「『昭和の戦争』について」 (三)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第一章 「昭和の戦争」前史

第五節 複雑な国際情勢の出現――一九一〇から三〇年まで

 さて、日露戦争後、我が国と諸外国との関係に注目すべき変化があった。その第一は、米国の対日姿勢の変化である。講和条約締結に斡旋の労を取った見返りとして、米国は満洲市場への参入を要求してきた。我が国はそれをヤンワリと拒否した。満洲問題はロシアと清国との関係も複雑で、米国の参入が満洲問題を更に困難にするのを懼れたためである。米国はこれに気分を害した。日本を仮想敵とした米国海軍の有名な「オレンジ計画」は一九〇六=明治三九年に策定開始された。

 一九〇八=明治四一年一〇月には、戦艦六隻の世界一周米国親善大艦隊《ホワイト・フリート》の横浜寄港がある。親善訪問とは謳われたが、明らかにガン・ボート・ポリシー=《砲艦外交》の発動であった。比較的好意的だった米国が、新興日本帝国の予想外の擡頭に対して今度は急速に警戒感を深め始めたのは皮肉な運命であった。ちなみに言えば、日本は基本的には「親米」的姿勢を変えていなかった。

 注目すべき第二は、日露協商の締結による日露協調関係の出現である。ロシア帝国は、満洲北部に退却して、日本との協調を望むようになる。ここに、東アジアでの勢力均衡を求める日露協商体制が登場した。だが、日露協調時代は、一九一七=大正六年にロシア革命でロマノフ王朝が滅亡するまでの、およそ十年間の寿命だった。

 注目すべき第三は、清王朝(北京政府)の対日強硬姿勢の出現である。清帝国がこの段階に至って南満洲の領有権と利権回収を要求し始めたのである。確かに、満洲は清国皇帝=愛新覚羅氏発祥の地で特別の地域だ。だが、清帝国は、満洲防衛の努力を長らく放置して、ロシアの満洲占領を容認していた。もし、我が国が国運と国力を賭けてロシアを北方に退けなければ、或いは日本が敗北していたならば、当時の国際情勢の流れから考えて、清国はロシアに丸ごと占領=植民地支配されるに至った可能性は高かった。だから、清国の主張は、自らの立場も責務も弁えず、我が国の必死の苦労を無神経に無視するに等しい遺憾な主張だった。ロシア帝国の南下の圧力が弱まった途端に、日本の奮闘努力を眼中に置かない支那の独善的な横暴が露見して来たのである。

 支那政府は、国際社会に「日本の貪欲な侵略」などと訴えて、同情を引き出そうと宣伝工作に取り掛かる。虚偽によるプロパガンダ攻勢に支那民族は長けているようである。満洲への進出を欲する米国が支那に同情する。日露戦争前とは一転して、東アジアに新たに日露提携・対・米支接近と言う構図が出現したのである。

 

第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況

 
 さて、一九一一=明治四四年十月に辛亥革命が起こり、翌年一月、共和制を唱える中華民国が成立、清王朝は滅亡した。長らく日本有志の支援を受けて支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大総統に撰ばれたが、謀略家袁世凱(清王朝重臣、北洋軍閥首領李鴻章の後継者)に権力を奪取された。袁世凱は三月十日、臨時大総統就任後に首府を北京に移し、巧みに政局を操った。しかし、五年後の一九一六=大正五年、力量を過信して皇帝即位事件で躓き、失意の内に頓死した(六月六日)。支那全土は、忽ち軍閥割拠の混沌状況に陥り、内戦は一九二八=昭和三年十二月に蒋介石国民党が支那統一に略々成功するまで約一二年間続いた。

 この大混乱は、満洲にも波及し奉天軍閥張作霖が台頭、張は初め北京政府に服従したが、袁亡き後、北洋軍閥は安徽・直隷・奉天の三派に分裂、北京政権争奪戦を約十年間繰り返す。結局は一九二二年と二四年の奉直戦争で張作霖が勝利、一九二六=昭和一年に北京政権を掌握した。だが、この間の覇権争奪戦中、張の故郷満洲経営は杜撰を極め、匪賊・盗賊が満州の荒野を徘徊する情況になった。日露戦争後、ポーツマス条約に基づき日本が管轄した南満州鉄道及び付属地一帯は我が関東庁と関東軍司令部の尽力で秩序を保ち、多くの難民が流入したのである。

