「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(一)

お 知 ら せ

 私が8月15日千代田区立内幸町ホールで行なった約2時間の講演は、『正論』10月号(9月1日発売号)に掲載されます。

 題して――
  安倍氏よ、「小泉」にならないで欲しい
――これからの日米間の落し穴を直視できるか――

 全体の約三分の二が収録されました。〆切り日が近づいて、目次予定がほゞ定まっている時期に、40枚の分量をのせるスペースをあえて作った編集部の英断に感謝します。

 9月1日以後に、コメント欄はこの講演録を取り上げ、論じ合って下さることをお願いします。

西尾

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

guestbunner2.gif

    
 文春新書「あの戦争に何故負けたのか」はある意味で米国が待ち望んいた本かも知れません。

 独立戦争、南北戦争、メキシコからのテキサス独立と併合、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアまでの広い領土の併合、そしてハワイと和親条約締結を結び半世紀後に併合、米西戦争ではフィリピン併合。この一連の歴史には随分酷いことが行われていますが、米国はそれを削除し、自らの歴史を正義と栄光の、物語として描いています。
 
 ところが、「あの戦争に何故負けたか」は1941年12月8日から1945年8月15日までの日米戦争を、米国について殆んど、批判も言及することもなく終える本であり、そんな本が日本側から出版されたのですから、彼等にとっては願ってもないことだったでしょう。
 
 「あの戦争に何故負けたのか」は不思議な本です。それは、何故戦争が起きたのかについての分析らしいものが「三国同盟」を挙げる程度で全く抜け落ちているからです。第一、戦争というものが複数の国によって行われるものであり乍ら、日本以外の国、特に日本の主要敵国であったアメリカの政策、意図、行動についての分析言及が皆無に等しいのです。そして何よりも不思議なことは、それが、現在の「言語空間」(後述)の中でのみ議論されていることです。この本の中で個々の戦闘についての議論が精緻になればなる程、以上の奇妙な点、即ち重要な点の欠落が浮彫りにされるのです。尚この「言語空間」と言う言葉は後程説明しますが、「あの戦争」の評価にとって最重要な言葉になります。

1.小泉少尉の警告
 阿川弘之氏の代表作の一つ「春の城」(昭和28年発表)の中に、印象的な場面があります。それは戦争末期の漢口(中国)。アメリカの大学留学中に日米開戦となり、交換船で帰国、海軍入りしてきた小泉少尉が主人公の小畑中尉(阿川氏自身をモデルとしている)に語る、次の言葉です。

 「アメリカが妥協的な動きを示すなんて思ったら、とんでもない間違いだと思うんです」

 また、特攻隊の志願者の募集があったらどう対するかに小畑中尉が

 「私は開戦の時、この戦争になら命を投げ出せると思ったんだ、そして今でも勝つ為にーー勝てなくても出来るだけ日本に有利な道を拓く為に働きたいという気がするんだけど、募られて特攻隊の志願が出来るかと云うと、正直に云ってひどく迷うだろうな。何とか偽善的な理屈を並べて、遁れようとするかも知れない」と述べるのに対して、小泉少尉はこう答えます。

 「そうですか。私はいくなあ。行けますよ。アメリカは必ずあらゆる悪どい手段で徹底的にやってくると思うんだ。日本はアメリカに占領されたら完全に骨抜きにされますよ。それを守る為なら行けるじゃないですか」

 この文章は阿川氏の当時の気持ちと会話内容てあったと考えます。戦争後8年間の世の激変の中で阿川氏自身の考えは変ったのかも知れませんが、戦時中の氏自身の気持ちと、小泉少尉のモデルとなった戦友の言葉はそのまま再現していると信じられます。

 阿川弘之とはそういう作家です。阿川氏は志賀直哉最後の弟子として神の如く尊敬し傾倒し、志賀直哉の最期を見守った。阿川弘之はその伝記「志賀直哉」を執筆しています。そこでは、自身があれ程尊敬傾倒した志賀直哉を、ここまで書くのかと思う程、不都合な事もそのまま記しているのです。

 志賀直哉に対してまで「事実」については筆を緩めなかった阿川氏であることを考えれば、この「春の城」では、小説家志望の文学青年で戦争、陸軍を嫌悪していた小畑中尉(阿川氏自身)が「この戦争には自分の命を投げ出せると思った」と書き、憧れの米国留学中に帰国し海軍に入り、「アメリカはいいですよ」と時に語る小泉少尉が 「戦争に負けたらアメリカはあらゆる悪辣な手段で日本を必ず骨抜きにする。それをさせないために求められれば自分は特攻に参加する」と答えたと記しているのは大変重みのあることなのです。

 然し、今日、戦争前、戦時中の若者がそんな気持ちであったということは「春の城」以外では目に触れることは皆無に等しい。これは一体どうしたことなのでしょうか。

 戦争が終わって間もなく昭和23年に小学校に入学した私の記憶では、小学校時代の担任の先生は折に触れ、「今日、我々がこうして平和で暮らせるのも、アジアの国々が独立出来たのも、戦争で亡くなられた兵隊さん達のおかげだ。終戦のご決断を下された天皇陛下のおかげである」と話してくれた記憶があります。

 それが、長い時間を経ていつの間にか、あの戦争で亡くなった方々は「国のために命を捧げた、アジアの植民地独立の為に亡くなった」と語られることがなくなり、「”心ならずも”命を失った」と語られる様になってしまいました。そして、あの戦争は、避けることが(簡単に)出来たのに、愚かな指導者達がそれを怠り、無謀、無益に仕掛けてしまった戦争であった。国民誰もが心の中で反対だったのに、愚かな指導者が、嫌がる国民を引きずり込んだ戦争であり、アジアの国々(当時植民地で国ではなかった)を巻き込み迷惑をかけた戦争であった。と語られるようになり、指導者によっては、「アジアに対する侵略戦争であった」とまで唱えるよになっています。本当に今語られていることが事実だったのか。「春の城」で描かれた日本人は存在していなかったのか。それを解き明かすことこそ「あの戦争の原因」「あの戦争に何故負けたのか」を解く鍵になると考えます。

2.江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」
 昭和54年9月から昭和55年7月まで、文芸評論家の故江藤淳氏は米国ワシントン市にあるメリーランド大学付属図書館プランゲ文庫で、戦後占領時代、アメリカ占領軍が日本で実施した言論検閲と統制に関する資料の調査研究に当っていました。それは、米占領軍が日本で行った検閲書き込み入り、付箋つきの原稿や書信の類との出会いの日々であり、発行停止となった多くの原稿そのままを目の当たりに調査したものでした。

 この調査、研究の結果は氏の著作「落ち葉の掃き寄せ」「1946年憲法」「忘れたことと忘れさせられたこと」「閉ざされた言語空間」に収められてます。

 そこには、正に「春の城」で小泉少尉が「アメリカは凡ゆる手段を使って、必ず日本を完全に骨抜きにする」と警告したそのことが起きていたことが実証されたのであり、今更ながら「春の城」に驚嘆させざるをえないのです。

 それは江藤氏が調査、研究するまで戦後実に30年以上も日本人に知られることもなかったことにアメリカという国の恐ろしさを感じない訳にはいきません。

 ここで、戦争直後の出来事を吉川弘文館の年表などを参考に拾ってみます。

(昭和20年)
11月:サイクロトロンの破壊命令、航空に関する研究の禁止
12月:占領軍の命令により、新聞各紙「太平洋戦争史」の連載を開始
   :占領軍の命令によるNHK放送番組「真相はこうだ」の放送開始
   ::占領軍「大東亜戦争」の呼称を禁止
   ::占領軍覚書「国家神道に対する政府の後援、統制、普及の廃止
(昭和21年)
1月19日:連合軍最高司令官による特別宣言書に基づく裁判所条例に基づく極東国際軍事裁判の設置を定める(その根拠はポツダム宣言にあるとされた)
 2月:公職追放例
3月6日:幣原内閣、GHQの憲法草案を「日本政府独自」の憲法として公表
5月3日:極東軍事裁判開廷
11月:当用漢字1850字、新仮名遣い決定
12月:6334制教育体制発表
(昭和22年)
1月:皇室典範・皇室経済法
2月:教育基本法、学校教育法公布
4月:6334制実施

