西尾幹二全集刊行記念講演会報告(五)

    (五)

 誰が本物であり誰が贋物であるか。誰が本物のリアリストで、誰が贋物の付和雷同者であったかの区別は今の時代にあってこそ愈々なされなくてはならず、戦争に負けたから協力者は全て悪である、とレッテルを貼るのだったら、これは戦勝国の論理ではありませんか。敗戦国がそんな粗雑さで自分の国の歴史への参加者を簡単に裁いて良いのでしょうか。戦争に協力した者は戦争が悪なのだから等し並みに悪である、と言うのだったらこれでは左翼と同じではないですか。この結果決定的にまずいことが起こるのです。戦争には負けたかもしれないが、あの時代の日本には数多くの選択の道があったはずで、その時開戦に追い込まれた協力者の中で誰が唱えていたことが、たとえ負けたとしても貴重な思想であり、選択であったか。負けたか勝ったかだけの根拠をここで問題にするのなら、これは戦争の論理、政治の論理であって、負けても勝っても立派だったかどうかを問わなければいけないわけですから。だったならば、あの時代の日本の運命を道徳基準で決めるのではなくて、国家を襲った歴史の必然性の基準によって評価するということが求められるべきことではないだろうか。私は戦後70年、保守も左翼もこの問題を避けてきていると思います。

 だから私は言うのです。私も人生終わりに近づいているから言うだけのことは言っておかなければならないと思っているのですが、彼らが戦後から戦後を批判しているレベルに見え、そこから先に進もうとしないというふうに見えるのは私には不満だと申し上げたのはその所以です。

 あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理念的あり方、それについて思想指導者として誰が正しかったか、誰が私たちにとって理に適うか。正しいという言い方は拙い。誰が今の私たちにとって理に適うか、という評価が下される必要がある。それがされないままに終わってしまっては困る。

 例えば国書刊行会が協力して「新しい」本が次々と発掘されている仲小路彰という思想家は、海軍大将末次信正や海軍大佐富岡定俊、昭和15年に軍令部作戦課長に就任していた人物とタイアップしてアメリカ軍との太平洋戦争を避けるべきこと、インド洋から中東へ海軍を動かして、南下するドイツ軍と連携すること、アメリカからのソ連への補給路を断ち、アメリカ軍の参戦の口実を封じることを提案していました。その結果、身が危うくなって昭和19年に東京を離れて山中湖へ隠棲します。仲間の明星大学の教授であった小島威彦(こじまたけひこ)は投獄されます。ルーズベルトが国内世論に迷ってぐずぐずしていた時代ですから、こういう作戦は有効だったのです。すべてを台無しにしたのは山本五十六の暴走です。とんでもない奴ですね。そうなってしまった後は、本当にもう運命みたいなものですね。だから軍部に協力していたとかいないとか、そういうことでその人の思想まで葬ると言うのは、もうここまで。それこそ70年、戦後70年なのです。我々は立ち止まって考えるときが来ているのです。

 小林秀雄は、「利口なやつはたんと反省すればいいさ、俺は反省なんかしないよ、」日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら戦争なんか起こらなかった、というような馬鹿なことを言うような知識人に向かって、「そんなことはない、日本人を襲ったのは悲劇であり、悲劇の反省など誰にもできない、」「政治と文学」昭和36年12月号で彼は言いました。当時は戦争責任という言葉が吹き荒れていました。左翼の党派的欺瞞が横行していました。福田恆存「文学と戦争責任」昭和21年11月号、吉本隆明「文学者の戦争責任」昭和31年もその辺りを正確に撃っているのです。その辺りの知識人の欺瞞、日本人の欺瞞、嘘ばかり言っていては駄目だよと。我々を襲ったのは悲劇なのだと。それはその通りです。反省して歴史を変えられると思っている愚かさを戒めることにおいてまことにこれらの人々は峻厳でした。厳粛でしたが、そこに留まっていてそこから先がないのです。あるいはそれ以前がないといっても過言ではないかもしれません。

 例外は林房雄の「大東亜戦争肯定論」でしたね。ただこの本が私にとって今思うと不足なのは、日米百年戦争を論じているのです。私にとって日米百年戦争がとても新鮮に見えたのは私が戦後つ子で、昭和3年満洲事変から日本は血迷いだしたという戦後歴史観に結局私も踊らされておりました。そういう歴史観に閉ざされていて、そのために林房雄の百年戦争論が大変面白く感じた。でも後で私がGHQ焚書を調べていたら戦争前は全部、誰もが皆そういうことを言っていた。林房雄は卓見を述べたわけでも、新発見をしたわけでもない。大川周明以下多くの人々が皆百年戦争、ペリー以来の戦争を言っているし、更には五百年戦争史観を述べているのは大川周明です。