第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響

 欧州大戦が、一九一四=大正三年七月から、五年間継続(一九一八=大正七年一〇月)した。凄惨な近代戦争でヨーロッパ諸国は勝者も敗者も甚大な打撃を蒙った。また大戦の最中、一九一七=大正六年三月、ロシア共産革命が起こりロマノフ王朝は滅亡した。シベリア出兵もこの大戦中にあり、米国の日本への不信感を深める要因の一つになる。

 ところで、戦場が遠方だった日本と米国は参戦したが経済成長をものにした。歴史教科書的説明では、大戦で日本は経済的に潤い、成金が時代の雰囲気を代表し、都市化・産業化が進み新思潮大正デモクラシーの高まり社会主義運動の成長などと国内動向の変化のみを強調する。確かに、ヨーロッパの変動が思想・経済・社会情勢に大きな影響を与えた。

 ロマノフ王朝の滅亡で日露協商関係は自動消滅した。そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視しすぎてきたと私は思うのである。

つづく

「「『昭和の戦争』について」 (三)」への12件のフィードバック

  1. 「日本の歴史学会はソ連礼賛だった弊害ですね」

    > 共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革
    >命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡
    >へと誘う不気味な魔の手だったのである。

     全くその通りだと思います。。。

     日本でもソ連の大物スパイであるゾルゲ事件があったし、米大統領のルーズベルトの側近にもコミンテルンのスパイがいました。。。

     大東亜戦争は、実はスターリンの謀略だったという研究も出ているそうです。。。
     

    > 我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視
    >しすぎてきたと私は思うのである。

     歴史学会はすべてマルクス共産主義思想に染まっていますからね、ソ連に批判的な研究なんて絶対にやりませんし、事実を知っていても無視するのでしょう。。。

     社会学だって、私がいた大学では、「マルクス思想」を研究している(?)教授がいて、授業でソ連の批判とかしたら、ものすごい機嫌が悪くなって意地悪されたことがありました。。。(中国を批判したら、ワケの判らない呻き声を上げたな(苦笑))

  2. 「あいつは許せんな、しかし」

     某アンチ西尾サイド一色掲示板で、自称・西尾先生の弟子だったミットモナイトな人物が変な投稿をしていた。。。

     つくる会の文書を、自分のブログで写真公開しているらしい。。。
     だから何だってカンジなんだけど、どうもあれで揶揄(痛烈な批判(?))しているつもりらしい。。。

     程度の低い人間だ。。。

     それに同調している管理人の人間性も疑わざるを得ない。。。
     西尾ブログが立ち上がったとき以来、ずっとお世話になっていたのだが(初期の西尾ブログ掲示板の管理者だった人)、どうやら居場所を間違っていたようだ。。。(--)

     あそこまでヒドイ書き込みがあるような掲示板は、追い出されて幸い、むしろこちらから投稿するのは願い下げにしたいですね。。。

    (他に、ちゃんと受け入れてくれる掲示板もあるしね♪)

  3. Posted by 松田

     事実関係的なところなので特に異論はないのですが、全体として侵略—防衛という対比があるせいか、外国の企図や世界戦略に対して、日本のそれがどうだったのかがあまり描かれていないと思います。日本はただただ世界の流れに右往左往しているだけで、まさに防衛だけしているような記述になっています。でも、それぞれの国にはそれぞれの企図、世界戦略があるはずであり、それがどううまくいったのか、いかなかったのかの検証が世界史を解釈する上で、とくに自国の観点からは重要だと思います。自国の視点を欠いた世界史というのも妙なものだと思います。これも学校左翼教育の悪い影響でしょうか?

