全集第12回刊行記念 西尾幹二講演会

昭和のダイナミズム
――歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのか――

9月26日(土)午後2時~5時
ホテルグランドヒル市ヶ谷
℡03-3268-0111
入場料¥1000 懇親会5時から¥5000
ともに事前予約不要

主催:国書刊行会(℡ 03-5970-7421)

「全集第12回刊行記念 西尾幹二講演会」への5件のフィードバック

  1. 「昭和天皇七つの謎」”天皇周辺の赤いユダ”は、従来唱えられてきた近衛周辺のコミンテルンの影に加えて、天皇側近の木戸幸一をハブにして都留重人、ノーマン、更には軍、それも参謀本部の中枢にまで赤いユダがはびこり、敗戦から革命へと指令のもと敗戦工作を妨害したという身の毛のよだつ史実を叙述したものだ。
    今年3月、日本経済新聞の「私の履歴書」に古川貞二郎内閣官房副長官が登場し、盛んに村山富一を「人格者」として持ち上げた。官房副長官は官房の事務次官に相当し、古川は5人の総理に歴代最長8年7ヶ月にも及んで仕え官邸を仕切った人間だ。「私の履歴書」の記述を以下に引用する。

    1.連載第13回”官房総務課長 法案根回し、与野党奔走 村山氏の誠実な人柄に敬意” 2015/03/13付

    「元総理の村山富市さんは当時、社会党の社労委理事だった。村山さんは私たちの説明に誠実な態度で熱心に耳を傾けてくれた。村山さんの人柄に接するたびに、私は何かさわやかな気持ちになった。

     ある自民党議員が出版した本に、村山さんが世間の誤解を受けるような記述があった。若手議員だった丹羽雄哉さんが『これは大変だ』と心配して私に連絡してくれた。そんな書き方では与野党の信頼関係にも傷がつく。

     この一件は社労族の有力議員だった小沢辰男さんが乗り出して落着した。村山さんは終始ひょうひょうとして、恨み言の一つも言わなかった。優れた人格の政治家だと深い敬意を感じた。」

    2.連載第19回 ”内閣官房副長官 村山内閣で危機管理 破防法適用決断の舞台整え” 2015/3/19付

    「平成7年(1995)2月、内閣官房副長官を7年4カ月務めた石原信雄さんが東京都知事選挙に出馬するため退任した。村山富市内閣の五十嵐広三官房長官から『村山総理の意向です。ぜひ後任の副長官に』と要請された。

    「村山総理とは厚生省の官房総務課長時代から面識があり、その人柄もよく知っていた。私は優れた人格者である村山さんを微力ながら全力で支えようと決意した。

     私が副長官になったのは阪神・淡路大震災の38日後。それから間もない3月20日に国政の中枢を狙った地下鉄サリン事件が起きた。3月30日に国松孝次警察庁長官の狙撃事件が発生。6月21日には函館ハイジャック事件があった。

     着任間もない私には苦しい日々が続いた。内閣危機管理監もまだ置かれておらず、官邸の24時間情報収集体制もなかった頃である。

     まず、内閣危機管理センターが設置され、また24時間情報収集体制も整備された。当時は消防ホースも自治体によって規格が違い、災害応援に行っても対応できない状況だった。自衛隊と自治体との協力体制も整っていなかった。

     関係省庁と協議し、必要な法令を改正して危機管理体制の整備にあたった。内閣危機管理監は次の橋本龍太郎内閣の時に設けられた。私は自らの経験を踏まえ、橋本さんにそのことを強く進言した。

     私は危機管理監の仕事は大きく二つあると考えていた。一つは危機的状況時の対応。もう一つは予防である。世界で起こる様々な災害等の実情をいち早く収集し、それを基に日本の防災体制を整備しておく仕事である。

     阪神・淡路大震災で村山内閣は情報が上がってこなかったため「初動が遅れた」と批判されたが、危機管理や復旧・復興対策では相当な成果を上げたと思う。これは村山さんの『思う存分にやってくれ。私が責任を取る』という姿勢に負うところが大きい。

     これに応えて野中広務自治大臣兼国家公安委員長、亀井静香運輸大臣、橋本龍太郎通産大臣、小里貞利震災担当大臣、野坂浩賢建設大臣ら名だたる閣僚が一丸となって村山さんを支え、必死で復旧・復興対策などに取り組んだ。