 以上の年表には、米国占領軍による言論検閲、統制についての記載は全く記載されていません。それは後述の米占領軍による言論検閲、統制で最も秘密とされた検閲、統制による禁止秘匿事項であったからでしょう。

 さて、ポツダム宣言は確かに厳しいものが含まれていました。然しどんな法理論解釈からも、それは、占領軍が以上実施した宗教、教育制度、国語政策にまで手を加える権限、などはどこにも含まれていません。まして、言論、出版に検閲統制を加え、日本と日本人を、江藤淳氏の言う「閉ざされた言語空間」に封殺する権限など与えられる筈もありませんし。そんな大それたことは日本人の想像外だったのです。

 ちなみに、以下にご説明しますが、米占領軍は、言論検閲、統制により日本と日本人を完全に孤立させ、世界との間の情報を遮断し、日本人自身の思考を閉じ込めた状態とし、米占領軍の言論検閲、統制の支配、管理下におきました。その状態を江藤淳氏は「閉ざされた言語空間」と呼称したわけです。

 この言論検閲、統制は巧妙を極めたものでした。その構想の大きさが、先ず「日本と日本人を外部世界の情報と完全に遮断する」という桁はずれの構想から始められたのです。例えば、日本のそれまでの教育は、「軍国主義的教育」或は「遅れた教育」とされましたが、米国や欧州の教育の実際の姿は日本人の間から完全に封鎖されていました。だから、日本人はそれを信じる外はなかった。特に当時は進歩的インテリは「アメリカでは」を口癖に占領政策を推進していましたから、だれもが「アメリカではそうだ。そうに違いない」と信じたわけです。後述しますがそれは殆んどが嘘といってよいものであり、その影響は今日でも尾を引いています。(因みに30年前のカナダの小学校では鞭を持って教壇に上がる先生もいたとのことです。)

 又、戦後既に米ソ対立、東西冷戦は次第に熾烈になっていましたが、それを論ずる報道は禁止されていました。

 昭和26年日本はサンフランシスコ講和会議で独立を認められ、翌年の昭和27年4月に発効しますが、当時の南原東大総長をはじめとする学者、言論界、左派社会党などは全面講和論を唱え、サンフランシスコ講和条約に反対しました。東西冷戦の真っ只中、全面講和など現実性皆無であった筈ですが、その様な反対論が一部とは言え支持されたのは、この様な「閉ざされた言語空間」が原因であったと思われます。

 もう少しその巧妙な言論検閲統制を見てみます。

 米占領軍は、言論検閲、統制を30ケ条のプレス・コードにより実施したと、江藤淳氏は著書「閉ざされた言語空間」で述べています。その根幹にあるものは、言論検閲、統制が実施されている事実の徹底的隠蔽でした。

 それに次いで、憲法の制定に占領軍が関与したことへの言及、極東軍事裁判批判、更に日本、枢軸国以外の総ての国に不利な言論、東西冷戦について論ずること、占領軍の日本人女性との交渉についての言及、闇市言及、それら総てが禁止され、最後には「解禁されていない情報の報道」が禁止され、つまり総べての言論が米占領軍により恣意的に統制される体制が出来ていたのです。

 再度申し上げますが、この様な言論検閲は勿論日本が受諾したポツダム宣言の如何なる条項にも一切含まれていません。そんなことが実施されているとは大部分の日本人は知らなかったし、今でも知らない人が圧倒多数だと思われます。。

 こうして、米国占領軍は日本及び日本人総てを丁度、蟻をガラス箱の中に閉じ込めて飼育、観察、管理するような環境を完成させたのです。これが「閉ざされた言語空間」であった訳です。

 こういう「言語空間」の影響は想像以上です。人はその認識の殆んど総てを、実地体験ではなく、他からの情報で入手します。それが占領軍に6年半恣意的に管理統制支配されていた、ガラス箱の蟻の状態であったわけです。

 人間の考え、記憶は意外に脆いものです。

 江藤氏は上記米国での調査中、保管されていた検閲された資料を調査していたのですが、その中に、占領時代に書かれた河盛好蔵氏のエッセイも含まれていました。それは、殆んど戦前戦中の軍国主義への反省で綴られたものですが、ほんの一寸(多分大恐慌以降のブロック経済で日本を排除したことを念頭に置いたのでしょう)米英が日本に経済的な点で配慮があったならとのほんの僅かな箇所が原因で発表が差し止められたらしいのです。江藤氏は早速河盛氏に照会しますが、河盛氏から「全く記憶にない」旨の返事であったとのことです。戦後の激変の中で、河盛氏の占領軍の検閲との戦いの記憶は全く失われていたわけですし、氏の思想にも変化が生じていたのかもしれません。

 人の記憶や、考え方はかくも移ろい易い脆いものらしい。

 吉田満氏の「戦艦大和の最期」の一番初めに書かれた文章は発行禁止になり、吉田満氏は何とか出版許可を得ようと求め、何度も書き直し、とうとう出版にこぎつけます。然し出版され現在も書店に並んでいる「戦艦大和の最期」は最初に書かれたものとは全く異なるものとなっていました。江藤淳氏は吉田氏自身の保持していた精神的なものもいつの間にか、失われたとしていますが、読み比べてみれば誰でもそれはが点が行きます。敢えて個人的な感想を述べれば、一番最初の「戦艦大和の最後」には「春の城」の香りが強く漂っていますが、許可を受けて世に出たものにはその香りは皆無となっています。

 米占領軍、米国が残したものは斯くも徹底した厳しいものでした。

 更に占領中期になると、占領軍は狡猾にも検閲方法を「事前検閲」から「事後検閲」に変えます。これで報道機関、出版社は自ら事前に自己検閲して、事後検閲で引っかかり、膨大な損失が出ないようにする。自己検閲の効果は、占領軍が行っていた事前検閲よりも厳しいものになりがちであったらしい。これは占領が終わった後も日本の言論出版界に定着存続していると江藤氏は述べています。

 先に述べましたが、占領期間中の小学校の担任の先生の戦死者への追悼と今日の首相の追悼の言葉は全く似て非なるものであり、それがむしろ占領が終わってからの長い時間に刷り込まれたことに注目せざるを得ません。

つづく

「「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(一)」への32件のフィードバック

  1. 西尾幹二先生

    記事と関係ない駄文ですがご笑覧頂ければ幸いです。

    10年ほど前の小沢一郎氏についての話です。
    当時の小沢氏には特に尊敬する政治家が三人いたそうです。その中に田中角栄はいません。
    その三人とは織田信長、大久保利通、原敬の三人であると小沢氏に特別秘書として仕えていた元外国紙記者の日本人が滞日40年になろうという米人ジャーナリスト氏に語ったそうです。 この三人にはひとつの共通点があるのですが小沢氏は認識していませんでした。その共通点とは三人とも暗殺されたことです。
    日本のすぐれた指導者の運命ということです。この米人ジャーナリスト氏は、次のように想ったそうです。日本という国には本当の指導者は生まれない、東条英機のような軍国主義者でさえも戦争途中で追い出された、 日本に独裁者はおらず、独裁が許されない国の指導者は非常にやりにくいだろうと。
    たしかに戦中日本指導層の権力構造のファジーさはひどいものでした。 アメリカはマッカーサーの権力で日本指導層を”共同謀議”として一緒くたに裁き処刑処罰する無茶をしました。マッカーサーが独裁者であったからできた所業です。
    細川政権のときに小沢氏は月一回外国特派員とグループ会見をしていたそうです。あるとき日本人の自己責任が話題となりロイターの記者が小沢氏に「自己責任ばかりおっしゃるけれども、あなたは日本人が自己責任をとりたいと思っていると考えているのですか?」と質問したそうです。 それに対して小沢氏は「決してそう思いません。だからこそそれを問題にしているのです。自己責任に対する日本人の考え方を変えなければならない」とこたえたそうです。
    それを聞いたこの米人ジャーナリスト氏は、国民の基本的な考え方をかえさせるような指導者は何処の国にもいないだろうから小沢氏は永遠に総理大臣になれないと感じたそうです。 それから十年閲しても小沢氏自身は指導者になりたいと思っており、 日本国民は小沢氏が首相になれば何かをやってくれるだろうと期待しているが、 日本の歴史はそういう指導者をあまり好まないと、滞日50年近くになったこの米人ジャーナリスト氏は私に語ってくれました。 私は小沢氏に期待するものはありません。 長野県知事選に落ちたら来年夏の参議員選に出馬しようと画策していた鵺のようにヌメヌメした田中康夫や、亡父角栄の威を藉りてアシュラのように猛り狂うだけの田中真紀子とOTT(オット)連合を組んで、権力奪取に動く我侭・唯我独尊・国連原理主義者の小沢氏に何も期待はできません

