『日韓 悲劇の深層』(三)

まえがき

 私は、私の読者を対象にした、ある勉強会を主宰している。そこで2014年10月に呉善花(オソンファ)さんに講演をしていただいた。その内容は体験的であると同時に歴史に目の行き届いた示唆に富み、日韓関係について思いがけない未知の方向から、考えてもいなかった観点を突きつけられ、私は足をすくわれるような感覚を味わった。

 日本人というのはまったく分らない国民で、日本人の精神の軸、そう呼べるものがいったい何なのか、どうもはっきりしない、韓国人にとってはそれが謎であるだけでなく不安の原因なのだ、という意味のことをおっしゃった。

 韓国は朱子学の儒教社会であり、これが軸といえるだろう。日本人は神道なのか武士道なのか仏教なのか、いったい何だ?ほかにもあるかもしれない。韓国人はそこで戸惑ってしまう。八百万(やおろず)の神々というが、太陽であったり樹木であったり、自然を敬うアフリカ人なら分かるが、いやしくも文明国であってはならないことだ。どういう精神性なのか、ここで韓国人は困ってしまう。頭が混乱するだけでなく、許せないということになる。韓国では先祖以外のものを拝むのは迷信の部類である。

 日本の室町時代の頃、韓国は仏教も陽明学も棄てて朱子学だけを大切にするという転換を行なった。文治主義の徹底化を図った。ところが日本では、これ以後も野蛮な武士の戦いがいっこうに収まらない。どうにもならない国だ、と自分たちの先祖は考えた。日本人には価値とか道徳がない。こう述べた後、呉さんは次のように語っている。

 「デタラメな基準で生きている日本人はこれ(真の価値)が理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするか分らない。考えを変えてしまう。常にきちんと教え込んでおかないといけない。韓国人が言うところの『歴史認識』とはこれであって、双方の国民がそれぞれ意見を主張しあって互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは韓国が主張するものを受け取るだけ。反論や異論などとんでもない。繰り返し繰り返し、韓国の言うことを、日本人は心して聞けということです」

 そしてこう述べた後、韓国の現在の朴槿恵(パククネ)政権は戦後いちばん外交で成功しているという評価を国内では得ているのです、と付け加えた。

「『日韓 悲劇の深層』(三)」への2件のフィードバック

  1. 「倭=日本」という定説は、明らかに誤謬・誤断・妄誕の最たるものであるが、ここでは「高句麗」について述べるので敢えて触れないで措く。

    久しい以前から、「広開土王」の陵墓については、それぞれに異論あり、今日では上記記事にもあるように大きく二つに分かれているようだ。

    吉林省・集安=輯安(チーアン)=長安(チーアン)。鴨緑江の右岸に、広開土王の事跡を刻した有名な「好太王碑」なるものが存在している。その刻文の中心的人物が、高句麗第十九代・高談徳(コウ ダントク)、即ち俗に「好太王」、あるいは「永楽太王」と言われる王で、西暦三百九十一年~四百十三年、高句麗の最盛期の基礎を成し遂げた王である。

    なお、「好太王」という美称の王が、高句麗には四人存在したということか
    ら、刻文の中心人物については「広開土王」と見るべきであろう。

    この王の陵墓と目されるものに二つあり、その一つは「太王陵」、又、その
    一つが「将軍塚」である。この二つの陵墓をめぐって、旧来、学者間に意見が
    二つに分かれた。ここで、在野の研究家として付言させてもらうなら、小生は西谷教授説を以て「諾」としたい。何故ならば、かつて「好太王陵」からは「磚(せん)」が出土しており、「願太王陵安如山固如岳」の文字が認められているので、「太王陵」が広開土王の陵墓たること、紛れもないと言えよう。

    また、その陵墓の大きさについても、「太王陵」の方が「将軍塚」より壮大で、吉林省文物考古研究所の方起東(ほう きとう)先生も「太王陵」が「広開土王」の墓に相違なしと発表している。すなわち、西谷教授の見解は妥当なりと受けとめたい。

    ところで、ここに一つ不審に思われることがあるので、概略を述べておきたい。我が国の史学者は、どういうわけか他国の歴史に関するものであるとわざわざ出向して行き、メッタ・ヤタラ陵墓を掘り返し、何が出土したの発見されたのなどと、他国の歴史的存在や文化程度の一端が解明されたと発表しているが、こと自分たち日本列島の具体的な歴史解明については、一向になされず放置したままで平然としている。

    このことは、学者のみならず、一般の研究家と称される人たちも全く同じ姿勢なのは、一体、何故なのであろうか。日本の古代史を語る上で、常に持ち出されるのが、その信憑性が全く定かではない「魏志」を始めとする『倭人伝』一辺倒の解釈である。

    『倭人伝』を引っぱり出して云々することは各人の自由であるが、それならば「邪馬台」やその国の女王であったという「卑弥呼」の墓と推定されている「箸墓古墳」を始め、幾多の陵墓が現存しているのであるから、何故それらの墓を調査しないのであろうか?

