9月29日に財団法人日本国際フォーラムの国際政経懇話会(第207回)で、「私の視点から見た日本の論壇」と題した講演をいたしました。質疑をいれて正午より2時までで、いろいろな角度から議論を提起しました。
以下は同フォーラムの事務局がまとめた要旨です。参考までに掲げておきます。
果たして現在の日本に「論壇」があると言えるか。もはや論壇は滅んだと言えるのではないか。文壇はとっくに滅びたが、それと一体で丸山真男に代表される大学知識人の崩壊が、1960年代終わりから75年頃にかけて進んだ。
それを象徴するのが三島事件である。 「知識人の死」という中で、かつての言論雑誌は見る影もなくなっている。反中国、反朝日は勢いづいているが、勝利宣言をしてよいかと言えば、それは表向きであり、そうとも言えない。靄のようなものが覆い、毎回毎回同じことを言って徒手空拳の感がある。
言論雑誌の全体を総覧した時に、三つの問題点が指摘できる。一つ目は、政治論と政局論を混同していることである。政局騒ぎが言論界の中心テーマになっているが、これは思想のなすべき仕事ではない。かつて石原慎太郎政権樹立や安倍晋三政権樹立を煽ることが言論雑誌のメインテーマとなり、彼らを登場させることが編集長の手腕として評価され、売り上げにつながるとされた。こうした状況を週刊誌が後追いし、状況を歪めている。
二つ目は、日本の論壇は、経済を論じていないという点である。言論雑誌はドメスティックに閉じ篭もり、防衛、教育、社会保険庁、国内政治などばかりを論じているが、金融を論じていない。「金融は軍事以上に軍事である」とも言える。金融とはそれ自体がパワーであり、政治である。他方、主要な経済雑誌には、経済情報が豊富であるが、政治の視点が欠けている。経済指標ばかりを取り上げて論じても、それは数字遊びに終わってしまい、ナンセンスである。議論が政治だけ、経済だけになっており、両方を全体から見る必要がある。
三つ目は、国際政治を別扱いにし、国内政治を国際政治の視点から論じていないことである。例えばロッキード事件は、国内問題として扱われたが、背景には米ソ対立が安定期に入ったことが関係している。また、いわゆる「55年体制」の崩壊も冷戦終結と関係している。国内で起こることは国際政治とリンクして考えるべきだ。
それでは、なぜこのような論壇停滞の状態が続いているのかと言えば、それはイデオロギーにとらわれているからだ。イデオロギーに対置されるのがリアリティーであるが、リアリティーとは常に変化し、ぐらぐら動くものである。これに対して、固有の観念や先入観にとらわれたイデオロギーが言論界を跋扈している。
非現実的な保守イデオロギーは戦後左翼の平和主義と変わらない。私の皇室問題に関する発言に対しても、典型的な対極の二つの反応があったが、いずれもイデオロギーにとらわれている。
一つは、日本は自由であるべきだから、皇太子ご夫妻にもっと自由を与え、皇室改革するというイデオロギーであり、もう一方は、皇室にもの申すこと自体、不遜であるというイデオロギーである。イデオロギーとは常に厄介なものである。とかく人はイデオロギーにとらわれやすく、一つの固定観念で自分を救って、大きく変化する世界から目をそらそうとする。
こうした状況に対して固定化を破り現実を露呈させるように発言していかなければならないというのが私の立場である。