阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十六回」

(8-21)教育は教育を受けること自体を自己目的とする行為であって、他の目的に奉仕する行為ではないのだ。

(8-22)教育とは他人に教えたり教えられたりする行為では必ずしもなく、自分で自分を発見する行為である。その妨げとなる障害や困難を取り除く諸対策は「教育問題」ではあっても、教育それ自体ではないのである。

(8-23)現代では、空想家ほど理想家のポーズをとりたがるものである。

(8-24)つまり、日本では目に見える範囲の同級生や仲間の間で差別されることには異常なまでに敏感なのである。しかし目に見えない処で、自分の知らない集団から差別されても気が付かないし、それどころか、自分も目に見えない集団に対しては残酷なまでに冷淡な扱いをして、さして恥じる処がない。抽象能力の弱い国民性に由来するのかもしれない。だから日本では学校単位の仕切りがごく自然な形態となったのであろう。学校間「格差」が発生して以来、重宝がられた所以である。

(8-25)しかし考えてみるまでもないが、一国の学問水準を高度に維持する大学院の数はそう多い必要はない。末端大学までが大学院を設置するのはナンセンスである。

(8-26)人間はみな同じという形式平等が進めば人間は多様さを失い、同類は頂点を目指して競い合うのが常であるから、横に拡がらず、垂直の単純な物理的な運動が始まる。下位は自分よりさらに下位のものをその存在の必要上欲求する。自分の優越感を正当化するために、つねに自分より下位のものを押し下げると共に、自分より上位のものを無意味に権威づける。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より

(8-21) P294 下段「自己教育のいうこと」より
(8-22) P297 上段「自己教育のいうこと」より
(8-23) p299 上段「自己教育のいうこと」より
(8-24) P310 上段から下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-25) P317 下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より

「阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十六回」」への4件のフィードバック

  1. 「あえてもの申す「大学院は少数でいいのか?」について」

     お久しぶりです、こんにちは。

     今回は些末な事柄について言及しますが、私も卒業している大学院について少し意見を述べたいと思います。

     私は社会学を専攻しておりまして、大学院は横浜にある公立の大学院を出ております。

     ここは修士課程までしかなかったために、私は博士課程は他の大学を探す必要がありました。

     その際、西尾先生にも進学先について色々と相談させてもらったのですが、その時に電話で、先生が「君はどこの大学院を出ているのかね?」と尋ねたので、私が「横浜の公立大学の大学院を出ています」と答えると、「なんだ、随分と立派なところを出ているじゃないか」と返してきました。

     その時は、「はい、まあ」と答えましたが、心の中では、「いやいや、そんなことは全くないです」と思っていました。

     なによりもまず、指導教授の質が悪すぎました。

     ただ東大の大学院を出ているというだけで、この大学は東大閥なので、ちょうど私の学部でゼミを取っていた指導教授が東大出身で、その人が採用担当で、他にも優秀な論文を書いた志願者がいたのに、この質の悪い人を採用したらしいです。

     大学院のゼミの授業を受けて驚いたのが、東大を出ているだけの指導教授が私よりも頭が悪いという事実を知った時でした。

     学術書の輪読をするのですが、「これどういう意味かしら?」と言って何度も授業が止まるので、業を煮やした私が、「そこはこういう意味じゃないですか?」と口をはさむと、院生ごときが私に意見しないでねという感じで不機嫌になるのです。

     こんな不毛な授業に付き合ってられないと、私は、他の授業の輪読もあって時間がないといいわけをして、そのゼミの授業では自分の論文の進捗を発表するだけの時間にしてもらいました(ろくなアドヴァイスもなくて、その時間もほとんど無駄でしたが)←読んでいた学術書は、後で私が1人で読破しました

     というようなことを書いてきて、私が何を言いたいかというと、大学は必ずしも実力でポストが決まるわけではないということです。

     世間的にはランクが高いと思われている大学にも、ろくでもない教授がいっぱいいるでしょう。

     それを考えると、本当に優秀な教授(優秀が故に疎んじられて地方に飛ばされている場合もある)の下で研究をしたいのなら、無名の大学の大学院にその機会があるかもしれないということです。

     例えば、失礼ながら西尾先生を例に挙げてさせてもらうと、なぜニーチェについて画期的で世界的レベルの研究をしている人間が電気通信大学という、学部でしか教えることが出来ず、大学院で教えられる人文系の学部のある大学に招聘されなかったのでしょうか。

     特に私が痛感したことは、つくる会が結成された時に、自分と思想が近い人間の下で研究しようと思ったのに、有力大学の人間が如何に少ないかということでした。

     社会科学系にしても、社会学は極左の巣窟のようになっていて、私が学位を取るのにどれほど苦労したことか。

     院の授業では、ソ連の批判をすると機嫌が悪くなり、中共の批判をしたら奇声を上げるような、思想的に狂っている(未だにマルクス思想の研究をしていた)人間がいるのです。

     私の指導教授ともどれほど衝突したことか。

     よく修士号を出してくれたと思います。

     博士号を取るなどは夢のまた夢、ほとんど不可能に近いでしょう。

     西尾先生は哲学を研究していたので、どうも社会科学系の現実がよくお分かりにならないようですが、社会「科学」などとは全くの嘘で、学会で有力な教授の思想に反する論文を書いてもいっさい認められないし、そもそも、社会学はレベルが低すぎるので、理解さえされないというのが現実なのです。

