章は残さず編まれて刊行されてきた。これは現在ではなかなか例を見ないはずである。もちろん福田恆存の場合も、辛辣にして痛烈な論争も珠玉のエッセイも一本に纏められて刊行され続けた。文章の力のなせる業であり、耳を傾ける根強い読者層のゆえである。それは今に繋がっている。
     
     本書で一貫して表明されるのはトランプ氏への強い支持である。時宜にかなった出版と言える。以下、西尾氏が本書に刻んだ創見、卓説を拾っていこう。西尾氏の声を正確に聞き取るのは、平易に見えて必ずしも容易なことではないように思える。
     「白人文明は自分たちが占領地でやった(性の…引用者註)犯罪を旧日本軍もしていないはずはないという固い思い込みに囚われています。 
     韓国人がこのルサンチマンに取り入りました。これを利用し、韓国特有の政治的主張の拡大にひたすら役立て、今まで成果を挙げ、少女像が増えこそすれ、なくならないのは、“世界の韓国化”が前提になっているからでしょう。
     韓国化とは、韓国文化の普及のことではありません。申すまでもなく、人間の卑小化、矮小化、他者への責任転嫁、はてしない自己弁解への罠の転落、他者を恨み、自己を問責しない甘えへの無間地獄のことです。考えてみれば、韓国ほど酷い例は少ないとしても、地球上にそういうモラルの崩壊現象は至るところに見られるといえるでしょう。世界は『韓国化』しつつあるのです。これに日本は断固反対しなくてはなりません」(P31-32)
     上の「韓国化」の叙述に注意を喚起したい。かくも容赦なく的確に描かれることに私は感嘆する。この「ポリティカル・コレクトネスを武器とする」「世界の『韓国化』」の淵源はドイツにあると言う。
     「弱者の恫喝は、全体主義の概念を拡げるようになるでしょう。つまり新しい全体主義はヒットラーの再来ではなく、ヒットラーの名前を出せばそこですべてが思考停止をしてしまう非暴力による正義の形態をとるでしょう」(P33)。
     これこそ、本書『まえがきに代えて―『全体主義の呪い』から再考すべきこと』で言及された自著『全体主義の呪い』が先駆的に提示した新しい全体主義の姿の一端であり、すでに我々を取り巻いて自由を奪っている当のものだ。       
     「アウシュヴィッツに疑問を差しはさむと、公職を奪われて投獄されるのですよ」(同)。     「ナチズムを何が何でも『絶対悪』とするドイツ社会の精神状況は、すでに完全に異常な界域に入っているように私には見えます。必ずや、いつの日にか悲劇的反動が起こるでしょう」(P35)。
     「アメリカにおいてさえ、いわゆる歴史への謝罪の感情が高まり、自虐心理が広まっていることは先に見た通りで、これには反動が必ずくると思っていたら、それはトランプでした」(同)。
     「コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。それがEUで、国家や国民の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。(中略)国家の概念を希薄化すると、一パーセントのエリート同士が国境を低くした国際社会のなかで手をつなぎ合わせ、九九パーセントの大衆社会を支配するということが起こります」(P38-39)
     国連とその関連組織もまた同じである。国民国家を国際組織の上に置く転倒を実行できるのはトランプ氏ただ一人であろう。

     「日本の賃金が上昇しない原因について、安倍さんは企業財界人を呼んでは賃金を上げるようしきりに頼んでいるようですが、やり方を間違えているのです。外国人労働者を入れたらダメになるのは決まっているのに、そちらを増やしておきながら賃金を上げろというのは筋の通らない話です」(P39-40)
     安倍首相は「移民政策はとらない」、「深刻な人手不足に対応するため、真に必要な業種に限り、一定の専門性、技能を有し、即戦力となる外国人材を期限つきで受け入れるものだ」として入管法改正を通した。安倍政権の移民政策は、経済界の要求を入れ日本破壊の根源的悪を孕むがゆえに詭弁的となったに違いない。その後現政権に至るまで、政府のしたことは移民拡大政策であり国民国家の基盤を掘り崩して顧みない。無条件に安倍晋三を賛美し、功をあげつらう人は今なお多い。しかし西尾氏のように根本的矛盾を突き批判する人はいなくなった。

