阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十五回」

(3-1)無自覚に騙された者は、騙した者よりその罪は重い。無自覚であっただけに、救い難いのである。現在もまた騙されていないとう保証はどこにもない。無自覚に騙されたのなら、何度でも騙されることになるであろう。

(3-2)過去は、裁いたところで、幻とはならない。必要なことは、過去の悪をことごとく肯定する勇気である。さもないと、将来ふたたび反省や後悔をくりかえし、現在の自分の立場もまた悪として断罪の法廷に引き出されることになるであろう。

(3-3)先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解力のある態度をみせ、まるで友達同士のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。

(3-4)問題なのは、他愛のない政治用語を教育上のモラルとして繰返し耳に吹込まれているうちに、成人に達するころ人間が馬鹿になってしまうことである。私はそういう人達を沢山見てきた。

(3-5)教師は未完成な生徒にとって一つの規範であるべきだし、「権威」ですらなければならないと私は思う。規範のない所には模倣もない。規範や権威があるからこそ、ときにそれに納得し得ない自分というものに気づき、眼ざめる生徒の自主性も生まれるのである。それが本当の自主性というものであり、それがまた本当の民主主義を成り立たせる土台となるべきものだろう。

(3-6)昔の信仰は神話であったとぬけぬけと言える者に、今の確信が神話でないという保証はどこにあるのだろう!

(3-7)人が生きるということは目隠しされているようなことかもしれない。しかし、そういう自覚をはっきり持っていればかえって迷いなく未来に向うことができる。

(3-8)国民がこぞって平和教の念仏を唱えてみても、アメリカを含む世界のどこの国も日本のことなど露ほども大事に思っていない事実をはっきり知らなければならない。戦時中にあって戦後失われた大切な感覚をもう一度思い起こすべきである。日本の安全と利益が真に大事なのは日本人にとってだけで、大切なのは日本一国の平和であって平和一般ではないという認識である。さもないと上ずったヒステリックな平和祈願は、間接侵略の呼び水になり、意図に反して平和を破壊することにしか寄与しないであろう。

(3-9)歴史を動かすほどの誤解なら、誤解もまたそれ自体一つの「正解」ではないか。

(3-10)保守的な生き方・考え方とは、自己についても、世界についても、割り切れないものを割り切ろうとはしない態度、理論よりも理論の網目からもれたものを尊重する態度だ。楽観的な合理主義に虚偽をかぎつける本能、そういいなおしてもよい。彼らは進歩を否定しているのではない。ただ進歩を生の最高の価値、社会の究極の目的と考えるあの観念的な未来崇拝に与(くみ)しないだけである。

(3-11)ひとおもいに幾千万里と飛翔した孫悟空が、気がついてみるとまだお釈迦様の掌のなかにあったというあの寓意は、なぜか僕には、未知の国を旅する旅行者を諷刺しているように思えてならない。

(3-12)今日、民主教育という名の下に生徒の自主性を育てようと努めている善意ある教育者の考え方が、その善意にもかかわらずどこか間違っているように思えるのは、自律精神や自主性を「育てる」ことが可能だと思いこんでいることにあるようだ。「育てられた自主性」では言葉の矛盾ではないか。

(3-13)要するに完全な自由、完全な真理、完全な平和などというものはどこにもなく、われわれは相対的な善を信じて生きていくしかないというペシミズムをもっとはっきり認識すべきではないか。完全な善、絶対の善をもとめる心情は要するに心情以上のものではなく、従ってそこにはなんの実体もない。

(3-14)人生に絶望していた筈の私小説家たちが、芸術一筋に生きようとする自己の誇らかな芸術家としての生き方に絶望したことは一度もなかったことは大きな矛盾であった。

(3-15)人間はたしかに世界の悪や不正に感情をさいなまれるのが正常かもしれない。しかし悪や不正から離れて人間の生はなく、生きることは蒸留水のように生きることではないと解って、個体は一つの限界にぶつかるのである。

