平成27年 真夏の夜の自由談話・1

ユネスコ歴史遺産登録問題

「平成27年 真夏の夜の自由談話・1」への9件のフィードバック

  1. 日本國内の韓國問題についての論者で、まともなのは呉善花・古田博司
    兩氏(その他・・・)との、先生のお言葉に完全に同感です。坦々塾で聽い
    た、御兩所の講演をよく覺えてゐます。
    戰時中、先生の四つ違ひのお兄樣は中學生で徴用され、小學生の先生は
    免れたとは、當然とはいへ、考へさせられるエピソードですね。「慰安婦」
    の嘘を朝日新聞が認めたので、韓國が今後振りかざして來るのは、「徴用
    工」ですか。さうかもしれませんね。アウシュヴィッツと竝んで軍艦島!!
    あの國に關して、日本として一番大切なのは、仰せのとほり「被害を受けないための對策」ですね。呉善花さんも最近少し考へが變つてきたやうですね。以前はたしか、韓國人は日本に相手にしてもらへなくて、淋しいので、しきりに絡んでくるのです。日本の皆さん、韓國人と本氣で喧嘩をしてやつて下さいといふやうなことをおつしやつてゐたと記憶しますが、今では、なるべくかかはりを持つなと忠告されてゐるやうですね。
    私は「世界文化遺産」について、7月6日にパソコンで、某紙に次のやうな要旨の投稿をしましたが、ボツになつたやうです。

    ユネスコとは國連の一下部機關。そして國連とは「連合國」といふ英語の誤譯「國際連合」の短縮形で、日本の舊敵國の集り。國民がその實態に氣づかぬやうにとの配慮から、外務省が意圖的に誤譯したもの。
    そんなところの御墨付が何故ありがたいのか分らないが、それでも、頂戴
    するのは容易でなく、韓國との間で毎度お馴染みのスッタモンダがあり、い
    つもの如く完全にしてやられた。
    佐藤地ユネスコ大使は委員會の演説で 、朝鮮出身の徴用工について、
    ”there were a large number of Koreans and others who were brought against their will and forced to work under harsh conditions”と言つた。
    《これは、本人の意志に反した連行と「強制勞働」の正確な英譯だ。AIR FORCEは空軍。by forceは「腕力で、力づくで」の意味。forceには物理的・肉體的な力の概念が含まれる。
    英會話教室で、「強ひられて」の意味のつもりで ”I was forced to~”と言つたところ、教師は笑ひながら、私の首ねつこを押へ、腕をつかんで引きずるマネをした。つまり 、暴力でやらされたみたいで、強過ぎるといふ注意だつた。》
    岸田外務大臣は、大使の表現について「『強制勞働』を意味するものではない」と説明した由。
    《”were forced to work”(勞働を強制されたといふ意味の動詞)は “forced labour ” (強制勞働といふ意味の名詞)ではないから差支へなしと言ふのだらうか。》
    一方、韓國の外務第2次官は「朝鮮半島出身者の勞働に強制性があつたと日本政府が認めた」との認識を示した。
    《私の乏しい英語力からすれば、明かにあちらさんの解釋の方が正しい。》
    更に、岸田外務大臣は「日本政府の發言を日韓間の財産請求權において(韓國政府が)利用する意圖はないと理解している」と「クギを刺した」(以上、いづれも本紙7月6日一面による)。
    自分一人が勝手に「理解」して、なんの意味があるのか。あの國や、その向うの國には、嚴しく一筆書かせ、署名させても、アッサリ反故にされること屡々である。まして「解決したと理解した」り、「なかつたと確認し」たあとで、蒸し返され、煮え湯を飮まされたこと、何十囘か、何百囘か。
    永久に懲りないのだらうか。