     「南北戦争における南軍の将の銅像が人種平等の過激派の暴徒によって引き倒される事件があった。中国の文化大革命を思い出させる歴史破壊が米国で起こったのだ。
     しかも米国でも日本でもメディアは歴史破壊を非難せず、暴徒に味方した。トランプ氏はそうではなかった。彼は白人至上主義者も過激派の暴徒もどちらもいけないと両方を責した。メディアはそれすらも許さなかった。白人至上主義者を一方的に非難することをトランプ氏に求め、それをしない彼を弾劾した。
     遠くから見ていた私は彼に同情し、米国社会の深い病理の深淵を覗き見た。トランプ氏は米国社会に、ひいては全世界に『価値の転換』を求めているのである」(P46)。
     「彼(トランプ…引用者註)はストレートで、非妥協的で、不寛容ですらある。米国社会に、ひいては全世界に『反革命』の狼煙(のろし)を上げているので、改革とか革命とか共生とか協調とか団結とかいった、人類が手を取り合う類の感傷に満ちた世界にNO!を突きつけ、あらゆる偽善に逆襲しようとしている」(P47)。

     西尾氏は、本書収載以外のエッセイで、トランプを、シェイクスピアが描き福田恆存が翻訳した悲劇の主人公、古代ローマの将軍「コリオレイナス」に擬している。暗殺未遂直後にシークレットサービスの制止を振り払って不撓不屈ぶりを見せつけ、その五日後、一時間半に渡る共和党指名受諾演説を行ったこの人物に対してあながち過褒とも言えない。発砲直後、拳を突き出し、聴取に向かって「Fight!」を三回繰り返した瞬間を収めた写真は、ドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」を思い出させる。この写真とともに間一髪で此岸にとどまったトランプの姿は、歴史に刻まれるに違いない。

     「リアリズムに立つトランプ氏がアメリカの『国防上の理由』から高関税を遠隔地の同盟国にも要求する、という身勝手な言い分を堂々と、あえて粉飾なしに、非外交的に言ってのけた根拠は何であろうか。
    トランプ氏はただならぬ深刻さを世界中の人に突きつけ、非常事態であることを示したかったのだ」(P53)。
     トランプは変わらない。2024年も同じことを非外交的に言っているのは周知のとおりである。彼の見ている風景は前回と変わらないからだ。
     「アメリカは不当に損をしている、と言い立てたかった。自国の利益が世界秩序を左右するというこれまで言わずもがなの自明の前提を、これほど露骨な論理で。けれんみもなく胸を張って、危機の正体として露出して見せた政治家が過去にいただろうか」(P53-54)。
     「政治は自己主張に始まり、『排除』の論理は必然だと私は前に言ったが、トランプ氏は世界全体を排除しようとしてさえいる。ロシアと中国だけではない。西側先進国をも同盟国をも排除している。いやいやながらの同盟関係なのである。それが今のアメリカの叫びだと言っている。アメリカ一流の孤立主義の匂いを漂わせているが、トランプ氏の場合は必ずしも無責任な孤立主義ではない。北朝鮮問題は逃げないで引き受けると言っているからだ。 
     ただ彼の露悪的な言葉遣いはアメリカが『壁』にぶつかり、今までの物差しでは測れない『自己』を発見したための憤怒と混迷と痛哭の叫びなのだと思う。日本の対応は大金を払えばそれで済むという話ではもはやない。日本自身が『壁』にぶつかり、『自己』を発見することが何よりも大切であることが問われている」(P54)。
     日本には日本の「壁」があるではないか。その壁をあらためてまざまざと「発見」し、立ち向かう能力と決意を持てと氏は言っているのであろう。壁がまず、露中朝の核に囲まれた寒々とした我が国の姿であり、皇統であり、国民国家日本であることは間違いあるまい。
     西尾氏が指摘する北朝鮮への関与についても、トランプは先の共和党指名受諾演説で、金正恩とはうまく話し合いができると言った。ここでも彼は一貫している。