     上野千鶴子が東大教授になった事実を見ても、そのことは容易に想像が出来るかと思われます。

     西尾先生は著書の中で、東大文学部を痛烈に批判していましたが、あれは私に言わせると、西尾先生が東大の社会学研究室を買いかぶりすぎているのであり、もともとあの程度のレベルでしかなかったのです(哲学研究室とはレベルが違いすぎるのです)←東大の社会学研究室といえば、あの宮台真司も出ていて、博士号(たいした論文とは思わないが)ももらっています

     結論としては、基本的に、日本の文系(理系は違うと思いますが)の大学は、ランクが上がれば上がるほど教授の質は悪くなるので、良質の研究をしたかったら無名の大学の先生を捜すことである、ということになりますかね。

  2. 今、イタリアで、こんなことが起きていますよ。

    フランスF2(日本時間11月18日午前4時放送)、NHKワールドニュース18日朝(BS101ch11月18日午前6時放送)同時通訳
    ttp://www4.nhk.or.jp/P3102/x/2014-11-18/11/8345/

    要約
    (映像テロップでは11月12日)
    ローマ郊外にある移民申請者受入施設が襲われ、放火、投石された。施設には36名、内半数が未成年者。

    移民に反対するイタリア人男性コメント
    「俺たちは15ユーロの携帯を使っているのに、あの連中は700ユーロのセルラーを使っている。イタリア万歳だよ」
    きっかけはカフェでの小さな喧嘩だった。
    それが、溜まっていた移民への憎悪に火をつけた。
    移民に反対するイタリア人女性コメント
    「学校近くでも、(移民は)裸で外を歩きまわるの」
    放火、投石は数日間続き、警官隊と衝突している。当局は、移民を別の受け入れ施設に移送した。

    別のニュース記事
    ttp://www.euronews.com/2014/11/15/anti-immigration-protests-in-rome/

    要約
    ローマで反移民の抗議発生
    反移民を主張するデモ隊は15日、ローマに集まった。

    当局は地元住民から攻撃を受けている移民受け入れ施設から、木曜日(11月13日)から移民を別の受け入れ施設へと移送を開始した。
    イタリア人のコメンテーターは、加害者らは極右グループのメンバーだと移民排斥者を批判する。
    ローマのサピエンツァの労働者階級地区でも、地元住民と移民との対立が激化。ここは移民とイタリア人の戦いの最前線となっている。
    この地域の16000人の住民のうち、イタリア人は半数以下となっている。
    イタリアには、アフリカやシリアの紛争を逃れてきたと主張する亡命希望者が多数押し寄せている。2013年から15万人の難民を助けている。

    移民を入れない日本は、閉鎖的だの、島国根性だの、排他的だの、遅れているだの、訳知り顔ででいう移民推進派の意見を聞きたいですね。
    移民自身の犯罪や暴動、そして元の国民の移民排除運動。移民と国民との対立の激化で、これは既に局地的な内戦といえますよ。
    現にコートジボワールは、移民問題がこじれて凄惨な内戦に発展しましたから。
    歴史を振り返っても、移民が戦争の引き金になった例は数多くあります。というか、人類の戦争の歴史は、文化対立であり、異民族を混ぜたことが原因であることだということです。
    わが国はどうせすか?殺人、強盗、婦女暴行外国人犯罪が多発しているのに、焼き討ち騒動など一度も起きていません。
    ヘイトスピーチで在日は、大騒ぎしていますが、日本だから無事でいられるのですよ。
    海外なら、とっくに焼き討ちにあっています。

  3.  尊野ジョーイさん、変なことは書かないで下さい。

    当コメント欄1で、「例えば、失礼ながら西尾先生を例に挙げさせてもらうと、」以下に書かれていることは誤解を招きがちなので、あまり書きたくないことなのですが、ひとこと述べておきます。

     私は筑波大学、慶応大学、成城大学から教授ポストで招聘されました。いずれも辞退しました。自分の人生設計にプラスしないと思ったからです。簡単にいえば私は書きたい主題が山ほどあって、制約の少い、自由な時間を与えてくれる理系単科大学は最高の場所でした。もし私に財産があったら、私はどんな職にも就かなかったでしょう。

     私は人間にはそもそも自由はない、と言いつづけてきましたが、私ほど自由な人生を送った者もいません。人生のパラドックスの一つです。

     尊野さん、ご自分の物指しで人を測定しないで下さい。この人の世には貴方の思いもつかない理想、予想もできない価値観で生きている人もいるのですよ。

     尚私の『ニーチェ』は東大文学部独文科で新制度二人目、旧制度と競い合った最後の時代の「論文博士」(課程博士ではない!)です。

    学位はスポーツのようなものです。

  4. 百済国は白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗して九州まで逃れてくる…。

    強大な唐国の大軍の追撃を恐れ、九州各地に大規模な要塞(水城や山城)を築いて防衛体制を敷くわけだが、これを指揮したのは大海人皇子(後の天武天皇)であった。

    大海人皇子は当時、間違いなく九州に拠点をおいて、その拠点たる九州を守ろうとしたのである。

    もっとハッキリ言えば…、「百済国の九州王朝」を、唐の大軍の攻撃から必死で防衛しようとしたのである。

    すなわち!
    7世紀の歴史の舞台は、奈良や難波(大阪)ではなく! 九州だった!のである。

    大唐国が周辺諸国を侵略しまくった東アジアの地政学を念頭におけば…、
    『日本書紀』も、九州の大規模な防衛体制も、すべては大唐国の侵略的な攻撃からの「防衛」であり「対策」であったことのである。

    もっとハッキリ言おう。
    『日本書紀』は、大唐国に対して、「“日本国”は“百済国”ではありません!」 ということを説得し弁明するために書かれたのである。

ウミユリ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です