「戦後から戦前を見ている」という意味(講演会まとめ)

――大東亜戦争の文明論的意義から――

坦々塾会員 伊藤悠可

 三時間に及ぶ講演はまたたく間に過ぎました。傍観をゆるさない言葉の力は西尾幹二先生特有のものですが、この日は特に胸に響きました。自分自身の問題として考えなければならず、部外者面ができない話がいくつも含まれていたからです。

 展開は世界と日本、前後二つのフレームを用意され、第一次大戦後の遠い過去に罠を仕掛けた欧米と、民族の地熱によって近代的自我に目覚めた日本との文明的攻防の歴史をたどるというかたちを採られました。尖閣や慰安婦問題における不快と忍耐は、国際連盟成立時の英米の不可解な立ち回りからして、百年前と殆ど変わっていない事実を示されました。

 しかし、狡猾、悪事、詐術にさいなまれながら、それを撥ね除け孤独な戦いをしなければならなかった歴史の運命を知り、危急において民族使命を恢復させた跡をたどり、わが国がこれからも、どのような信仰を得てどのように真実を追求していくべきか、という点が重要であるとして講演は進められました。このことはとりもなおさず、現下の日本人に投げかけられた命題にほかなりません。

 人道や平和の守護者のような顔をして勝手な振る舞いをしてきたアメリカに、“人類の概念”を吹き込んだ「国際法」の誕生があること。翻って、わが国が孤塁を守るのではなく高い理想を掲げて世界を相手に戦えたのは、国体思想の礎をつくった水戸学が原動力であったこと。

これらを詳説されたことによって、改めて大東亜戦争に至るまでの彼我の足跡と交点がはっきり見えてきたのですが、ここでは私が急所と思われる一点に絞って考えを述べたいと思います。

 同講演を告知するリード文にも挿入しましたが、西尾先生がしばしば、洩らしておられた数多ある戦争論や昭和史に対する感想。それは「戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るということをしていない」というものです。これを聞いた人はたくさんいるはずです。けれど、私は正直何を言っておられるのか、長い間わからなかった。

 ――現代は戦争からとうに遠ざかった戦後である、その戦後を生きている人間があの戦争を論じる場合、当然戦後から戦前を見るということにならざるを得ない。戦前の人の目で戦前を見るというのは不可能である。一知半解で済ませるのは居心地が悪い。いったん棚に上げておこうとということで、そのまま卸せないできた。とにかくこんなに平易な言葉でこんなに不明になるとは解せない。

 こうして放っておいたのですが、講演の後段ではたと悟るところがありました。「戦後から戦前を見ていて、戦前から戦前を見ようとしない」ひとつの例として、長谷川三千子氏の『神やぶれたまはず』を挙げられました。この夏に上梓され保守層読者の間で話題になっている書です。

 タイトルは折口信夫が終戦直後に書いた詩「神 やぶれたまふ」に対するものであり、「昭和二十年八月十五日正午」という副題をみても、〈終戦〉を核にした論考であることは広告ですぐわかりました。購入し折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治と読み進めたところでした。私の知人の一人もまた賞賛していました。どこに感銘したのかと問うと、「終戦の日のあの瞬間、日本人が立ち返るべき特別の瞬間ということを教えてくれている」と言います。私より少し上の長谷川氏と同じ戦後生まれですが、終戦の日の追憶に深く共感したのでしょうか。

 例えば、終戦の詔勅を聴いてとどめた河上徹太郎氏の有名な一節があります。記憶している人もあるでしょう。「それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以降である」。これについて長谷川氏はこう書くのです。―――「あのシーンとした国民の心の一瞬」といふ河上徹太郎氏のこの言ひ方は、舌足らずのやうでゐて、その「言葉にならぬ」絶対的な瞬間の相貌をよくとらへてゐる。

 終戦の日のあの瞬間。全論考が玉音放送とその関連で書かれているわけではありませんが、〈特別の瞬間〉に対する静かな、そしてたしかな視線を注いだ、或いは注ぎ直して紡いだ長谷川氏の熱い思いであることはまちがいないでしょう。死を覚悟して散っていった人たちへの鎮魂の気持ちが込められていると言ってもよいものです。しかし、私は知人が共感したほどに感銘はしませんでした。立ち止まった保守知識人から出てくる〈情感の完成形〉を感じるのです。