 もうあまり時間が無くなりました。平泉澄の話をしましたので、平泉澄の「我が歴史観」という論文を紹介して終わりにします。こんなに古い本です。これは素晴らしい本です。これをいま、講談社の学術文庫なんかに入れるといいと思いますが、平泉澄は徹底的に否定されちゃっているのです。とんでもない話ですよ。一方で大川周明は全集まで出ているのです。大川周明は復活しているのです。それは北一輝と並んで復帰して、少し左翼っぽいのです。それによって戦後受けているのです、ところが平泉澄は徹底的な日本主義ですから。それで、私が実に感服したというより共感したのは、私の考え方に非常に近いので共感したのですが、ドイツの歴史書をずっといろいろ述べた後で言っているわけですが、最後のところだけ紹介します。ハインリッヒ・リッケルトがどうだとか、ヴィヘルム・ハインリッヒ・リールがどうだとかいろいろ言っているのですが、それからです。

「主観的要素というものは、全ての歴史的把握のうちに必然的に存在してこれを根絶することはできない。個々の時変は、歴史的考察によって初めて同時代に起こった時変の無制限なる集団の内から拾い上げられて一個の歴史的出来事となる。歴史家は自分自身から問題を提案し、これをもって資料にあたってみる。この提案は歴史家に出来事を整理し、諸々の歴史的要機を選り分ける手がかりを与える。そして歴史家はこの問題を解決するために歴史的結論を出すのである。歴史家の現在は、どんな歴史からも切り離すことのできない一個の要機である。そしてこれは言うまでもなく歴史家のその人の個性よりも、彼の生きているその時代の思想界である。あらゆる時代において我々の到達しうるものはただ歴史に対する我々の認識のみであって、決して絶対的な無限に妥当する認識ではない。」

 歴史認識というのは相対的なものなのだということを、まず私も非常に強く共感するものであります。

「こう言えば破壊的に聞こえる、けれども我々は恐らく次のことが自然科学についても、また概して人間のあらゆる認識についても一様に変わりがないと許容すべきであろう。昔より数多くの歴史家が現れ、数多くの歴史が著わされたにも拘らず、絶えず新たに歴史家の活動の要求せられるのは、ひとつはこの理によるのである。」

 分かりますね。絶えず歴史家が求められるのは、歴史は一つではないと言っているのです。多様だと言っているのです。相対的だと言っているのです。でも総体と言ったら恐ろしい話です。何でもかんでもということになってしまうのだから。

 

「過ぎ去りし真実は固定して如何にも千古不変であろう。しかし、その事実を如何に把握するかは歴史家の個性及びその時代の思想によってそれぞれ違ってくる。中世に書かれた歴史は、畢竟中世的な把握の仕方である。現代は現代的な把握を要求する。それ故に歴史は絶えず書き改められなければならないのだ。」

まともなことを言っているでしょう。

「昨日は無意味なこととして除かれたものも、今日は重要なる意義を持てるものとして採用せられることは、我等が実際に歴史を取扱う上に屡々、否、常に経験するところである。」

 もう一度いいますと、無意味なものとして除かれたものも、昨日は無意味、今日は重要というようなことは絶えず起こることだと。動くということですよね。何が重要で何が重要でないかは毎日違うという、つまり歴史は動いている。我々も動いている、動いているものが動いているものにぶつかるのが歴史です。

「然して、このことは思惟下の人格及び彼が如何に正しく現代を理解しているかが最も重大であることを示す。実際純粋客観の歴史というものは断じてあり得ないのであって、」

 韓国人に爪の垢でも飲ませてやりたいですね。

「もしありとすれば、歴史では無くて古文書記録即ち資料に外ならない。」

資料というのはあるわけです。でも資料は歴史ではありません。

「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」

 私自身の過去に対する投影、つまり主観的だと言っているのです。

「道元禅師の所謂、我を配列して我此れを見る。」

 道元禅師が、自分を並べて、そして自分がそれを見るのだと、自分が自分を見ているのだと。道元は「歴史」と言っているわけではないけれど、「我を配列して我此れを見る。」しかもまた、「歴史を除外して我は無い。」と、今度は逆のことを言っているのです。我があるだけではない、歴史を除外して我は無いのです。