(3-16)若さとは、隠すべきものではないのか、

(3-17)あまりにも一方的な過去の断罪は、結局は、現在の自分の善のみを信じて疑わない自己過信に陥り、それはまた、現在の自分の立場だけを救い出そうとするエゴイズムと化する。

(3-18)制限や束縛が余りにも過剰であるときには、人はそれを不自由と感じるかもしれないが、だからといって制限や束縛を打ち破って自由になったというだけでは、人は自由にはならない。不自由な状態を脱け出て、自由の地平に出た瞬間に、人はたちどころに自由ではなくなるのである。生きている限り、人は不自由と顔をつき合せていなければならない。それが人間の生をささえる秘密でさえある。

(3-19)歴史は個人を超えている。知性は全体を把握することができない。知性が歴史全体に対し神の位置に立ったとき、歴史は姿を消す。過去に対しても、未来に対しても、個人は不自由である。不自由の自覚を通じて、個人は初めて「現在」に徹する自由への第一歩を踏み出すことを可能にするのみである。

(3-20)大学は「自治」という権利を要求するが、自分で自分を管理する能力はなく、それでいて世間にはなんの責任も負わない。

(3-21)成熟を装うのが青年の習性である。青年は青年であるとよばれることをもっとも恐怖する。だが、まことに不思議なことに、われわれの生きているこの現代社会では、未成熟を売り物にするのが青年の商品価値となった。

(3-22)青年はそんなに美しいものか?青春はそんなに語るに足るものか?冗談ではない。若さのいやらしさとは、若いということに対してさえ自分では気がつかないことなのだ。若さとは、酒がなくても、酔えることであり、酔っていることに対してさえ、自分ではその自覚がないことなのだ。

(3-23)生きるとは、蒸留水のように生きることではないと解って、個体は一つの限界にぶつかるのである。青年が自分自身への批判を深め、内省し、倫理的に成熟していくのはそのような限界意識からである。

(3-24)なにかある「物」が創られた結果が文化なのではなく、創っていくその過程や精神の運動、もしくは創られたものへの鑑賞者の主体的な関わり方や評価という行為、そういう非現実的な、流動的な不安定な人間的要素を措(お)いて、文化というものを考えることは出来ないであろう。とすれば私たちの日常の生き方、行動の仕方と別のところに文化はないし、政治的な行動も、それが人間の主体的な精神の運動である限りは、やはり広い意味で、文化の一種であると考えなければならないのではないだろうか。

(3-25)小説家は作品という「物」を残すと信じられているが、作品とはそもそも幻影であって、実体はあくまで読者の意識の運動のなかにしかない。

(3-26)唯物論的人間観は人民を意志のない善意の人形とみたて、権力の頂点にいっさいの悪を支配する黒幕的人物を想定したがるが、まさしくそういうことを考えたがる知性は紙芝居程度に貧寒な人間観によってしか支えられていない。

(3-27)醜い外貌の人間にも、美しい、高貴な精神が宿る場合があることを信ずるよりも、美しい外観の人間をそのまま率直に感嘆することの方がよほど人間的と言えるのではないか。精神とか知性とかいう正体不明のものをほとんど無自覚に過信していることの方が、近ごろの肉体上の露悪趣味よりもよほど頽廃的といえるかもしれない。

(3-28)誰しも自由を求めて生きるのではなく、何事かをなし遂げようとして生き、結果的に、ある自由感の裡(うち)に生きる、ということもあるかもしれない。人は自由を捕えるのではなく、反対に自由に捕えられるように、自由が意図せずして歩み寄ってくるように生きることが真の自由であろう。

(3-29)子どもの自主性というものは、教師が手を貸して育てるものでしょうか。教師は善導家でもなければ、社会批評家でもありません。自分の教える教科に自信をもち、そのために必要な制限や条件や課題を生徒たちに課していく、一つの「権威」であってさしつかえないものです。