    >そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。

     たしかにこれは重要だと思います。ヒットラー台頭の遠因は、第一次大戦末期に背後の国内で起こったマルクス主義者の反乱(1918 ドイツ革命)にある。国際共産主義の名の下に、戦争を戦っている民族国家の運命をないがしろに、銃後で革命蜂起を起こした。これがゆえに、戦況としてはさほど負けていなかったのに、ドイツ帝国は不本意な講和を結ばざるを得ず、その結果予想を越えた報復的な賠償要求に、皇帝は退位し、国民は塗炭の苦しみを味わうことになった。こうした、民族共同体という視点を全く無視した国際共産主義に対して、右と左が合同するという、ヒットラーの国民社会主義が生まれたわけです。

     ロシア革命についても同様でした。日露戦争中、そして第一次大戦中とロシア国内の左翼分子が、戦争中の国家の背後で革命を起こした結果、国家自体は不本意な講和を受け入れざるを得なかったり、革命によって王朝が消滅してしまったりした。

     こうした国際共産主義者※の裏切り(もちろん彼らの論理では裏切りではないのでしょうが)に対して、各国はその後苛烈な共産党弾圧を敷いたので、第2次大戦中には、同様の左翼蜂起は不可能でした。かわりに、日本でも右と左の合同として生れたのが北一輝らの国家社会主義でしたが、そのクーデターはあまりに拙速だったため、不敬という点で成功しませんでした。ただし、この政治思想の流れは形を変えて、その後も鎮圧した側の政権において続いたと思います。

    ※マルクスの国際共産主義というものに対して、保守側からの分析が不充分だと思います。これを単に経済・政治学的な側面からのみ論じるのでは充分ではありません。

  4. 「失礼しました」

    >ニッケル様

     私に対する感想の投稿があったのを、見落としていました。。。(^^ゝ

     まったくおっしゃる通りで、あの時期はちょっと情緒不安定だったと思います。。。(^^ゞ

    > 普段は尊野さまのコメントに首肯させられることも多いの
    >ですが、最近の乱発されるコメントの中には首を傾げるもの
    >もあります。
    > どうかここでもう一度緊張感を取り戻していただきたいと
    >思います。ご無礼をお許しください。

     肯定的なコメントを寄せて頂いてありがとう御座います。。。(^O^ゝ

     確かに、ちょっとおかしな投稿もしていました、申し訳ないです。。。(-へ-)

     これから、ちょっと心を入れ変えて頑張ってみようと思っているので、今後ともよろしくお願い致します。。。m(_ _)m

  5. つまり日本を守るため朝鮮を支配し、朝鮮を守るために満州を支配し、満州を守るため北支を支配し、北支を守るために、南支を支配し、援蒋ラインを封じるため、インドシナを支配し、それで石油止められたから、スマトラを支配し、スマトラを守るため、フィリピンとニューギニアを支配し、ニューギニアを守るため、ガダルカナルを攻撃した・・・と、
    つまり全て防衛のための戦争だったわけですな。大変勉強になりました。有難うございました。

  6. ねむさん>
    はじめまして。

    >つまり日本を守るため朝鮮を支配し、朝鮮を守るために満州を支配し、満州を守るため北支を支配し、北支を守るために、南支を支配し、援蒋ラインを封じるため、インドシナを支配し、それで石油止められたから、スマトラを支配し、スマトラを守るため、フィリピンとニューギニアを支配し、ニューギニアを守るため、ガダルカナルを攻撃した・・・と、
    >つまり全て防衛のための戦争だったわけですな。大変勉強になりました。有難うございました。

    私はねむさんの意見、それはおそらく批判的な意味で書かれた意見だと思いますが、これは欧米の論理そのものだったと私も思います。福地先生の正直な点はきちんと日本は欧米の論理を取り入れてとお書きです。欧米と日本の違うのは欧米列強は国際法のルールを自分で決められますが、日本はその決められたルールに従ったのは違うでしょうけど。

    欧米の論理というのは自国の国益を最重視しますから、お書きの論理が欧米の論理であっても決しておかしくはありません。弱肉強食で強いものが正しく、ルールはジャイアンが決めるとでもいうのでしょうか。日本の場合は欧米ほどえげつなくないですが。