    それは、現在の皇室に関わる存在であるから、という懸念からだとするならば、そのような考え方は一掃されるべきである。

    今日現在、天皇の陵墓として見なされている存在は、100%の確率で考古学上の物証は皆無である。江戸の寛永年中、蒲生君平によって編纂された『山陵誌』が語っているに過ぎないからである。

    事のついでに、もう一つの不審なことを述べたい。現在に至るまで、当たり前のこと、すなわち、定説・定見とされ、アカデミストによって語られている古代北東アジア史のあるページは、全く以て「出鱈目」以外の何ものでもない「大嘘」だということだ。

    では、その「出鱈目・大嘘」史観・史説の基礎は一体誰から始まったのかというと、我々が言う今日のアカデミスト達ではない。彼らは知らぬままに鵜呑みにして語り継いできたままである。情状酌量の余地は少々アリとも言えよう。

    今日一般的とされている古代北東アジア史の塗り替え作業は、我が国に「東洋史」という分野を確立させた、旧・盛岡藩士族「那珂通世(なか みちよ)1851-1908」に始まった。彼は幼少に藩校で学び、十九世紀末から二十世紀初頭、我が国の教育方法・教育制度に大きく貢献した人物で、その著作に『支那通史』や「元朝秘史」の注釈本『成吉思汗実録』などがあり、また、我が国の「書記」の紀年問題を究明した『上世年紀考』がある。

    那珂通世博士は、二十世紀初頭に朝鮮や旧・満州方面の実地踏査行をなし、その方面の史学独占の端緒をなした人物であり、旧・東京帝大の権威と称された津田左右吉や白鳥庫吉・鳥居龍蔵の各氏は、すべて那珂博士の弟子達である。

    民国時代に成立した『奉天通志』の中で、支那側の学者が那珂通世に
    ついて誹謗している。

    それは何についてかというと、いわゆる古の「真番国」で、後年、漢帝が征服し降格して「真番郡」となした所在についてである。

    民国側の調査では、この郡の治所と見なされる所が、「霅(こう)県」である。この県が「興京」=清朝初期の都城で、今日の遼寧省新浜満族自治県、渾河の支流・蘇子河上源に在り、当初、長白山以西が「真番郡」であったが、清朝期にはその境域は、既に奉天省境内の管轄下に入っていたという。

    だが、その事実を日本の那珂通世は、真番郡の「霅(こう)県」が鴨緑江上游であると位置づけ、然して、彼はしきりに支那・朝鮮の古書を改めることをほしいままにし、その改竄された歴史を人に強制し、自らの説に就くことが正当であると主張した。これを支那の学者たちは、許されざる所である…と記録している。

    ちなみに、『奉天通志第五十沿革統部一』を調べて戴きたい。那珂氏の行為を不当なものとして記録に留めていることが判明するはずである。

    それ以来、おおよそ一百年の間、那珂通世に始まった史書改竄は、東京帝大を始め京都帝大の学者たちによってより強固に構築され、その誤った「国史観的」歴史解釈が今日一般に「定説」となって罷り通っている。これが我が国北東アジア史学界の現状である。

    この事実を指摘し、真実の歴史像はどうであったのか…について、声を大にして叫ぶものは残念ながら、「壁外の住人」のみの様である。故に「高麗(こま)った、新羅(しら)けた、百済(くだら)ない。」と言う次第である。故・韓国国立博物館長・韓柄三先生は残念ながらお亡くなりになられているが、生前、面白いことを語っておられた。

    「現・韓国に、百済が存在したという割には、その存在を決定づけるだ
    けの遺跡や遺物が少なすぎる。それは、今後の考古学上の進歩を俟つより
    他はないでしょう。」

    先生の言われる通り、現・韓国には百済国の遺品等は確かに少なすぎる。かろうじて未盗掘状態で発見されたという百済第二十五代「武寧王」の陵墓にしても、盗掘されていないのならば、何故、二対の石棺中に遺体がなく、身に着けていたであろう装飾品しかなかったのか…?

