坦々塾夏の納涼会(平成24年)

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 7月28日ホテルグランドヒル市ヶ谷で行なわれた坦々塾夏の納涼会の私のスピーチについて、メンバーの渡辺望さなんが感想を書いて下さいました。この日私はメンバーの皆様から喜寿のお祝いをしていたゞきました。厚くお礼申し上げます。

 7月28日、ホテルグランドヒル市ヶ谷白樺の間で、西尾先生の喜寿のお祝い、そのお祝いに坦々塾の納涼祭を兼ねた会が開かれました。参加された方で、「暑い」という言葉を朝から一度も言わなかった人はもしかして一人もいなかったのではないか、と思えるほど猛暑の一日でした。

 しかし、白樺の間に入り、会席の始まりとしておこなわれた先生の講演を聞いて、どの人も、汗を拭く手を次第次第にやめていくのが私にはよくみてとれました。そのことは別に、建物の中の冷房だとか、部屋の中の冷たい飲み物だとかのせいではありません。
 
 小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫版)の解説文で江藤淳は、「・・・ところで、この本の読者は、どのページを開いてみても、読むほどに、いつの間にかかつてないようなかたちで、精神が躍動しはじめるのを感じておどろくにちがいない。それは、いわば、ダンスの名人といっしょに踊っているような、あるいは一流の指揮者に指揮されてオーケストラの演奏をしているような体験である。これが自分のステップだろうか、自分のヴァイオリンがこんなに鳴るのだろうか、といぶかりつつも、いつになく軽やかに動く脚に快い驚きおどろきを感じ、いつもより深い音色を響かせる学器に耳を澄ませはじめる」と記しました。当日の西尾先生の言葉の流れから、私はその比喩を連想しました。
 
 西尾先生の言葉に耳を傾ける人もまた、知らず知らずのうちに西尾先生の言葉によって、考えさせられはじめている。江藤は音楽を比喩に出しましたが、音楽でなくてもよい、水の流れでも空気の流れでもよい、それに触れる人を思考に知らず知らずに誘うもの、そういうものです。そういう力をもっているものは、涼やかで風通しのよいものに他なりません。
 
 考えが優れて進むことは古来より「冴える」「冴ゆる」と表現されてきました。「冴える」「冴ゆる」とは、頭の中が涼やかになり、そして澄んでいき、さえ(冴え)渡っていくことを意味する。白樺の間に響く西尾先生の言葉は、どんな冷風や冷たい飲み物よりも涼やかなもの、聞いている人間を考えさせていくものでした。冴えさせられることによって、汗を拭く手のことをいつのまにか忘れてしまう。そのことが私には見て取れたのです。

 さて、三十分余りと、それほど長いものでなかった先生の講演は、「戦後から戦後を批判するレベルにとどまってはならない」と題されたものでした。これは刊行が迫っているご自身の著作『GHQ焚書図書開封第七巻』の内容紹介を兼ねてのものでしたが、その内容紹介については今回の報告では割愛させていただきます。

 まず先生は、日本人の戦後におけるアメリカ観の急速な崩壊が進んでいること、しかし崩れ行くアメリカ観の中で、新しいアメリカ観をなかなか確立できない日本人の精神的停滞を指摘されました。西尾先生はこの停滞の根幹に、保守派の守護神的存在である小林秀雄、福田恆存、竹山道雄の諸氏の歴史観の間違いがある、とお話をはじめられました。

 これはどういうことなのでしょうか。従来、保守派と左派の間に一線をおいて、両者を切断する捉え方が絶対的といっていいほど多数派であり、その保守派が依存してきたのが、小林たちの言説でした。たとえば西尾先生が引用されたように、小林秀雄が戦後繰り返し、「自分は(戦争を)反省しない」と言い切り、戦争の反省を強いる革新派知識人を軽蔑したことはよく知られています。そういう言葉を吐く小林の心情は「悲劇は反省できるものではない」ということにありました。先生は福田恆存の親米主義も例にあげられましたが、そのような精神的地点は、『ビルマの竪琴』を書くことによって、「悲劇は反省しえない」ということを宗教的心情に逸脱させた竹山道雄も同じということがいえるのではないかと私は思います。
 
 だからこそ、小林達の戦後保守派の史観と、左派史観には重要な共通点がある、と先生は言われます。つまり大東亜戦争というものを「避けるべきもの」だったというふうに考えていたということです。だから「悲劇」という表現を小林秀雄は使う。小林秀雄は、大東亜戦争に歴史的必然の意味を与えようとした親友・林房雄を揶揄しているというようなこともしていることを、今回の先生のお話ではじめて知りました。
 
