パールハーバー七〇周年記念出版

 私は一年も前からパールハーバー七〇周年を意識して出版の計画を立てていたが、マスコミの反応は鈍かった。ようやく12月8日が近づいてきた二、三週間前から、動きが出て来た。パールハーバーに関連する企画への私の参加内容と記念出版についてお知らせする。

①『正論』(今の号、12月号)論文「真珠湾攻撃に高い道義あり」
11月27日講演「日米開戦の由来を再考する」於靖国会館、1時30分開始。主催二宮報徳会、参加費¥1000。参加自由。
③『歴史通』(次の号)、対談、高山正之氏と日米戦争前史をめぐって
④『SAPIO』(次の号)題未定、論文掲載。
⑤日本文化チャンネル桜「闘論!倒論!討論!」
大東亜戦争開戦70周年記念大討論、日本はどうする!」放送12月10日(土)20:00~23:00

 さて、私の記念出版(徳間書店)は既報のとおり、次の二冊である。

 『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ、満洲、支那の排日』

 『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』
 
 5、は既刊、6は刊行されて約一週間で、今店頭に出ている。新聞広告はこれからである。どちらも¥1800。

 二冊はこの日のために準備してきた決定版である。くどいことは言わない。この二冊を読まずして今後、戦争の歴史を語るなかれ。

 本日は内容紹介として、目次だけでなく、あえて冒頭書き出しの3ページを引用紹介する。

GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜 GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜
(2011/11/17)
西尾幹二

商品詳細を見る

GHQ焚書図書開封 6

第一章 アメリカの野望は日本国民にどう説明されていたか
第二章 戦争の原因はアメリカの対支経済野望だった
第三章 アメリカの仮想敵国はドイツではなく日本だった
第四章 日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた
第五章 アメリカ外交の自己欺瞞
第六章 黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇
第七章 開戦前の日本の言い分(一)
第八章 開戦前の日本の言い分(二)
第九章 特命全権大使・來栖三郎の語った日米交渉の経緯
第十章 アメリカのハワイ敗戦を検証したロバーツ委員会報告
第十一章 世界史的立場と日本
第十二章 総力戦の哲学
 あとがき

アメリカに対する不安と楽観

 日本の一般国民は戦前においてアメリカに悪感情を抱いていませんでした。小説『風と共に去りぬ』はすでにベストセラーでしたし、アメリカ映画は『キングコング』を始め愛好され、アメリカ映画の上映禁止はやっと開戦二日後になってからでした。アメリカの国内向け対日悪宣伝のほうがはるかに先を行っていたはずです。

 一般の日本人はアメリカの実力を知っていましたので、本当に戦争する相手国になるとは永い間思っていませんでした。むしろシナ大陸に介入しているイギリスやソ連はけしからぬと考えていて、その力の排除が必要とは考えられていました。イギリスとアメリカはどこまでも別の国でした。イギリスは超大国であり、アメリカは日本と並び立つ新興国であるという19世紀以来の歴史の流れの中にありました。アメリカはドイツや日本を倒す前に、まずイギリスを抑えないと先へ進めません。戦前はそういう時代でした。アメリカが超大国であることはいまだ自明の前提ではありませんでした。

 戦争直前に「近代の超克」が論じられました。文学者や哲学者がさし迫る戦時への覚悟を文明論として討議したものですが、ここでいう「近代」は「西洋近代」であり、意識されていたのはアメリカではなくヨーロッパでした。日本はヨーロッパ文明と対決するつもりでいたのです。アメリカはどこまでもヨーロッパから派生した枝葉の文明にすぎないと見られていました。

 私見では日本政府は昭和十四年(1939年)あたりまで「英米可分」で行けると踏んでいた節があります。大陸をめぐる争いの中にアメリカは出遅れていて、欧州各国の進出地に簡単に手出しはできませんでした。太平洋の島々の奪取とフィリピンの征服までは遠慮なく武力侵略をしていたにも拘わらず、大陸にはいきなり軍事介入はせず、南の方の陣固めをしていました。フィリピンやグアムを據点に、イギリス、オーストラリア、オランダと組んで日本を包囲する陣形をつくり上げ、時の到来を待っていました。アメリカは蒋介石を傀儡(かいらい)として利用することにおいてイギリスと手を組みました。