    百済第二十五代「武寧王」の時代は西暦五〇一年から五二三年で、百済の最盛期であり、一方、高句麗は第二十一代「文咨明王」か二十二代「安蔵王」の時代で、百済とは戦闘状態にあり、しかも、その場所は、旧・満州方面なのである。今日の朝鮮半島方面ではないという事実は、百済が現在の韓国には存在しなかったということになる。

    故に、武寧王の陵墓と称されるものが現・韓国方面で発見されたこと自体、可成り怪しいことにもなる。他の王墓はどうしたのであろうか。我が輩「壁外の住人」が言うように「百済ナイ」からであろう。武寧王の陵墓も後世の人たちの造りあげたものではなかったか…。

    では、斯く言う「百済」と呼ぶにふさわしい国名の存在が全くなかったかというと、そうではない。「百済」と称される国家は存在した。

    十世紀初頭、甄萱(けんけん)なる者が、全羅道全域を征し「後百済」を建国したが、この「後百済」は、北の江原道より興った王建の「高麗」に西暦九三六年に統合され、幾ばくもなく滅亡してしまった。

    後の「百済」と前の「百済」とを勘違いするとややこしくなる。両者は全く関連性なき存在である。

    事のはずみで言葉が飛んだが、今日教育の場で当然の知識として教えられている古代北東アジア史のあるページは、即ち、百年を経過して造りあげられてきた「デッチアゲの大嘘」である。事の真実の一端は、斯く言う「壁外の住人」の著作中にあり。冀くは、諸賢兄一読されん事を!! 

                            

  2. >中国、朝鮮族主従の罪業 → 土匪同士の殺し合い3000年シナ真空地帯(黄文雄 )

    ・「残虐日本人づくり」にさらに執着する妄言伝統
    ・中国では何故1人の皇帝や独裁政権が17億の群盲を殺したり生かしたり勝手が出来るのか、皇帝がいないと不安な中共匪賊集団
    ・「詐欺、歴史捏造国家」のギネス登録の一番乗りを争っている主従韓中
    ・伝統の破壊に継ぐ破壊で新文明が絶対に生まれない中共
    ・日本に流入し始めている祖国愛を持たないシナ中国人との交流は断ぜよ
    ・殺して、燃やす 放火・隠滅の残虐を誇る二凶国
    ・世界中が憎悪する凶悪犯罪が世界で急増
    ・国際秩序、公道徳を過去も今後も決して学習しない群盲シナ共産党
    ・明治日本に留学した清国留学生(年間8000人)がもっとも感動したのが、ひらがな、カタカナが有って誰でも漢字が学べてすぐに読める事であった
    ・漢字の本場中国20世紀になるまで発音記号が無い表意文字、読めないのだ
    ・だから共通の国語意識、国家国民観が一度も育った事が無い群盲土匪団
    ・騙しの魔境地帯であることに早く気付け日本人
    ・日清戦争後、この極端に狭い閉鎖空間を飛び出し日本にやってきた支那留学生10万人を超えた、しかし留学生同士が似ても似つかない言語をしゃべり出すと言う。
    ・シナ精神文化など無い、3千年間いまだ不明、日本精神あって、「シナ精神」をいまだ聞いたこと無い
    ・精神文化の欠如がシナ文化の欠陥、道徳の崩壊を引き起こして来た
    ・「三光作戦」とは、「屠城」の事だ。殺光、焼光、槍光の事でシナ4千年のお家芸、城内皆殺しの事、「三光」はまさにシナ4千年のギネス審査不要!
    ・シナ人が常に関心を持っているのは人間学、処世術すなわち、他を皆殺しにして郎党一族、党幹部のみが逃亡する殺凶術
    ・国技の破壊に継ぐ破壊で新文明が決して生まれないく魔境に最後に残るのはシナ料理か?
    ・日本文化の浸透力に恐怖心を抱くシナ共産幹部
    ・救いがたい夜郎自大、傲慢増長シナの歴史認識、真実が無い真空地帯
    ・葬儀に全財産を投じ一家一国が傾国にいたる中朝の孝経思想、中国人から「良心」を奪った儒教
    ・儒教は日本人には入っていない
    ・シナ語に造語力が無いのは今も続く儒教呪縛のせいだ!

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