  2. ユネスコ大使の英語での発言は、半島出身徴用工について、まさに銃剣で追い立てられ、鞭をふるって働かされる奴隷労働者を容易に想像させますね?
    やっとの思いで「朝日新聞」に従軍慰安婦の捏造記事を認めさせ、いささか風向きが変わってきたかと思いきや、この外務省の発言にはまったくザルで水をすくうような虚しさを感じてしまいます。
    なぜ、~mobilized to work とか、~conscripted to work とかの表現(動員、徴用)で対応できなかったのでしょうか?これらの言葉であればもともとagainst thei will の意味を含んでいますから、この部分をつけ加えても無害だし、under harsh conditions を足してもいいでしょう?こういう表現だったらば、あとでいくらでも説明可能で、つけこまれる隙はないと思います。
    恐ろしいものですね、~forced to work と言ってしまった以上、外務省の対外広報予算の700億円をまるまる使って巻き返しを仮に図ったとしても、日本人は自分の言ったことを認めないのかとか、嘘つきとか、二重基準とかさんざんやられるのがオチで、逆効果になるでしょう。外務省は大使のステートメントを出す前にきちんと内部の摺合せをしたのでしょうか?
    慰安婦問題でも、「心身にわたり癒しがたい傷を負われた~慰安婦の方々」という河野談話の英訳は、「immeasureble and incurable physical and psychological wounds as comfort women」となっていて、英訳を目にすると、きわめて具体的な、傷だらけで、精神に異常をきたした女性像、まさに sex slave が浮かび上がります。
    日本語は雰囲気をつたえる言葉?欧米語は事実をつたえる言葉?上記の英訳はとくに間違っているわけではないにしても、つたわってくるものが違います。そして世界を独り歩きしているのはこれらの横文字の方です。
    「日本語の世界は日本文化の世界だ。だがその外側には、文化を共有せず、翻訳によってずれた解釈がなされるパラレルワールドが存在しているのだ」
    と、正論6月号「慰安婦から憲法までー異言語パラレルワールドの陥穽」で山岡鉄秀氏が述べておられます。
    独り歩きしているものを修正するには莫大な努力(と費用?)がかかります。あることを言う前には十二分に吟味するクセをつけておかないと、世論戦、プロパガンダ戦には絶対勝てないでしょう。

  3. 日本にとっての災厄であるこの「朝鮮問題」の本質はこの講演で名の挙がった3人を含む自民党政治家らの、ひいては多くの反日日本人等の、「日本人の問題」です。朝鮮人、韓国人がどんな無体や馬鹿を言ってこようが、受けて立つ外務次官を含む日本人すべてが西尾幹二先生のように、世界的視野に立つことが出来、誇りある日本人としての振舞を知っていれば朝鮮問題は自然に消滅します。岸田外相の「強制労働とは言っていない」と云う2枚舌は彼に日本人としての誇りがないからです。菅官房長官の内向き発言は彼に国際感覚がないからです。日本の戦争犯罪を認める政府HPを安倍総理は放置しています。彼らの内心に自恃と気概と対外発信能力が欠如していることが最大の問です。例えば、米国に同じことを朝鮮人が持ちかけたとしたら米国人がどう振舞うか目に見えています。中国、タイ、ベトナム、フィリピンですら同じことをされても同じです。日本だけが世界で最も仕掛けやすい虐めやすい国になってしまったのは矢張りWGIPの大規模な日本人洗脳工作の成果でしょう。

    せめて与党代議士だけでいいから、1)大東亜戦争は歴史的意義のある戦いで日本人も朝鮮人も共に雄々しく戦ったこと、2)36年間の統治で日本が朝鮮を近代化したこと、3)従軍慰安婦のウソには耳を貸せないこと、4)ソウルの日本大使館への非礼は許されないこと、などの当たり前を正々堂々と口をそろえて朝鮮、韓国人に言えるようになれば「朝鮮問題」はたちまち消え去ってしまうでしょう。

  4.  little piper 樣    

    街の英會話教室程度の語學力しかない私にとつて、お説はいい勉強になり
    ました。そして、「~forced to work と言つてしまつた以上、外務省の對外廣報豫算の700億圓をまるまる使つて卷き返しを假にはかつたとし
    ても・・・」との仰せに首肯しました。覆水盆に返らず、ですね。