  2. 「ホルバイン・・(八)」からの続きです。
    足立さんのご意見に直接かかわるものではありません。

    ***************************

    意識しない「自虐史観」 

    GHQによる検閲がその後の日本人の思考に多大な変化をもたらしたらしい。

    Aという主張(文章)が検閲によってA’(Aダッシュ)になったとする。
    読者はAとA’を比較できないから、A’を信じるだろうが、検閲が解けたとき、Aを復元できる。
    忘れてしまうような内容なら、どうでもよいわけで問題にはならない。

    しかし、もし復元し読者がA と A’とを比較できるようになったとき、
    A よりも A’の方が相応しいと判断したら、これまたどうでもよい問題になる。
    恐らく、かなりの場合がこういうケースであっただろうと想像される。
    なぜなら、そんなに価値のあるAだったら、検閲にも負けず生き残るはずで、
    GHQの示したA’のほうが支持されたのではないだろうか。

    Aがどんなに「良い」主張であっても、検閲を経て忘れられるようでは
    そんなに価値があるとは思えない。

    検閲によって日本人が修復不可能なほどのダメージを受けたのであろうか。

    戦争中は検閲もクソもない。
    戦争一点張りだった。
    しかし、戦争が終わったら日本人は「鬼畜米英」などのプロパガンダをきれいさっぱり忘れてしまった。
    戦時中(少し前を含めて)のプロパガンダが真っ赤なうそであることを多くの国民が見抜いたからだ。
    だからそのあとでは、もし検閲がなくて、日本政府やインテリ、新聞の言うことと、
    GHQの言うこととのどちらが正しいか、いう選択が出来たとしても多くの国民は後者を選んだだろう。
    (ただし、一部左翼は別)

    話は飛ぶが、ロシアでは宗教は(ロシア革命以来)70年に亘って禁止、もしくは冷や飯を食わされてきた。
    しかし、ソ連の崩壊と同時にロシア正教は復活し、いまや信者は非常に多い。
    70年といえば、2、3世代である。
    これはロシア人にとって宗教がどうしても必要だからだ。
    だから復活したのである。

    戦争前・中のプロパガンダ、GHQの検閲はせいぜい数年である。
    前者で日本人は変わらなかった。
    後者で日本人が修復不可能なほどのダメージを受けたというのは、日本人をバカにした意見である。
    日本人はちょっとした外圧ですぐに変わってしまうという、日本人蔑視の考え方である。

    日本人がGHQのプロパガンダで変わったとすれば、そのプロパガンダが相応しいと思ったからで、
    洗脳だなどというのはおこがましいのである。
    検閲によって「戦後史観」が作られ、多くの人が「洗脳」されたというが、戦前・戦中の
    「撃ちてしやまん」とか「鬼畜米英」などより「平和志向」が受容れられるに決まっている。

    もちろん日本はその後おずおずと再軍備を始めた。
    抵抗はあったものの、次第に自衛隊を容認し始めた。
    憲法改正も次官の問題になって来ている。
    これは日本人の良識を表すもので、洗脳などとは程遠いのである。

    支那事変は共産党の謀略によるとか、戦後史観はGHQに押付けられたとか、洗脳されたとか
    「~された史観」は一種の「自虐史観」である。
    「自虐的」であることさえ気づかない・・・困ったものだ。

  3. 江藤淳氏といえば数年前に突然自害されましたね。私事で恐縮ですが私の父親も
    自殺したという人生なので、自殺するという行為には反射的に嫌悪感を抱くものですが
    当時は氏について余り知らなくて、奥様に先立たれ、それを悲観してくらいに思っていました。

    私も妻と連れ添って30余年、妻には絶対先立たれたくないという思いと絶対、自ら死を選んでは
    いけないと心しており、どんなに苦境に立たされても生きていれば必ず道は開ける。
    生きてこそ人の役に立つと思っています。父が残したものに「へその緒」を入れた
    桐の小箱があり箱の裏に「昭和二十四年二月八日 混迷する世の中、強く大きく生きよ。」と
    ペンで書かれてありました。その三年後の昭和二十七年に自殺した訳ですが物心ついて初めて
    それを見せられた時は「何が強く生きろだ」と捻くれたものですが今は命をくれたことへ感謝しています。
    そして、その二十七年当時の国情を知ると何か父の迷いも解るような気がします。 

    江藤氏が生前、「閉ざされた言語空間」等、かような著作を書かれていたとは自分の無知を
    恥じる訳ですが、早速、取り寄せ勉強したいと思います。
    江藤氏の心がきっと解ると思うのです。この数年、ネットを通じ自分の57年間を振り返り
    命を育んでくれた我が国の真の姿を見つけ胸を張れる日本人に成りたい!!
    そして我が息子や子孫に申し送りたいと思うのです。
    毒吐き@てっく氏にも大変勉強させていただいており、場所をわきまえず御礼申し上げます^^
    あらためて江藤淳氏のご冥福を祈る次第です。

    http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/book/etou_jun.html

  4. いやはや、vagabond氏とは救いようのない朴念仁、いや、こう言ったのでは世の朴念仁氏に失礼だろう。
    検閲の実体をもう少し知りたいとか、「春の城」でも読んでみようかとか、普通の人間なら、いろいろな反応もありそうなものを。
    改めてさよならですな。

  5. 岡崎久彦氏が「遊就館から反米史観を排除せよ」などと産経に書いていました。アーミテージが「遊就館の歴史観には問題がある。」と言っていたので、アメリカの機嫌を損ねぬように過剰反応したのでしょう。こういった動きが強まれば、西尾先生が講演会で危惧していたように、遊就館は展示を一変するかもしれません。東京裁判史観とさして変わらぬ展示となるかもしれません。

    「保守なる者」によって、この国の歴史は歪められ、独立国家のプライドを失いつつあります。

  6. 「さよなら」をしたところで、当ブログで放っとくこともできないでしょう。
     私も、てっくさんに倣い、以後「御大」と呼ばせていただくことと致します。ご承知おきの程を。

  7. 足立さんがお書きになったこと至極もっともです。
    今私が関心を持っている人物はvagabond氏ですが自称昭和12年生まれだったかな。こういう問題は普遍的な原因とそうじゃなくて日本文化による個別の問題とが交錯していてサンプルとしても興味深いのではありますが。でもこの方には「自分が生きてきた考え方を否定されるから強い拒否感がある」という神戸人さんの評価を思わせるものがあります。この方は実に面白いことを書いているのです。

    (引用開始)
    戦争前・中のプロパガンダ、GHQの検閲はせいぜい数年である。
    前者で日本人は変わらなかった。
    後者で日本人が修復不可能なほどのダメージを受けたというのは、日本人をバカにした意見である。
    日本人はちょっとした外圧ですぐに変わってしまうという、日本人蔑視の考え方である。
    (引用終わり)

    あんまり当たり前のことを書かないでほしいな。もともとそれを受け容れる種があるから強く洗脳されるからであって、それと洗脳を継承させる自動機械の存在、洗脳の再生装置が機能しているから決して7年間だけの話しではないはず。もっとも私の論説も基本的に日本人は変わっていないという論調で書いているけど、彼にはそれが見えないのだと思えます。
    この方はそのうち言い出すと思いますよ、「悪魔よ去れと」。というのは彼の行動は典型的日本教徒の行動だからです。日本人が旧軍を信用しないという意味は理解できますし、それはそのまま旧時代の否定になるでしょう。私自身は旧軍は軍事的な合理性が欠けている部分があり、そういう意味では軍国主義でなかったことに否定的な側面を見ていますが。だからといって米国が敗戦後、日本に対してポツダム宣言や国際法違反をやっていないという論説にはなりえません。