 蒋介石に手を付けたのは勿論イギリスが先です。共産党(コミンテルン)と北方軍閥と国民党(蒋介石)とが入り乱れて争うシナ大陸の内乱の中で、「排日」から「抗日」の気運が高まるのはイギリスとアメリカにとってもっけの幸いでした。日支両国が手を結ぶことを恐れていた彼らは、両国の離反のために謀略の限りを尽くします。支那の学生の抗日デモに経済支援したり、キリスト教の宣教師を動員したり、支那を味方につけようと必死で排日・抗日に協力します。このプロセスの中でいつしか「英米不可分」の情勢がかもし出されていました。それなのに、日本はずっとアメリカは対日参戦してこないと思いつづけ、「英米可分」でやって行けると信じつづけていました。ですから突如としてアメリカが正面の敵として襲いかかってきたという印象が日本人の記憶から拭(ぬぐ)えません。

 しかし少しずつ日本に圧力を加えるアメリカの黒い影は、それよりはるか前から日本国民に意識されていないはずもありません。まさかアメリカは日本に戦争するはずはないし、そんなことをしてもアメリカにとっても利益はないと日本人は信じていた反面、心の中で「日米もし戦わば」の不安な予感のストーリーがはぐくまれてもいたのです。それはそれなりの長い期間つづいていて、十数年はあったでしょう。

 つまり日本人の心の中では、アメリカとはひょっとして戦争になるかもしれないと思いつつ、従って油断大敵、準備怠りなく、などと声を掛け合いながら、どう考えてもそんなことは起こりそうもないと信じてもいたのでした。

アメリカの東洋進出――最初の一歩

 そこで、開戦の十年あるいは十五年ぐらい前に、日本がアメリカをどのように意識していたのか、またアメリカを中心とする太平洋の動き全体をどんなふうに展望していたのか、そして当時の識者たちは日本国民にどう説明していたのか、これは今検討する価値があります。

 戦争が本当に近づいたら、これはもう「敵国」という意識がはっきりするわけですが、それ以前の段階でアメリカにたいしてどんな考えをしていたのか。本書では最初にこの関心から、昭和7年4月20日に刊行された『日米戦ふ可きか』という本を取り上げてみたいと思います。満州事変から一年、日米双方の国民の感情も険しくなりはじめていましたが、まだまだそれほど敵対的ではない、そんな時代に出た本です。

 当時はこの類の本がたくさん刊行されました。『日米戦争物語』『日米不戦論』『日米果して戦ふか』『日米戦争の勝敗』『日米開戦 米機遂に帝都を襲撃?』『日米はどうなるか』『日米決戦と增産問題の解決』『日米百年戦背負う』『日米危機とその見透し』『日米もし戦はば』『日米十年戦争』『日米開戦の眞相』『日米交渉の經緯』……。

 昭和三、四年ごろから刊行されはじめ、昭和十五、六年あたりまでこうした本はつづきます。とにかく、たくさんありますから、いったいどの本が代表的で、どの本がいちばんすぐれているのか、比較調査もできないまま、たまたま入手できたこの『日米戦ふ可きか』をご紹介しようと思います。

「パールハーバー七〇周年記念出版」への3件のフィードバック

  1. 外国人留学生でございます。自分の良心と信念に基づいて、衷心に日本を敬愛し擁護し、かつ、ずっと、西尾先生のファンであり、先生の良識と品格を心より敬慕し私淑しております。さて、最近、真珠湾70周年の節目に当たるに際して、アメリカの国内の様々な政治評論、保守派のものさえ、当時の無道な日本を糾弾し断罪し、日本帝国主義を打倒した米国の偉大さを謳歌し、自己正当化・美化と自己陶酔に浸かっている醜態は見え透く。それは、米国は歴史的に負い目を背負っているので、それを隠すかぼかすために、かえって、強気に出んばかりの姿勢をとり、その甚だしい独善と欺瞞の証明だけになるだろうと強く思います。その日本指弾と米国万歳の大合唱もさることながら、私は、意外にも、一つの良心的良識的な素敵な文章を発現しました。作者のパトリック·ブキャナン氏は米国の伝統保守派(PaleoConservative)の代表的人物であり、知名な評論家とコラムニストだ。その主張は内政と外交に亘りリベラル派ばかりか所謂新保守派(NeoConservative)とも一線を画して独自で鮮明で妥協しない姿勢を貫く。今回の真珠湾を論じる氏の文章は、非常に簡潔で明晰ですが、凄く説得力に富んでいる。勿論、米国人としての認識の局限・限界も当然あったが、圧倒的な自国礼賛のオンパレードの中に、もう大変有り難く貴くすべきだと率直に思います。その良識と勇気に敬服してやみません。私はその英語の原文を日本語に訳し、このチャンスで皆さんに呈上し、お目に通して頂ければと思います。ルーズベルトの陰険悪辣さを再確認しよう。正に、切歯扼腕の気持ちです。なお、お読みしやすいため、段落ごとに日本語の訳文を付ける形にしました。自分の日本語力はまだまだ不足なので、拙い翻訳はご海容とご教示のほど、深くお願い申し上げます。