    かういふ信じられないやうな愚考が、日常茶飯事のごとく繰り返されるの
    は何故でせうか。
    明治の、たとへば日清戰爭に到るまでの日本の政治家や外交官たちのこと
    を調べてみると、それほど愚かであつたとは思はれません。私の知識は乏
    しく、頭にあるのは、主として陸奧宗光やその周邊の人たちですが、あの
    連中は歐米列強のワルどもと、驅引き、騙し合ひをやつても、決してひけ
    をとらなかつたやうな氣がします。敵の手の内を讀んで、裏をかいたり、
    内壕、外壕を埋めてから交渉を始めたり、お見事!と手を打ちたくなるや
    うな事例にはこと缺きません。
    支那、朝鮮を相手にしても同樣で、相手の汚い、卑劣な手口(西尾先生が
    おつしやるやうに、信義などのかけらもないこと、今と全く同じでした)
    に、してやられることは滅多になかつたと思ひます。逆に、ハメたことは
    あります。
    陸奧は、自身の大いに輕蔑した「輿論」なるものさへ、徹底的に活用しま
    した。これが彼の成功の最大要因だつたでせう。

    さういふ人たちと、(私がもの心ついた)昭和30年頃の要路の人達を比
    べて、どうして日本人はこんなに駄目になつたのかと、眞劍に考へました。
    マックアーサーは、日露戰爭の時の日本軍人と、大東亞戰爭時の日本軍人
    を比べて、「とても同じ國の軍人とは思へない。前者は、たとへ教育のな
    い者でも、肝腎の點を判斷する能力・常識があつた。しかるに、後者は、
    どんなに立派な教育を受けた者でも・・・」と言つたさうですが、これは、
    ヒントになるやうな氣がしました。

    大した結論が得られたわけではないので、ここでは觸れません。
    ただ、昭和30年からしても、日本人が雪崩を打つ如く墮ちつづけて今日
    に到つたことは間違ひありません。當時は、これが底と思つたのですが、
    現在から顧みれば、仰ぎ見ることばかりです。この先どこまで?

    陸奧宗光と、今の外務大臣やユネスコ大使を比べると・・・否、そんな、
    御先祖に對する冒涜は、八つ裂きにされても出來ません。マックアーサ
    ーならずとも、これが同じ!? いや、そんな筈はありません。よその
    天體から來たエイリアンが日本人の振りをしてゐるに違ひありません。
    日本人なら、”They were willing to come and work” と言ふくらゐの「プロパガンダ」を知つてゐる筈です。
    あのユネスコ大使の顏、誰かに似てゐると思ひ、考へたら、小淵優子元ナ
    ントカ大臣でした。何も考へない(本人は考へてゐるつもり)と、ああい
    ふ顏になるのですね。ああいふ方々を重要なポストに就けた責任者もエイ
    リアンに違ひありません。

    このまま、エイリアンに支配され續けて、亡國の憂き目を見るのでせうか。

  5. 虚構史観誕生 ― アカデミズムの犯罪 ―

    1910年の「日韓併合」と相前後して始まった。

    「皇国史観」に立脚し「日鮮同祖論」などを根幹とし、史学者達が日本の植
    民地支配に都合の良い歴史解釈を始めだし、やがてその所産として、虚構史観
    の極みである「朝鮮民族史」を、日本人史学者達が誕生させるに至った…とい
    うことである。

     当時、李朝下における一大碩学・李星湖(り・せいこ)氏の掲げた「朝鮮民
    族の主体的発展の足跡、及びその歴史解釈と位置付け」は、時の日本国家権力
    に庇護された史学者達によって、徹底的に誹謗・否定・罵倒され尽くした。

    さらに、史書の改竄と偽造、遺跡の破壊移動と持ち出しがなされ、今日現在、
    我々が当たり前の常識と見なしているがその実体は全くの虚構でしかない誤っ
    た「朝鮮民族史」が、当時の日本の歴史学者達によって形成されるに至ったの
    である。

      しかし、戦後、歴史が自由に研究されるようになると、もはやかつての「皇
    国史観」や「日鮮同祖論」など、理論的にも実践的にも、真面に受けとめ難く
    なったことは言うまでもない。

    が、だが、しかし、である。日本の権威達が創作し残してきた「朝鮮民族史」
    は、今日現在に至るまで放置され、それが現地に根付いてしまったままなので
    ある。

