ハンス・ホルバインとわたしの四十年(十)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 しかし程度の差はあれ、古典のオリジナルの消滅とその再生のテーマはわが国においても同様です。わが国にはヨーロッパとは異なる独自の困難な条件がありました。

 自らの言語の表音体系を表意文字で表していた矛盾が、江戸時代に入って、歴然と口を開けます。

 荻生徂徠は漢文の訓読みを廃して、唐音に還ろうとします。本居宣長は儒仏を排斥し、純粋な古語に戻ろうとします。

 神道、仏教、儒教の三つの神は習合していたようにみえ、かなり自覚的に三すくみ状態になります。それぞれ固有の神を求めるパッションは一挙に高まります。

 その中で契沖は決して排他的ではありませんでした。人々がまだ文字を持たない単独素朴な時代、神々をめぐる口頭伝承のほか何も知らないナイーヴな時代に、表意文字が入ってきて、文字で自らの音体系を表現した「万葉仮名」の解明は、エラスムスを駆り立てた聖書のギリシア語訳の努力にも似た、あるいはそれ以上の困難な謎の探求でした。

 校合に客観的で、内証に科学的であろうとした契沖の情熱は、ほとんど信仰者のそれです。「本朝ハ神國ナリ」の叫びは本然のもので、何の不自然もなかったはずです。

つづく

「ハンス・ホルバインとわたしの四十年(十)」への4件のフィードバック

  1. 私は西尾先生がおっしゃられるような表音体系と表意文字のミスマッチ(矛盾)が江戸時代に表出しただけでなく、徂徠はひたすら支那に憧れて和音を離れ唐音に近づこうとし、宣長は日本人の原初の魂に深く想いを致し古語に接近しようと儒仏を疎んじた激しい想念があったのだと愚考します。
    和音と漢字が合体融合した言語文字体系を破壊しようとするデーモンが徂徠や宣長の心に宿ったことは江戸時代の文化学問レベルの高さを物語っているのではないでしょうか。
    そのレベルの高さがそれぞれの激しい想念が衝き走るのを可能にしたとも云えます。
    帰化人が持ち込んだ文字が表意文字であるのを幸い、文字の意味に照らして和音を充て、二字以上の熟語には原音を残しつつ和語を充て、日本語の助詞語には原音をそのまま充て活用しました。
    融通無碍に見えますがこれが悪戦苦闘の連続であったことは先生の説かれる論の通りだと思います。
    日本民族はおおらかな大和心で数百年かけて漢字とその文化を日本語と日本文化として咀嚼服膺しました。
    古代に大陸から流れてきた帰化人たちが我々の祖先と親和したことがまず僥倖であったのでしょう。
    それには優れた文物を持ち込んだ大陸人を感化するだけの高い感受性を当時の日本人が持っていたからでもあるでしょう。
    始まったばかりの『江戸のダイナミズム』シリーズをワクワクして拝読致しております。先生の健筆に期待しております。

  2. 「江戸のダイナミズム」とはかなり関係ない話題になりますが、先日テレビで得たお話をさせていただきます。
    日本語の最大の特長は母音の多用性にあるそうで、例えば、「クリスマス」という言葉を丁寧に発音すると「ク・リ・ス・マ・ス」と一字一句分けて発音するのが日本語の最大の特長だそうです。
    ところが英語国圏の方々は「クリス・マス」というふうに、子音を纏めて区切ることしか出来ない。
    つまり母音を一々ハッキリさせる音の概念が無いのだそうです。
    日本人が英語を不得手とする最大の原因がここにあるんだとか。
    確かに彼等の発音は慣れるまで本当に解らない。
    任天堂DSのソフトで英語の発音シリーズがありますが、まったく聞き取れません。
    「What time is it now?」
    という言葉を・・・
    「掘った芋いじるな」と発音したほうが、彼等には聞こえが良いという話しは有名ですが、いずれにせよ日本語というのは実にフレキシブルで、しかも無秩序ながらも整然とあり、一つの言語を何通りにも表現する懐の深さには、我々自身が一番驚くはずです。

    言葉と言葉を繋ぐ助詞の存在が、せちがないデジタルな世界の言葉とは大きく掛け離れた位置に存在していると言えるのかもしれませんね。

  3. 言葉に関していうとまったく素人の感覚で.まったくの騒音と受け取ってもらっても仕方がない文章ですが。

    偉大なひらがなの発明を述べる必要はありませんが、仮に日本人が日本語で考えているという前提に立つと、現在の日本語は漢字という表意言葉を無視しては使いにくいでしょう。というのは日本語の音節の数というのですか、アイウエオから始まってンまでにいたる音と濁音と半濁音と文節の区切りを示すカンマやピリオドやギャなどで示される音も含めれば百程度しかないからです。

    一部オピニオン掲示板にも書きましたが、次のような文章はやはり書き言葉を前提にした噺でないと理解しにくいでしょう。

    (引用開始)
    以下は「雑俳」という落語に出てくる文章ですが、これは同音異義語の混乱を利用した面白さに近い印象がします。まずひらがなだけで書いてみます。寄席でこの噺を初めて聞いたときなんだか面白くない噺だなと思ったものです。その面白さに気付いたのは落語を本にして読んだ後でした。

