「株式日記と経済展望」からの書評(五)の六

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

◆英露対立を利用したアメリカと日本

 さしあたり明治の日本に話題を戻そう。十九世紀の日本はまだそんな偉そうなことが言える立場ではなく、なんとかして列強と同等の地位になり、仲問に入れてもらうのが先決だった。そのとき、とても興味深いアメリカとの共通点がある。

 アメリカを助けたのは具体的にはイギリスとロシアの伝統的対立だった。そしてまったく同じことが日本についても言えるのが面白い。アメリカや日本が、国際的に少しずつ自由に動き出せるようになるのは、もちろん日本はアメリカより半世紀以上遅れていたが、英露対立が基本にあったからである。日本もアメリカもこの対立を利用した。

 ユーラシア大陸を南北に二分割する英露対立は、かつてのスペインとポルトガルの東西分割のように、十九世紀から二十世紀へかけての世界史の一大ドラマだった。陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、海を回って西太平洋にまで艦隊を派遣したイギリスとが、どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。もうひとつは北アメリカ大陸である。

 イギリスは自分の勢力圏とみなす地域にロシアが人ってくるのを防ぐために、同盟相手をいろいろに変え、ありとあらゆる策を弄するのを常としていた。アメリカがイギリスやフランスに先がけて、ペリー来航というかたちで日本に接近することが出来たのは、ちょうどその頃イギリスとフランスはトルコを援助してロシアに宣戦していたからである。クリミア戦争(1853-1856年)である。

 イギリスとフランスはなんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。対日接近に両国が一歩遅れ、アメリカに乗じられたのはそのせいである。しかしやがて幕末の日本にともに影響を与え、イギリスは薩長連合を援助し、フランスは落日の幕府を支えつづけることになる。

 その後アメリカは日米修好通商条約(一八五八年)を最後に、対日接近を少し手びかえるかたちになるのは、ヨーロッパの二強国に遠慮したからではなく、アメリカが最大の内乱である南北戦争(一八六一~一八六五年)に突入し、外交上の余裕を失ったためである。これは日本に幸運だった。

 一方、クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、太平洋の不凍港を求めて、東北アジアヘの進出を企て始めた。まず、ロシアは朝鮮に隣接する沿海州のウラジオストックに座を占めた。日本の北辺はにわかに風雲急を告げた。

 ロシアはいち早く日本列島とひとつづきである千島列島と樺太に人を入れた。日本は一歩遅かったのである。なにしろ幕末から明治への動乱期で、外を考える余裕がない。一八六九年、ロシアは樺太の領有を認めるよう日本に求め、日本はこれを拒否。明治の新政府ができてから、両国間にようやく取引が成立し、日本はもはや樺太は間にあわないと悟ってこれをあきらめ、かわりに千島列島全部の領有権を得た(千島・樺太交換条約、一八七五年)。

 ロシアも一八六一年に農奴解放令を発するなど、国内に困難をかかえていた時代である。イギリスは一八五七年、インドでセポイの大叛乱(セポイは東インド会社のインド人傭兵)を処理し、アヘン戦争を終結したあとの中国でアロー戦争(一八五六~一八六〇年)を起こして、再び清を屈服させ、九竜半島の一部を割譲せしめた。

 しかしイギリスは、ロシアが日本の北辺に迫ったことがいかにも面白くない。どこの国であってもとにたかくよその国が極東で支配的地位を占めることには耐えがたい。それが七つの海を支配した当時最大の帝国イギリスの受けとめ方である。

 しかしながら、当時の日本はいまだ無力なる半植民地国家であった。だからいかなるゲームにも参加できない。そうかといってイギリスはロシアと争って日本を分割するには、日本は地下資源などの魅力に乏しく、戦えば手ごわい抵抗相手にもみえた。それくらいなら日本を助け、育てて、ロシアに対抗する防波堤とするほうがよい。

 日本は自分の自由意志で国際情勢を乗り切っていく国家になりたがっていた。そのためになんとしても不平等条約を撤廃してもらわなくてはならない。列強と対等な関係を一日も早く築くことを強く希望していた。そのことにむしろ利益を見出したのはイギリスである。日本は急速に近代的な国家体制を整え始めていた。イギリスはそれをみて、ロシアとの極東における取引ゲームに日本が参画することをむしろ期待し、その方向に誘導した。

 ここからは少し話が先へ行きすぎるが、日本は残念ながら厳密な意味での独立国ではなかったといえるだろう。イギリスの対ロシア政策の傀儡であった一面が小さくない。しかしあえてその役割を引き受け、果たさなければ、当時の世界情勢のなかでは相手にされず、踏み潰されてしまうのが落ちだった。明治日本を最初から”悪しき強国”として描くのはどうみても間違いである。(P511~P516)

文:西尾幹二『国民の歴史』より

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