「我は歴史の外に立たず、歴史の中に生くるものである。歴史を持つものでは無く、厳密には歴史するものである。だから歴史する行為というものに結びつく。先(まえ)には歴史のオブジェクト、客観に人格を要求した。今は歴史のサブジェクト、主観に人格を要求する。斯くの如く内省してゆくところに現代史観の特徴がある。外へ外へと発展を急いだ時代は既に過ぎた。思うに斯くの如きはひとり歴史に於いてのみ見らるるところではあるまい。全ては今、反省して自己を確立すべき時である。」

 大正14年11月の文章です。昭和元年に近い。平泉澄の言っていることは、誠に真っ当な私の胸にピンピン来るような素晴らしい文章であると思っております。歴史のパラドクスということ、「歴史をする」ということは世の中に無いけれど、「歴史をする」というのは「歴史は行動である」ということを言っているわけです。

 平泉澄が大戦中にどういうことをしたのか、ということが非常に深く関係してくるので、皆さんご存知なければ最後にご説明しておきます。平泉澄は32歳にして昭和天皇に楠木正成の功績をご進講されています。その前には欧米に留学しています。満洲を視察して溥儀とも会見しています。満洲建国大学の創設にも参画しております。そして昭和20年に東京帝国大学を辞職せざるをえなくなります。

 終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾は自刃しました。この人は平泉澄の弟子です。続く東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)の次の下村定(しもむらさだむ)。この人も平泉澄の弟子です。帝国陸軍の最期は終戦の直前と直後において平泉澄の愛弟子の指導の下に事後処理を、陸軍は自分を解体したのです。平泉歴史神学は戦争から戦後にかけての行動の導きの星であったということであります。

了  (まとめ 阿由葉秀峰)

「西尾幹二全集刊行記念講演会報告(五)」への4件のフィードバック

  1. 今回の講演を文章で読ませて頂くと、当日とは違った充足感があると同時に、おかげで聞き逃した部分も、回復することができました。

    特に後半の「昭和のダイナミズム」は、時間が迫っていたせいか、あっという間に終わった気がしたのが、前半同様、極めて中身の濃い内容であったことが改めて分かりました。

    自分の恥を晒せば、先生が講演メモで掲げられた二十二人の方々は、私にとって名前こそ知ってはいても、その著作をまともに読んだことがない人がほとんどでした。
    そこに名前はありませんが、学生時代の課題で、高山岩男他数人の学者(名前は失念しました)のうち、誰か一人を選んでレポートを書けと言われ、私が高山岩男を選んだ所、後で先生が「高山岩男という人は、評判が悪いんで・・・」と言ったのが、非常に印象に残っている程度です。

    しかし私だけでなく、余程文学や思想に関心のある人でない限り、明治以降のこれらの学者や作家たちについては、文学史の時間でも、サッと流して終わる程度なのではないでしょうか。

    そんな現代に近い時代を扱った今回の講演を聴いて気付いたのは、学校で習う明治以降の歴史や文学史が、多くの人にとって、無味乾燥で暗記するだけの時代なのは、何も昭和が「暗い戦争の時代」だったと刷り込まれているせいだけではないことです。

    先生が「江戸のダイナミズム」や「GHQ焚書図書開封」シリーズで書いてこられたように、江戸時代の天才たちが、長い時間をかけて、シナの学問を学び、またその中から日本人としての生き方や、我が国の国体を自覚してきた、その努力が、昭和にも確実に引き継がれ、ほんのつい最近まで、昭和の知の巨人たちが、渾身の力を振り絞って、我が国の命運に賭けていたことを知るだけでも、どれ程歴史や文学史の授業が面白くなることでしょう。

    しかしGHQの政策によって、こうした昭和の思想的遺産が断ち切られるように隠蔽されてきたこの七十年間、現代の文化状況は、あたかも江戸時代という振り出しに戻ったかの如くです。

    例えば産経ニュース、10月27日の『スクリーン雑記帖』「東京国際映画祭の狭量さを『島国根性』と報じた米誌、求められる真の国際化」です。
    この記事は、釜山や香港、上海の映画祭が存在感を示しつつある今、中韓の映画人が、政治的意図も含めて、ハリウッドにくい込んで娯楽映画作りに力を入れていることを例に出し、それに対して我が国では、内輪だけで楽しむ学園物などに終始していること、また映画祭そのものも、華やかさに欠ける点を、米誌が「島国根性」と批判したのを受け、今日の日本の映画界の方針を叱責する内容となっています。

    今の日本のテレビ映画業界が、ほとんど左翼的な思想を持った人々に握られていることを考えると、確かに「真の国際化」が必要なのは、左翼勢力でありましょう。

    ただその事よりも、この記事を書いた恐らく若い記者が、「島国根性」という悪口に敏感に反応した事実に、外国を自国よりも上と見る劣等感は、変わっていないのだなあ、とつくづく感じました。