 講師もまたこの書を認めません。これを是としない語調は強いものでした。先生の発言をやや詳しく文字で再現しておきます。

 「あの戦争でなぜ進んで死を選ぶことができたのだろう、などということを言いますが、私はおかしいと思っているんです。戦後の保守を含めて、どうして死を選べたのか、特攻隊はなぜ行けたのか、そういった興味ばかりです。戦争というのは生と死を越えていくのであって、また戦前まで日本人には大義の自覚があったのです。銃後の人にしてもそうです。なぜ死ねるのでしょうではなくて、なぜもっとよく戦えなかったのだろうと考えないのか」

 「長谷川氏は終戦の瞬間に思いを寄せるが、そんな無時間・超時間の抽象ではなく、また八月十五日に至るまでの戦争の歴史ではなく、われわれ民族の世界史における使命に起った日本人があったんです。死は生物として恐れますよ。だが、歴史を自分の運命だと知っていた日本人はさっさと越えていった。死ぬことが生きることだと知っていたんです。あの戦争は正しかったというのが最大の鎮魂になるのではありませんか」

 講師は、拝読してある種の疑問を抱かざるを得ないのです、といって上記の気持ちを語っていたのです。思うに、このとき、西尾幹二は文芸評論家でも思想家でも学者でもないのです。歴史の中の日本民族の一人として語っています。ということは、われわれもまたサラリーマンとして教師として元何々として聞いているわけではない。民族の一人です。

 したがって講師は長谷川美千子氏の作品を批判したのではなく、作品以前に著者が見ている眼の先を批判したのです。戦争ができるまでに近代国家をつくりあげた父祖の姿が全然見えていないと先生が指摘したのです。

 戦後から戦前を見る。それは恰も半分を見てあと半分は見ないということのようです。仕切りをつくって仕切りまでは見るが、そこから奥は見ないで引き返すということのようでもあります。いずれにせよ、私には、「一回終わった日本」と見ている人が片方にいて、もう一方に「戦いは一度も終わっていない」と見ている人がいるように映ります。そして戦前から戦前を見られるという人は、戦いはこれからだと考えているはずです。うまく表現することがむずかしいのですが……。

 戦前から戦前を見る。これはどうか。「戦前の人の目で戦前を見るというのは不可能である」と右往左往した自分ですが、不可能ではないようです。先生が紹介した杉本中佐は死ぬ寸前まで、四人の息子に遺書を綴っています。これが『大義』になりました。世界史において使命を帯びるという意識で、「実はたくさんの議論が戦前はなされていたんです」と講師は強調されましたが、戦前の人間の、戦いに対する高い意識はいくらでも確かめてみることができます。

 原随園は京都帝国大学の西洋史の先生ですが、昭和十九年に『戦力の根源』を発表しています。第一次欧州大戦の結末に冷静な研究を進め「ドイツの敗因は複雑なものがあるにしても、その有力な一つは戦力といふものを、単に武力に傾注して、他の国力を軽視してといふことにあった」と論断しているものです。「真の戦力とは単に武力ではなく、むしろ戦争に傾けられる国民の実力であり精神力でなければならない」。

 この人は、武力戦の終結を以て戦争終れり、とするのは危険だと説いています。「衰へ行く道義心を以てしては、たとへ武力戦に於いて一旦の勝利を得るといっても、それは民族の永遠の歴史の上からするならば、敗北の第一歩でなくて何であるか」と書きました。そして「この恐るべき道義の低下を防ぐ道は、唯一つ民族使命の自覚あるのみである。この意味に於いても、民族精神の昂揚こそ真の戦力といひうる唯一のものである」と言い切っております。

 真の戦力とは民族的自覚にほかならぬ。西尾先生が命題とされた冒頭の言葉と寸分変わりません。

 もう一例を取りあげます。同時期に広島文理大学で理論物理学を研究していた三村剛昴教授は、米国が物量という新兵器を唯一の武器として日本にのしかかって来ているのに対し「日本独得の兵器とは何かといふと飽くまで日本精神なのだ。日本精神こそ独特の兵器であり何れの国も真似出来ない偉大な兵器である。これは現在、特攻隊としてその形がはっきりと現れている。特攻隊精神は新兵器中の兵器である」と高らかに主張しています。

 この明朗さは、戦後から戦前を見てきた人にはわからないし、前者の議論にもこの後者の先生の主張にも、まったく戦後的なるものを見い出すことができません。生と死は問題外であったことは認めなければならないわけです。