(3-30)現代はなんといっても、情熱や決断にとって代わって、言葉の上の解釈や認識の圧倒的な分量に押しつぶされそうになっている時代でもある。情熱や決断にもとづくどのような行為の価値といえども、たちどころに相対化されてしまう、あの明るく開かれた、無性格な空間を前にして疲労感を覚えない者はまずいまい。

(3-31)たしかに現代は、ひとびとがみないささか利口になりすぎている時代だと言っていい。

(3-32)目の前に差し迫った試練がない時代には、試練がないということが、じつは最大の試練であろう。

(3-33)日本と西洋という対立図式が有効であるのは、客観的定義でなにかを解決するためではなく、解決できないなにかにぶつかるための、作業上の手続きとしてでしかない。

(3-34)すべての一流の思想は多面体である。時代に応じ、個人に応じ、さまざまな幻影を生む。しかし一流の思想はまたつねに単一の音色をもっている。

(3-35)理想とは目に見えないなにものかなのであって、永遠に現実とは一致しない。一致しないがゆえに、まさしくそれは理想なのである。

(3-36)理想は自分の外に求めるものではなく、その中にあって、いわばそれに包まれて、自分が生きていく過程のことである。大切なのは目的地に到達することではなく、理想という名であれ何であれ、容易に解決を生まない持続した情熱の過程をどう歩んで行くかということにつきている。

(3-37)一般の生活人が、もし本をよんだりものを考えたりするような人であれば、おおむね健全な生活の智恵に立脚することはほとんどなく、どことなく知識人的な意識に染まりはじめてきた。民衆の知識人化という現象は、戦後の教育のあり方によって、とりわけ若い世代にいっそうひろがった。大江健三郎を支える層がそこにある。

(3-38)日本では不自由や自己疎外の観念的幻想を抱いていない生活人の方が、はるかに早く、近代的な自由の孤独の重さというものに突き当っているのかもしれない

(3-39)だいたい「実用的」な言語教育をもっぱら中心におこなっていけば、言語はスムーズに伝達できるかといえば全くそんなことはない。伝達するのは言葉ではないからである。双方の言葉の背後にあるものにともに了解が成立して、はじめて伝達が可能になるのである。私は外国語教育において実用面よりも教養面を重視しろなどと言っているのではない。実用と教養とをわけることは出来ないと言っているのである。

(3-40)フランスに行けば通じる言葉はフランス語だけである。日本に来て、通じるのは日本語ばかりだと困惑する外国人がいてなぜ悪いのだろうか。一般国民にあまねく英語を聞いたりしゃべったりする能力を与えるべきだなどと考えるのは植民地根性でしかなく、自国の文化に自信をもっている民族のなすべきことではないだろう。

(3-41)外国語教育の目的は、文法の正確さと読みの深さを訓練すること、秀れた文章を暗誦させること、それを通じて、国語教育の欠を補い、言語一般に対する文化感覚のようなものを育成することにあると思う。

(3-42)言語教育はすぐ結果の出ない息の長いもので、むしろ「役に立たない」ものへの情熱によって支えられるべきものであろう。

(3-43)言葉とはけっして単なる道具ではない。言葉とは私たちの肉体の一部であり、気に入らぬ衣裳のように勝手に着たりぬいだりは出来ないものなのである。

(3-44)日常生活の中で不断に接している言語、すなわち無秩序で混乱した言語に規範を与え、格調のある立派な日本語とはこういうものだという一つの雛形を与えること、それがなんといっても国語の教科書の最大の役割ではないだろうか。

(3-45)文章がわかる、というのはなにかを感じる、ということであって、気の利いた解釈ができる、ということではない。

(3-46)すべての生徒が等しなみの能力と平均した才能しかもっていないという前提の上に成り立っている現代の教育観そのものに一番大きな問題があるのだと私は考えている。

(3-47)社会的な名士と称され、一流の肩書きをそなえた人の、知的に高級めかした理論家気取りの上品な文章にどことなくひそむ通俗的知性ほど世に有毒なものはほかにない。

