自分の殻をこわしたい

 すでにお気づきになった方もいるかもしれませんが、近頃の私の仕事の周辺に私より若い共同研究者、あるいは知的協力者の名前が何かと目立つようになってきています。わざと心掛けてそうなったのではなく偶然なのですが、協力して下さる友人たちに恵まれて私自身は有難いことだと思っています。

 『GHQ焚書図書開封 3』では北大工学部出身のエンジニアとして新日鉄で定年まで活動された溝口郁夫氏が、全十章のうち一章を分担して下さいました。氏が畑違いの現代史に関心をお寄せになったのは50歳台で南京戦参加の元軍人の話を郷里で聞いて、南京事件の虚報なることをとくと知って、秘かに心に思う所あってのことのようです。氏は焚書図書に関する独自の研究を進めておられます。拙著にご考察の一端を発表して下さいました。これを切っ掛けにご自身の研究を拡大、発展していただけたら大変うれしいです。

 満五十歳になった評論家の平田文昭氏は、間もなく刊行される私との対談本『保守の怒り――天皇、戦争、国家の行方』でその才能を全面開花させました。私はそう判断しています。氏もこれを汐どきにして大きく起ちあがってくださると思います。

 『WiLL』1月号で柏原竜一、福地淳、福井雄三の三氏と始めた「現代史を見直す研究会」は三回目を迎え、今回は話題の書、加藤陽子東大教授の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』をとり上げました。われわれはこの思わせぶりな題名の本の無内容かつ有害である所以を語り尽くしました。今月号は前編で、次号にもつづきがあります。

 三人の中の福地、福井の両氏はすでに知られた方ですが、柏原竜一氏は最近『インテリジェンス入門』(PHP研究所)を出したばかりで、注目されている新人です。国際政治学の知見に秀でていて、今回も日清・日露をめぐる外交史上の知られざる豊富な知識をもって、加藤陽子女史の見識の低さをいかんなく暴露することに成功しています。

 なぜ最近にわかに私の仕事の周辺にこのように共同研究者が多くなったか、自然にそうなっただけなので私自身にもよく分らないのですが、近頃年齢のわりに仕事量が多く、しかもマンネリを恐れる私はつねに同じテーマを二度書かない原則を守ろうとしているうえに題材を広げる欲ばりのため、手が回らなくなってしまった、だから人の手を借りるほかなくなってしまったのかもしれません。そういう見易い理由も勿論ありますが、たゞそればかりではないような気もしているのです。

 私は自分が小さな殻にこもって固定するのがつねに恐いのです。私は自分で自分の殻を壊したいという衝動に突き動かされて生きてきたように自覚しています。自分を破壊することは自分の手では出来ません。他人の知見に自分をさらすことが必要です。私が共同研究者を求めるのは私の内的欲求に発していることなのです。

 勿論私とお付き合い下さる方の発展や成長も同時に心から期待しています。しかしそれだけではないのです。自分を教育しようとしない人は他人を教育することもできません。私は私を教育するために私より若い人の力で私を壊してもらいたいという欲求を強く持っているのです。既成の出来あがった有名人との共同作業を私が必ずしも望まない理由もそこにあります。

 『保守の怒り』という今度の新しい政治的な本の「あとがき」を私は次のようなまったく政治的でない言葉で書き始めていて、これが今述べたことに関係がありますので、冒頭の部分を引用してみます。

 私は昔から知りたがり屋で、本からだけではなく、人との対話からの知識にも関心を抱くほうだが、近頃一段とその傾向は強くなった。私より若い三人の歴史学者と現代史を見直す研究を企画し、討議内容をある雑誌に載せていただくことになったのも最近だ。ほかにも似た計画をあれこれ考えている。

 価値観が私とはほぼ同心円で重なる人との対話は、思考の食い違いからくる負担を省いてくれるが、それだけでなく、思考の微妙な違いは当然あって、それが生産的に脳を刺激してくれる。遠い人よりも近い人との間に橋を架けるほうが困難だ、はある古人の言葉だが、遠い人よりも近い人との間に横たわる溝のほうが深く、大きく、嵐を孕んでいるからである。そして、それだけに価値観の近い人との対話は思いがけぬ結果をもたらし、発見も多い。右記の現代史を見直す会も価値観が互いに近い四人が討議し、互いの小さな相違点からかえって豊かな内容を得ることに成功している例であるが、平田文昭さんとの対話をまとめた本書は、さらに一段とこの趣旨で成果を挙げた一書になったといっていい。

 世の中には他人には危険だが、自分には危険でない言葉が溢れています。自分を危うくしないような批評は批評ではないという意味のことを小林秀雄が言っています。小林さんが自分を危うくするような批評を言いつづけた人かどうかは別問題ですが、ともあれこれは大切なことです。

 ものを書いて行く人間にとって一番の危険は思考のマンネリズムで、あゝまた同じことを言っているなと思われたらおしまいです。読者にはバカも多いので、気がつかないで同じ芝居をくりかえし見て飽きないという読者もいるにはいるのですが、書いている自分を恥しく感じなくなったらさらにも危ういのです。

 文章を書くということは一つの特権です。ましてやそれで金をもらえるということは恐ろしいことです。しかしそれが習慣になり、職業になると特権であることを忘れます。自分の前作の模倣をくりかえす「自分だまし」をどうやったら防止できるか、まともなもの書き手ならそれぞれ工夫をこらしているはずです。

 私が最近信頼できる友人との共同行動を試みているのも、さして自分では意図してそうなったわけでは必ずしもないのですが、今にして思えば「自分だまし」を避けようとする私なりの本能の働きの一つであるといえるように思います。

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