    この事実は、現在の日本人も朝鮮・韓国の史学者達も、ごく一部の人々を除
    く他は知り得ていない。かつて朝鮮史研究を独占し、支配体制に都合の良い解
    釈を事とする日本の学者達は、常に二つの側面と一つの核心において朝鮮史観
    を組み立てていった。

     この二つの側面とは、即ち、一つは「北部朝鮮中国支配説・漢帝時の郡県進
    出」であり、また他の一つは「南部朝鮮日本支配説」で、二つの共通の核心と
    は「侵略史観」或いは「侵略論」であった。

    朝鮮半島は何も日本が植民地として先鞭をつけたのではなく、或る時期、中
    国の漢帝国の武帝の時代から、楽浪郡を始めとする四郡の進出によって支配さ
    れたという前提のもと、これらの郡県の割り出しに明け暮れ、その調査に躍起
    となり、以後、日本の学者達により、半島の歴史はこのようにして始まった…
    と語られ出した。

    漢の郡県中、最も有名なのが楽浪郡の位置付けである。しかし、この楽浪に
    関する文献資料は、極めて断片的に混乱したものしか残存していないため、中
    国側では6~7世紀ごろの史家達によって論じられていたが、この郡を今日の
    平壌を中心とする地方と決定づけたのは、日本の植民地支配体制が整ってから
    の話であったと指摘されている。

    このような大胆な、かつ驚異的と言うか、むしろ「犯罪行為」とも言えるよ
    うな改竄偽造がなされたのは、1916年、朝鮮総督府古跡調査団が、平壌付
    近の木槨古墳群を発掘調査することによって始まった。

    1923年から24年にわたる発掘調査は、学術調査に名を仮りる盗掘以外
    の何ものでもなかったと韓国史学界から指摘されており、続く1924年と2
    5年における旧東京帝大の第二回学術調査と称されるものがあり、この時の調
    査も世上の顰蹙を買い、むしろ破壊に等しい行為と朝鮮史学界から言われてい
    る。

    今、ここに、これらの行為をなし、「今日まで誰からも指摘されず、誰から
    も裁かれず」、権威の原点の如く見なされている学者達の名を列記してみよう。

    先ず、文献史学への徹底的改竄偽造をなし自らの独自の史観形成をなした人
    物は、旧帝大の今西龍・白鳥庫吉・鳥居龍造・津田左右吉の各氏、及び池内宏
    ・浜田耕作・掛川亀五郎の各氏等であり、又、地理学の面では小藤紋次郎氏が
    挙げられる。

    旧帝大の権威・小藤紋次郎氏は、今日の朝鮮半島内で不明・不詳であった山
    岳・河川などの名称を、旧満州方面に存在した名称を持ち込んで新たに附名し
    て回ったと言う。このことは、小藤博士と郷里を同じくする存命の方からの聞
    き伝えである。

    ちなみに、北朝鮮慈江道・両江道に存在する山岳で「蓋馬高台」があるが、
    これを高句麗の蓋牟(馬)大山に比定して語ることは許されない。この名称こ
    そ、小藤氏が附名した代表的なものであり、又、韓国忠清南道方面にも附名が
    多々見られる。この事実は、朝鮮・韓国の史学者も意外と知らないようである。

    極論するならば、旧満州方面の地形・地名を無理矢理、朝鮮半島に押し込ん
    だ感がしなくもない。そこに大きな歪みが生じてくる。このことは、中国史書
    や三国史記の記述の詳細な検討をすれば、事実が判明してくる筈である。

    今日、日本で古代史研究に取り組んでいる多くの人々の間では、過去にその
    ような行為が存在したことを知らず、或いは知ろうとせず、改竄偽造されて構
    築された史観を鵜呑みにし、それを前提として古代東アジア史を眺める故、ボ
    タンの掛け違いと同じく、何処かで無理な附会を事とする羽目となる。

    正しい歴史像は如何なるものであったのか、又、正しい朝鮮・韓国問題への
    認識と再確認がなされぬまま、「朝鮮民族史」を語る故、それは過去の悪夢で
    しかあり得ない「他律論・外因論・停滞論」に埋没し、様々な形や解釈が投影
    され、極めて癒し難い存在となってしまっている。