 昭和十一年当時、沖縄の尋常小学校六年の女子生徒が書いた次の作文はどうでしょうか。

――日本の女子の覚悟
我々が毎日、安楽にくらす事の出来、学ぶ事の出来るのは何故でありませう。それは申すまでもなく大日本帝国民であるからです。一番大事な年は昭和十一年だといふことを校長先生や、集会ある毎の偉い人々から話を聞いています。何故非常時の一番大事な年かと申しますれば、それは今ロンドンにかいさい中に軍縮会議だそうです。我国は正義の元でいろいろの問題を提出しておりますが、連盟各国が此の問題をみとめてくれなかったら、時によっては戦争にならんとも限らないからであります。(略)世間には軍人だけが戦争をするものと考へる人もおるが、これは大ひにまちがったお話だと思ひます。(略)一朝ある時は男子に負をとらず、国防にあたらぬばならんと思ひます。(沖縄県八重山郡石垣尋常高等小学校 尋六 下地ヨシ=全国小学児童綴方集)

自らを保守だと言う人がこの講演会に来られ、「石油も何もないのになんであんな戦争をしたのか」と、戦後このかた幾百と聞いてきた戦前嘲笑をしていましたが、保守でも左でも中間でも何でもよいから、並ぶ店を間違えないでほしいと言いたい。「大ひにまちがったお話だと思ひます」。

私が雑誌の取材でお会いする、埼玉トヨペットの創業者で現会長の平沼康彦さん(九十三歳)は、特攻隊機を掩護する第二二四隊の戦闘機に乗り、四度不時着しながら生き残った奇跡の人です。「特攻隊が離陸した後を追ってわれわれも飛び立ち、その上空を編隊を組んで掩護して行く。もう大丈夫というところまでついて行って引き返してくる。無言の別れは何ともつらかった」と自著に書いています。八日市基地で玉音を聴いたのだが、ラジオの音が悪くて何もわからず、「ソ連が参戦したからお前たち頑張れって言っているんだろう」ぐらいにしか思わなかったと言います。

まもなく敗戦を知ったとき「勝ちはしないけど負けるのは早いよ」と思わず口に出していたそうです。「祖国のために死ぬのは当たり前と思っていたから、生も死も考えなかった」がそのまま本心です。掩護の途中、敵機と遇えば空中戦です。良く死ぬことが良く生きることであるということを体現してきた人で、こういう人はどこかケロッとしています。

私が戦前の目で戦前を見られているかどうかはわかりません。『大義の末』で杉本中佐を描いた城山三郎でさえも、戦前の目を遠くに置いて忘れ、戦後人の感覚だけになってしまったかと思われる時期があります。昭和五十年八月一日付の東京新聞(夕刊)に『真の勇者とは』と題するこんな随筆を書いています。

「『八紘一宇』とか『大東亜共栄圏建設』とか『鬼畜米英撃滅』とかの大合唱。それは非の打ちどころのない理想のように見えたが、実態はどうであったか。国をあげての大合唱のおそろしさ、愚かさ」。この平板な物の言い方はなんでしょう。

昭和十七年に書かれた田中晃(九州帝国大学助教授)の『生哲学』に、歴史の運命を受けとめ生きて死ぬこととは何かと、追求した部分があります。一節を引いてまとめにしたいと思います。

「日本民族の念願した永生は『七生報国』であって、個人としての永生ではなかった。そこに真の死を公の立場に於いてとらえた意義がある。公とは何であるか。それは個人を越ゆる物であるが、個人を断絶した普遍者ではない」

「いのちは生まれたものであるが故に、いのちの死もまた公なのであった。さすれば、いのちの生まれた源が国家であるとき、その国家に死することが真に公なのである。祖国の体験はそこにある。しかして祖国が、真に祖(おや)なる国としての原理的意義を有するのは、ただ日本に於いて云はれ得ることでなければならぬ」

 戦前の日本人に具わっていて戦後の日本人に欠いてしまったものは何か。この講演で西尾幹二先生が投げかけた問題は、日本人である限り自分は例外だといえないものを含んでいます。
(了)

「「戦後から戦前を見ている」という意味(講演会まとめ)」への3件のフィードバック

  1.  西尾先生の講演会への私の感想、また伊藤悠可さんのすばらしい講演会感想へのディテイルについて触れたい気持ちもありますが、ここでは視座をあえて、先生が講演会さらには懇親会で言及されていた長谷川三千子さんの「神やぶれたまはず」について述べたいと思います。