(3-48)例えば日本的な無私の精神などとよくいうが、本来的な日本人、すなわち無私であることに悟達している日本人なら、無私の精神が西洋の理性より優越しているかどうかにこだわった議論をするわけがなく、そういう問題そのものに対して「無私」であるはずである。

(3-49)江戸の歌舞伎や黄表紙・洒落本では二番煎じ、三番煎じの模倣がくりかえされてなお人はそこに新しさを発見していた。現代では、他人の作をまねることは厳格に禁じられ、人々は独創と個性を競い合っているのに、どうして互いに新味のない、似たような顔をしているのだろうか。

全集第3巻 懐疑の精神
「Ⅰ 懐疑のはじまり(ドイツ留学前)」より
(3- 1)(15頁下段「私の「戦後」観」)
(3- 2)(24頁下段「私の「戦後」観」)
(3- 3)(27頁上段から下段「私の受けた戦後教育」)
(3- 4)(33頁下段「私の受けた戦後教育」)
(3- 5)(36頁上段「私の受けた戦後教育」)
(3- 6)(40頁下段「国家否定のあとにくるもの」)
(3- 7)(40頁下段「国家否定のあとにくるもの」)
(3- 8)(41頁下段「国家否定のあとにくるもの」)
(3- 9)(42頁下段「知性過信の弊(一)」)
(3-10)(46頁上段「私の保守主義観」)
(3-11)(54頁上段「一夢想家の文芸批評」)
(3-12)(65頁上段から下段「民主教育への疑問」)
「Ⅱ 懐疑の展開(ドイツからの帰国直後)」より
(3-13)(82頁下段「ヒットラー後遺症」)
(3-14)(118頁下段「大江健三郎の幻想的な自我」)
(3-15)(123頁下段「大江健三郎の幻想的な自我」)
(3-16)(130頁下段「大江健三郎の幻想的な自我」)
(3-17)(137頁上段「知性過信の弊(二)」)
(3-18)(142頁上段「知性過信の弊(二)」)
(3-19)(143頁下段「知性過信の弊(二)」)
(3-20)(147頁下段「国鉄と大学」)
(3-21)(150頁上段「喪われた畏敬と羞恥」)
(3-22)(150頁上段「喪われた畏敬と羞恥」)
(3-23)(158頁下段「喪われた畏敬と羞恥」)
(3-24)(161頁下段「文化の原理 政治の原理」)
(3-25)(162頁上段「文化の原理 政治の原理」)
(3-26)(186頁上段から下段「文化の原理 政治の原理」)
(3-27)(193頁上段「見物人の知性」)
(3-28)(207頁上段から下段「自由という悪魔」)
(3-29)(219頁下段「生徒の自主性は育てるべきものか」)
「Ⅲ 懐疑の精神(七十年代に露呈した「現代」への批判)」より
(3-30)(243頁上段「老成した時代」)
(3-31)(243頁下段「老成した時代」)
(3-32)(244頁上段から下段「老成した時代」)
(3-33)(256頁下段「老成した時代」)
(3-34)(258頁上段「老成した時代」)
(3-35)(267頁下段「老成した時代」)
(3-36)(268頁下段「老成した時代」)
(3-37)(287頁下段から288頁上段「現在の小説家の位置」)
(3-38)(292頁下段「生活人の文学」)
(3-39)(303頁上段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-40)(303頁上段から下段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-41)(303頁下段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-42)(303頁下段から304頁上段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-43)(304頁上段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-44)(306頁下段「わたしの理想とする国語教科書」)
(3-45)(308頁上段「わたしの理想とする国語教科書」)
(3-46)(310頁上段「わたしの理想とする国語教科書」)
(3-47)(318頁下段「帰国して日本を考える」)
(3-48)(321頁上段「帰国して日本を考える」)
(3-49)(325頁下段「帰国して日本を考える」)

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