非公開:『諸君!』4月号論戦余波(一)

 昔は論壇時評というのが各新聞にあった。否、今もあるのかもしれないが誰も読まなくなった。昔も一般読者はあまり読まず、論壇時評を読むのはその月に論文を書いた執筆者とそれを担当した編集者だけだと言われたものだった。

 しかし今ではその人たちも読まなくなった。新聞ごとの政治偏向が著しく、信頼性を失っているからである。あるいは、毒にも薬にもならない中性的な論文ばかりが取り上げられる傾向が強く、論壇時評つまり評論の評判記は、すっかり影が薄くなった。

 オピニオンの多様性といえば聞こえがいいが、本当のことを発信しなくなった今の大手のマスコミ、新聞やテレビが大半の意味を失っていることにも比例している現象で、オピニオンが相互に噛み合わない情勢、人間同士の相互の深い無関心の現実を反映しているといえるだろう。

 その代わり評判記は匿名のインターネットに移ったようだ。実名を出しているものもある。訳のわからぬ見当外れの論もあるが、本当のこと、自分にとって大切なことを言おうとする真剣さは少くともある。『諸君!』4月号の秦郁彦氏との論争に関しては、私への批判も含め、賛否両論の渦をなしている。

 ネットサーフィンというのだそうだが、そのうちから拾ってみる。最初は私への批判の含みがある例だ。

 『諸君』の今月号「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」がすこぶるおもしろい。現代史家の秦郁彦氏と評論家の西尾幹二氏が田母神論文をめぐって丁々発止。久しぶりに、対談の面白さを堪能できる読み物だ。西尾氏は「自虐史観」派、秦氏は「日本軍部による侵略戦争」派で、考えは正反対といってもいいだろう。

 田母神論文は都合のいいところをつぎはぎしたものだとする秦氏に、そんなことはないと反論する西尾氏。読む限りは、秦氏に「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」と諭される西尾氏に分が悪い。こうした考えに、『諸君』という雑誌で、面と向かって反論した秦氏の気迫を感じた。最後の二人の言葉に、この国の進む道に対する考え方の違いがよく出ている。

「秦 (中略)しかし、これからの日本は世界の覇権争いに首を突っ込むのではなく、石橋湛山流の小日本主義の道を行くという手もあると思いますけどね。博打は打たないで、大英帝国のように、能う限り衰亡を遅らせていくというのは立派な国家戦略だと思います。

西尾 私はちがうと思う。アメリカなき世界における国家間のサバイバルゲームは過酷なものになるでしょう。ナンバーワンを目指す確固たる意思を持たないかぎり、オンリーワンにもなれないんです。国家の生存すら維持できない。世界は覇権主義が角逐する修羅場です。その激しさに翻弄されず、日本が生き延びていくための第一歩が東京裁判史観や自虐国家観からの脱却であると私は信じます。」

 もちろん私は、秦氏に共感を覚える

元木昌彦のマスコミ業界回遊日誌3月3日(火)より一部引用)

 執筆者の元木昌彦氏は元『週刊現代』の編集長で、『現代』にもいた。もう定年退社している。年末に私は新宿のバーでお目にかかっている。

 偶然隣り合わせに坐り、知り合いの講談社の知友の噂ばなしなどをした。私が昨年『諸君!』12月号に書いた「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」を大変に面白いと言っていた。

 人間はみな心の中にどんな「鬼」を抱えて生きているのか分らない。老齢になるとことにそうである。また、若いときに一度刷り込まれた物の考え方は、どんなことがあっても消えることはないようである。

 次は匿名で、ブログの名は書道家の日々つれずれ

西尾幹二氏、秦郁彦氏の偽善「歴史家」の素性を看破する
雑誌「諸君」4月号に「田母神俊雄=真贋論争」を決着する / 秦 郁彦 西尾幹 」と言う特集があった。
このページはなんと4ページ分まで「諸君」4月号のHPに掲載されている。

