ハンス・ホルバインとわたしの四十年(九)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

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エラスムスの肖像画:ホルバイン

 北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。

 そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです。

 彼は四つの古いギリシア語写本を資料として見つけていて、教会が必ずしも好まないことをします。聖書の写本断片と自分の拙いギリシア語の力で聖書のオリジナルを復元し、キリスト教の神に関する真実を知ろうとしたのでした。

 西洋古典文献学と聖書解釈学がその後互いにからみ合って進展するヨーロッパの精神史の発端をなすエピソードといってよいでしょう。

 ヨーロッパ人が自己同一性(アイデンティティ)を確立するのに、15-16世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教も儒教も外から来たものですが、日本人はヨーロッパ人のように、仏典や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を知りません。

 ヨーロッパの各国における言語ルネサンスがまずギリシア語の獲得に向かったのは当然です。その後科学的精緻さを駆使して、古典古代の研究が激しく情熱的に燃えあがったのも当然です。

 聖書がばらばらに解体され、文献学的解釈学によって相対化のきわどい淵にさらされたのも当然です。

 彼らの破壊は神を求めるパッションの表現そのものでした。

つづく

「ハンス・ホルバインとわたしの四十年(九)」への2件のフィードバック

  1. 尊敬する西尾先生、
    はじめてコメントさせていただきます。先生自らお創りになった会を退かれ、思索の場へとお戻りになられたこと、一読者としてうれしく思います。時局に関わらずにおられなかった思想的、理論的経緯は御書からも愚察致しますが、私個人としては、『ヨーロッパの個人主義』や、『人生の価値について』等を愛読しています。「ハンス・ホルバインと私の四十年」、いまだ継続中ですが、すでにヨーロッパと日本の精神をめぐる先生の深遠な思索が見られ(schon dargestellt)、次回がいつも楽しみです。くれぐれもご自愛くださり、より豊かな哲学的、思想的収穫をあげられることを、ここ冷夏のドイツで祈っています。

  2.  このホルバインの話は面白いですね。
     本当はアイデンティティーに苦しむことがないはずの日本が、なぜか対外的な場面では、自己というものを忘れてしまったかのように行動してしまう、何か問題があれば、自分の責任だと思ってしまうような事例が歴史的には数多く見られるように思います。
     例えば、血盟団事件があります。この事件は日蓮宗の僧であった井上日召が同士と共に起こした連続テロ事件でしたが、彼らの本音は「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というものでした。こうした動機から、政党政治家や財閥重鎮などの命を狙うのですが、こうした行動をとってしまうことに、日本人としての弱さを感じずにはいられません。どうして日本人には日本人の敵しか見えないのでしょうか?
     今だからこそわかることなのかもしれませんが、ソビエトは上海やベルリン、パリなどに情報網を張り巡らしていました。20年代中頃から、ソビエトの情報活動は精力的な活動を見せるようになります。また、前年の31年に起きた満州事変に対して警戒して眺める米国、英国の存在もありました。加えて、30年には、世界全体が恐慌の波につつまれようとしていたのに、金解禁を実施し経済的な混乱はますばかりでした。この時期の日本の歴史を素直に眺めれば、無言の圧力が日本を取り囲む中で、日本人自身が方向感覚を失っていく、そんな印象を免れることができません。たしかに、政党は腐敗していましたし、それに比べれば軍属の方が遙かに健全に見えたという事実はあるのでしょう。しかし、なぜそこで外への視線が曖昧になるのでしょうか。アイデンティティーがはっきりしないからこそ、既存の秩序を破壊することになっても、外国の古典の中にオリジナルを追求した西洋と、感性的な次元ではアイデンティティーが確立されているにもかかわらず、異質な他者と対峙した場合に、自らの錯覚から同一視するか(中国)、ひたすら相手に合わせようとするか(英米)、あるいは逆ギレして対決するか(国連脱退)といったちぐはぐな対応しかとれない日本との相違は現代もなおなくなってはいないように思えます。感覚的にはわかったつもりになっているので声を荒立てては主張はしない。しかし、その結果外交的には逆に苦境に追い込まれていく。近代の日本の悲劇は、日本人が自らの正しさを、相手にもわかるように、あるいは相手が理解するまで、繰り返し繰り返し、しつこくしつこく説明してこなかったことにあるように思えます。そうしたところで紛争はなくなりませんが、あくまで自己の正当性を譲らないという精神性はついに獲得できなかったように思います。こうした悪循環を断ち切るためには、我々自身が異邦人にならざる終えないのかもしれません。あるいは異邦人の言葉を身につけなければならないのかもしれません。こうした異邦人の言葉の方言の一つがたぶんインテリジェンスなのでは、と最近では考えています。

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