    冷戦時代、アメリカのロッカーが、ソ連のロックバンドを評して、「ソ連のロックも世界的なレベルに達した」と褒めた、という笑い話のような話を聞いたことがあります。何でも自分を基準にしたがるのは、欧米人の常であって、日本と異なり、映画が重要な輸出産業であるアメリカを驚かせたいなら、黒澤作品以上の時代劇を作るしかないでしょう。

    第一「真の国際化」、「真の民主主義」などと言いますが、「真の」と付けられたものが、本当に存在するのか、或は実現可能なものなのかどうかも考える必要があります。

    卑近な例を挙げれば、アメリカ映画の「スターウォーズ」の「ジェダイ」が日本語の「時代劇」から来ていることは、ファンならよく知っています。また一頃アメリカで大ヒットした忍者物により、ニンジャは子供たちの憧れとなり、海外の武術関係者の間では、師匠の事をセンセイ(先生)と呼ぶことが定着しています。さらに最近では、女子学生が憧れの男子学生のことを、センパイ(先輩)と呼んだりするなどは、海外の若者にも、ネットを通して知られています。

    このように海外に与えている日本文化の影響は、決して少なくないにも拘わらず、中韓のやり方を真似すれば、負けるのは我々の方です。

    なぜなら、彼らの目標の一つは、欧米人と同様、いやそれ以上に欧米的価値観や教養を身に着けることによって、現在世界で最も影響力のある社会に定着し、日本人を打ち負かすことだからです。

    日本人が自らの伝統文化から離れること程、彼らにとって都合のよいことはありません。そんな彼らの意思と連動するかのように、最近のテレビによくある外国人によって、日本文化を紹介する手法は、日本人よりも外国人の方がより日本文化を理解しているという劣等感を抱かせるに十分であり、また現に未だ我々の中には、伝統的な風習や考え方、感じ方が生きているにも拘わらず、それを自覚させないという効果を生みだすでしょう。

    そうではなくて、我々日本人が成すべきは、自らの歴史を振り返り、その知識を自覚的に、自分の生き方に反映させてゆくことです。

    実際、世界的な業績を遂げた日本人は、国際化云々という最近の風潮を、あたかも裏切るかのように、出現してくるのが常だからです。

    一例を挙げると、独立時計師という珍しい職業に就く、菊野昌宏(1983-)という人物がいます。菊野氏は、江戸時代に作られた和時計を、ガラスや革バンド以外は、すべて手作りして腕時計として蘇らせるという快挙を成し遂げました。
    一年間かけて、季節に合わせ、文字盤の方が動くという不定時法の難しい仕掛けを完全に再現した彼の力量は、本場のスイスを始め、海外で高く評価されています。

    菊野氏は「時計に人間の生活を合わせたのがヨーロッパ人、人間の生活に時計を合わせたのが日本人」だと言います。
    ヨーロッパから時計が伝わったのは、16世紀の戦国期から17世紀初頭の江戸時代ですが、その約二百年余り後、からくり人形の田中久重を代表とする日本人は、自らの手で、ヨーロッパとは異なる不定時法の和時計を完成させました。

    そして菊野氏は、そんな江戸期の天才たちの技術を継承することにより、「ヨーロッパ人に少しでも恩返しができれば・・・」と言うのです。
    最近その和時計の展示会に行った時、自衛隊出身の菊野氏に、時計作りを始めたきっかけは何かと尋ねた所、その一つは自衛隊時代の上司が、時計好きだったことだ、ということでした。

    さらに感銘を受けたのが、この恐るべき能力を持った好青年が、例え盲目になっても、片腕が一本亡くなったとしても、自分にはまだできること、またやりたいこと(例えば農業)があるし、他の道で生きてゆく自信があると公言したことでした。

    幕末の1865年、日本を訪れた考古学者ハインリヒ・シュリーマンの日本見聞録(「現在の中国と日本」1867 パリの国立図書館蔵)の翻訳はよく読まれているようですが、帰国後のシュリーマンの行動については、あまり語られないようです。