 もちろん、小林秀雄たちは、戦後平和主義やマルクス主義派知識人とは本質的にはまったく違う。しかし彼らの歴史観に「何か」が足りないのです。その「何か」の不足のせいで、我々は今や、保守革新を問わず不自由に陥っている。その「何か」を把握することが、崩壊するアメリカ観や世界観に直面する私達に必要なのではないか。西尾先生の戦後保守派知識人への批判はここに始まります。西尾先生の批判を敷衍すれば、悲劇を安易に感受することは、歴史における思考停止を招きかねない、ということになるでしょう。

 では、「大東亜戦争は避けるべき悲劇だった」という戦後保守派と左派に共通するパラダイムから脱するヒントはどこにあるのでしょうか?
 
 西尾先生はそれを、戦時下において政府に積極的な協力を見せた知識人の何人かの言説から探し出そうとします。それがここ数年の西尾先生の思想的営為でもある。彼ら知識人は軽々しいオポチュニズムで政府や軍部の片棒を担いだのではない。世界史の流れにおいて、運命、使命、あるいは必然ということと真剣に格闘することによって、戦争を積極的に受け入れ担おうとしたのです。

 仲小路彰、大川周明、保田與重郎など先生があげられるこの方面の知識人はしかし、戦時下に協力したということによって、表現の世界から追放に等しい評価をされ、戦後の保守派からも傍流の扱いを受けつづけることになり、その仕事の多くは依然として埋もれたままになっています。しかし彼らの知的精神がもっている「自由」の幅は計り知れないものがある。

 この「自由」こそが今必要とされているのではないか、ということです。彼らはたかだか二十世紀の一事件として大東亜戦争を把握するのではなく、時間的・空間的に巨視的にそれを把握し、その意味付けをしていた。ゆえに、戦後世界的なアメリカ把握、ヨーロッパ把握、アジア把握から全く自由であったのです。

 先生のお話を聞かれた人の中には、たとえば、戦時下における西谷啓治や高坂正顕たち京都学派の世界秩序構築論の理論的作業の例がすでにあるではないか、といわれる方もいるかもしれません。これら京都学派の諸氏も、戦後、追放処分の憂き目をみた人物たちです。

 しかし京都学派の理論的作業は、近代やヨーロッパ文明を超克するといいながら、ヘーゲル主義その他、ヨーロッパ文明下の思想教科書を前提にした枠組みの中、それらの範囲でしか考えていないという物足りなさがあるといわねばならないように私には思います。学者的学者の限界、と言ったら酷でしょうか。いずれにしてもやはり京都学派の思想家たちも、「何か」が足りないように思われます。

 仲小路彰に関しては西尾先生の本格的な発堀まで、忘れさられていた存在でした。著作『太平洋侵略史』などに表されているその歴史観は地球全体と、近代以前からの時間を視点においた壮大なものでした。それは学者的学者の史観ではありえない巨視的なものです。

 また西尾先生が言われるように、「東京裁判の狂人」というイメージが戦後日本で一般的である大川周明に『日本二千六百年史』という堂々たる全体的歴史書があることは今の日本人にほとんど知られていない。大川もまた、専門分野にまったく拘束をされない非学者的知識人でした。大川の歴史観には面白い躓きもあり、彼は鎌倉時代の扱い方に苦労して失敗していると先生は指摘されました。優れた思想家には、その知的正直さがゆえに、興味深い躓きをするという逆説があるのです。

 この鎌倉時代こそは、戦後の左翼史観が巧みに悪用してきた時代です。左翼史観にしてみれば、この時代こそが反皇室の萌芽だからですね。平泉澄なども鎌倉時代に焦点をあてた歴史論を考えており、西尾先生にしてみると、大川の躓きをはじめとする、戦前と戦後における鎌倉時代・中世の問題ということに非常な関心がある、ということでした。
 
 「戦後」ということから自由であり、また「専門」ということからも自由であるこれらの知識人の知的精神が、現代の日本人の組み立て直しに資するに違いない、それが当日の西尾先生の講演の結論でした。

 西尾先生のお話が終わったあと、坦々塾会員である足立誠之さんが乾杯の音頭をとってくださいましたが、乾杯の音頭に際しての足立さんのスピーチもまたたいへん歯切れのよい記憶に残るものでした。