ここで、秦氏は田母神氏の論文の「ルーズベルト陰謀説」について一笑に付している。

それに対して、西尾氏は状況証拠を突きつけて行くのだが、秦氏は「開戦をあと1か月延期すれば、フリーハンドの日本はどんな選択もできたし、当分は日米不戦ですんだかもしれません。」という。
この歴史上のifに対して西尾氏は異議を唱えて、「最後にやらなくてもいい原爆投下まで敢行したことを思えば、アメリカの、破壊への衝動というのは猛烈、かつ比類のないものであることがわかります。」と反論する。
この点、秦氏と言うのは歴史から何も学ばないというか、国というものの普遍的な性格というものを何も学んでいないようだ。
なぜなら、その後の米国の政治としての戦争の歴史、そして今批判しているイラク戦争を見てみれば、秦氏のノーテンキさが良く分かると言うものである。
その無神経なノーテンキさが何に由来しているのかと言うことは、西尾氏の追求で次第に明らかになるが、単純に言えば「日本は攻撃的人種」、米国は「平和主義者の聖人」というもの。
正に、洗脳教育の賜が根幹をなしている。
だから、秦氏は「もし日本側、枢軸国が勝っていたら、東京裁判と似たような戦争裁判をやっていたでしょう。あるいは、日本人による恣意的な、人民裁判に近いような形になったかも知れない。」という。
続けて、「東京裁判の最中、これといった日本国民の反発は見られませんでした。」と言ってしまう。
西尾氏は、「日本人の方が不公正なことをすると決めつけるのはどうしてですか。」と反論するも反論記載はない。
秦氏と言うのは、歴史上の事実であっても自分の都合の悪いことは黙殺するという傾向があるようである。
なぜなら、東京裁判中の世論の反発がなかったというのは厳重な「言論統制」によるもので、特に東京裁判と憲法問題に関しては厳重に行われたことは教科書にも載っていたことである。
そして、それに反すれば学者と言えども更迭され、それが恐ろしくて憲法擁護の日本国憲法論や歴史学が構成され、戦後60年も経っても継承されてきたのは明らかだ。
そんなことを歴史家である秦氏が知らないはずはない。無視するのは都合が悪いからである。
同じように都合が悪いのは、日英同盟が結ばれた経緯だろう。
なぜなら、北京の55日で有名な義和団事件で各国軍隊、海兵隊が北京に進軍するが、進軍する時の略奪が酷い。
特に酷かったのがロシア軍で、軍隊が間に合わなかった。
その中で、略奪一つなく速やかに進軍して当然一番早く北京に到着したのが日本軍であった。その規律正しい日本軍の態度が日英同盟の基本にあった。

次に、西尾氏は、「ヴエノナ文書」による米国政府の内部に浸透した「コミンテルン」に言及するが、秦氏は「「ヴエノナ文書‥‥決定的な証拠は何もないのです。」と又言い切ってしまう。
そして、状況証拠を突きつけられると「歴史学の専門的見地からいえば‥‥‥ほとんど価値がない‥‥」と逃げる。
西尾氏は、「その歴史学的見地というものを私は信用していない」と反論する。
そして、「張作霖爆殺事件」について言及して関東軍特務機関河本大作大佐が真犯人だとはわかっていないという。
ところが、秦氏は「河本大作大佐が何者であるか、隅々までわかっていますよ。」と又断定する。
ここまで来ると、秦氏と言うのは歴史分析というものにダブルスタンダードを使っていることがわかる。
なぜなら、河本大作大佐が「張作霖爆殺事件」の犯人であるとは、本人が言っている訳でもなく、そうではないかという憶測だからだ。
この「張作霖爆殺事件」と言うものは、「満洲某重大事件」とか「張霖某事件」とか実際は呼ばれて、昭和40年代前半に何回もNHKで検証ドラマが行われた。
そして、初めはNHKでも張霖某重大事件の首謀者は不明とナレーションがあり、その後には関東軍特務機関の仕業と噂されているになり、最近では河本大作大佐の仕業と言い切っている。
簡単に言えば、東京オリンピック以降とはいえ「張作霖爆殺事件」当時の状況をよく知っている人達が生きているときは従来からの見解を踏襲しているのである。
又、「関東軍特務機関河本大作大佐真犯人説」は東京裁判から後の話である。そして、今現在に至っても真犯人は不明な事件であるはずだ。
それを「河本大作大佐が真犯人」と言い切ってしまうというのは、語るに落ちたとは秦氏のことだろうと言うことがわかる。
そして、この秦氏と言うのは、以下のようなきれい事を言って自己を正当化する偽善者であることが分かる。
「プロの歴史研究者は、史実として認定できないものは全て切り捨てて、取り得えず棚上げにしておきます。」
ここからは、西尾氏も腹を立てたようで‥‥
歴史に「善悪の判断」をしているとか、歴史の悪いところばかりを取り上げて、良い部分を無視するとか、‥‥ととどめを刺す。
後は、秦氏が全面逃げを打って、聞く耳持たずのいわゆる「戦後歴史観」の言いっぱなし。

結局、秦氏の馬脚が全部ばれてしまった顛末。
全くお粗末な秦氏でした。
書道家の日々つれずれ より)

 匿名なのでどういう方か分らないが、トータルとしての理解の仕方をありがたく思いつつ読んだ。ここはもう一寸強調して欲しいとか、別の面にも触れてほしいとか、いろいろあったが、それを言い出せばバチが当る。「鬼」の多い世界で「仏」に出会えてあらためて感謝申し上げる。

 ただ、秦郁彦さんのためにあえてひと言弁明してあげておきたい。彼は張作霖爆殺事件については緻密な研究論文を書いている。私は抜刷りを一冊もらった。彼らしいしつこい実証論文である。

 だが、その実証論文には外国の文献への言及がない。外国の研究を視野に入れていない。もうそれだけで「実証」にはならないのである。私はそういうことが言いたかったのである。

 なにしろ爆殺事件は外国で起こった出来事である。日本は外国と戦争したのである。外国が何をしていたかを考えないで日本の国内だけ詳しく掘り起こしても「実証」にはならない。

 日本の近代史について確定的なことはまだ何も言えず、国民的に納得のいく20世紀日本の全体像が生まれるのは50-100年かゝるだろう。

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