     村山さんは私心のない人格者で、政治家はいかに人格が大事かをしみじみ実感した。

     オウム真理教に対する破壊活動防止法に基づく団体規制の問題は村山内閣の宮沢弘法務大臣の下で周到な検討を重ねていた。宮沢さんはこの問題に真摯に取り組まれた。

     宮沢さんとは折々、電話で連絡を取りあっていたが、ある時、私に『ひそかに村山総理にお会いしたい』と電話があった。私は普段は閉じている官邸と総理府の間の坂下にあった入り口から宮沢さんを招き入れる手はずを整えた。総理との会談で宮沢さんは法務省の検討結果を報告し、破防法を適用することが適当である旨を伝えた。

     村山さんは本来、こういう問題には極めて慎重だったが、この時は信頼する宮沢さんの結論を尊重し、慎重な運用を条件に破防法の適用を認める重い決断を下した。

     ところがその後、有識者で構成する公安審査会が破防法の適用を認めず、宮沢さんの苦心も村山さんの重い決断も実を結ばなかった。非常に残念な結果だった。」

    3.連載第20回 ”戦後50年 村山談話朗読異論なし 熱い思い静まり返る閣議室”2015/3/20付

    「平成7年(1995)は戦後50年の節目の年だった。国会では衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする」との趣旨の決議が行われたが、案文をめぐり与党内でも自民党と社会党の間で調整が難航した経緯があった。

    村山富市総理には国会決議より踏み込んだ内容の総理談話を出したい意向があったと思う。村山さんの意を受け外政審議室長の谷野作太郎さん(後に駐中国大使)が心血を注ぎ案文作成にあたった。調整の段階で私も案文を見た。

     談話案には「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」の言葉が入り、アジア諸国の人々へのおわび、とりわけ未来に向かって平和の理念を推し進める内容で、私はこれ以上望めない談話案だと思った。橋本龍太郎さんの意見で「終戦」を「敗戦」に修正したと、後で村山さんに聞いた。

     8月15日の閣議に談話案を諮ることになった。官房長官は五十嵐広三さんに代わって同じ社会党の野坂浩賢さん。閣議で談話案を読み上げるのは事務副長官の役目。私はかつてない緊張感を覚えた。

     50年前も、この日の朝のように雲一つなかった。近所の家で村の人たちと終戦のラジオを聞いたことを思い浮かべた。私は誠心誠意の朗読で何としても無事に閣議決定に持ち込みたいと考えた。

     その時、閣議の司会役である野坂官房長官が「古川副長官が談話案を読み上げますので、謹んで聞いて下さい」とわざわざ発言した。普通は官房長官が閣議の進行で「謹んで」というようなことは言わない。野坂さんも同じ思いなのだと心が熱くなった。

     私は丹田に力を込め、厳粛によどみなく談話案を読み上げた。閣議室は水を打ったように静まりかえり、しわぶき一つ聞こえなかった。閣僚は腕組みしながら聞き入っており、異論は全く出なかった。

     「戦後50年の集い」は当初、与党内の折り合いがつかず、野坂さんも「なかなか難しいね」と言っていた。ところが一転、10月4日の与党党首会談で実施が決まり、驚いた私は太田義武首席参事官(後に環境次官)に国立劇場で空いた日がないか至急調べるように指示した。

     幸運にも12月18日が清掃のため休館で、何とか会場を確保できた。しかも、この日は日本の国連加盟が決まった日。私は強運を何ものかに感謝したい気持ちだった。当日は天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、アジア各国の民族楽器の合同演奏、各国青年の平和の誓いなど、未来志向の明るいすがすがしい集いを開催することができた。

     村山内閣は従軍慰安婦問題にも誠実に取り組んだ。アジア女性基金の設立では、与党3党の合意で償い金を国庫支出ではなく、民間の浄財から拠出することが決まった。当時の五十嵐官房長官はこの問題に非常に熱心で、私に「何とか政府のカネを出す方法はないものか」と迫った。

     私は医療・福祉事業を人道事業としてやることを提案した。五十嵐さんは大変喜ばれた。女性基金の事業は償い金と医療・福祉事業、総理の手紙の3本立てで進められた。

     アジア歴史資料センターは行政改革の中で新組織を作るのは困難だったので、種々工夫し、国立公文書館の一部門として発足させることにし、村山さんもほっとされた。」

    これを書いた古川は、皇室典範改正で女系天皇制容認の方向づけをした人物の一人である(「WILL」6月号「村山談話の正体」櫻井よしこ)。

    富田メモを鼓吹した日経新聞が、集団的自衛権容認・安保法制制定が日程に上り、戦後70年安倍談話が予定されている今年に照準を合わせ、官邸を仕切った怪しげな人物に村山礼賛論を書かせ、村山談話を神格化しようとたくらんだ連携プレーであることは間違いあるまい。日本の官界、マスメディアは深い闇の中にあると見るべきだろう。