    ご当人は作る会の会員だと明言していますが、作る会は教育面で出ている米国主導の作られた歴史観という自動自傷装置、または自動恨み発生装置、すなわち教科書を破壊し再生する運動であったはずです。それから考えるとどうも彼が本当に作る会の会員であるかどうかでさえ疑問があります。

    さて主題に戻って普遍的な問題という側面は私が経験した医療の話がいいでしょう。私は知りませんでしたが幼児のころ肺病をわずらったようです。中学受験のときにレントゲン写真を持ってきてくれといわれて専門病院で肺のレントゲンを取ったのですが、その時医者に肺に石灰化した巣があるといわれました。そしてレントゲン写真を見ても私にはそれが巣であることは認識できませんでした。同じ写真を見ているのですよね、医者も私も。おかしいと思いませんか。絶対的であるはずの事実が見えたり、見えなかったりするわけです。
    これは当たり前といえば当たり前の話しですが、医者は専門家ですから私が見えないものが見るのでしょ。こういう専門家だから認識できる部分は世界にはざらにあるわけです。逆に無知の自覚のない人は関心がないから見えるわけがないのです。これはおそらくどういう文化を持っている民族でも同じでしょう。従って議論をするにしても共通の土台のない方とは議論になりません。

    次に個別の問題とは文化的な歪みがあって問題が見えない場合です。どの文化でもそうでしょうが、普遍性を唱える文化でもそれは歪みがあります。しかしそれでも文化による固有性の問題(盲点とでもいうのでしょうか)は存在するわけです。日本の場合は人間の関係性を重視する文化があって、そこで生じる人間は特殊な性善説で彩られているように思えます。「本当に芯から悪い奴はいない。誰でも裸になれば同じだ。悪いことをしたのは精神が病気になったからであって、それは一時の気の迷いである。しかしそうじゃない芯から腐った人間は人間ではないのだから徹底的に排除すべきである」とでもいうのでしょうか。まるで新憲法の前文にある性善説を前提にした国家観のようです。日本の場合の固有の問題はまだ幾つかありますが。

    私は今回vagabondさんを典型的な日本教徒だと分類しました。日本人は原理がない民族だといわれていますがそんな無原理の民族が非アノミーで平和で安定した国家を作れるわけがないのです。するとそこには原理があると考えるのは妥当でしょう。そしてその原理に反する論説は最終的に「悪魔よ去れ」にならざるを得ないのです。不思議なのはこの方が近代化否定論者じゃなさそうな点であることです。

    現時点で彼の原理を考えてみると
    ①内部の和が絶対である。
    ②争うこと自体が悪いことだ。
    ③人間は本質的に悪い人はいない。悪いことをなすのは魔がさしたか、それとも心が病気になったからだ。
    ④人間は裸になれば皆同じだ。
    ⑤我を張ることは否定されることだ。
    ⑥人を騙すより騙されるほうがまだましだ。
    ⑦集団の決議での多数意見は常に正しい。
    ⑧思想は借り着であって、いつでも脱げる。
    ⑨小異を捨てて大同につく
    ⑩原理原則は建前である。社会は別の人間原理で動いている。
    ⑪情重視・倫理重視・精神重視

    まだあるでしょうけど、これは殆ど日本社会で論争を起こさないで立ち回るための行動指針がいつのまにか行動原理に変化したのでしょう。そして明治時代は江戸を否定することによって、また敗戦後は敗戦前を否定することによって自分たちの行動を規制していた原理がわからなくなりました。しかし実際の社会は動いていますからこの暗黙の行動原理なしでは動きません。この暗黙の行動原理はないことになっていますから言葉にならず無意識に沈殿していますから、自分自身も批判できなくなります。するとどうなるかというと集団の空気が判断基準になる場合もあるでしょう。

    ある意味で近代化=西洋化は日本的原理とは明らかに異質です。しかしその原理が言葉になっていませんが、個人を強く規制します。異質であるがゆえに本来はもっと拒否感が出てもおかしくはないわけですが。

    近代化原理を書いてみると
    ①弱肉強食。
    ②進歩は争うことで生じる。
    ③人間は本質悪をそなえている。
    ④人間は皆違う。
    ⑤我を主張すべきである。
    ⑥懐疑主義。
    ⑦多数意見が常に正しいわけじゃない。
    ⑧思想や言葉で人間は生きる。
    ⑨少数者の誇り。
    ⑩原理原則を尊ぶ。
    ⑪論理重視・法重視・もの重視。

    先程書いたような人間観で米国の国策を見れば米国のやった酷さに目がいかないでしょう。だって米国は正義だと信じきっているからです。こういう人は詐欺師に騙されやすいし、きっと素直ないい方なんでしょう。

    考えてみれば近年でもフセインを育てたのは米国なんですね。また南米の多くの貧困層の多い国家は独裁国家かまたは軍事政権国家なのでしょ。日本人は知らないかもしれないけど米国は国際的に認定された宣戦布告なしでの戦争を南米でやっているわけです。また彼らの立国を考えてみればネーティブアメリカンと契約した約束を平気で破ってきた歴史があるわけです。そういう意味では彼らはフェアかもしれませんが、そのフェアには歪みがあり、その法律重視の精神はどっかご都合主義の部分がありゃしないかと私は疑っています。

    西尾先生が教科書で米国よりの記述に許可なく変更になった件で怒りを発していましたが、それも作る会の精神から考えれば至極もっともなことです。米国が列強として出てきたのは米国とスペインの戦争からで、その後の南米支配は日本の朝鮮支配や中国での争いなどせいぜい若者の不純性交ていどのひどさです。

  8. 「朴念仁」となったり、「御大」になったり私も忙しくなりましたな。
    ちなみに、朴念仁とは「言葉少なく無愛想な人。また、道理のわからないもの。わからずや」(広辞苑)。
    どうして朴念仁にシャカリキになって反応するのだろう・・・このルームの不思議なところだ。
    「御大」とは「一団体の首領などを親しんで呼ぶ称」だそうで、光栄至極でござる。

    なお、good bye は何度でもいえるが ferewell は一度だけだ。
    分かっているんかいな・・・?

    ◆GHQの「検閲」はサヨクには害がなかったらしい。◆

    “有名”な井上清の『日本の歴史』を引っ張り出してみた。
    最後の十数ページをチラリと見たが何と「検閲」の文字がないのだ。
    日本の民主主義にとって重大事項なら、井上などは目の色を変えて非難するはずである。
    察するにサヨクには害がなかったようだ。
    サヨクはGHQの示した「日本が悪かった(表現には拘らないで欲しい)」という史観は採用したが、「親米」にはならなかった。
    その後は「反米」である。

    サヨクは「洗脳」されなかったのだ。

    検閲について研究するつもりは毛頭ないが、検閲を快く思わないのはウヨクのほうだろう。

    考えてみて欲しい。
    戦前のウヨクにどのような「学問」があったのだろうか。

    ウヨクの論文が検定で引っかかったとすれば、当然である。
    これらが「軍国主義」と関連付けられて差し止めにあったとしても不思議ではない。
    ポツダム宣言で、軍国主義の「除去」を認めている。
    このための検閲なら、不当とはいえない。

    想像をめぐらせれば、戦前・戦中は「撃ちてしやまん」、「鬼畜米英」、
    「一億玉砕」などの大キャンペーンが張られていた。
    これらの旗振りしていた人たちと、アメリカ軍と比較すれば当時の人は誰だって後者を選んだだろう。
    恐らく検閲は過剰反応だったというべきだろう。
    本当は必要なかったと思うが、不当ではない。

    当時の日本にとって、ウヨク側の言論は恐らく未熟だったに違いない。
    それでも少しでも軍国主義に繋がりそうなものは(GHQは)徹底的に潰したようだ。

    検閲が日本にとってそれほど害にはなっていない。
    サヨクは「屁」とも思っていない。
    ウヨクが「検閲にやられた」などとナイーブになっているのはみっともない。