    しかし、斯く言うと、「史料批判」・「朝鮮蔑視」に繋がり、我が国では即
    座に反発・罵倒となって返ってくるのが落ちであろう。

    改竄偽造の不名誉な第一人者が今西龍氏であり、彼の言動は当時の朝鮮の実
    学者達に、やり場のない深い陰りを宿さしめ、その怨念の感情は今なお引きず
    るに至っていると言われている。

    「北部朝鮮中国支配説」で漢の郡県をことごとく今日の朝鮮半島内に位置付
    けた人物が今西龍氏であり、その病根的史観をそのまま鵜呑みにして古代東ア
    ジア史を語り研究しているのが日本の学者達である。

    では、この「北部朝鮮中国支配説」に関して、解放後の朝・韓史学者の真摯
    な意見はどのようなものであろうか。

    先ず「楽浪郡」については、遼寧省大凌河以東・渾江流域までであり、今日
    の平壌付近には置かれていなかった。

    又、「真番郡」は卒本(ソボフル)以東、豆満江まで、これは後年(前82
    年)楽浪に併合され、為に楽浪郡は東に郡域が拡大された。そこで「東部都尉」
    と「南部都尉」の二つに分治される。

    さらに又、「玄莵郡」だが、この郡は移動はなはだしく、「遼東郡」と共に
    沿革は一定しなかった。最初は遼寧省新浜県の西(第一玄莵)に置かれたが、
    扶余・高句麗の攻略に遭い、郡治を今日の瀋陽市東郊に移す(第二玄莵)、次
    いで遼陽市以西に移動(第三玄莵)。玄莵は三度移動している。

    「臨屯郡」、これは「遼山=吉林哈達嶺」南麓一帯。後、玄莵に併合され、
    「玄莵郡華麗城」は今日の遼寧省平頂堡。

    これら一連の漢の郡県設置とは、旧満州経略を言うものであり、今日の朝鮮
    半島進出を指すものではない。この郡県設置の見直し一つにしても、「朝鮮史
    観」再考の実証になる筈である。

    暗雲低くたれ込めて、豚(政治家)肥え、草(国民)枯る秋津州(しま)。
    世相の先も見通せず、祖国の命運はた如何に、外史、病あつかりき。
                               御免蒙ります。

  6. 文献史学について一つの問題提起

      今、ここで無名の存在である私が云々するまでもないが、歴史を調べるとい
    うことについては、あらゆる分野における学問知識や、それらの応用テクニッ
    クなりが、適宜駆使されていくわけである。これが単に一つの史実の具体的な
    探求となると、そのアプローチ手法は大きく分けて二つに絞られるようである。

    即ち、その一つは「比較文献史学」、又、その一つは「考古学」である。こ
    れらのうち「考古学」は門外漢なので置くとして、他の一つ「文献史学」につ
    いて、ここに些かの問題を提起してみたい。

     今日、我が国で「文献史学」まがい?に名を借り、最も論争のかまびすしき
    問題は「邪馬台国論争」をおいて他にないのではなかろうか…。

      論争は三百年を閲(けみ)し、研究され詮索され尽くされている筈にも拘わ
    らず、何故に共通の観点に立っての見解が出ないのであろうか。それは『倭人
    伝』に対比させるべき文献が、我が国に存在しないことに先ず起因している。

    又、同時代成立の文献を最重要視するという一般的伝統的手法として、お隣
    の朝鮮・韓国に文献を求めてみても、十世紀以前に遡っての文献は、両国にも
    存在していない。それ故、必然的に、勢い中国の史書古典中に拠らざるを得な
    いということになる。

     だが、中国の史書といっても、古く遡れば遡るほど、その叙述内容は断片的
    であり、かつ前時代成立の記述を踏襲したもの、或いはそれに撰者自らの「主
    観」が加えられたものが多く、あくまでも「実地踏査」の記録ではない。

     そもそも、文献史学では同時代成立期の文献資料を重視し、従って、研究家
    達は挙(こぞ)って『倭人伝』を記載している中国の史書を突き合わせて、そ
    の人なりの見解を展開させているが、この従来の手法は、最も危険な研究姿勢
    となるのかもしれない。何故ならば、古いものほど、或いは古い記録ほど実地
    踏査の結果をそのまま書いたものとは言い難い傾向が見られるからである。