  2. 以下です。少しでもご参考になれれば、幸いと思います。そして、不正確や不適切な所なら、ご叱正とご示教を下さい。ありがとうございます。

    Did FDR Provoke Pearl Harbor?
    真珠湾事件はルーズベルトに挑発されたものか
    Patrick J. Buchanan 2011/12/06

    On Dec. 8, 1941, Franklin Roosevelt took the rostrum before a joint session of Congress to ask for a declaration of war on Japan.
    1941年12月8日に、ルーズベルトルは衆参両院の連合会議にて講壇の前に立って演説し、国家による対日宣戦を要求しました。

    A day earlier, at dawn, carrier-based Japanese aircraft had launched a sneak attack devastating the U.S. battle fleet at Pearl Harbor.
    その一日の前に、空母に搭載される日本の爆撃機編隊は、突然な先制攻撃を発動し、真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊に猛爆を加えてそれを壊滅しました。

    Said ex-President Herbert Hoover, Republican statesman of the day, “We have only one job to do now, and that is to defeat Japan.”
    その日に、前任のアメリカ大統領、共和党政治家ハーバート·フーバーは、「我々は今するべき仕事がただ一つあり、それは日本を打ち負かす事だ。」という発言を話した。

    But to friends, “the Chief” sent another message: “You and I know that this continuous putting pins in rattlesnakes finally got this country bit.”
    しかし、友達に対し、「チーフ」即ちフーバーは、別なメッセージを発しました。彼は、「お前らと俺は、この国がガラガラ蛇を挑発し続けて噛まれる破目になったことが分かる筈だろう。」を述べていた。

    Today, 70 years after Pearl Harbor, a remarkable secret history, written from 1943 to 1963, has come to light. It is Hoover’s explanation of what happened before, during and after the world war that may prove yet the death knell of the West.
    真珠湾事件からの70年間後の今は、一つの注目すべき秘密な歴史、この1943年から1963年にかけて書かれ続けていた歴史は、公開されている。それは、西方に弔鐘を鳴らすとも意味する第二次世界大戦の前と進行中と後に発生していた事々を解明したフーバーの書き物である。

    Edited by historian George Nash, “Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s History of the Second World War and Its Aftermath” is a searing indictment of FDR and the men around him as politicians who lied prodigiously about their desire to keep America out of war, even as they took one deliberate step after another to take us into war.
    歴史家ジョージ·ナシュに校訂される、「裏切られた自由:ハーバート·フーバーによる第二次世界大戦と其の直後時期の歴史」を題目とされたこの本は、ルーズベルトとその側近に対する熾烈な告発である。その本に記述されるのは、ルーズベルト等はアメリカを戦争に極力関与させないと、アメリカの民衆に対して巨大な嘘つきをしつづけながら、相次いだ意図的な処置と策謀をもってアメリカを戦争に巻き込んで行く実態である。

    Yet the book is no polemic. The 50-page run-up to the war in the Pacific uses memoirs and documents from all sides to prove Hoover’s indictment. And perhaps the best way to show the power of this book is the way Hoover does it – chronologically, painstakingly, week by week.
    しかし、この本は一冊の論争の文ではない。50ページに亘る、太平洋戦争の前段階を記述する部分は、各方面の備忘録と文書を使って著者の告発を裏付けする。そして、本書の力を示す最も有効な方法は、著者フーバー氏の書き方即ち、年代順に、綿密細緻に、週間ごとに書いてあるのだろう。

