渡部昇一氏との対談本

本書を読み始める前に当たって──西尾幹二
 

 この本は渡部昇一さんと私の行ったすべての対談──一九九〇年以来の八つの対談を収録したものです。ここにあるものでほとんどすべてだと思いますが、もうひとつ記憶にあるのは、NHK教育テレビが「マンガは是か非か」という題目を提出し、渡部さんが是、私が非という立場で、言葉を交わしたものがあります。最初の対談であり、半世紀ほど前のことなので、いま活字として再現するのは不可能です。これは見送りました。それ以外の対談をここに蒐集し、提示しました。

 われわれの意見はだいたいにおいて同じ方向にあり、共通の地盤でものを言っているように思われていたし、事実そうでした。しかし二人に微妙なズレがあるのもまた事実だし、互いに正反対を自覚して対立しあっている議論もございました。

 なかでも、二人の呼吸が非常に合って楽しく、かつ啓発的な対話となって読者を喜ばせたのは『諸君 』休刊をめぐるもので、今日の文藝春秋の「自滅」を早くも正確に予言している興味深い読み物となっております。二人の意見が気持ちよく一致したこの一篇を本書の巻頭にすえ、『文藝春秋』の言論誌としての無内容への転落と内紛の見せた悲喜劇を、わが国の思想界の運命の分かれ目として、まず検討したいと思います。

 二番目の対談は二人の意見が一致するのではなくて、さっき申したとおり完全に正反対でぶつかり合った臨時教育審議会(臨教審)──中曽根教育改革──と第十四期中央教育審議会との正面衝突をめぐるテーマ、「教育の自由化」をめぐるホットな教育論を第2章として展開しました。

 第3章はやはり西尾と渡部の意思が非常によく疎通してはいるものの、微妙に問題意識が食い違う例、いま読み返してみてこれは何だろうかと西尾自身が改めて考えさせられたテーマでございます。ドイツと日本との相克、対立、あるいは運命論的対比の問題です。渡部さんと私とは考え方が似ているようで根っこが根本的に違っていることがわかったこの一篇をとりあげたいと思います。

 それ以外のものは、五篇ありますが、大同小異、共通する地盤を得ています。主として共産主義批判では最早なく、東京裁判史観批判へと議論が主に移動しました。これが新しい共通する地盤ですが、文藝春秋がここから逃げ出しました。ということは、じつは文藝春秋が言論思想の企業として果たしていた役割が終焉したと思わせる事態と深く関係があるのであります。
 
 いまわが国が向かっている運命を検討するうえで、アメリカ文明のもつ位置──すなわち、ベルリンの壁が崩壊してソビエトがなくなった段階で次の時代に転じていて、テーマとしてはある意味で反米の問題です。冷戦終焉までは反共・親米で済んでいた保守言論界が、反共が終わってしまったため立ち位置を失ったわけですが、わが国の立場を正確にみていくためには、いまの時代はあの戦争の動機と目的を明確にすることによってもう一回自分たちのリアリズムを回復するという認識をもつかもたないかの分かれ目であって、じつはそれが『諸君 』という雑誌の目的でもあったはずです。ところが会社はテーマの重荷に耐えかねて『諸君 』を投げ出しました。『文藝春秋』は無思想・無目的な空中浮遊を始め、部数を落としました。

 この無思想・無目的の雑誌の空白状態はいまのわが国のメディアのトータルな姿でもあって、文藝春秋の運命は座視しがたいわれわれの言論の危機でもあります。

 最後にここでもうひとつ別のテーマが本書の終わりのほうで取り上げられるのを注目していただきたい。私と渡部さんは共通してともに歴史的時代認識をもっていました。ただ、やはりそこでも重要な違いが出てくるのは「中世」というものをどう考えるかという問題で、それは本書に留まらず、今後大きな論題となってくるであろうと思われますので、解説の最後にはその問題を少し展望したいと思います。

目   次
本書を読み始める前に当たって──西尾幹二
第1章 敗北史観に陥った言論界
第2章 自由で教育は救えるか
第3章 ドイツの戦後と日本の戦後
第4章 国賊たちの「戦後補償」論
第5章 日本は世界に大東亜戦争の大義を説け
第7章 「朝日」「外務省」が曝け出した奴隷の精神
第8章 人権擁護法が日本を滅ぼす
解 説    西尾幹二
一 文藝春秋の「自滅」を予言していた対談 
二 東京裁判史観批判と文藝春秋 
三 教育の自由化をめぐって
四 日本とドイツの運命論的対比 
五 「中世」をどう考えるべきか 
回想・父 渡部昇一    早藤眞子(渡部昇一長女)  

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