    前にも述べたように「検閲にやられた」というのはタチの悪い「自虐史観」である。
    何故タチが悪いかといえば、自虐であることを全く意識せず、専ら「正義」だと信じていることである。
    こういう情けない自虐史観を克服することが今後の課題である。

    —-

    松井さん、あなたの文章は読みません、読む気も起こりません。
    したがって、「疑問に答えていない」と言われても反応しませんので、念のため。
    もし反応せよといわれるなら要約して「要するにこうだ」と簡潔にお願いします。

     

    或一読者さんへ
    私も遊就館で見ました。

    岡崎さんはよいことを言っています。
    【・・・『大東亜戦争』は、ニューディール政策が大不況を駆除できなかったので、
    資源の乏しい日本を禁輸で戦争に追い込むという、ルーズベルト大統領の唯一の選択肢として起こされたものであり、
    その結果、アメリカ経済は完全に回復した、と言う。これは唾棄(だき)すべき安っぽい
    (あるいは、虚飾に満ちた、不誠実な議論であり・・・】
    という記述はその通りです。

    靖国神社は非宗教的な関与をやめ、純然たる宗教施設に戻るべきです。

  9. 松井さん
     「御大」が、自称昭和12年生まれって本当ですか?信じられない・想像できない。それでは足立さんより4つも年輩と言うことになる。(足立さんは23年小学校入学なので。)
     昭和12年生まれなら。終戦を小学校(当時は国民学校)2年生(早生まれなら3年生)で迎えたことになり、子どもながらにも当時の大人達の動きや変化を感じたはず。それが、こんな馬鹿げたことを言えるわけがない。もし、本当なら、彼は普通の人間ではあり得ない。

     ところで「御大」に興味を持たれるのは結構ですが、彼を「日本教徒」の典型扱いするのは如何なものか。
     私も、松井様には遠く及びませんが、山本七平にいくらか興味を持った時期があります。二十年以上も前のことですが。
     かすれた記憶の上で申し訳ありませんが、「日本教徒」というのにそれほど厳密な定義があるわけではない。(解釈も分かれることでしょう。)ユダヤ人がユダヤ教徒であるように、日本人は日本教徒、と山本七平が言ったように記憶しており、その表現に納得した覚えがあります。日本教徒という言葉は、全否定的意味ではなく、日本人ならば多かれ少なかれ日本教徒なのではないでしょうか。
     いや、私の間違いかも知れませんが、私には「御大」を「普通」の人間に「格上げ」することになるように思えたものですから。

  10. 西尾先生
    正論の9月号は出たらすぐ読んでみます。

    東埼玉人さん
    やはり個人の特性もあるのでしょうな。
    それとおっと先に記憶間違いを書いておかないと。御大が作ったサイトのプロパティーを見ると昭和15年でした。どちらにしろお年寄りなのは間違いなさそうです。私も新幹線開通当時の新聞記事の記憶がないことを考えて私よりもっと歳が若いと(私は昭和22年で色々な方々から非難轟々の団塊の世代。小学校は二部教育で一学年のクラスが12クラス一クラス60名前後の時代でした)考えていました。自称ですから本当かどうか知りませんが。

    一般的な日本人と同じと考えてみると色々な矛盾を生じます。ただ私の父親がNHKの「これが真実だ」のラジオ放送を聴いていて、一度だけ母親(両者とも明治末期生まれ。父は高等小学校出たあとで丁稚で働き、出征を二度ほどして伍長で退役)に「ああ俺は騙された」と嘆息したのを母親が「二度と騙されなければいいね」といって、それから後はこの嘆きを一度も口には出さなかったようです。これは私が中学校のころ聞いた話ですから父と同じように考えた人もいたでしょう。

    しかし戦争を経験した方がすべて騙されたと考えていたわけじゃない。もしも騙されたと考えていたら社会党の女性議員が先頭に立って行ったA,B,C級戦犯の免責決議が国会で圧倒的多数で議決され、関係国へも了解を得て、かつ国民の圧倒的多数の支持を得るわけがないでしょう。

    やはり個別の個人の特性があるのでしょうな。そこまでは私には考えられませんが。
    激しい戦争が終わったあとで戦勝国でさえ厭戦気分になるのは歴史上あることです。年がら年中戦争ばかりしていた欧州でさえ第一次大戦のフランスや英国では一種の絶対平和主義がはびこりました。病の重さは実際に戦場になったフランスのほうが大きく、それが結果的にヒトラーの台頭を許したという説があるようですが。日本でもそうで、戦国時代の終焉を迎えた時期に秀吉が行った朝鮮征伐ではやはり厭戦気分があるから狐がついた秀吉に従うのはやめたほうがいいと秀吉に直言した武将もいるようです。そして江戸時代を見ると明らかに秩序維持や争うこと自体が悪いという社会的な風潮があります。

    これは日本だけの話ではないのは欧州の例で書きました。しかし日本の場合はやはり特殊性というか固有の性格もあると私は考えています。このあたりはまったく想像でしかないですが、日本の場合はいけいけどんどんと戦争をあおっていた知識人に二種類いたこと。一種類は空気を見て敏なる人間で敗戦後にがらりと論説を変化させた知識人がいたこと。

    逆の話をすると私は保守系の学者に評判の悪い津田左右吉を敬する面が大きい人間ですがそれは津田が不敬罪で訴えられ裁判で日本の皇室は平和的に日本の統一をしていったと述べているのです。すでに中国戦線では事変が始まっていました。そして戦後は「世界」に万世一系の話を書いているわけです。そういう意味では論説内容より首尾一貫している点(時代の空気に負けていないという意味)で敬しているわけですが。こういう空気に負けていない(文芸春秋によると「戦時中に国策を応援するのは悪いことなのか」とGHQにねじ込んだ雑誌編集者もいるようです)知識人もいたでしょう。

    それともう一つはソ連の指示に従ったマルクス主義者の存在もあります。
    学校に残ったこれらの知識人はまるで最近に親衛隊所属であった自己告白した「ブリキの太鼓」の独逸知識人の例を見るまでもなく自分の過去を消すために過去とはまったく逆の、それも過去を強烈に否定した論説を吐いたでしょう。これは日本人の米国二世や三世は日本を消していったのと同じではないでしょうか。

    やはり仮に、仮にです日本軍指導部が日本人との契約を破り国家を破産させたとしても、だからといってそれが米国が正しかったという論説にはなりえません。また仮にそうだとしても何の法で裁くのでしょう。陸軍刑法でしょうか。刑事法でしょうか。
    法で裁けないものを裁けというのは近代国家としておかしい。それが納得できないのは背景に感情があるからです。感情は論理では解決できません。そして感情では相手のある戦争や外交は出来ません。

    やはり幾ら考えても最後は個人の問題に行き着きますからこれ以上はなんともいいようがありませんが。

  11. ここしばらく、噛み合わない議論が続いていますが・・・
    ふと以前、戦中派の伯父貴が「国の為に戦った青年達が居たことを心に刻んで忘れない
    で欲しい・・・」と手渡された幾つかの書籍の一冊を思い出し読み返してみた。
    「霊山万里」と題された副題:南方軍幹部候補生隊の活動と戦後五十年の回顧・・・と
    いう約四百頁に亘る南方戦線に従軍した男達の回顧録である。
    当時を懐かしむ者、軍隊生活や軍指導部を非難する者、英軍との戦況を記す者、現状の
    日本国を憂れう者他、様々な戦争体験者の視点観点が書かれ、実体験者の生の心として
    大変勉強になります・・・・・其の中で、膝を打つものがあり以下にご紹介します。
     平成七年発行から、既に十一年経過していますので本稿をお書きになった方も
    失礼ながら、天寿を全うしているやもしれません。そのところもお含み頂きながら
    目を通していただければと思う次第です。日頃、読ませて頂くばかりで、何とかテキス
    ト入力してみました。                       投稿:銀一
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「大東亜戦争私観」砲兵隊教官 佐●和●