    「・・・江戸から戻ったシュリーマンは、今のうちに日本を叩いておくようにと、欧米の外交官に説いて回った。武力では侍たちの頑強な抵抗に遭う。その手段は為替、それも金と銀の交換比率における内外の格差を利用することであった。
    開国直後の日本では、金1に対して銀は約5、それに対して海外では金1に対して銀は約15の交換比率であった。単純にいえば、同じ量の銀を交換することにより、日本では海外の3倍の利益を上げることができたのである。
    日米修好通商条約が調印された1858年以降、日本の金は流出を始めた。60年には、海外の比率に合わせて、日本では小判などの金貨の改鋳が行われて、一応の解決をみたが、その間に五十万両とも言われる膨大な量の金貨、つまり日本の富が海外に流出した。意地の悪い彼の提案は、功を奏した。
    明治維新後、日本は欧米の技術や文物を採り入れ、近代化を進めていく。今でも日本は海外から批判を受けているが、幕末の当時から、日本は叩かれるだけの国だったのである。
    明治維新後の日本の発展は、突如として起きたわけではない。その背景には教育という基礎があったからである。もちろんシュリーマンは維新後の日本を語らない。ただ予感はしていた。日本人がまだまげを結い、下駄を履いていた時代に、シュリーマンは、今日の日本を予感していたのである。」
    (「アゴラ」1998年1月号 「幕末の日本に『経済大国』の原点を見た考古学者シュリーマン」 小塩 節)

    私は二十歳頃に読んだ「ヨーロッパの個人主義」(だったと思いますが)の中で、先生が書かれた「・・・自分が恋人のように慕ってきた文学も、結局は彼らの文学なのである」という言葉を、今の今まで忘れることができないでいます。
    伝統や習慣はもとより、様々な文化や文明も、衣服のように簡単に着脱できるものかどうかは、今もなお問われてしかるべき問題です。

    もう一つ私がこの前の戦争に疑問を持つようになったのは、戦中派の父の存在でした。終戦から三十年以上経ってから、かつての戦友たちに再会した父が、持病の高血圧が悪化するほど、興奮して喜んでいたという母の話を聞くと、日本軍がいびつなだけの組織だったなら、あれほど父が懐かしがるだろうかと思いました。

    父の本棚には、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や戦争関連の様々な本がありましたが、たまたま手に取って、今も目に焼き付いているのは、伊藤桂一氏の小説(タイトルは忘れました)の中の、「・・・復員兵たちを迎えたのは、負けて帰った軍閥兵隊という冷たい視線だった・・・」という一節でした。
    ところが、シナ大陸やフィリピンでは評判の悪い日本兵が、南方の島では歓迎されていたことを知ると、同じ人間が、場所を変えて良い人になったり、悪い人になったりするものだろうか、という実に単純な疑問が湧き上がりました。

    「国民の歴史」を代表として、先生のまかれた種が、あちこちで少しずつ芽吹いているのが現在の日本です。しかし、シナ対日本、西洋対日本という壁も意識しづらくなっている今日、日本人として生き抜くため、我々一般人に必要なことは、例えほんの少しであっても、先生と同じような問題意識を持ち続けることであると思いました。

  2. 「高麗った・新羅けた・百済ない」とのジョークを述べた次第であるが、世の中は広いものである。幾たびとなく訪朝や訪中を繰り返えしていたのが、かの有名な画伯で平山郁夫氏である。

    平山氏は、昭和四十三年には「卑弥呼壙壁幻想」などという作品を描いている。 その「卑弥呼」の作品が発表され、四年後の昭和四十七年に「高松塚古墳」の極彩色壁画が発見されている。この高松塚の極彩色壁画は、北朝鮮の平壌周
    辺に散見される古墳群中の壁画と似ていることから、我が国でも朝・韓の歴史
    学界の見解に倣って「高句麗」の壁画であると断定している。

    高松塚やピョンヤン周辺の古墳群に価値があり、且つ、それらが正真正銘な
    高句麗文化の遺産であるのなら、誰も何ら異議を差し挟む余地はない。ところ
    が、これが大間違いなのである。

    二、
    壁外の住人は、今日に根付き定着している「古代北東アジア史」の或るペー
    ジが、国家権力を発動し、朝・韓現地の学者たちを恫喝しゴリ押しして創り上
    げた一大「虚構」であることを、これまで四十年近く叫び警鐘を鳴らし続けて
    きた。

    高松塚古墳と現・北韓の古墳群との間に、共通の類似する文化があるとする
    ならば、それは朝・韓・日の歴史学者の見解でもある「高句麗文化」ではなく、
    「百済文化」なのである。

    現に、仏像にしても例外はあるが、日本の仏教美術の粋と言われるものは、
    一般に「百済仏」が原形であると言われている。平山氏が言うように、飛鳥寺
    に「飛鳥大仏」を造立する際に、高句麗から我が国の推古天皇に大枚の黄金が
    送られたという史実を否定はしない。しかし、『書記』の記述そのものを鵜呑
    みにしてかかることは如何と思う。