    ねむさんのお書きと同じことは戦後に生じたベトナム戦争の背景にあった米国のドミノ理論でも起きています。
    実際にはベトナムから米軍が撤退しても周辺国のすべてが共産主義国家になったわけじゃないからドミノ理論の評価はもう少し時代を経ないと評価できないでしょうけど。
    明治以来百年を超えていますが、日本の近代史ももう少し時の熟成が必要なのかもしれません。おそらく中国や朝鮮が自己の思想を自覚し、長所と欠点を理解したうえで、欧米の思想をさぐり、その長所と欠点を自覚できていたら、日本の近代史は違っていたでしょう。

  7. 尊野様へ

     某所の最近の情況については、小生もいささか心を痛めておりますが、管理人氏の規程だと、投稿禁止の前に何度か警告がある筈ですが、尊野さんに対して最近警告が発せられた記憶がありません。
     それに、基本的に尊野さんと同趣旨(言い方は多少考えていますが)の小生が、いまだに警告を受けず、投稿可能になっているのですから、また早とちりをされているのでは?

  8. 機械計算課長こと松井康雄さん、

    ねむさんの「皮肉」とあなたの言われる「ドミノ」理論とは
    似ている点もありますが、基本的に違います。

    ・・・つまり日本を守るため朝鮮を支配し、の「守る」は
    本当に「守る」のだったのでしょうか。
    Aを守るためにBを、またそれを守るためにCを・・という「連鎖」となれば果てしない紛争しかありません。
    「守る」というなら、せめてBでとめておくべきでしょう。
    「守るための連鎖」は、外(外国)から見れば侵略の連鎖
    でしかありません。こういう勝手な論理が通用するわけがない。

    「ドミノ」はくいとめる方であり、守るという名の侵略とは
    違います。

    「欧米の論理」というのがよく分かりませんが、よろしけれ
    ばご説明ください。

  9. 「欧米の論理」に対する私の理解

    vagabondさん>

    米国がベトナム戦争に介入したのは背景にドミノ理論があることは同意していただけましたね。守るも攻めるも同じであって、守ったものが正義で攻めたほうが不正義であるなんて理屈はありません。もっとも戦争責任という言葉があり、そこには開戦責任という分類用語はありますけど。

    その判断した理由を述べましょう。

    実に興味深いことをお書きです。
    (引用開始)
    ・・・つまり日本を守るため朝鮮を支配し、の「守る」は
    本当に「守る」のだったのでしょうか。
    Aを守るためにBを、またそれを守るためにCを・・という「連鎖」となれば果てしない紛争しかありません。
    「守る」というなら、せめてBでとめておくべきでしょう。
    「守るための連鎖」は、外(外国)から見れば侵略の連鎖
    でしかありません。こういう勝手な論理が通用するわけがない。
    (引用終わり)

    私は欧米の論理(現在では日本以外中国や韓国、北朝鮮も同じでしょうけど)に従えば貴方のおっしゃる勝手な論理が國際社会では通用しているのです。
    というのは弱肉強食が論理の前提なんですからそういう結論にならざるを得ません。俺は日本人としてそんな品格に劣ることはスカンという個人の心情であるならそれは私もそうよと同意します。

    国際法そのものがある意味で強者が決めたルールという側面があります。強者というのは当時の列強です。日本人はトップに立った人間は徳のある人を好みますし、進化した文明はより正義を成立させていると思い込みやすいですけど。
    レーガンが軍拡競争でソ連に勝利しましたがあれも経済力を利用した弱肉強食そのものです。
    チャンバレンがヒトラーから平和を得たチェコのズデーデン地方分割も結局当事者であるチェコは蚊帳の外でした。この話は<守るための連鎖」は、外(外国)から見れば侵略の連鎖でしかありません。こういう勝手な論理が通用するわけがない。>に対する反論を説明するための当時の國際社会に於ける列強が決めたルールの事例です。チェコの立場で考えればそんなバカなことがあっていいのかと考えるでしょう。こういう勝手な論理が当時の国際社会では通用しているわけです。
    おそらく守るという点だけ取っても現代中国に於けるチベット侵略やウイグルなどの侵略も中国の中華主義だけじゃない、自分の勢力範囲と認定した場所が独立を果たすと中華世界全体が崩壊するというドミノ理論に似た論理があるのでしょう。同様にソ連が衛星諸国が自国の独立・自由を求めた運動に対して徹底的に抗戦しましたが、当時の國際社会は手をこまねいてみているだけでした。