     日本の首相や閣僚が過去の戦争則ち満州・支那事変・大東亜戦争について発言する度に、
    それをテレビや新聞が取り上げ中途半端で歪曲された報道が物議をかもしている。
    「侵略戦争ではなかった」と言えば、中国・韓国・北鮮・東南アジア諸国の政府や国民か
    ら歴史の歪曲だ、戦争の美化だと非難される。
    「侵略戦争であった」と言えば、戦死者の遺族や自ら直接・間接に戦争に係わった多数の
    国民から厳しく糾弾される。日本及び東亜諸国の国民が同じ戦争を夫々真摯に考察してい
    るのに何故に相反する認識に到達するのか。

    ●第一の原因は夫々が違った視点から戦争を考察しているからだ。何れかが事実を誤認し
    たり歪曲しているのではない。両者が視点を替えれば、同じ認識に到達するだろう。
    夜明け前、三島から富士山を見ると紫色に見える。同じ時、山中湖畔から見ると同じ富士
    山が赤く見える。紫色だという認識も、赤いと言う認識も決して間違ってはいない。
    共に正しいのである。「侵略戦争でなかった」という認識を「紫色だ」という認識に譬え
    れば、「侵略戦争だ」という認識は「赤い」という認識に当る。

    ●第二原因は双方が何れも戦争の一面しか見ていないからだ。夫々異なる何十億という人
    間が直接・間接に係わった戦争というものは無数の面を持つ極めて複雑多彩な現象である。
    ところが人間の認識能力というものは、無いに等しい微力なものだ。
    従って人間が戦争の総てを認識することは永遠に不可能である。
     双方の認識が異なるのは一方が明るい面をのみを考察し、他方が暗い面のみを考察して
    いるからである。戦争というものは人間の所業だから、略奪・強姦・虐殺或いは強制労働・
    強制売春という暗部は全ての時代の全ての国の全ての戦争に普遍的に存在する。
    しかし、それは戦争の如く限られた一面にすぎない。軍紀は軍の成立基盤である。
    将兵がほしいままに略奪・強姦・虐殺を行うような軍隊は、毎戦必敗、満足に戦うことも
    できない。日本軍は史上まれにみる軍紀厳正な軍隊であった。
    これは厳然たる歴史的事実である。

    ●第三の原因は戦後五十年という現時点にある。戦後五十年たったとはいえ、何れの側にも
    直接・間接に戦争に係わった多数の人が今尚生存している。
    この様な状態では利害損失を超越し好悪の感情を克服して冷静且つ公正に戦争を考察する
    ことは不可能である。
     人間の言動を支配しているのは、欲望と感情である。人間は利益を追求し損失を拒否し、
    自分に都合のよいことを好み都合の悪いことを憎む。人間には理性というものもあるが、
    欲望や感情と比較すると、無きに等しい微力なものである。それは、自分の欲望・自分の
    感情を正当化するのに必要な屁理屈をでっち上げる道具に過ぎない。
    人間が人間である限り、この傾向は避け難い。
    直接・間接に自ら戦争に係わった人々の自己を正当化したいという欲望は極めて強烈であり、
    彼等の感情は彼等の係わった戦争に対する一切の批判・非難を断乎として排撃する。
    理性は無いに等しいのである。スミソニアンの原爆展が、在郷軍人や国会議員の反対によ
    って事実上中止されることになったという事実が、これを実証している。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く

  12. 「大東亜戦争私観」砲兵隊教官 佐●和● 02
     
    戦後五十年という時点では「侵略戦争ではなかった」という認識も、「侵略戦争であった」
    という認識も、共に正しい。しかし、その認識は自己の利益を追求する強烈な欲望と、自己
    の好まぬものを憎悪する強烈な感情の所産であり、冷静且つ公正な理性的認識とは言い難い。
    利害を超越し好悪の感情を克服して冷静且つ公正に過去の戦争を考察するには、少なくとも
    更に百年及至二百年という時間の経過が必要である。
     直接・間接に戦争に係わった人々や、その子の世代が死に絶えた後でなければ、冷静且つ
    公正に考察することは出来ない。考察するものが人間である限り、戦後五十年といふ現時点
    では、共通の認識を持ち得ないのである。
    富士山が三島では紫色に河口湖畔では赤く見えるのは、夜明け前の極く限られた時間帯だけ
    である。夜が明け太陽が沖天に上がれば、三島から見ても河口湖畔から見ても略々同じ色に
    見える。同様に過去の戦争も、百年、二百年後、利害を超越し好悪の感情を克服して冷静且
    つ公正に考察出来る状態にになれば、略々同じ認識に到達するに違いない。
    過去の戦争も、全ての時代の全ての国の全ての戦争と同じく、国際紛争即ち交戦国の利害対
    立を解決するものであったからである。

    ●第四の原因は、平和条約締結時、日本がその前提条件であった日米安保条約の締結、東京
    裁判の証認を受諾したことにある。当時の首相吉田茂は、東京裁判を証認することによって
    生ずる不利益よりも、平和条約の早期締結による利益が大きいと判断し、東京裁判の証認に
    応じたのである。従って、日本政府も国民も「侵略戦争であった」という東京裁判の判決を
    尊重しなければならない法的立場に立たされている。
    その結果、所謂東京裁判史観の肯定を利とする側は、「侵略戦争であった」と主張し、東京
    裁判史観を不利とする側は、「侵略戦争ではなかった」と主張する。これは極めて当然のこ
    とであり、何の不思議もない。

    残された問題は、東京裁判が果たして歴史の批判に耐えれるものであるか否かである。
    それは明らかに法の原理に反する事後法により、裁判の名の下に行われた勝者の敗者に対す
    る報復以外のなにものでもないからだ。「侵略戦争ではなかった」と発言した閣僚達は、自
    らの経験、見聞に基づく認識を率直に表明されたと思われる。「侵略戦争であった」と言う
    二人の首相の発言は、平和条約締結時、平和条約の前提条件として証認を余儀なくされた東
    京裁判の証認という日本政府の法的立場を述べたものに過ぎないと思う。
    若しそうでないとすれば、それは多分に外交的・政治的効果を期待した功利的発言であると
    言うより外ない。
     戦争中、政府・軍首脳はもとより一般国民も陸海軍将兵も其の絶対多数は、国家・国民を
    護る為、東亜新秩序建設の為、欧米列強の植民地支配体制を打倒する為、一身一家を犠牲に
    し幾多の苦難に耐え全力を傾注して夫々の職務に励んでいた。
    これは何人も否定することの出来ない厳然たる歴史的事実である。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く

  13. 「大東亜戦争私観」砲兵隊教官 佐●和● 03

    「侵略戦争ではなかった」という発言は、この事実の表明であり、決して間違ってはいない。
    異説を唱え自らの識見を誇示したいという強烈な欲望の権化となっている進歩的文化人と称
    する者の中には、「過去の戦争は侵略戦争である。戦略戦争でないというのは、日本人の主
    観的戦争観であって、客観的にみれば、大部分の日本人は、当時の政府・軍首脳に騙され操
    られ、侵略戦争であることを知らずに戦争に従事していたのだ」と、もっともらしいことを
    言うものもある。しかし、これこそ、彼等が無いに等しい理性によって創り出した屁理屈で
    あり、歴史的事実の誤認、歴史の歪曲である。

     戦時中、天皇をはじめ政府・軍首脳の中に一人でも、一身一家が栄達し繁栄さえすれば、
    国家国民がどうなろうと、東亜新秩序が建設されようがされまいが、欧米の植民地体制が打
    倒されようがされまいが、そんなことはどうでも良いと考えていた者がいただろうか。
    そんな者は一人もいなかった。これ亦何人も否定することの出来ない厳然たる事実である。
    ただ考えなければならないのは、日本と戦った米・英・蘭・仏・中国の政府・軍首脳や一般
    国民・将兵もまた、一身一家を犠牲にし、幾多の困難に耐え、夫々の職務を遂行していた、
    ということである。米国政府・軍首脳や大部分の国民・将兵は、米国の領土・国民の生命・
    財産を護る為、日本の中国・東南アジア侵略を阻止する為、真珠湾で米海軍を騙し討ちにし
    た卑劣な日本軍をこらしめる為、懸命な努力をしていたのだ。
    これも亦、否定することの出来ない厳然たる歴史の事実である。だからこそ、在郷軍人や国
    会議員達の圧力によって、スミソニアンの原爆展は中止に追い込まれたのである。