 足立さんはかつて北米大陸に長く滞在されお仕事をされいた経歴をお持ちの方です。つまり、アメリカという国の本当のすさまじさというものを、実感として知られている。足立さんがいわれるには、戦時下の特攻隊員の中には、アメリカという国は決して蔑ろにするべき対象でもないし、もちろん甘い幻想を抱く対象でもない、日本という国を根絶やしにするおそろしい国なのだ、だから自分はそのアメリカと戦う、と言い残していった若者もいた。この足立さんの言葉は、実は戦前戦中の日本人の中には、仲小路や大川のように、巨視的な意味で日米戦争をとらえていた人物が知識人以外の層にもきちんといたのだ、ということを意味しています。

 私は、足立さんのお話から、ローマの歴史家タキトウスの「戦争は、悲惨なる平和よりよし」という言葉を思い出しました。あるいは哲学者カントは、自身の平和論の中で、「お墓が一番平和なのだ」と実に見事な皮肉をいいました。戦後日本人の多くは(よほどの共産党系知識人を除いて)ソビエトの衛星国になった東欧諸国の「悲惨な平和」をみて、日本の戦後を「幸福な平和」の国と考えていた。しかし、日本の戦後もまた、見えにくい形で「悲惨な平和」が進行しているのではないか。あるいは「お墓の平和」に近づいているのかもしれない。西尾先生は講演の中で、「ソフト・ファシズム」ということを言われましたが、「ソフト」というのは、見えにくく、見えにくいがゆえに、抵抗がむずかしい分、「ハード・ファシズム」よりも遥かにおそろしいのです。 
 
 アメリカの巧みな、しかも長い時間をかけた戦後の対日解体戦略の中で、先日の大津いじめ事件に見られるような日本人の骨抜きが進んでいると足立さんは当日のスピーチの中で嘆かれました。それで思い出したのですが、私は何年か以前に、足立さんが坦々塾で「ガラスの中の蟻」という題名でされたお話の内容が、たいへん強く印象に残っています。

 北米大陸でも子供の「いじめ」はたくさんある。しかし親はいじめられた自分の子供たちをすぐに手助けするのではなく、「戦いなさい」と返すのだ、と足立さんはそのときに語られました。日本人は、そうした日常レベルから、アメリカ人のそうした生き方にかなわないように腑抜けにされてしまっている。そのことがどれだけ深刻なことなのか日本人はわからない。それが足立さんのお話の主張だったと記憶しております。「戦い」の気持ちを抱く人間はもはや少なく、あるいは「戦い」を決意しても、共感や共闘をしてくれる人間がますます少ない、というのが日本の現状なのでしょう。日常の「いじめ」に対して戦えない人間が、国際政治で戦えるはずはないのです。

 「だからこそ」と足立さんは当日のスピーチで強調されました。「この厳しく、ある意味で情けない日本の現状で、本当のことをいい、真剣に思索と戦いを演じられる知識人は西尾先生以外にいない」ということ、そのためにも、「西尾先生にいつまでも頑張ってもらいたい、心身ともに健康でいていただきたい」足立さんはスピーチをそう締めくくられて、乾杯の音頭をとられました。

 和やかな会の進行の中で、西尾先生の喜寿のお祝いに、日本でただ一つだけの「清酒・西尾幹二」を先生に手渡され、先生もたいへんに喜ばれ寛がれていらっしゃいました。坦々塾にはじめて参加される方も何人かいましたが、二次会に至るまで、先生との会話を楽しまれ、「冴え」の気分と「戦い」の精神の坦々塾の雰囲気を存分に吸収されたように思われました。

文:渡辺 望

「坦々塾夏の納涼会(平成24年)」への2件のフィードバック

  1.  小生も、この画期的なご講演を拝聴し、「戦後から戦後を批判するレベル」を突き抜け、「戦争史観の転換」を標榜された先生のご炯眼に目を見張り、深く共鳴いたしました。
     先生のご全集の完結とともに、「昭和のダイナミズム」のご完成を待望申し上げる所以です。

  2. ▼韓国で民団が日本の「世論操作」「世論工作」 の実践方法と成果をレクチャーしている動画

    http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=08HT4dD3hoI
    民団スパイ2号は、テレビ番組で昔「ここが変だよ日本人」に出演していた自称:韓国人留学生 「日本人は海外ではモテないんですよ」 「僕も含め韓国人はモテモテなんですよ」 その正体は・・・ 外国人特派員協会の在日韓国青年会記者会見では 民団の広報『右翼』反対運動リーダー「金武貴です。現在、右翼・過激主義者反対運動のリーダーを務めています。ご存知かと思いますが、4年前の教科書採択では99.9%の日本人が 「つくる会」の教科書に強く反対しました。」 と、外国人特派員に大嘘を付いていた韓国人です。 記事元(写真、動画等は以下で)
    http://toriton.blog2.fc2.com/

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