    Consider Japan’s situation in the summer of 1941. Bogged down in a four-year war in China she could neither win nor end, having moved into French Indochina, Japan saw herself as near the end of her tether.
    1941年の夏に日本が処する状況を考えよう。四年間にも亘る中国との戦争に陥り、素早く勝つことも脱却することも出来ず、そして仏印へも足を運んでいた日本は、自分のぎりぎりの限界に達していると弁えた。

    Inside the government was a powerful faction led by Prime Minister Prince Fumimaro Konoye that desperately did not want a war with the United States.
    日本政府の内部には首相である近衛文麿を指導者とされる有力な派閥があります。その派閥はアメリカとの戦争を極力避けたがるのです。

    The “pro-Anglo-Saxon” camp included the navy, whose officers had fought alongside the U.S. and Royal navies in World War I, while the war party was centered on the army, Gen. Hideki Tojo and Foreign Minister Yosuke Matsuoka, a bitter anti-American.
    その所謂「親英米派」の陣営に海軍が含まり、其の将官は第一次世界大戦に於いて米英の海軍と一緒に戦ったのだ。一方、陸軍が主戦論を唱える者で、その陣営のメンバーは東条英機将軍と外務大臣を務め強硬な反米主義者とされる松岡洋右を含める。

    On July 18, 1941, Konoye ousted Matsuoka, replacing him with the “pro-Anglo-Saxon” Adm. Teijiro Toyoda.
    1941年7月18日に、近衛首相は松岡を罷免し、その職務に親英米派の海軍大将豊田貞一郎を任命しました。

    The U.S. response: On July 25, we froze all Japanese assets in the United States, ending all exports and imports, and denying Japan the oil upon which the nation and empire depended.
    それに対するアメリカの反応は何だかと言うと、我が国は、すべての日本所有の在米資産を凍結し、全ての対日貿易を中止し、日本民族と帝国に欠かさない石油の運輸を一切差し止めました。

    Stunned, Konoye still pursued his peace policy by winning secret support from the navy and army to meet FDR on the U.S. side of the Pacific to hear and respond to U.S. demands.
    大変驚愕し当惑したが、近衛氏は引き続き其の平和方案を模索していた。陸海軍の秘密な支持を獲得して、近衛氏はルーズベルトにアメリカ本土での会談の願望を持ち掛けてアメリカの要求を聞き応えるように努める。

    U.S. Ambassador Joseph Grew implored Washington not to ignore Konoye’s offer, that the prince had convinced him an agreement could be reached on Japanese withdrawal from Indochina and South and Central China. Out of fear of Mao’s armies and Stalin’s Russia, Tokyo wanted to hold a buffer in North China.
    アメリカ駐日本大使ジョセフ·グルーは、自国政府に対し近衛公爵の要請を無視しないよう懇請しました。グルー氏によりますと、既に日本がアメリカと一つの協定を締結する意向を近衛氏に表明され確信させられた。その協定によって、日本がインドシナと華南と華中から撤退することにします。ただ、中国共産党及び共産ソ連への惧れの故、日本は華北を一種の緩衝の区域としてそこで駐留し続けるつもりだ。

    On Aug. 28, Japan’s ambassador in Washington presented FDR a personal letter from Konoye imploring him to meet.
    1941年8月28日、ワシントン駐在の日本大使が近衛によるルーズベルト宛てのお便りを進呈し、直接にルーズベルトに会わせていただくようとの近衛氏の意思を表明いたした。

    Tokyo begged us to keep Konoye’s offer secret, as the revelation of a Japanese prime minister’s offering to cross the Pacific to talk to an American president could imperil his government.
    東京はワシントンにその近衛の提案を秘密にするよう乞いました。日本の首相が太平洋を渡り米国の大統領に面会を求めるのを提示するその提案は、一旦公開されたら、近衛の内閣の地位を危うくするからであろう。

    On Sept. 3, the Konoye letter was leaked to the Herald-Tribune.
    1941年9月3日に、その近衛氏の手紙は、ヘラルド―トリビュン新聞に漏洩されました。

    On Sept. 6, Konoye met again at a three-hour dinner with Grew to tell him Japan now agreed with the four principles the Americans were demanding as the basis for peace. No response.
    1941年9月6日に、近衛は再度グルー氏に面会し三時間に亘る食事を共にし、日本が平和の為にアメリカの要求する四大原則に同意することをお伝えしました。ワシントンの返答は?皆無。