    『書記』の原形もこれ又、『百済本紀』が元になっているという事実から勘
    案すると、上記の史実とされていることを頭から信用してかかることは、危険
    でさえある。『書記』には当然のことながら、百済建国から滅亡に至るまでの
    残像が投影されている筈であるが故なり。

    以下、現在の北朝鮮の古墳群全てを、高句麗の文化財であると見なすことは
    百%不可能である。その理由について少しく述べてみよう。

    三、
    古代東アジア、就中、北東アジア史に関する文献は、残念ながら、十世紀以
    前に遡ると今の朝鮮には見出されない。従って、いきおい支那大陸ということ
    になる。中国には幾多の異邦異民族に関する文献史料が残されており、それら
    の中に、言う所の高句麗や百済・新羅に関する伝承が数多く存在する。

    それらの伝承・伝記と雖も、清朝期下の碩学・曽詳(そ しょう)氏の言に
    よれば、その多くは想像の域を出づるものではなく、又、政治的要因と絡み合
    って抹消されたものも多きに至る…と言う。その発言から勘案すれば、頭から
    鵜呑みにして取り組むことは危険が生じてくる。

    しかし、だからといって完全に無視することもできない。そのような文献で
    あっても、他に比すべき文献が存在しない以上、一応は懸念しながらも参考と
    すべきは参考とし、その中から幾ばくかの真実味を嗅ぎ出しさえすれば、後は
    考古学上の発掘発見物を、どのように位置付け、どのように語り出すかにかか
    っていよう。

    高松塚古墳と北韓の古墳群に類似性ありと見るならば、文献史学上の推定は
    「百済文化」と位置付けることができる。その理由は、高句麗も百済も、共に
    「狛族(こまぞく)」すなわち「濊貊(わいはく)」の「貊」であり、これら
    は共に「コマ族」と言い、この「コマ」族たちが内紛を起こし、西に奔ったも
    のが、いわゆる「百残」あるいは「伯済」と言い、後に至って「百済」と名乗
    ることとなるのである。

    百人の残党を従えて「韓」の地に入った百済に「馬韓王」の思いやりで、そ
    の東界の地百里を割いて与えたという。「コマ族」が内紛を起こし、西に奔り
    最初に拠った所が、今日の中国「遼寧省」西部の「大凌河」流域下游一帯の地
    である。

    しかし、時代が降って北の「鮮卑族」が南下し、又、その背後には「曹魏」
    が台頭し、かててくわえて同族である「高句麗」が遼東方面に侵攻を開始し、
    合わせて西、遼西方面を睥睨し始めた。ここに於いて「百済」は東遷のやむな
    きに至り、海路遼東湾(古の楽浪海)を越えて南の方、「韓」の地に入ること
    になる。

    ここで「韓」の地というと、今日では即座に今の「韓国」方面と受けとめが
    ちであるが、おっとどっこい、そうはならない。言う所の「韓」、すなわち、
    古の「辰国」とは、今の遼寧省「海城市」以南一帯の広大な区域を指す。前論
    でも述べた如く、そこは、「楽浪朝鮮」の南界である。現在においても、「古
    朝鮮」に関する遺趾や遺品は数多く発見されているが、それらを中・朝・韓・
    日の学者たちは、歴史のページにどのように位置付けて語れば良いのか全く分
    からぬままである。

    四、
    このように歴史を分からなくしてしまったのは、嘗ての日本の「御用学者」
    や「軍部」である。一つの例証として、嘗て遼寧省「熊(ゆう)岳城」近辺に
    在った「百済」の始祖「尉仇台(いきゅうたい)」の碑を、日本軍は現・韓国
    方面に持ち去った…という事実がある。

    今、ここで「百済」の始祖を「尉仇台(いきゅうたい)」と言ったが、それ
    はかなり怪しい…と言う御仁も居られよう。いわゆる『三国史記』中に拠ると、
    その始祖は「解温祚(かいおんそ)」となっている筈と。しかし、中国二十五
    史中の「百済伝」を見る限り、「百済」の始祖を「解温祚(かいおんそ)」な
    どとは一言も出てこないのである。これは至極当然のことなのである。

    『三国史記』が編纂されたのは、遙か後世の「高麗」の時代に入ってからで
    あり、その段階で「高句麗」と種を同じくする故に、その始祖を遡って「東夫
    余王」の姓、すなわち「解」を採って詐称したものであろう。中国の文献、就
    中『新唐書』中においては、【夫余の尉仇台、遼東太守・公孫淵の娘をめとり、
    百済の始祖となり、強大になった】旨の記述がある。又、他の文献中において
    も「尉仇台」の名は出てくるが、「温祚」の温の字も見当たらない。

