『天皇と原爆』の刊行(四)

坂本忠雄氏(元『新潮』編集長)

 再啓 その後大変遅くなりまして申し訳ありませんが、『天皇と原爆』を非常に充実した手応えをもって読了致しました。

 読み進んで、第十一回で、「歴史というものは善悪の彼岸なんです」、第二十回で、「論証はもちろん大切だが、じつは歴史が始まるのはそこから先なんですね。否、文学的宗教的想像力がかき立てられていなければ、そもそも実証的な証拠さがしもあり得ないし、出来ないはずですよ」という二つの御文に接して、御高著の根本的なモチーフがここに潜在していることが得心できたように存じました。

 そこには『国民の歴史』や『江戸のダイナミズム』で積み重ねられた粘り強い御研鑽が下支えとなっていることも感得され、御高著読了後の現在、このご両著も腰を据えて再読致したい思いに駆られております。

 そして『国民の歴史』のなかに引かれている福田(恆)さんの「大東亜戦争の否定論の否定論」を御高著によって親しみやすい口調で詳細に実践された成果でもあることに感服いたしました。

 今盛んに読まれている半藤一利や加藤陽子氏の昭和史論への鋭い御批判も全てこのモチーフから発せられているように思われましたが、殊に私は半藤氏や司馬遼太郎氏の今次大戦への批判をかねてから疑問に思っておりましたので、胸のすく思いが致しました。

 そして私が最も教えられましたのは、アメリカの「独立宣言」の「平等」の個所で、「すべての人と言われているのはアングロサクソン民族内部のすべての人にすぎなかったのに、あたかも地球上のあらゆる人という意味に解せられるような言葉で表現されている」というところで、これは根本的なアメリカ批判として目を開かされました。そこに根ざしているアメリカの「闇の宗教」がまた「神の国」である日本に向けられて今次大戦が起こったという御考察を極めて詳細に辿りつづけられての今度の著者の御成果は、小林秀雄や福田恆存などが未開拓の領域での御達成で、御高著の生命力を証しているものと確信いたしました。

 それにしても「ニーチェの言語観」で、「およそ停滞を知らぬ精神にとっては、懐疑とは疑うことではなく、疑うという行為そのものに徹することなのである。」という御述懐が、永年にわたる御実践でここまで到られたことに改めて深い敬意を表させていただきます。(「神道」についての御考察にも色々と教えられましたが、挙げればキリがありませんので、省略致します。)

 やっと春の気配が少し感じられるようになりましたが、気候不順の砌、呉々も御自愛の上、次なる御健筆をお祈り申し上げます。

右、甚だ延引致しましたが、愚見と御礼まで申述べます。

三月四日

                     敬具

 以上は了解を得ての私信の公開である。坂本忠雄氏は小林秀雄、河上徹太郎、福田恆存、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎など重要ライターを担当し、一貫して『新潮』編集部に在籍し、純文学の鬼といわれた名編集者である。 

「『天皇と原爆』の刊行(四)」への2件のフィードバック

  1. 西尾幹二様が出版された”天皇と原爆”に大いに関係すると思いますが、
    鬼塚英昭という作家をご存知でしょうか?鬼塚氏は天皇を戦争責任を
    告発するとし「日本の一番醜い日」という本を出版しております。そ
    の本の内容は目を疑うような内容であるのですが、まずは以下の動画
    をご参照下さい。

    http://www.youtube.com/watch?v=T_Vp_OYvrZg
    http://www.youtube.com/watch?v=YXGiS-N94Vc&feature=relmfu

    鬼塚氏は昭和天皇は金設けのために支那事変・大東亜戦争を自ら指揮
    し(命令を下し、陣頭指揮をとったもの昭和天皇だとしています)、
    麻薬ビジネスや人身売買を行ったと主張しております。そして、敗戦
    間近になると連合国と取引し、天皇一族の生命と財産の保証をしても
    らう代償として、原爆投下を引き受け沖縄を米軍に占領させることを
    容認し、戦犯も差し出しGHQによる日本統治を受け入れたと主張し
    てります。なんと、原爆投下に関しては昭和天皇自らが日時・場所を
    指定したとまで断言しております。極めつけは自らの戦争責任を回避
    するために8/15宮城事件を策謀したとまで記しております。また、鬼
    塚氏は万世一系も否定しており、明治天皇は大室寅之祐という人物と
    すり替えられたと主張しております。いろいろ探したのですが、鬼塚
    氏の主張に対して検証しているサイトが全くなく、このようにして皇
    室に詳しい西尾幹二様のブログへとコメント致しました。大変お手数
    ですが、もしよろしければ鬼塚氏の主張に対して検証して頂けないで
    しょうか?トンデモ本としてはねつけるにはあまりにも内容が深刻で
    あると思います。何卒よろしくお願い申し上げます。

    http://www.youtube.com/watch?v=iPVaXytjULo
    http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2709626

  2. 純文学の鬼といわれた名編集者、坂本忠雄氏の書評拝読させて頂きました。
    僭越にもこんな問題提起をしてみたいと思いました。
    純文学と、いうならば純政治は(文学精神と政治精神と言い換えてもよいかもしれません。)変換或いは交換可能か。
    純文学で許される事も、純政治では許されない事があります。
    逆に純政治で許される事も、純文学で許されない事があります。
    純文学で価値ある事も、純政治では価値が無く、逆に純政治で価値ある事も、純文学では価値の無い事があります。
    ニーチェが提起した善悪の彼岸という或る意味の観念はまさに、この辺りの事情のいわば衝突現場の観念と思われます。
    私見では、純文学と純政治では変換或いは交換不可能な領域があり、先時大戦の是非論争の対立は、純文学的なるものと純政治的なるものの交換不能領域での両者の対立ではないか・・・と漠然とした事を漠然と思うのであります。(話が抽象的と思われる方は、善と悪。少数と多数。主観と客観。道徳と非道徳。倫理と反倫理。法と不法。理性と情熱。等々について両領域での扱われ方を考えてみて下さい。)

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