      「邪馬台」或いは「倭」の問題を探索する上で、極めて重要視される問題が
    あるが、その問題についての記録たるや、実に断片的であり、かつ粗雑なもの
    でしかない。

      その一例は何かというと、ここでは周知の「楽浪郡」について問題提起をし
    てみたい。この郡についての中国の古代王朝史中には、極めて断片的な記述し
    か見られず、推定していく上で至極厄介な存在となってくる。故に先に同時代
    成立の古文献重視は危険を孕(はら)むとした所以である。

     このことは、そのような古文献よりも、より新しい時代の実地踏査記録を拠
    り所とした方が正しいのではないかと思われる。

     「邪馬台」或いは「倭」を語る上で、極めて重要となってくる「楽浪郡」に
    ついて、十九世紀末から二十世紀初頭に撰された文献に『長白叢書』というも
    のがある。この文献は清朝末期の学者・張鳳台氏によって撰され、『長白山崗
    志略』と『長白征存録』の二編からなるものである。又、もう一書は、民国時
    代の人で魏声和氏が撰した『吉林地志・鶏林舊聞録』という文献がある。

     これらの文献は皆「実地踏査記録」であり、かつ「満族」に拠って撰された
    ことに重要性がある。その他に、清代の章学城という学者の文献なども存在す
    るが、ここでは先の張鳳台氏の著書の記述と、魏和声氏の著書中から、「倭・
    邪馬台」詮索に重要となる知識について若干紹介しておきたい。

     張鳳台氏は、我朶里(がだり)城(吉林省敦化市)が、我が「満清」の発祥
    の地なり…と記し、その文献中に次の如く述べている。

       漢武帝元封三年滅朝鮮、分置楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡、即在今奉省
       南蓋平・海城・復州等処。至昭帝始元五年、詔罷臨屯・真番・以併楽浪・
       玄莵。玄莵復徙居句麗。自單々大嶺以東・單々、満語珊延、音相近、即長
       白山。悉属楽浪、故楽浪地勢最為廣袤。旋復分嶺東七縣、置楽浪東部都尉。

    以其時其地考之、自今之海・蓋以東至長白山一帯地方、均属楽浪郡。漢
       時楽浪在奉天省城東北二千餘里、府治距奉天不過一千五百里、其為漢時楽
       浪郡無疑。

        漢の武帝の元封三年、朝鮮を滅し分かちて楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡
       を置く。即ち今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。
        昭帝の始元五年に至り、詔(みことのり)し臨屯・真番を罷め楽浪・玄
    莵に併す。玄莵また徙(うつ)りて句麗に属す。
    單々(たんたん)大嶺より以東・單々は満語の珊延に音近し、即ち長白
    山なり。悉く楽浪に属す。故に、楽浪の地勢最も広袤(こうぼう)たり。
    旋(めぐ)りてまた、嶺東七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。
        漢時の楽浪は、奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天を距(へだ)
    つこと千五百里に過ぎず。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし。

      この一文の解釈は不必要であろう。要は漢代の「楽浪郡」とは、今日の遼寧
    省復州・蓋県・海城市以東、長白山区一帯にかけて置かれていたということが
    分かる筈である。

     なお、上記一文中の「嶺東」は、「單々」に同じで、『満州源流考』中でも
    記しているが、これは現在の鴨緑江と豆満江の中間に横たわる「長白山脈」を
    指す。

     このことから案じて、古の「楽浪郡」とは、遼寧省東部一帯から吉林省の豆
    満江一帯に及んでいたことになる。旧来、我が国で学者や研究家達によって指
    定されていた所とはかなり違うようだが、果たして如何か…。

     「楽浪郡」の位置付けがこのように指摘されてくると、それ以後の東アジア
    史研究は、大部ずれ込んでくるが、いわゆる「邪馬台」詮索に明け暮れている
    方々は、その研究を根本から見直す必要が出て来るであろう。