    On Sept. 29, Grew sent what Hoover describes as a “prayer” to the president not to let this chance for peace pass by.
    1941年9月29日に、グルーが、フーバーの言葉では「懇願」とも謂えるものをルーズベルト大統領に差し上げ、平和へのチャンスを見逃さないよう進言しました。

    On Sept. 30, Grew wrote Washington, “Konoye’s warship is ready waiting to take him to Honolulu, Alaska or anyplace designated by the president.”
    1941年9月30日に、グルーが「近衛の用意される軍艦は最早準備を整えてホノルルかアラスカか大統領により指定されるいかなる場所に近衛を運んで行くつもりだ。」をワシントンに報告しました。

    No response. On Oct. 16, Konoye’s cabinet fell.
    依然と無反応だ。1941年10月16日に近衛内閣は倒れた。

    In November, the U.S. intercepted two new offers from Tokyo: a Plan A for an end to the China war and occupation of Indochina and, if that were rejected, a Plan B, a modus vivendi where neither side would make any new move. When presented, these, too, were rejected out of hand.
    同年の11月に、アメリカは又の二つの日本による新たな提案を傍受しました。即ち、中国での戦争とインドシナの占領を止めるのを提唱するプランAと、そして、もしそれを拒否されたら、日米双方ともは新たな行動を差し控えて現状維持をしようと主張するプランBである。アメリカ政府はその二つの提案を提示されたが、直ちにそれらを一蹴しました。

    At a Nov. 25 meeting of FDR’s war council, Secretary of War Henry Stimson’s notes speak of the prevailing consensus: “The question was how we should maneuver them (the Japanese) into … firing the first shot without allowing too much danger to ourselves.”
    同年11月25日に開かれたルーズベルト大統領の戦争閣議に、国防省長官ヘンリー·スチムソンのノットは当時の閣内に於ける支配的な合意を物語っている。即ち、「今の問題は、われわれがどうやってわれわれの損失を低く止まらせながら、彼ら(日本人を指す)に最初の一発の銃声を鳴らさせるかということだ。」

    “We can wipe the Japanese off the map in three months,” wrote Navy Secretary Frank Knox.
    「われわれは、只三ヶ月間にかけて、日本を地図から抹消できる。」と海軍大臣フランク·ノックスがそう言いました。

    As Grew had predicted, Japan, a “hara-kiri nation,” proved more likely to fling herself into national suicide for honor than to allow herself to be humiliated.
    グルーが予言した通り、日本は、一個の「腹切り民族」として、侮辱を呑まされるより、名誉の為に国家的な自殺行為に飛び付く可能性の方が大きいと自ら証明しました。

    Out of the war that arose from the refusal to meet Prince Konoye came scores of thousands of U.S. dead, Hiroshima, Nagasaki, the fall of China to Mao Zedong, U.S. wars in Korea and Vietnam, and the rise of a new arrogant China that shows little respect for the great superpower of yesterday.
    近衛公爵と会うのを拒絶したことより起こった戦争に招来されたのは、数万のアメリカ将兵の死体、広島、長崎、毛沢東の手に落ちた中国、朝鮮半島とベトナムにおけるアメリカの参戦と当今一個の傲慢不遜な新中国の台頭。しかも、その新中国はこの昔日の超大国をあまり尊重していないですね。

    If you would know the history that made our world, spend a week with Mr. Hoover’s book.
    もし貴方はわれわれの世界を作りあげた歴史を知りたければ、フーバーさんのこの一冊の本と共に一週間の時間を過ごしましょう。

    原文リンク:http://www.humanevents.com/article.php?id=47962

  3.  最近、アメリカやイギリスの旧軍人さんや情報機関の方達の日本語訳が出版されています。私達日本人にとっては、彼らの側からの情報が入るので、大変心強く思っています。
     真実を知る事が先ず第一で、次には中国や韓国、北朝鮮、日本国内の朝日新聞、毎日新聞、日刊ゲンダイ等の反日マスコミ、旧社会党の議員や左派の学者、日教組等の反日派による誇張し、捏造までして、日本を辱める族を事実と本質論で打ち負かす事が必要だと考えます。その為には、日本の正当性についても翻訳をして世界に訴えて行きたいものです。

阿笠 力 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です