  2. 我が国に、とくに我々日本民族の歴史というものは厳密に言って存在いたし
    ません。

      一般に言われているように「日本書紀・古事記」をもって日本の史書として
    いますが、これらの中の「神代の巻」という伝承神話は、旧満州及び今日の韓
    半島方面における史実の断片の神話伝承化であります。

      高天原(こま)= 後の高句麗の蓋馬(こま)大山(大古馬嶺山)

       蒼みが原   = 黄海(古名が蒼海、前漢が滄海郡をおいた所の南海に
               存在する海)

    スサノウノミコトの大蛇退治の伝承
              = 鴨緑江流域に於ける檀君王倹の邑樓(おろ・うむる)
    八部族の平定が日本に伝えられ、スサノウノミコトの
    ヤマタノオロチ退治と寓話化されたもの

     数えあげたらきりがない程、満州及び韓半島との係わりあいが多く、書記・
    古事記を全て今日の日本列島に位置づけて語ることには無理が出てきます。

     なお、日本書紀そのものが百済本紀の引き写しとも言われる故、或いは、神
    武東遷の伝承そのものが百済の始祖・尉仇台の遼西方面からの東遷の史実が色
    濃く投影されている可能性があります。

      又、我が天武朝が楽浪朝鮮(馬韓)の後身であったこと、先の天智朝とは何
    の繋がりもないことなども、日本の歴史家達は口をつぐんでいます。

     何とぞ先生におかれましては現地の歴史にお詳しいことと存じますので、こ
    れらの史実の実証の程をお願い申し上げます。

      近代的国家行政区分などによって歴史を解釈することはとんでもない間違い
    を犯しているのであり、いたずらに偏狭なナショナリズムや偏見・独善に陥り
    易い傾向にあること、先に小生が物事の真実も見えてこないとした所以です。

      かつて、日本がその偏見と独善的な歴史解釈から誤った指導理念を生み出し、
    近隣アジア諸国なかんずく御国・韓国に対し、いかなる結果をもたらしたか、
    小生は、過去の歴史が雄弁に物語っていることを知る一人の日本人であります。

     日韓は同祖であり、我が国の古代史を語る上に於いて垣根を作ってしまって
    は、いたずらに混乱をきたし、ますます日韓の感情的軋轢をつのらせるのみ…
    と思惟しております。

     このように考えている民間無名の存在も居ることを何卒ご理解下さい。

                                      不備

  3. スレ違い、ご容赦ください。
    西尾先生は、角川から出版されている、ヘレン・ミア~ズさんの「アメリカの鏡:日本」と云う本をご存じでしょうか?
    1948年にアメリカで出版されたもので、日本語版も、読者の「絶対、廃刊にするな❗」と云う強い支持のもと増刷を続けています。
    訳者の方は、途中何度も泣いたと書いておられます。
    西尾先生なら号泣ものやなwwwと思います。
    もし、まだ読んでおられないようであれば、是非、是非と思います。
    いつも悲憤慷慨されておられて、お体が心配です。ご自愛賜りますよう。

  4. 3番、石原様
    西尾幹二様に変わりお返事を。
    「ヘレン・ミアーズ」のことはすでに著書で何回も取り上げておられます。
    アメリカの英知に驚愕!?されている印象でした。違っていたら
    ご本人より訂正いただきましょう。私も新刊本で拝読。

    残念なことにミアーズ自身は日本の敗戦後の復興と繁栄はみてるはずだが
    直接の対面はなかったはず。かなっていたら出版されてたでしょう。

    2015年、9月の講演会は出向くつもりです。
    以前に三島由紀夫関連シンポジュウムで参加した同じ会場のよう。
    そして三島由紀夫のご自宅にも西尾様の訪問、著書もありました。
    いろんなところで関連があり興味深い。

    このところ何回か話題にされている「古田博司」筑波大学院教授との
    対談も実現したらいいなと思っています。

    日本の外務省、政治家に対する基礎教育の場に座学コースを
    組み込んでもらいたい。すでにあるのかどうかわかりませんが
    講師の筆頭に浮かぶ。しかし毎回人選で大波乱はある予感。

    別ネットで今の若者は日米の戦争があったこと知らない人もいることに
    大ショックを受けた人の話を紹介していた石原慎太郎さんの話題が
    ありました。ほんに難しい時代。

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