      さて、次ぎに、これも我が国の歴史家達によって、いとも簡単に考えられ構
    築された説に、古代の中国王朝下に今の中国東北地方の地理が当然のこととし
    て把握されていたとする誤った定説がある。この甚だしき誤謬に対して正しき
    史実を記した文献記述があるので、それを次ぎに紹介しておきたい。「邪馬台
    ・倭奴国・倭」などに関する研究に大いなる疑問が出るはずである。

      民国二年成立、魏和声氏の著『鶏林旧聞録巻四』の中に次の如き記録が見ら
    れる。

      「自来中国兵力能及今吉林省界、只両度。一在三国曹魏時。毋丘倹討高麗、
      絶沃沮千里。到粛慎南界、粛慎城在渤海国西三十里。元渤海上京城、古粛
    慎也。按渤海大氏故郷、今寧安県東京古城是。其進師之道史不詳。…中略
    必沿渾江城上游、以東北進者。毋丘倹剿敗軍遂至于此。
        一在明洪武二十年。馮勝攻元太尉納克楚于金山、金山・今孛々図山、在
      奉天省遼源界、東遼河…
        按、吾国帝王武功之盛、無逾漢・唐。顧于吉林一省、獨無軍事地理関係、
       即三国時毋丘倹・明初馮勝両役、亦倶以追討及此。…」

        自来、中国の兵力、よく今の吉林省の界に及ぶもの、ただ両度なり。一
    は三国の曹魏の時、毋丘倹(かんきゅうけん)高麗を討ち、沃沮(よそ)
    千里を絶ち粛慎の南界に到る。粛慎城は渤海国の西三十里に在り。もと渤
    海の上京城は、古の粛慎なり。
    渤海大氏(おおし)の故郷を按ずるに、今の寧安県東京の古城これなり。
    その師の進む道は史に詳(つまびら)かならず。…中略…必ず渾江に沿い、
    東北に進むものなり。毋丘追って軍を剿敗(そうはい)し、ついに此に至
    る。
       一は明の洪武二十年、馮勝(ひょうしょう)、元(げん)の太尉(だい
    い)納克楚(なくちゅ)を金山に攻む、金山、今の名は孛々(ぼつぼつ)
    図山、奉天省遼源県の界に在り、東遼河…
    按ずるに、吾国帝王武功の盛んなるは、漢・唐を逾(こ)えることなし。
    吉林一省を顧みるに、ひとり軍事地理関係なし。即ち三国時の毋丘倹・明
    初の馮勝の両役なり。また倶(とも)に追討の故を以て此に及ぶ。…

    簡単に言うと、古来、中国の武力が吉林省の東界・今日の寧安県の東京城ま
    で攻め込んだことは、三国時代の魏の毋丘倹の高句麗征伐と、明代に入ってか
    らの馮勝将軍が元の残党を追って吉林省農安県の金山堡に攻め込んだ二つの事
    件しかなかった。その理由は「軍事上の地理情勢が把握されていなかったから」
    であるということ、この一語に尽きるのである。

     我が国の歴史家や研究者どころか、中国の歴史家・研究者でさえもが、山海
    関以東に関しては、古代中国の軍事力やそれに伴う地理情勢について、如何に
    その理解力が乏しかったかが分かる筈である。

     以上、漢帝時代の郡「楽浪」が、今日の韓半島方面に設置されていなかった
    ということと、古代中国人が現在の中国東北地方の地理情勢について、実際は
    余り良く分かっていなかったということの二点に関し、清朝末期・民国時代の
    「実地踏査」記録に依拠して簡述してみた。

     以下の古代東アジア史上の「重大な誤謬」を是正する上で、大いに役立つと
    思われるが如何か…。

     その誤謬とは、即ち、現在の朝鮮半島のほぼ全域が、古代の早期に中国の支
    配下に置かれていて、政治・軍事・文化的な面から、韓半島の歴史は漢民族へ
    の従属的位置関係にあったと解釈され、その誤った解釈が定説化し、そのまま
    今日に至っているのである。  

  7. 橋下氏が論争で「特定の韓国人と、韓国人一般を混同するなよ。」と仰っておられたが同意見です。
    勿論、先生は韓国人一般を問題をにしているのだと仰いましょうが、
    ここでも私は韓国の肯定的、光明の面を探し評価して行こうと思っています。
    世宗大王の伝記なぞ興味あります。

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