「株式日記と経済展望」からの書評(五)の一

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。今回はベストセラーになった『国民の歴史』の書評ですが、本の引用が長いので数回に分けて、転載します。一からお読み下さい。

日本人移民排斥のテーマは、重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

歴史 / 2007年05月06日

日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守る
べき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二

2007年5月6日 日曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)

◆日露戦争の勝利の代償

 話は変わるが、日本はなぜ中国と戦争をしてしまったのか。これはじつに不幸な戦争であったということはさんざん言われてきた。まさにそうである。日本は中国や朝鮮と手を取り合って欧米と対決するのが自然であり、多くの不幸や誤解を回避しうる道であったことはあらためていうまでもない。

 日露戦争はある面で朝鮮や中国をロシアから守るという性格を持った戦争でもあった。もし、日露戦争で日本が負けたら、朝鮮は全土、ロシアの属領となっただけでなく、中国もまた確実に北半分をロシアに領有されてしまったであろう。

 それでも日本は、当時朝鮮や中国と組んでロシアに当たるという作戦は立てなかったし、立てることもできなかった。前の項でその理由はくわしく書いたから同じことはもう繰り返さない。要するに日本は英米、とりわけイギリスの惚偲だった。逆からいえば、何をいちばん心配したかというと、日本人がアジア人の代表であって、白色人種対黄色人種の戦いの緒戦であるというふうに受け取られることをいちばん恐れていたのである。

 当時の日本人には、自分の客観的位置がよく見えていたし、恐怖が与えた自己抑制の機能がうまくはたらいていた。白人社会を刺激するという意図などは考えられなかった。無邪気なまでに「脱亜入欧」の姿勢だった。しかし、それでも結果として日露戦争の勝利は、白色人種の社会にいちじるしい衝撃をリえたことはよく知られている。

 世界を揺るがしたニュースであった。これはどの大ニュースは二十世紀の初頭にはほかになかった。あらゆる植民地の国々では人々が胸をうちふるわせて感動した。少年ネルーやガンジーが揺さぶられた話を読んだことがある。

 インドネシア人は巨大なバルチック艦隊があの狭い海峡を通ってゆくのを見て、こうこれで日本はおしまいだ、日本はせっかく立ち上がったのにもうだめだ、と日本人に好意を持っていた彼らの多くは汲を流したそうである。が、ほどなくして日本大勝利のニュースが届いて、彼らは愕然とする。世界屈指の大国に、あの小さな国が勝つなどとは夢にも考えられなかった。

 世界中は沸き立った。船でヨーロッパに出かけていった日本人は、立ち寄るアジアの港々で関税の役人その他に握手攻めにあい、大歓迎を受ける。日本人だと聞くと、手を取って東郷とか乃木という名前が出てくる。

 心を強く動かされた者のなかに、アメリカ合衆国に住む黒人たちがいた。『カラード・アメリカン・マガジン』誌は、日本の行動の最も重要な点は、アジアとアフリカに考えるきっかけをつくったことだと書いた。ある公民権運動家は、日本が白人優位の人種神話を葬り去ったと主張して全米を演説して回った。

 日本人と黒人は性質がよく似ているという意見が出てきた。戦っていないときの日本人兵士は、子どものように静かで、しかしいったん立ち上がると、死を美徳とする生活によって培われたその活力は、みなぎりあふれている。

 ミカドの軍隊の睡眠時間はわずか三時間で、ほかの国の兵士には欠くことのできない食糧列車がなくても、みずからが魚と米を持ち歩きながら戦うのだ、などといった伝説が広がった。

 ヨーロッパで最も大きく勇ましい国ロシアにとって、小国日本は絶好の餌食になるはずだった。ところが白人が有色人種を支配するという人種構造はけっして真理ではなく、ただっくられた神話にすぎないということを知らしめたことが、合衆国の黒人たちをなによりもまず興奮させ、日本人に強い同胞意識を抱かせたのである。

 しかし、このことは同時に、逆に白人社会に衝撃とパニックを広げた。それがどれくらい大きかったかということは簡単に説明はできない。二十世紀の政治史における最大の出来事のひとつであった。輝かしかった日本の過去ということを言いたいために強調しているのではない。

 それがやがて日本にとってどんなに大きく深刻な問題につながっていくかということを言っているわけである。アメリカにおける排日運動は、まさにこうした戦争のよは勝利がもたらした興奮の感情の余波にほかならない。

 「黄禍(イエローペリル)」を最初に口にしたのはドイツの皇帝ヴィルヘルムニ世で、日本人に向けて述べられな言葉では必ずしもない。おそらく中国人が念頭にあった。しかし、日露戦争の結果、標的は日本に向けられた。ジャン.・ジョレスのようなフランスの有名な社会主義者ですら、黄色人種が地球の表面をやがて支配するのではないかという危機感を論説で表現する始末であった。矛盾そのものであった。

 日本人がアジアの一角で成功を収めたことから、彼ら白人の目には、その背後に何億という中国人、インド人の影が見える。人種というテーマが露骨に登場したこの時代に、健気に努力していた日本人が、先頭を走っていたがゆえに、標的になったことは間違いない。

 私はこのことが、深く深く第二次世界大戦につながっていると信じている。歴史の流れというものは、次第次第にひとつの道筋をつくっていき、必然的に避けられない方向に動いていくということを考えておかなくてはならない。

文:西尾幹二『国民の歴史』より

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