    同時代成立の文献を優先させるということに重きを置けば、中国側の記述が
    正当性を帯びて来よう。しかも、この「尉仇台」は公孫氏の勢力圏内の「故帯
    方の地」に拠ったのである。

    一般に、「帯方郡」とは、「楽浪郡南部都尉治」を切り放し、西暦二百八年
    (二百七年とするものもあり、しかる時は、公孫度に当たる)頃、遼東の覇者
    「公孫康」(或いはその父の「度」の時代とも言われる)が、設置した私設の
    「郡県」であり、漢帝国の直轄地ではない。

    「楽浪郡」そのものが、今日の朝鮮半島方面に設けられたものではない故に、
    その南部と言えば、そこは当然のことながら、今日の「海城市」以南の遼東半
    島方面になる。

    ちなみに、中国歴史地図中を調べてゆくと、この「帯方郡」最後の時期は、
    奇しくも「百済」強勢期に入る「後燕」の世祖「成武帝」の建興十年、すなわ
    ち西暦三百九十五年であり、その治所は「熊岳」である。

    何故にこの時代が、「帯方郡」最後の時期となったのか、これも簡単、「帯
    方郡」は「百済」の併合する所となり終焉を告げることになる。又、その治所
    が「熊岳城」に置かれたということは何を意味するのか。此処がいわゆる「百
    済」の都した「熊津城」だったのである。今日現在語られている如く、韓国の
    「忠清北道」や北朝鮮の「黄海道」方面に存在したものではない。

    「梁」の武帝の天監元年すなわち五百二年、「百済」は東遷している。その
    原因は先に述べた軍事情勢による。この五百二年は又、対外的に国号を「斯廬
    (しろ」から「新羅(しら)」へと改称した年でもあった。

    更に、追って「百済」の所在地について言うならば、『史記正義括地志』に、
    「百済の西南・渤海中…」云々なる語が見られ、又、「拠って遼西・晋平二郡
    を置き、自らも百済郡を置く…」と記録されており、更に、『通典(つてん)』
    中を見ると、「百済、又、拠って遼西・晋平二郡を置く、今の柳城・北平の間
    なり…」とある。

    又、更に追ってみよう。『魏書巻百』中に拠ると、「百済」第二十一代「蓋
    鹵(がいろ)王・夫余慶(ふよ けい)は西暦四百七十一年、すなわち東遷前
    になるが、「北魏」第六代高祖「孝文帝」の延興二年に既に「北魏」の領有す
    る所となった「遼西」方面の返還を要請している事実がある。

    五世紀も後半に至って、「百済」と言われた国が、自らの西方界域の返還を
    願っているということは、この国が何処に存在したものかを雄弁に物語ってい
    よう。

    前に、「百済」は遼西・晋平二郡を置く…と書いたが、その所在地は『通典』
    中に言う如く、「柳城(古の龍城)と北平の間を言う…」と。この北平とは古
    の漢帝国時代の北平郡を言う。これは後「清朝」期に入り、「永平府廬龍(ル
    ーロン)県」となった今日の河北北部の、「廬龍県」である。

    五、
    今日、一般に我が国の学者も、この「百済」の郡県については黙しているが、
    何故か。それは、偽造された史説では辻褄が合わなくなるからである。

    この五世紀初頭から末に至るまで、「百済」の強勢期であり、「高句麗」は
    百数十もの城塞を片っ端から攻略され、その都である「平壌城」すら奪われて
    いる。これでも未だ、「百済」が現・韓国方面と言い張る御仁が居るのならば、
    その御仁も又、古い時代の「皇国史観」を鵜呑みにして「北東アジア史」を眺
    めている「骨董博物館」行きが最もふさわしいアナクロ人間であると確信する。

    日本のある「仏師」の曰く、【我が国の仏教美術の真髄とも言える端正且つ
    尊厳性に充ちた諸仏像は、まさしく「百済仏」の影響と言えよう。しかし、そ
    の源流であるとされる筈の「韓国仏」とは極めて似て非なる物である…と。た
    またま、満州方面の「遼河」流域辺から発掘されたという「満州仏」を見させ
    てもらったが、その時、愕然とした…】と。それは、当たり前のことである。
    何度も言ってきたように、「百済」の国とは、今の韓国方面ではなく、「南満」
    一帯から北朝鮮の「大同江」流域にかけて存在したが故に、である。そのよう
    に解釈するならば、「百済」が「倭」と結託し、「高句麗」に当たったという
    史実も、すなわち今の「韓国」方面に「倭」と称された国が存在していたが故
    に、両者は簡単に結びつくことが可能だったのであろうと納得できるのである。