      しかし、米政府・軍当局や在郷軍人・国会議員達が、広島・長崎に対する原爆投下を正
    当化することには異義を称えたい。原子爆弾が、当時国際法によって禁止されていたダムダ
    ム弾や毒ガスより比較にならぬほど非人道的な兵器であることは、広島・長崎の被爆状況が
    実証している。人道とは何であるかを解せぬ法律馬鹿が、核兵器の使用は必ずしも違法では
    ない、などと言ったとしても、それが非人道的兵器であることは明白である。

     米国の在郷軍人や国会議員が、広島・長崎の被爆資材の展示を拒んだのは、彼等自身、核
    兵器が極めて非人道的兵器であることを知っているからである。
    且つ米国が世界第一の核保有国であるからだ。
    核兵器は、極めて非人道的な兵器・大量虐殺兵器であるが故に、戦争を抑止する手段となり
    得るのである。従って、如何に核兵器の廃絶を求めても、核大国が保有する核兵器を全面的
    に廃棄することはない。引き続き核兵器の研究・開発・実験もつづけるに違いない。
    ただ、核兵器の保有・研究・開発・実験には多額の費用を必要とするから、保有量を削減し
    たり、研究・開発・実験の規模を縮小することは有り得る。

     更に考えなければならないのは、若し日本が米国に先立って原子爆弾の製造に成功し、そ
    れをワシントン・ニューヨークに投下する手段を持っていたならば、日本も亦、躊躇するこ
    となくワシントン・ニューヨークに投下していたに違いない、ということだ。
    幸いにそうならなかったのは、将に天佑神助と言わねばなるまい。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<了>

  14. 伯父貴と同じく南方戦線を戦った方の「南方飢餓戦線」という回顧録を読んだ時も
    あとがきの現状の国を憂れう言葉に感銘を受け礼状を書き送ったことがある。
    住所が分かったので帰省した伯父貴を連れ立って自宅を訪問したことがあった。
    初対面であるはずの二人だっが、旧来の親友のように当時の事を談笑していた。
    互いに、八十代半ばを迎え補聴器を頼っての会話、時折私が通訳をする・・・・
    話が進む中で、祖国へ帰還する船の中で伯父貴は船艙、彼は甲板に居たことが判明、
    二人して笑いながら手を握りあった・・・
     伯父貴の戦友諸氏への表敬訪問を運転手をしながら幾度となく垣間見てきたが、
    その男達の国の為に共に戦ったという絆で結ばれていることに恨めしさを感じる。
    己の男達の付き合いといえば、利害の何ものでもなく、国家の現状などと言えば
    そんな個人でどうこう出来ないことなど・・・と泳いだ目ですれ違ってしまう。
    男も色々、それぞれの生い立ちや感性の違いなのだろう・・・などと頭を過ったら
    其の戦友が突然私に向かって語り始めた。
    「戦争は子供の喧嘩と同じなんですよ、どちらも正しいと思うから喧嘩になる。
    それを侵略戦争などというのは、もってのほかなんだ・・・」思わず、その人生を
    耐え抜いた穏やかな老いた顔の一瞬光る目をビデオカメラに収めた。
    子供や子孫でふざけたことを言ったらこれを見せる。

    いまや、ネットを通して国家や人間を論じ合う時代となり、てっく氏のような英語も
    堪能で一辺倒な情報だけでなく日本人としての基軸に立って分析、開陳してくれる
    ことは頼もしいと思う。彼等もきっと期待していることだと思います。

  15. 後ろ向き、前向き

    少し前に読んだJ・ダワーの『敗北を抱きしめて』(増補版)の前書きを少し読みなおしてみた。
    ダワーは日本の一部保守派からは「サヨク」だとして評判は良くないが、私にはたいへん面白い本だった。

    さて、彼は「日本の読者へ」(前書き)で次のように述べている。(p.xvii)

    日本は、世界に数ある敗北のうちで最も苦しい敗北を経験したが、それは同時に、
    自己変革のまたとないチャンスに恵まれたということでもあった。
    「良い社会」とは何なのか。この途方もない大問題が敗戦の直後から問われはじめ、
    この国のすみずみで、男が、女が、そして子供までが、この問題を真剣に考えた。
    それは、かってないチャンスだった。とはいえそれは戦勝国アメリカが占領の初期に改革を強要したからだけではなく、
    アメリカ人が奏でる間奏曲を好機と捉えた多くの日本人が、自分自身の変革の筋立てをみずから前進させたからである。
    多くの理由から、日本人は「敗北を抱きしめ」たのだ。
    なぜなら、敗北は死と破壊を終わらせてくれた。
    そして、敗北は、より抑圧の少ない、より戦争の重圧から自由な環境で再出発するための、
    本当の可能性をもたらしてくれたからである。

    何と前向きな評価だろうか!
    それにひきかえ、このブログはなんだろう?
    このブログで支配的な、「侵略戦争でなかった」とか
    「検閲にやられた」などという議論がなんと後ろ向きで、みすぼらしく見えることか!

    J・ダワーの捉え方こそ、その後の日本の発展、ダイナミズムの源泉ではなかったか。

    もちろん良いことばかりではない。
    敗戦という「異常な」状況下での「結論」は偏ることが少なくない。
    典型は防衛問題・・・今修正の過程にある。

  16. 後ろ向き、前向き(追加)

    クライン孝子さんのHP。
    私自身はあまり好きではないのだが、
    ■2006/08/25 (金) 産経「正論」の岡崎久彦論文が起爆剤!(2)
    で、次のように述べている。(詳しくは彼女のHPを)

    第二次世界大戦に関しては、日本も反論したいことは山ほどある。ドイツもそう。

    但し、古今東西といわず、戦争をすることは、勝ち負けで勝負することであり
    負けたら、万事休す!
    その負け人間の意見が通ることは、皆無!
    負け戦になれば、殺され、毟り取られ、奴隷にされる。
    この法則は、2000年後の今日にも脈々と受け継がれている。
    それが嫌なら、戦争をするな、か 勝て!ということになる。

    日独両国は、あの戦争に負けたことによって、勝利国にその運命を委ねなければならなかったのは当然!
    (そのあとは「米ソ対立の中で、アメリカについたのは大正解。・・・靖国側もこの岡崎氏発言に、救われ、ほっとしたのでは?」と続いている。)

    女性でありながら、なんという潔さ!
    皆さん、見習いましょう!

  17. まあよく言われることだけど、現在の倫理観で過去を裁いてはいけないのは原則であるという言葉がある。私の師匠の山本七平も西尾先生も書かれている言葉である。遡及法が近代法で否定されているのはおそらくこういう言葉も背景にあるのじゃないだろうか。

    さて国際社会の当時というか日露戦争勝利後の現実を見てみよう。明治維新の動機の幾つかある一つに不平等条約の解消があった。具体的には関税の自主設定権の取得であったろう。

    話が飛ぶようであるが、勘弁してほしい。関税の話の前に日本人がエコノミックアニマルである話をして、話の強弱をつけるためにこんな書き方をしている。
    私が西尾先生と明らかに意見が違うのは、先生が「敗戦後の日本人の商業活動は米国との戦争をしているが如くである」とでもいう認識に対して、私が「日本人は自発的に作った日本資本主義の精神とでもいう思想に従って敗戦後の経済活動に向かった」という認識である。現在の中国への日本の対応を見てみると「宗教と政治の分離」というより「政治と経済の分離」を唱えているように見える。何をいいたいのかというと日本人は敗戦後にエコノミックアニマルになったわけじゃないということである。

    こういうエコノミックアニマルになりうる要素があり、現実に世界で第2位の経済大国になった。もちろんこれは国民の成果であり、国家として誇るべきことなんだろうと考えている。そういう経済への関心は少なくとも室町時代には存在しており、当時すでに武士や農民から商人への怨嗟の声があがっているのも事実である。おそらく世界で最初に先物取引をしたのも日本であり、農民や武士の怨嗟から生じる商人への侮蔑意識を解消しようとしたのも日本である。