    欧米が自国の国益を最重要なものと捉えていると私は何度か書きました。中国や韓国を見ないでも国益のためには平気で侵略をするのが普通の国家です。理由は防衛行動とか自由を守るためとか理屈を言いますけど。
    ドミノ理論はベトナム戦争で使われたのですよね。ドミノ理論に従えば共産主義国家が変質するかなくならない限り永遠に戦争は続いたでしょうよ。封じ込め理論とは一方で戦争を行う論理にも使えるからです。
    米国から見れば北ベトナム政府民族統一という看板を掲げた南ベトナムに対する共産主義者の侵略という認識でしょうが、当時の日本人の多くは民族統一運動でベトナム民族による政治的立場を超えた祖国防衛だという認識で、ベトナムに対する米国の侵略という認識でした。だから青臭い若者の同情票が多かった。実際にベトナム戦争後、ボートピープルが発生し、またその後東南アジアの平和を荒らすのは中国の支援を受けた共産主義者ゲリラだったわけですが。

    欧米の論理という意味は日本の歴史と対比したらいいのです。日本はしばしば鎖国を行い、一時期は国防軍まで全廃しました。江戸時代中期には女性が主要街道を歩けるほど安全が保障されていました。江戸という世界有数の都市で公式な警察官僚が百名程度というのも驚きです。戦国時代(1493年頃-1573年頃)という日本では珍しい長期の戦乱を抱えた時期ですが、この程度の戦乱は欧州では別に驚くべきことじゃない。モンゴルの襲来による都市破壊や頻繁に起こされた戦争や疫病による大量死、イスラムとの戦い、欧州内部での権益争いを見れば日本の戦争なんか子供の不純性交程度でしょう。

    私は米国がネーティブアメリカンにやってきたことを見れば、日本がすでに絶対国防圏を破壊された状態でそのうえで日本に原子爆弾を投下したのは決しておかしくないと思いますよ。またはローマがカルタゴに勝利した後で土地に塩まで撒いてカルタゴの再興を防いだという歴史を見てもそうだと思う。彼らには武士の情けなんかないんだから。やられたら百倍にして返して二度と立ち上がれないようにするのが原則でしょう。

    もともと欧州はそんな豊かな土地じゃなかった。
    そんな土地で年がら年中戦争や懐疑主義が背景にある論理をリーダーが使っていたら相手をまず無条件で信じるような心性が生じるわけがない。

    そういう心性のところで生じた思想が唯物論であったり、ユダヤ教に端を発する人間は原罪を持っているという思想であったり、人間は神の造作物であったり、社会を割り切ってメカニカルに見る習慣であってもおかしくはないでしょう。こういう世界では単純なわかりやすい心性を無視した論理ばかり発達してターミネーター因子がないですから幾らでも戦争が続きます。仮にドミノ理論でも同じです。ドミノ理論が正しければ共産主義国家が変質しない限り戦争は続きます。そしてそれは守ることと攻撃することとは関係ない話です。

  10. 機械計算課長こと松井康雄さん、返信ありがとうございます。

    あなたの文章を何度か読みましたが、正直言って全く理解できません。
    「欧米の論理」とは要するに、「勝てば官軍」ということなのでしょうか。
    これならば、日本でも同じではないでしょうか。

  11. vagabondさん>
    せめて何がおかしいかを説明してくれないと返事のしようがありません。ただ「勝てば官軍、負ければ賊軍」を言っているのかなという返事がありましたから、そこの部分だけ返事しておきます。

