阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十六回」

(3-50)汚い言葉、野卑な言葉をこの地上からなくしてしまえば、汚い現実、野卑な現実もなくなるだろうと考えるのは、社会の平板化を善とする小児病的な消毒思想である。

(3-51)一語の意味が醜悪であるからといって、その一語を抹消してしまうならば、われわれの国語はそれだけ貧弱になり、それだけ美しい内容豊かな文章を作り出す能力をも失うのである。

(3-52)不幸な前提などまるで存在しないように、自分にも他人にも言いきかせ、ごまかしているかぎり、いつまでたっても、その人は自分の手で自分の幸福をつかみとることはできないだろう。そして現代は、人にこうした宿命を教えるよりも、一時的にもせよ、宿命を忘れることをさかんに教える甘やいだ時代であるように思われる。

(3-53)言葉は個人を越えた歴史や文化が作ったものである。つねに言葉はわれわれ一人一人より大きい。われわれがそれを作ったのではなく、われわれはそれによって作られてきたのである。

(3-54)ある予想を立ててものを言う場合、それが外れることは必ずしも恥ではない。問題は、現実の変化に合わせ、話題や材料を変えさえすればそれでなにか新しいことが言えると思っている、考え方の甘さにある。自分の歩き方、認識の仕方を変えなければ、自分が成長するということも起こらないのではないだろうか。

(3-55)このように情報や映像ばかりが豊富に与えられて、「現実」の本当にリアルな実像がはっきりつかめないというのが、現代の特徴である。そのために人は、実際以上に現実を現実くさく、過激に、悲劇的に、複雑なものとして心に思い描く傾向がないでもない。それはわれわれの日常生活が平穏で単調であるということにほぼ釣り合っている。

(3-56)つまり弱い者の立場を守るのも社会の弱点の利用によってなされる。幸福は戦術に依存している。強者も弱者も同じ原理によって生きる。どちらにしても私にはじつに不幸なことだと思わざるを得ない。
 残念ながら以上は事実である。だから現代で一番強い者は、他人の不幸にのっかった仕事をする人たちかもしれない。

(3-57)権利を主張することは、なにも正義の味方になることではなく、それは生活上の必要にすぎない。そう知っておくことが冷静な常識である。

(3-58)こういう生身の人間の生きた呼吸のようなものを感じとるのが文学の仕事で、これを離れて、思想だけを抽象的に切り離して、現代に生かそうと考えても、それは不可能だろう。

(3-58’)文化とは生の目標のうちにあるのではなく、現在の生き方のなかにしかない

(3-59)本当に「強迫観念」の囚われから解放されているとき、人はそういう言葉を口にする必要を認めない

(3-60)外国人が、例えば能や歌舞伎を好意を持って評価することがあるとすれば、それは彼らの文化体系から発した要請であって、べつだん私たちの文化に益することでもなんでもない。

(3-61)世には客観という名の主観がある。近代世界はそういう歴史像にあふれている。

(3-62)抜け目なく感動を加工し、意匠を演技して生きていくのが現代人ひとりびとりの止むを得ぬ宿命だとしても、そういう現代の弱点をあくまで弱点として自覚していくところにはじめて人間の意志の働きがあるのだし、文学が生まれるのはそういう自覚からであろう。
 つまり無感動な、情熱を喪った人間を文学が素材にすることはゆるされても、文学そのものが無感動で、情熱を喪ったものになってはならないのだ。

(3-63)四世紀にわたって、数えきれぬほどのハムレット像、イアーゴー像、マクベス像が現れては、かつ消えていったその流動する歴史全体が、じつはシェイクスピアそのものなのだ。

(3-64)文明が進展するにつて、個人の生き方はますます頼りなく、偶然に支配されるような傾向がましていく一方だということを自覚せずにはいられない昨今である。つまりすべては開かれ、どこといって定点はない。

(3-65)世界にはギリシア文化や日本文化というものは確かに存在します。けれども比較文化というものは存在しません。存在しないものをどうして学問の対象とすることができるのか。私にはそれがまず素朴な疑問であります。

(3-66)何らかの囚われがなければ認識は成り立たないのではないか。その点現代は楽天的で、近頃は何でも分かったという風潮が出てきていることに私は疑問を持っているわけです。

(3-67)無関係なら公平に相手が見えるといいますが、無関係はまた無関心ということであって、公平のつもりが見当外れな観察を外にむけてしている場合がままあります。

(3-68)そういうふうに過去を展望して、或るところまで相対化して歴史を眺めていきますと、過去の歴史が時間的にも空間的にもとらわれから解放されてしまうかのように思われ、すべてがわかる知性というものが出てくる。しかし私は、あらゆるものを空間的にも時間的にも展望してしまうような知性ははたして本物だろうか、という疑問をつねづね抱いています。つまり何物にも縛られない知性の立場というものはあるのだろうか。

(3-69)日本の文化ないし日本の文明が持っていた価値と力、或いは美しさ、そういうものが明治以降、西洋の自然科学の認識の仕方が入っていきて、ずいぶん歪められてきているように思います。或いはすでになくなってしまっているかもしれない。

(3-70)外の社会は繁栄と進歩の姿にキラキラと光り輝いているのに、内側はただひたすら虚しく、時間がただのっぺら棒に永遠になにごともなく伸びて行くばかりなのは二十一世紀の現代に至る、否、今後も永遠に続く、日本と世界の精神風景にほかならないのではないか。

出展 全集第3巻
「Ⅳ 情報化社会への懐疑」より
(3-50)(349頁上段から下段「言葉を消毒する風潮」)
(3-51)(349頁下段「言葉を消毒する風潮」)
(3-52)(351頁上段「言葉を消毒する風潮」)
(3-53)(352頁上段「言葉を消毒する風潮」)
(3-54)(354頁下段「マスメディアが麻痺する瞬間」)
(3-55)(366頁上段から下段「テレビの幻覚」)
(3-56)(376頁下段「権利主張の表と裏」)
(3-57)(377頁上段「権利主張の表と裏」)
(3-58)(390頁下段「韓非子を読む毛沢東」)
「Ⅴ 観客の名において―私の演劇時評」より
(3-58’)(409頁下段「第一章 文学に対する演劇人の姿勢」)
(3-59)(448頁上段「第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって」)
(3-60)(454頁下段「第四章 捨て石としての文化」)
(3-61)(469頁下段「第五章 ブレヒトと安部公房」)
(3-62)(484頁上段「第六章 情熱を喪った光景」)
(3-63)(505頁上段「第七章 シェイクスピアと現代」)
(3-64)(506頁下段から507頁上段「第七章 シェイクスピアと現代」)
「Ⅵ 比較文学・比較文化への懐疑」より
(3-65)(522頁下段から523頁上段「比較文学比較文化―その過去・現在・未来」)
(3-66)(526頁下段「比較文学比較文化―その過去・現在・未来」)
(3-67)(544頁下段「比較文学とはなにか、それはなにをなし得るか、またなし得ないか?」)
「追補 今道友信・西尾幹二対談―比較研究の陥穽」より
(3-68)(557頁上段)
(3-69)(578頁下段)
「後記」より
(3-70)(589頁)

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