     私は自分の怠惰が原因の一つなのはもちろんなのですが、長谷川三千子さんの著作にはあまり親しんできませんでした。肌色が違うというか、読みづらさがあるのですが、その読みづらさの割りに得るものが少ないように思えてきたのです。読みづらさにも、収穫を得ることのできるよき読みづらさもあるのですがそれがない。それで今回、先生が挙げられたのでこの本を読んでみて、その収穫の少なさの意味がわかったような気がしました。

     長谷川さんの問題意識は要するに、終戦の際の日本人の精神的経験が超越的なものであって、日本人の多くは暗にそれに拘束されているということ、しかしその超越的経験は曖昧なものであって、それを解き明かしたいということなんでしょう。折口信夫にその問題意識を発見し、桶谷秀昭とのとまどいにその問題意識の具体化を見、太宰治の素直と困惑にその問題意識を忘れようとする日本人の欺瞞を見、磯田光一・吉本隆明・三島由紀夫に問題意識の曖昧さを見出そうとする。

     この精神史の流れが非常に狡猾な戦略であったことは、本の最終章の次の文章で明らかになります。「歴史上の事実として、本土決戦は行われず、天皇は処刑されなかった。しかし昭和二十年八月のある一瞬、ほんの一瞬、日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あい並んでホロコーストのたきぎの上に並んでいたのである」そして長谷川さんは、大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは真の神を得たのである、と本を締めくくります。

     そもそもの長谷川さんの「問題意識」なんですが、これを彼女はひたすら「謎」といい、文学的表現とぺダンティズムで曖昧にしていますが、同様の問題意識を長谷川さんよりずっとあとの世代の論客である佐藤健志さんが明確に提示していて、終戦の精神的瞬間が私たちをなぜ拘束するのか、ということについて、「思想としての本土決戦」がある、ということをいっているんですね。

     1945年、日本はアメリカとの命がけの宿命的戦争に敗れつつあった。それは本土決戦による一億心中の段階まで来ていたが、多くの将兵や被災者は、その心中を信じて亡くなっていた。だがその本土決戦は昭和天皇と鈴木内閣の決断、策動により回避される。日本人はそれ受け入れたが、しかし同時に、死者への後ろめたさのもと、虚妄の時間に入る精神状態を避けることはできなかった。しかも、戦後の繁栄は昨日までの敵国であったアメリカとともにあった。経済的繁栄が進めば進むほど、「虚妄」の時間という観念は日本人を亡霊のように支配し続けてしまう。しかし、本土決戦への選択自体が現実的には日本の破滅を意味するのであって、それを避けることが合理的選択でもあったわけですから、「虚妄」はより複雑で大きなものでもある。戦後そのものを虚妄とするこの観念は、未来の世代を殺そうとし(戦後世界そのものが虚妄なのだから)奇妙な破滅願望をもたらそうともする(過激な左翼とナショナリズムに共有されている)日本人はつまり、あの「本土決戦」に回帰しようとする精神性をもっている・・・。

     長谷川三千子さんの問題意識もだいたい同じことで、日本人を拘束する1945年8月の瞬間を解明しその拘束から解放したい(されたい)ということだと思います。しかしここにはある程度の世代感覚というものがある。佐藤健志さんは、「虚妄」にいつまでも拘束されている世代に「未来殺しされている」世代なのであり(私もそうですが)、「虚妄」からの解放とともに、「虚妄」に取り付かれている世代への「抵抗」ということも思想的テーマになってきます。そういう思想的テーマへの探求から、佐藤さんはたとえば3・11震災を思想的に考える、ということになったりするのですが、では長谷川さんの本に戻ってみて、長谷川さんが「1945年8月」をどう解決するかというと、その前後の歴史的事実を巧妙に整理し、三島や吉本の曖昧さを巧みに批判しながら、終戦のわずかな時間にこそ、昭和天皇と日本人はアメリカに刃をつきつけられる極限的経験を有していたということをもって、神学的な意味をもっていた、昭和天皇はイエスキリストになったのだ、というふうにしめくくるわけです。

     長谷川さんのこのレトリックはある意味非常に見事で、「本土決戦」の亡霊を退治することにもなるし、それどころか戦後民主主義を戦前社会の歴史的発展として全面肯定することにもなる。「戦後天皇こそ天皇の本来の姿だ」とする津田史学や半藤(一利)史学の要求にも充分、こたえることにもなります。しかし、佐藤健志さんや私の世代からすると、やはり単に「虚妄」を忘却するための詐術的な論理飛躍にみえてくる。何といっても、昭和天皇は事実問題として殉死しなかったからです。あるいは殉死すれすれの行為にも及んではいない。もちろん私は昭和天皇が死ねばよかったとするのではないのですが、長谷川さんの「神学的論理」からすれば、こうした「天皇の死の不在」は最大の解決不能の問題として立ちふさがるのではないでしょうか。