    この言葉と同義語が欧米文化にあるかないか知りませんが、もしも類似の言い回しを探すのなら彼らの場合は「目的(国益)のために手段を選ばず」でしょうか。

    「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉の発生は江戸末期から明治維新に続く維新戦争の時のことでしょ。尊皇攘夷の掛け声の下で尊王の志が高くかつ神道を信仰していた会津藩があれほど酷い仕打ちを受けるのは矛盾があるという点を指摘しているのでしょ。別にこれは欧米文化の影響じゃないという意味で反論を書かれたわけだ。

    私は「種のないところには幾ら肥料や太陽を当てて、水を給水しても雑草でさえ生えない」と考えています。日本が12世紀レベルと酷評された時代に一気に19世紀のレベルになったように見えるのはそれが出来る何か種(メカニズム)があったはずです。その日本固有のメカニズムに「勝てば官軍、負ければ賊軍」と批判されるようなものがあったのでしょ。いわば種です。

    しかし種を大きくしたのは西洋の影響が大きいと思いますよ。
    近代化=西洋化なんですから。
    江戸時代に作られた行動様式や思想のパターンを考えれば近代化=西洋化というのは技術や軍事だけは西洋化して其の他の人間の相互関係などは西洋化しないという方針があったわけじゃありません。明治初期にすでに東洋は文明程度が低く、西洋は優れているという認識はおかしいという議論は確かにありました。でもそういう議論の多くは旧弊な反近代化主義者とレッテル貼られて終わりでした。

    私は日本が明治維新以降に国家主義傾向を高めたといわれていますが、仮にこの認識が正しいならやはりその大きな理由は欧米の植民地政策のえげつなさがあると考えています。考えてみてください。日本が不平等条約を全部解消できたのが明治末期です。日清戦争と日露戦争の勝利があったから日本が西洋並みの国家だと認められたのです。勝利がなけりゃこんな風にはなっていないでしょう。そこでは戦後に作られた思想「植民地化はいけないことだ」なんかありませんでした。これはベルサイユ条約の時期でも日本の植民地の解放を唱えた議論は相手にされませんでしたし、そして戦後での英国や仏蘭西の戦勝国の植民地は残りました。

    貴方は「アメリカの鏡・日本」という本を読まれたことはありますかね。訳者がこんなことを書いています(途中省略)。

    ○原題を直訳すると「アメリカ人(複数)のための鏡・日本」だが、このタイトルで筆者ミアーズがいおうとしていることは、こうである。「近代日本は西洋列強が作りだした鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ。」
    ○「私たち」には近代日本の犯罪に西洋文明が深く係わったというミアーズ自身の痛みが込められている。
    ○ミアーズの「私たち」は、アメリカという国家であり、アメリカ国民であり、あるいは欧米植民地主義国家であり、西洋文明であり、キリスト教社会である。

    日本人が最近書いた日本擁護の本 松原久子「驕れる白人と闘うための日本近代史」という本でも目次だけ見ると次のような項目があります。
    (途中省略)
    第九章 高潔な動機 
    「白人奴隷」を商品にしたヨーロッパの海外進出

    第十章 通商条約の恐ろしさ
    日本はなぜ欧米との「通商関係」を恐れたか

    第十一章 茶の値段
    アヘンは「中国古来の風習」だと信じている欧米人

    第十二章 ゴールドラッシュの外交官
    不平等条約で日本は罠に陥った。

    第十三章 狙った値上げ
    関税自主権がなかったため

    第十四章 頬ひげとブーツ
    欧米と対等となろうとした明治政府

    第十五章 猿の踊り
    日本が欧米から学んだ「武力の政治」

    第十六章 たて糸とよこ糸
    今なお生きる鎖国時代の心

    この第十五章 猿の踊り という表題は侮辱的ですが、鹿鳴館時代の欧米から日本人を見れば真似っこ猿が踊っている程度にしか見えなかったという意味です。『日本が欧米から学んだ「武力の政治」』とはミアーズの論説の『近代日本は西洋列強が作りだした鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ。』を思わせるものがあります。

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