『天皇と原爆』の刊行(三)

 『天皇と原爆』の出版には、私なりの思い入れがあるが、じつは初めての試みが内容面ではなく、本の造りにおいてもおこなわれている。この本には、著者の年齢・経歴・業績などがいっさい書かれていない。私の名前が記されているだけである。

 私の著作家人生において初経験である。かねてこういう本を出したいと思っていたが、今の出版界の常識に反するので、実行できなかった。

 この案を最初に言い出したのは私ではなく、新潮社の担当者の富澤祥郎さんだった。私は渡りに船だった。これは前からの願望だったが、自分からは言い出せなかった。言い出しても実現されないと思っていたからである。

 戦前の本はたいてい著者名だけだった。本の奥付あたりに、ごたごたと著者の来歴を書く習慣は戦後に始まったのである。何故だろう。理由はわからない。

 何でもシンプルが一番いい。今回は『WiLL』4月号の堤堯さんの書評をお送りする。ストレートな書評である。

 本書は、著者がCS放送(シアターTV)で行った連続講話をまとめた。小欄は毎回の放映を楽しみに見た。これを活字化した編集者の炯眼を褒めたい。

 著者は日米戦争の本質を「宗教戦争」と観る。アメリカは「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)=劣等民族の支配・教化」を神から与えられた使命として国是に掲げ、それを「民主化」と称して世界に押しつける。ブッシュの「中東に民主化を!」にも、それはいまだに脈々と受け継がれている。

 かつて第十代の大統領タイラーは清国皇帝に国書を送り、 「わがアメリカは西に沈む太陽を追って、いずれは日本、黄海に達するであろう」と告げた。西へ西へとフロンティアを拡張した先に、これを阻むと見えたのが「現人神」を戴く非民主主義国(?)日本だ。これを支配・教化しなければならない。

 日露戦争の直後、アメリカはオレンジ・プラン(対日戦争作戦)を策定した。ワンシントン条約で日英を離反させ、日本の保有戦艦を制限する。日系移民の土地を取り上げ、児童の就学を拒否するなど、ことごとに挑発を続けた。

 日中衝突を見るや、いまのカネに直せば十兆円を超える戦略物資を中国に援助する。さらに機をみて、日本の滞米資産凍結、くず鉄、石油の禁輸で、真綿で首を絞めるがごとくにして日本を締め上げる。着々と準備を進めて挑発を重ね、日本を自衛戦争へと追い込んだのは他ならぬアメリカだ。それもこれも、神から与えられた使命による。

 彼らピューリタンからすれば、一番の目障りは日本がパリ講和会議で主張した「人種差別撤廃」の大義だった。大統領ウィルソンは策を用いてこれを潰した。彼らの宗教からすれば、劣等民族は人間のうちに入らない。かくて原爆投下の成功に大統領トルーマンは歓喜した。

 ニューヨークの自然史博物館に、ペリー遠征以来の日米関係を辿るコーナーがある。パシフィック・ウォーの結果、天皇システムはなくなり、日本は何か大切なものを失ったといった記述がある。インディアンのトーテムを蹴倒したかのような凱歌とも読めるが、一方で、わがアメリカへの抵抗の心柱となった天皇を、なにやら不気味な存在と意識する感じも窺える。

 戦後、アメリカはこの不気味な存在を長期戦略で取り除く作業に取りかかる。憲法や皇室典範の改変のみならず、いまではよく知られるように皇室のキリスト教化をも図った。日本の心柱を取り除く長期戦略はいまだに継続している。このところ著者がしきりに試みる皇室関連の論考は、それへの憂慮からきている。

 従来、戦争の始末に敗戦国の「国のかたち」を改変することは、国際社会の通念からして禁じ手とされてきた。第二次大戦の始末で、はじめてそれが破られた。改変の長期戦略は、日本人でありながら意識するしないにかかわらず、アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。

 むしろ「宗教戦争」を仕掛けたのはアメリカだとする主張──それが本書全編に流れる通奏低音だ。いまだに瀰漫する日本罪障史観に、コペルニクス的転換をせまる説得力に満ちた気迫の一書である。

堤堯『WiLL』4月号より

「『天皇と原爆』の刊行(三)」への1件のフィードバック

  1. 連続して投稿してしつこい様ですが、毎日いわば頭の体操をしておかないと、知力も鈍ってしまうので、時として当ブログを鍛錬道場にさせて頂きます。勿論、不要無価値な駄作はアップロードせず捨てて下さい。

    第九段、「改変の長期戦略は、・・・アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。」(笑)
    はてな、私のことであろうか。確かに私は何がしかの「使命」に奉仕する或る信念を持った人間であろう。しかしその使命は、”アメリカのみの(American)使命ではなく普遍的な人類の(Universal)使命”であると信じて奉仕しているのです。普遍的な人類の範疇には、キリスト教もあれば儒教、仏教もあればイスラム教もあり、時と場所の特殊性の内に、その普遍性を顕さんと努力している次第なのです。でありますから、米国においてはピューリタニズムの言葉で、日本においては儒教の言葉で「国のかたち」を語らんとする者でもあるわけです。さて所望するところはかくも大きいものですが実現出来ているものは僅かであります。せめて実行するだけの健康があればと念ずる日々であります。

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