    「さんのうのさくらにさんえんさんさがりあいのてとててとて」
    これは「山王の桜に三猿、三下がり。合いの手と手手と手」です。

    「東京の山王神社に桜が咲いている。桜には三匹の猿が手をつないでぶら下がっている」とでも言うのでしょうか。
    三匹なら手の数がおかしいのは愛嬌ですが。「合いの手と手手と手」とは木にぶら下がった猿の手が一本、もう一本の手は別の猿の手とつながっています。そして猿どうしがつないでいる手が手手なんでしょう。それならば「合いの手と手手と手手と手」で六本の手とでも書きそうですが。これは噺の落ちとの関係でこうしたのでしょう。
    (引用終わり)

    私は英語を早い時期に子どもに教えるのはやめたほうがいいという意見ですが、それは書き言葉、すなわち漢字が入った言葉によって日本人は考えているのじゃないかと思うからです。近代になって同音異義語が増えましたがこれは一方で漢字という表意言語を使うことによって書き言葉では音節の少ない部分をカバーしているように思えてなりません。これは話し言葉で考えるには頭の中でいわばワープロの日本語の音節を漢字に変換する操作をして考えているのではないかという感覚です。仮にそうだとすると子どものときにやるべきことは漢字を含めた語彙を増やすことであって、それは決して英語教育を行うことではないわけです。

    幸運か不運かわかりませんが日本には漫画文化があります。そして多くの漫画は漢字部分にフリガナを振っています。画像処理により全体の文脈は理解しやすく、またこれにより漢字の読みは文部省が指定した範囲を超えた能力がついているのではないかと思っています。一方で文脈を考える苦労がありませんからそういう意味では自己の言語研鑽にはなりにくい面もありますが。

    話し言葉ではイントネーションや強弱、間の取り方で相当に補強されますが、やはり最後は文脈で考えるしかない。文脈で考えることはどの言語でもそうなんでしょうけど日本語はその側面が強いのではないでしょうか。文脈で考える側面が強くなると言葉の単語一つ一つに多様な意味(同音異義語も含めても)が存在しますから、どうしても微妙な言い回しになると文章が長くならざるを得ない。まあこれは私が俳句や短歌の持つような表現力を持っていないという欠陥もあるからでしょうけど。

    日本語というのは日本文化の反映か、逆に日本文化が日本語の反映かはそういう命題に答えるすべはありませんが、どちらにしろ面白い言語です。

    私は英語は技術英語しか理解できませんから間違えていたら指摘してほしいのですが、英語の場合は文章の位置によって機能が固定化されるのでしょ。専門的にどういうのか知りませんが主語、動詞、目的語とでもいうのでしょうか。I am ”YASUMO”。という語順で先頭に来るのは主語とみなすわけです。日本語はそうじゃない。”I”(私)という単語一つみても省略されたり、異音同義語が沢山あります。「私」という日本語の異音同義語を探すと十数個ありやしないですかね。「わたし」、「わたくし」、「ミー(英語の転用)」、「我輩」、「自分」、「俺」、「俺様」、「おのれ(己)」、「自分自身」、「みずから」、「僕」、「おいら」、「○○ちゃん(子どもが自分を呼ぶ場合)」、「あちき」、「あっし」、「自身」、「自己」、「朕」、「手前ども」・・・手紙で「足下」と書いてあったような文章もあったような。

    エスキモーの「雪」という言葉は非常に豊富なんだそうです。微妙な違いをきちんと言葉で仕分けして表現しているわけです。英語ではアイ、マイ、ミー以外に自分を表現する代名詞はあるのでしょうか。

    別に英語が正しいとは思いませんが、この日本語の自分自身を呼ぶ代名詞の多さでも場や空気や集合した場合の関係性だけでは説明しきれません。その土地の文化を反映しているような印象もしますし、日本人社会の役割認識の違いによって現れているような印象もします。「俺はドラマー、ヤクザなドラマー」という中の「おいら」という表現はやくざなちょっと悪ぶってみせる役割の場合でしょう・・・・「手前どもはドラマー、ヤクザなドラマー」では決してやくざっぽくないものな。また決して単純に日本人の集団主義批判でよくある個意識が低いからだとは言い切れないような気もしますが、どうなんですかね。

  4. 「は」と「わ」の使い分け
    誰も知っていることで恥かしいのですが、前から助詞の「は」と「わ」の使いわけが生じた理由がわかりませんでした。

    助詞の「が ・ を ・ に ・ の ・ と ・ から ・ より ・ ので ・ は ・ も ・ ね・・・・」などの名詞について、述語との関係を示したり、語と語をつないだり、述語の後につけて意味を加えたりする機能なのは知っていました。

    以前に西尾先生が書かれた契沖の話に関心があって調べていたら契沖の万葉仮名の文献研究による「和字正濫鈔」の方式によるものを歴史的仮名遣いということがわかり、歴史的仮名遣いを私はしていたんだなと半分は疑問が解けました。

    そのもう半分は現代仮名遣いです。現代仮名遣いは「かな」という表音文字に従って訂正されているはずですが、「日本語は面白い」と書き、現代日本語の発音では「は」は「わ」に近い音ではないでしょうか。すると流石の現代仮名遣いも契沖が生きているわけだ。これを知ってから契沖が身近に感じられました。そういえば「は」以外に「へ」「を」も歴史的仮名遣いなんでしょうな。契沖おそるべし。

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