    然して、その時の返礼として「百済王」から「倭王」に下賜(かし)された
    物が、かの有名な「七支刀(ななつさやのたち)」であったと言える。この時
    点では「百済王」の方がランクが上であり、「倭」はポリス的な存在の集合に
    過ぎない。後世、「新羅」が発展し南下を開始した六世紀後に、「倭」は日本
    列島内に移住を開始し、「百済」が西暦六六五年に滅亡するに至り、その豪族
    たちも又、日本列島に入植するに至る。

    ちなみに、我が国の戦国武将たちの多くが、大内氏や、古くは坂上田村麿に
    至るまで、殆どが「百済」系豪族の末裔である。なお、甲斐源氏は、新羅三郎
    義光の裔(すえ)と、「新羅」出身であることを名乗ったのである。

    六、
    さて冗漫気味になったが、拙者・六無斎は、以前、故・松本清張先生に毒舌
    を吐いたことがある。すなわち、作家として優秀なることは認めるに吝かでは
    ないが、芸術家や作家の方々が歴史を語ると、トンデモナイ方向へと飛躍して
    しまいます!と、申し上げたら、『謎の源流』以外、歴史的なものには首を突
    っ込まなくなった。

    NHKの3チャンネルで、同じく故人となられた東京大学名誉教授・江上波
    夫先生と松本清張氏との対談が放映された折、松本清張氏から江上先生への質
    問として出た言葉が、【先生、「衛瞞朝鮮」とは、今の朝鮮半島北西部方面で
    はなく、現在の中国東北部の「遼河」流域一帯に存在したという発言を受けま
    したが、その実態は如何なものでしょうか…】であった。その時、江上先生は
    言葉を濁し、【いや、まあ、その様な見方もあるようですね!】で終わったと
    記憶している。

    この松本清張氏の質問に、江上先生が言葉を濁した理由は、我・六無斎には
    聞かずとも分かっている次第。江上氏は、白鳥庫吉や鳥居龍蔵の弟子であり、
    旧・帝国大学時代に師に従って韓半島入りし、師匠たちの改竄行為を手伝わさ
    れた一人であったからである。

    又、更なる救いがたい御仁が居る。名を敢えて挙げよう。黒岩重吾氏である。
    彼は既に虚構改竄史の虜となり、それを前提としてやたらに「卑弥呼」につい
    ての推理本を出していたが、氏にも六無斎は史料を差し上げているのに、馬の
    耳に何とやら、般若・浄土はた又、華厳経を唱えてみても残念ながら分からず
    仕舞いでお亡くなりになられた。

    七、
    高松塚や北鮮の古墳群の殆どが、「高句麗」ではなく、「百済」文化である
    と理解されるのは、百年後のことと相成るのか、余り期待はかけられないと予
    想している。

    官にいるアカデミストに於いてをや、野に居て名声を上げるために敢えて埋
    め戻し作業を秘かに行った御仁もつい最近に存在している。しかし、戦前、国
    家権力のもとになされた大規模な「犯罪行為」を検証し糾弾しなければ、歴史
    を正しく語ることは全く不可能である。

    ことの善悪は時代の流れが、やがて解明するであろうと一縷の望みを懸ける
    が、六無斎には何時までも被害者面をしてユサブリをかけ、物や金をせびる国
    は余り好きにはなれないし、又、何時までも加害者として卑屈になっている国
    も容認できない。既に、もはや戦後70年になろうとしている。

    又、歴史教育を監督する「文部省」の名称が「文部科学省」に変わっている。
    「科学」が付くと、耳に心地よく聞こえるけれども、その集団のお役人たちの
    殆どが「脳硬化症」を患っている様である。「脳梗塞とか脳貧血」は治るが、
    「脳硬化症」は完治しないと言われている。いずれにしても誤った歴史解釈を
    完治するには、気が遠くなる程の時間が掛かるのであろう。

    八、
    蛇足ながら、最後に一言付け加えて筆を措くこととしたい。「卑弥呼」とは、今日の日本人ではなく、多分に現・韓国方面に雑居していたポリスの「女酋」を指している。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは日本人だけであり、漢人は「ピミフ」と発音する。どう考えても、日本人ではあり得ないと確信する。
     

         

黒ユリ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です