「真夏の夜の自由談話(1)」への4件のフィードバック

  1. 8月30日の本欄9でprideに触れた。それをめぐって18世紀に善・悪の議論があり、ヒュームがそれを肯定し、スミスもそれは自己防衛の本能で、それを欠く人は他人から侮られ易いと言う。しかしある歪んだ制度やある優越性にある人が習慣的にその本能を身につけると、それが不当な優越意識としての「高慢」に陥る。つまり、本来あるべき情念がその置かれた環境によって悪しき性格に転化する。その例として奴隷所有者、英の国教会上層部、仏の徴税請負人、植民地領有国民、独占業者、戦勝国民、司法権を併せ持った行政権者等が挙げられる。いずれも相手側が弱者・劣等者だ。その解決策は、先ず制度の歪みを正すこと、また、公平な観察者(第三者)から見られるようにガラス張りにすること、弱者側に対しては義務教育により「勇気」の精神を涵養すること等が挙げられる。これにより、prideの議論は終結した。

  2. pride の反対語は humility(卑下)である。本来、それらは個別的な一情念だが、中学校で3年間にわたって、一方(女子)が平均的に諸能力が優越し、他方(男子)が劣る状態が続くとすると、前者の pride も日常的に積み重なり、体質化してくる。後者の humility も同様である。10台前半ごろの女子のぶりっ子もそこに働く。要するに、幼稚に見える同年男子の餓鬼共など眼中になく、見下している。そうして、女子は本来以上に高慢になり、男子は同様に卑屈になる。もちろん、例外は無数にあるとしても、全国公立校生徒の大勢はそういう状態に置かれている。これは米国由来だから、そこでも事情は同様だろう。また、米国にも別学のエリート校がある。教育目的の重要な一環は「勇気」の涵養だが、pride も自己防衛の「本能」だから、それと反対の性格形成は、本来の教育目的にも反することになる。これがスミス理解から得られる教訓である。

  3. 欲情と怒りは、ソクラテス⇒プラトンにとっての二大情念だが、それら間の相互牽制と理性によって自制と気概(勇気)の二大徳性が成立する。このように、勇気は人間にとっての不可欠の資質と見なされ、A.スミスもその観点を全面的に受け入れた。それは日常生活と国防との二重の意味を含めてである。ただし、スミスによれば、pride と勇気が異なるのは、前者が欲情の情念の中での快適な優越心としての自尊心を意味するからである。したがって、それは「本能」であって、教育的涵養の対象になるものではない。しかしpride の反対の卑下(卑屈)と勇気の反対の臆病(逃避)とは、どこか相通ずるところもあるように思われる。

  4. 日本人の「PRIDE」復活が肝要ですね。
    戦後GHQ米国の検閲空間については左側出版界もだしてきているのを最近見かけましたが、西尾先生のほうが断然よいです。
    ネット選挙運動の解禁で、日本の政治家の質が少しは上がるのではないかと期待しています。ばか者政治家を育てたのは、ばか者マスコミで、ネットはマスコミが裸の王様であることを大衆に知らせました。消費税を上げてもよいが(食費ではなく)新聞だけは特例扱いにしろって、食料よりも新聞紙の方が必需品と考えているのでしょうか。ますます国民の失笑を買っています。
    安倍氏を見ると中曽根氏とのアナロジーを自然に思い出します。たぐいまれな無垢な性格と芯の強さ。逆に狡猾さに欠けることによる不安。中曽根氏のころは中国が反日でしたが、韓国はいまよりずっと親日でしたね。たしか中曽根氏は韓国が軍事費の拠出に困っているときに援助したのでは??(思い違いであればすみません)中曽根氏は韓国にかなり好意的だった印象があります。「欧米との戦争は普通の戦争だが、アジアに対しては侵略だった」というフレーズは中曽根氏のものですよね。アジアへの無警戒と、左翼の中韓の反日炊きつけで、その後の展開はまったく期待はずれでした。
    今後の日本の政治家にはもっと狡猾さというかしたたかさが必要なのでしょう。

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