     こうして「1945年8月」の問題は依然として難問のままで残ります。佐藤健志さんのように、3・11その他、「未来の時間」からそれを解決しようとする営みもあるにはありますが(佐藤さんは戦後無数に映画に描かれた「ゴジラ」こそが「観念としての本土決戦のあらわれ」というおもしろい指摘もしています)しかし、これを「過去の時間」から解放する方法もありえるのではないでしょうか。僭越ですが西尾先生の水戸史学への探求はこの一例ではないかと思うのです。つまり長谷川三千子さんが終戦のときにはじめて完成されたという「天皇」はすでに完成されており、「本土決戦」は終戦時の時事的経験ではなく、日本人にすでに保有されていた精神的経験ではないか、という捉え方です。「1945年8月」を、「1945年8月」の次元でとらえつづけている長谷川三千子さんの挑みは、修辞学的には秀逸で戦略もあるのですが、文明論的著作としてあまりに痩せているといわざるをえないように感じます。

  2.  小太刀(随筆)の名手として涼やかで悠々たる文章を常とされる伊藤悠可氏が、西尾先生の渾身全霊の獅子吼の伊振りに感応し、同じく日本民族の一人と云う立ち位置で、熱く渾身の洞察を試みておられるように拝察し、眼を見張ったところです。
     伊藤悠可氏然り、また、前章にコメントを寄せられた方々然り、この講演会に参集された約三百人の聴衆は、それぞれに感応され、等しく新鮮な問題意識を抱えて帰途につかれたものと、この講演の意義というものをかみしめております。

     それにしても、伊藤悠可氏が、田中晃先生の「生哲学」の一節を引いてまとめとされたことも見事であると拝します。
     田中先生は、同書においても、日本民族の神話の「生まれて生む」と云う原始構造を見据え、そこから「神話は、天地開闢を物語る神の言葉であるが、それが民族の声として語られたことから、それはまた人の言葉でもあり、…」と考察を進めておられ、そのような道筋の先に「個人の人生観」の基盤となる「民族の世界観」と云うもの、その個人と民族、神話と国体と云うものの生き生きとした血の通った結びつきが闡明されてくるのではないかと予感するところです。
     そのようなところを、伊藤悠可氏から、或いは「坦々塾」の講義として、お聴きすることができれば、と密かにご期待申し上げるところです。

  3. 「戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るということをしていない」しかしこの意味が長い間分からなかったという伊藤悠可さんのご意見がありましたが、本当にそうですね、私も言葉だけで理解しているつもりになっていただけでした。長谷川三千子先生の『神やぶれたまはず』私は面白かったのですが、違和感を感じたのは分析的すぎるきらいがあるからです。折口信夫の十字軍への認識が間違っているとか、三島由紀夫の『英霊の声』の怒りは昭和天皇の「人間宣言」ではなく「ご聖断」であったなどの分析が読んでいると気になりました。八月十五日の「シーンとした国民の心の一瞬」というような国家喪失の悲しみをテーマにするのであれば、論者のとるべき態度は二つしかないと私は思います。その悲しみを追体験するか、或いは尊ぶかです。いうまでもなく、戦前から戦前を見るということは前者でありますが、それが非常に困難であることは西尾先生ご自身が『わたしの昭和史の』なかで戦争時代を当時の日本人のけなげな心を「思い出していない」「思い出すことができない」と傍点までふって強調しているくらいです。ましてや戦後生まれである世代ともなれば戦争時代を、敗戦の一瞬を思いだすことなど絶望的だと言っていいでしょう。しかしそれでも尊ぶことはできるはずです。深い悲しみに対して沈黙することはできるはずです。『神やぶれたまはず』にはそれが少ないように感じました(桶谷秀昭先生に対する敬愛はあっても)。というよりも、戦後からの分析的な目でみなければ本書は成立しないので、已むを得ないことかもしれません。戦前から戦前を試みる西尾先生とどこか相いれないのは戦前の歴史に対する態度が、思いが長谷川先生もそうですが戦後生まれの私たちとは根本的に違うからだと思います。

渡辺望 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です