     次に西尾氏は福田恆存の言葉を引く。
     「『私の親米はアメリカの世話女房になれというほどの事だが、彼等(反米的言辞を弄する知識人…現引用者註)の反米はアメリカの妾になって』大いに楽をして、片務的で中立主義の立場の自由を享受しよう、というのが本心である。世界各国がアメリカにそういうわがままな関係を期待している。『孤独なるかな、アメリカ』と言いたくなります。」(P68)
     西尾氏は福田のバトンを受け継ぐ。
     「『アメリカを孤立させるな』が五十四年前の彼の論文の題名だが、今の世界各国とアメリカの関係は基本的に変わっていない。片務的な日米関係はもう止めたい、とトランプ米大統領が叫ぶのはむしろ遅きに失してさえいる。
     ならば、福田恆存の顰(ひそ)みに倣って『トランプを孤立させるな』が私たちの新しいスローガンでなくてはならないのではないか。『親米』は今の時代にこそ必要な賭である。アメリカとの協力はこれからはむしろ本気度を試される真剣勝負にならざるを得ないだろう」(P67-68)
     トランプが倫理的であるように、福田も西尾氏も倫理的である。しかし当時も福田の説くところは十分理解されなかったように思える。その後も、アメリカが尖閣諸島は日米安保第五条の適用範囲内と言うかどうか息を潜めて窺い、言葉だけでもそう言ってくれれば胸を撫でおろして眠り込むことを我々は繰り返してきたからである。西尾氏は噛んで含めるように説いているが、これを発止と受け止め、片務的な日米関係を脱し得るか否かで、トランプ再選後の日本の運命が決まるだろう。
     この後、氏は「経済界への苦言」として、「日本の経済界は『自由』の体制を守るための犠牲にもっと自覚的であるべきだ。言いにくいことだが、ときにアメリカへの協力を含む自発的肩入れを欧州各国に先がけて企図すべきである」(P70)と正論を述べるが、おそらく今はもう経済界、とりわけ経団連に何も期待されてはいないだろう。そんな相手ではとうになく、移民、LGBT、夫婦別姓の推進を政府に要求するあられもない団体である。「『自由』の体制を守るための犠牲」など薬にしたくも念頭にないであろう。

     中国に関する2020年6月の論文『中国は反転攻勢から鎖国に向かう』も創見卓説に満ちている。
    「中国は四つの蛇頭を備えた大型怪獣である(中略)。第一の蛇頭は『古代専制国家体制』の構造をそのまま引き摺っていることである。人間を統治する者とされる者との二つに分類し、統治される者には人権も富も認めないのはこの国の政治文化である。(中略)現代中国人にも物質的意味での『自由』の拡大の経験は確かに与えられたが、『平等』の拡大こそが同時に必要だという観点は完全にないがしろにされている」(P76)。
     「各国が『自由』と『平等』の両方を実現する矛盾に苦しみ、悩みの中で近代の歴史を刻んできた。ひとり中国のみがこの流れから飛び離れ、『平等』を黙殺する好き勝手な独断を走り出して三十年を経過した」(P78-79)。
     「「鄧小平が行おうとしていたのは『平等』の永遠の封じ込め、運の良い者の『独り占め』の容認だった。
     今までに起こってきたことは共産党草創期の名だたる功労者の子孫による特権の『世襲化』である。彼の眼中に庶民、民衆は入っていない。『早い者勝ち』を指示され、急げとばかりに尻を叩かれたのは党幹部の子弟たちであった。国民の富の露骨なまでの分割と収奪が彼らの手によって実行された。
     中国の歴史はどの時代をとっても金太郎飴のように似ている。中国史には古代と現代しかない。清朝までは事実上古代である。
     古代と現代の間に近世や近代といった『平等』への足踏みを試みる中間の時代を経過する余裕がなく、すべての中間項をとばして、第二の蛇頭ともいうべき『現代共産主義独裁体制』を唱導した。古代国家の特質を備えたまま人民支配の制度的装置を十重二十重に作り上げたわけだ」」(P79-80)。
     「巨大な人口と空間を擁している以外には漠として掴みどころのない国家であるがゆえに、私は矛盾した『蛇頭』を抱えた多面性に着目しているのだが、第二の蛇頭『現代共産主義独裁体制』と第三の蛇頭『金融資本主義的市場経済体制』の両立を無理に維持しようとしている矛盾撞着が今限界にさしかかり、破裂しかかっているのではないかと考えている。(中略)
     習近平が主席になって以来、四つ目の蛇頭というべき『全体主義的ファシズム体制』の特徴が色濃く出始めた。
     そもそもこのような国が無条件に好き勝手を続けるのを放って置いてよいのか、改めて強い疑問が噴き出した。ウイルスが収まったら次に世界中で論争の渦を巻き起こすのは中国への懲罰と現代文明の『脱中国』への意志の表明である。(中略)
     米中間の対立は米国だけでなく、中国と交渉を持つ日本やEUやその他の諸国にとっても看過しがたい根本問題に道を通じている。というのも、二国間の関係が問われているというよりむしろ、中国という“半古代国家”に対し他の世界がどう関与し、どうリードしていくかという今後の地球上で避けて通れない課題が問われていると考えなければならないからである」。(P82-84)。
     「中国の指導者ないし権力者は中国という国を常に世界の中心に据えて考えていて」、(中略)「米国であれEUであれ日本であれ、(中略)将来的にはそれらの国々をも下位に置く冊封体制を目標にしているのである」(P84)。
     「指導者ないし権力者たちが密かに立てている計画は、毛沢東時代がそうであったような『鎖国』への準備である。(中略)諸外国を下位に置く序列構造の画策がついに失敗したらどうするか、(中略)彼らにやれることは今のうちに守りを固め、冬籠りの体制に入ることである。ひょっとすると米国もそれを望んでいるかもしれない。
     しかしそうなる前に一波乱も二波乱もあることはこちらも覚悟しておかなくてはならない」(P85)。
     「米国トランプ政権による米中貿易交渉は、実は中国の不公正な取り決め、自己をまだ発展途上国であるかのごとくに演出する身勝手で卑怯な弱者ポーズの強請(ゆすり)を高関税という手段で一挙に撤廃することを主眼としている」(P87)。
     「なにか途轍もなく恐ろしいことが中国人の運命に刻々と迫っているような気がしてならない。国家も国民も何かに追い詰められている。公私ともに借金に借金を重ね、支う払うべき金利だけで天文学的な数字を積み重ねている」(P89-90)。
     トランプ氏が表明した中国への一律60%の関税政策はここに述べられた趣旨で進められるであろうし、中国不動産バブル経済の崩壊は、その不良債権の規模において「途轍もなく恐ろしいことに」に違いない。

