経済制裁はすでに戦争行為

 パリ不戦条約(1928年)の提案者の一人であるケロッグ国務長官が「経済封鎖は戦争行為である」と証言していることを前提に、先の大戦では大々的に対日経済封鎖を行ってきたアメリカのほうが日本より先に攻撃をし掛けてきた侵略者であった、という考え方が成り立つという一文を最近読んだ。日米開戦をめぐる数多くの議論の一つである。

 話題は変わるが、私はこれを読んでふと不安になった。経済封鎖が戦争行為であるとしたら、日本は北朝鮮に対して、すでに「宣戦布告」をしているに等しいのではないか。北朝鮮がいきなりノドンを撃ち込んで来ても、かつての日本のように、自分たちは「自衛戦争」をしているのだと言い得る十分の根拠をすでに与えてしまっているのではないか。

 勿論、拉致などの犯罪を向こうが先にやっているから経済制裁を加えたのは当然だ、という言い分が日本にはある。しかし、経済制裁を加えた以上、日本は戦争行為に踏み切っているのであって、経済制裁は平和的手段だなどと言っても通らないのではないか。

 相手がノドンで報復してきても、何も文句を言えない立場ではないか。たしかに先に拉致をしたのが悪いに決まっている。が、悪いに決まっていると思うのは日本人の論理であって、ロシアや中国などの他の国の人々がそう思うかどうかは分らない。

 武器さえ使わなければ戦争行為ではない、ときめてかかっているのは、自分たちは戦争から遠い処にいるとつねひごろ安心している、今の日本人の迂闊さのせいである。北朝鮮がたけだけしい声でアメリカだけでなく国連安保理まで罵っているのをアメリカは笑ってすませられるが、日本はそうはいかないのではないだろうか。

 アメリカは日米のやっている経済制裁を戦争行為の一つと思っているに相違ない。北朝鮮も当然そう思っている。そう思わないのは日本だけである。この誤算がばかげた悲劇につながる可能性がある。

 「ばかげた」と言ったのは、世界のどの国もが同情しない惨事だからである。核の再被爆国になっても、何で早く手を打たなかったのかと、他の国の人々は日本の怠慢を哀れむだけだからである。

 拉致被害者は経済制裁の手段では取り戻せない、そう判ったとき、経済制裁から武力制裁に切り換えるのが他のあらゆる国が普通に考えることである。武力制裁に切り換えないで、経済制裁をたゞ漫然とつづけることは危ういことなのである。なぜそれが分らないのか。

 『Voice』6月号で科学作家の竹内薫氏が迎撃ミサイルの防衛不可能を説き、「打ち上げ『前』の核ミサイルを破壊する以外に、技術的に確実な方法は存在しない」と語っている。「『科学技術の歴史』という視点から見ても、独裁国家は強力な破壊力をもつ軍事技術を有した場合、それを使わなかった歴史的な事例を見つけることはできない。」と。

 北朝鮮の核開発は対米交渉を有利にするための瀬戸際外交だと人はよく言うが、この通説は、真実から目を逸らす逃げの口実であるから、もうわれわれはいっさい口にすまい。たとえそういう一面があるにしても、アメリカがそう考えるのは許されるが、北の幹部の誤作動や気紛れやヒステリーで100万単位の可能性で核爆死する日本人がそういうことを言って問題から逃げることは許されない。

 あえて9条の改正をしないでも防衛のための先制攻撃は合憲の範囲である。パック3を100台配置しても間に合わない時が必ず来る。しかも案外、早く来る。イスラエルのような自己防衛の知恵と意志の結集が求められている。

 自己防衛力は民族の生命力の表現である。イスラエルにあって、日本民族にないはずはないだろう。

 4月1日の『中国新聞』に広島市立大広島平和研究所の浅井基文所長が「米国の脅威にさらされ続けた北朝鮮が、最後のよりどころとして核兵器を持っていることを理解すべきだ。」と北朝鮮に味方するもの言いをしているのを読んで、日本人は誰も何でこんなひっくり返ったバカな発言をする人間が同じ民族の中にいるのかと訝み、怪しんだ。しかしよく考えると北の言い分を代弁している浅井の言葉には、核の脅威の裏づけがあり、日本の経済制裁には何の軍事的裏づけもない。

 浅井の言葉を怪しみ、憐れみ、かつ笑うことができるのは、明日にも北の核基地を先制攻撃で破壊することに賛成している人だけである。経済制裁は平和的だからこの程度でさし当りまぁいいや、と中途半端に考えている人には浅井を笑うことは決してできないはずである。

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