     「トランプは保守の思想がしっかり身についている指導者です。素朴な家族主義、伝統と信仰への信頼、初め分からなかったのですがいざというときにはっきり示された軍事力への傾斜、しかし彼は戦争嫌いで、一方軍は彼を最も信頼しているという逆説。小さな政府という理念とそれに見合った減税政策、オバマやバイデンにはできなかた徹底的な反中国政策、メキシコとの国境の壁の具体的なリアリズムに現われた確信と実行力、北朝鮮に単身乗り込んだ勇気ある人間力、等々挙げていけば切りがありません」(P113-114)。西尾氏のトランプ信頼の基礎にある認識である。
     こういう政治家を我々は持ったことがあるか。「アメリカは、やはり自分で自分を変える力を持っている」(P36)。「素朴な家族主義、伝統と信仰への信頼」、いざというときのための軍事的攻撃力の保持、地域に根を張る生活、将来への展望と公への信頼、こういうものがなければ少子化対策にはなり得ない。貧乏人の子沢山は生まれない。「異次元の少子化対策」などと言いながら金を小出しにばらまくばかりの官邸のいかに卑小なことか。「本(もと)立ちて道生ず」(論語学而)ということがまるで分かっていない。
     「大切なのは、自分の立場や姿勢を固定せず、現実の変化に当意即妙に対応できる自分に関する自由の感覚への信頼です。今の世界の指導者の中でこの自由を保持している人物がトランプのほかにいるとは私には思えません」(P130)。この「自分に関する自由の感覚」を持てばこそ、単身北朝鮮に乗り込んだと言えるのだろう。そういうフリーハンドを行使できる人物ということか。
     本日八月一〇日のトピックがある。ブルームバーグが報じるところでは、トランプが「金利や金融政策について大統領が何らかの発言権を持つべきだと述べた。トランプ氏は『私の場合、大金を稼いだ。私はとても成功した』と述べ、『そして多くの場合、連邦準備制度当局者や連邦準備制度理事会(FRB)議長になるような人たちよりも、私は直感に優れていると思う」』と語った。サマーズがこれを批判して「愚か者」の発言であり「「あまりにもひどい考えに、がくぜんとさせられた」と述べた((8月10日付け同紙電子版による)。少なくとも今回はサマーズを正論とせざるを得ないだろう。当選後に実際の圧力行使の自由を保持するつもりか、心理的な無言の圧力のためか、それとも「自由の感覚」のオーバーランか、「愚か者」なのか。トランプが何のためにこういう発言をしたのかは分からない。ただ、ブルームバーグの記事だけに、何らかの「角度」がついている可能性はあり得る。

     前回大統領選挙でトランプが最後の拠り所と頼んだアメリカ連邦最高裁の「腐敗、堕落、背徳」を論じてこう述べる。「戦後日本は教育を始めアメリカ式の民主主義を文化の基本原理の一つとして受け入れました。しかし日本国民は今ここにきてアメリカの民主主義をもはやまったく認められない、と宣言すべきです。多数決の原理すら公正に運営できない国は民主国家とすらいえない。否、法治国家とすらいえないのかもしれません。西部劇時代の野蛮と非文明の地肌が再びさらけ出されました」(P119)。本書の題名の根拠である。
    第Ⅱ章「アメリカに民主主義を教えよう」の最初の論文「堕ちたアメリカの民主主義」の歴史認識は拳(けん)拳(け ん)服膺(ふくよう)に値する。
     「大戦と冷戦の両方が終わった今、一極構造の硬直した覇権意志を示し続けた国はナチスでもソ連でもなくアメリカであったことが判明した。その明るさと公開性の裏に隠された一方的な独善性は、次第に世界を疲れさせ、飽きさせてきた。アメリカのある面での善さや強さや正しさはこれからいくらも回顧に値しようが、『世界政府』を自認した瞬間にあらゆる国は壁にぶつかるのである」(P146)。古代ローマ帝国を思い出してみるがよい、ということか。
     「日本はアジア・アフリカ諸国のなかで唯一、欧米の植民地にならなかった例外国と称され、自らもそう任じてきたはずだが、事実はまったく逆であった。アジア・アフリカ諸国がすべて解放され、地上から植民地がなくなった時代が来たというのに、日本一国のみが政治的・外交的・軍事的・経済的にアメリカ一国に植民地のごとく服属している異常さは疑うことができない現実である。それはドイツと日本が冷戦中の段階で、NPT(核不拡散条約)が生まれた一九七〇年代に、核を持たない国として特定され、封じ込められ、いわば『再占領』状態に陥ったことに由来しているといっていいだろう」(P147-148)。何と残酷な真実の剔抉(てっけつ)であろうか。我々が自分の主人は自分だと言うためには、日本の首相はあらゆる妨害を排して何よりも軍事的独立を実現できる人物でなければならない。それなしに、外交的・政治的・経済的独立はあり得ない。そしてアメリカはトランプ政権であることが必要である。民主党政権は何が何でもWeak Japanの維持を画策し続けることは間違いないからである。
     「アメリカが覇権国であり続けるのは軍事力だけではなく、基軸通貨発行権を保持している特権のゆえである」(P149)。しかし、欧米日がウクライナ戦争を契機にロシアを国際決済ネットワーク「SWIFT」からロシアを閉め出し、ロシア産原油の輸入も原則的に禁止としたことから、最近、決済通貨としてのドルの比率が減少しているようだ。欧米の措置を見て、自らに累が及ぶ場合を想定した諸国のBRICS加盟が増加し、ドルの地位低下が加速しているらしい。トランプのアメリカ回帰に加えて、グローバルパワーとしてのアメリカの構造的転換が進んでいるのかも知れない。
     「アメリカが日米安保条約を破棄し、独立した大国としての日本に進んで核報復抑止力を与え、海上輸送ルートや海上領土主権をまもるための軍事力の充実に協力することが、アメリカの国益でもあるということに否応なく気づく時期は遅かれ早かれやってくる。われわれはそれをただ無為に待つのではなく、それには相応の準備、一年や二年ではできない心の用意と法制度度の改変と整備が至急求められtることは、改めて言うまでもない」(P152)。

    最後に、西尾先生のご健勝を心からお祈りしつつ筆を擱きます。

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