    こういう文化を持っている日本で関税の自主設定権の確保は当然の要求であろうし、おそらく独立し、主権を有する国家としては当然のことなんだろう。

    しかし幕末から日露戦争の勝利までは不平等条約の解消がなされなかった。すなわち日本はまともな主権を持った国家とは当時の列強、すなわち欧米やロシヤからみなされていなかったのが現実なんだろう。現在の価値観から見れば欧米は普遍的な正義のために日本の自主関税権を認めたわけじゃない。欧米と同じ列強、すなわち戦争の勝利により一種の覇権国家であることを認めたからその主権を認めたのだろう。そして日本は勉強したのだろう。世界は儒教で論じる徳治社会ではないことを。そして日本は日露戦争の勝利によって「武力の政治」が現実社会であることを再確認したのだろう。

    すでに日露戦争前に日本は主権を持っている国家には武力が必要であり、それを裏付ける経済の重要さを認識していた。鎖国していた朝鮮を開国させたのは日本の武力であり、開いた港の治外法権と領事裁判権を得た。また朝鮮側の関税はゼロにするという条約を結んでいる。これは江戸末期に欧米の主権国家に日本がやられたことをそのまま教師として朝鮮へやっただけの話であって、当時の世界の現実に日本があわせたことだとも言える。実際に欧米と違うのは後で朝鮮合併により日本は本土以上の投資を朝鮮半島に行い、実際に朝鮮は木が増え、農作地が増え、人口が増えて国民の教育レベルが向上し、生活が安定したわけであるが。

    近代化=西洋化はある意味で日本が武断政治に変換したとも思える。これを現在の価値観、とくに米国に植えつけられた価値観から否定してはいけない。また武断政治を採用したからといって日本が軍事合理性や目的合理性を主眼とする軍国主義国家になったわけじゃない。

    日本の場合はややこしいのはおそらく当時も日本人の中にも武断政治より日本人が培ってきた話し合いの政治を民主主義へ転用できると考えた人もいるだろう。しかしこれらの人の意見は通るはずもなかった。だって欧米の武断政治を現実に見て、関税の問題で痛めつけられた経験がある日本ではそんな理想は通るわけがないからだ。また実際に国民もそれを認めているわけである。ある意味で痛めつけられた、かつ主権国家として認められなかった中国が武断政治に変換するのは日本の歴史を見ればありうることなんだろうと思う。ただ中国の場合は共産主義という大きな枠があって、日本と同じだと考えるのは無理があるが。

    そして国際政治での正義は見掛けの主権国家は増えたがいまもあんまり変化がないように思える。そして振り返って日本自体が本当に主権国家かと考えてみるとそうじゃないじゃないかと思える節がある。

  18. 問題の主題が変化する人間と議論をしてもむなしいだけです。

    もうすぐ9月1日になりますから私の投稿は最期にします。

    敗戦の認識が広がってよく新聞で見るのは皇居前で頭をさげている庶民の姿です。当時誰もが自分を責めた。けっして誰かのせいにはしたくなかったのでしょう。背景には基本的に他人のせいにすることを忌諱する日本の文化習慣があると思います。最近の日本人は一部でまるで韓国人のような恨み節を唱える人もいますが、おそらく多くの日本人にある嫌韓観の背景には他人へ転嫁する心情である恨み(不平観)や怨み(憎悪)を持っている人間集団に対する嫌悪感があるのでしょう。韓国の政治首脳で旧日本軍から国軍軍人出身の大統領がいましたがこの人は他者へ転嫁するのはやめようじゃないかと論じていましたが。

    物事は自己に転嫁するのが一番簡単な心的解決方法でもあります。

    しかし社会の事象の原因は自己転嫁で収まる問題だけじゃない。

    コンピュータのシステムを利用してもらって何か操作を間違えてデータが異常になった場合、私の立場はシステム上で何か誤動作をさせるような部分があったのではないかを追求しシステムを変更することです。これは心的に原因を転嫁させるのでなく再発防止を図るためです。そしてシステム的に幾ら考えてもそこまで対応するとコストや時間で無理があると判断する場合もあります。こういう場合は利用者部門への教育や標準化訓練を行うわけです。後者の対応は絶対ではありませんから気持ちは悪いですが。

    おそらく国際社会の問題でもそうでしょう。もっとそれが複雑であって、規模が大きくなりますから解決方法はまったく違うでしょうけど。コンピュータのシステム原理というか複雑系の思考から出てきた結論に「要素還元主義では問題は解決できない。それは要素の組み合わせが積みあがったシステムは要素の累積と違った性質を示すからである」というデカルト以来の「要素還元主義」を崩壊させる考え方があります。
    国家経済と個人の家庭経済を同一メカニズムで動いていると類推することは規模が違いますから間違いのもとであるという考え方に近いものをてっくさんが御大の反論に書いていましたが、私はこのてっくさんの考え方は正しいと考えています。

    私は初めは自虐というのはこの自己へ転嫁する習慣が現れたのかと思っていましたが、どうもそうじゃなくて他人へ転嫁することによって責任を逃れる行動をさす行動ではないかと考えています。自己へ転嫁する行動パターンなら過去の祖先へ転嫁する行動を取るはずがないのです。過去の祖先が悪いなら悪いでいいのですが、それを自己で背負うという覚悟がないからです。御大の論説にはどうもそうじゃないな。

    自己へ転嫁する場合はすべての原因を自分へ持ってきますから他者への転嫁は起きません。しかし他者へ転嫁する場合はしばしば原因があります。山本七平の論説を借りれば偽メシアという概念があるそうです。

    ある異端審問官がある男を異端者として民衆に渡して殺させてしまった。ところがその男こそ、正真正銘の信徒であることがわかった。すると審問官は民衆に言った。「お前たちは罪なき人を殺した。懺悔せよ、悔い改めよ、罪をつぐなえ」と。民衆は流された血を見、これにおののいてひざまずき、罪を告白し、嘆き悲しんだ。
    これを見た老ユダヤ人が驚いて審問官に言った。「判決を下したのは貴方ではないか。その貴方が人々に悔い改めを命ずるとは!貴方には罪がないのか」。審問官は答えた。「私は神の名(天皇でもよい)のもとに判決を下した。従って私には責任はない。責任は常に神と民衆にある。だから昔から言うではないか、『民の声は、神の声』と」。
    それから民衆の方に向いて言った。「ここに異端者がいる。この者はお前たちの真摯なる悔い改めをけがした。私はこの男をお前たちに渡す」。民衆は、一斉に老ユダヤ人に襲い掛かった。

    この審問官と老ユダヤ人を誰に想定するかは読者に任せます。小泉首相と追放された自民党の老幹部か、それともまっさきに敗戦後論調を180度変換させた新聞や左翼知識人と日本民衆か、それとも・・・・。

  19. 『新しい歴史教科書をつくる会』の変貌・・ death march のはじまり

    私の手元に『新しい歴史教科書をつくる会』の機関紙『史』が数冊ある。古いのはどこかにしまい忘れているのだろう。

    それまで何の抵抗もなく読めていた『史』だったが、ある号から突然引っかかりを感じるようになった。
    それは「巻頭言」だった。
    手持ちの巻頭言を見ると次の通りである。

    2005年特別号(通巻50号) 八木秀次「今度こそ子供たちの手に届けよう」
    2005年 7月号(通巻51号) 中西輝政「第二次世界大戦の始まり」
    2005年 9月号(通巻52号) 高森明勅「”リベンジ”への確かな一歩」
    2005年11月号(通巻53号) 松浦光修「三度目の正直」
    2006年 1月号(通巻54号) 工藤美代子「日本の子供たちのために」
    2006年 3月号(通巻55号) 福地 惇「国家体制と歴史観」
    2006年 5月号(通巻56号) 高池勝彦「東京裁判の呪縛」
    2006年 7月号(通巻57号) 浅野総一郎「原点に帰り力強く再出発

    そう、異変を感じたのは2006年 3月号(通巻55号) 福地 惇「国家体制と歴史観」からである。

    福地さんは「東京裁判史観」だの「GHQ占領憲法体制」だのと言い出した。
    56号、高池勝彦「東京裁判の呪縛」は、読んでのとおり。
    57号、浅野総一郎「原点に帰り力強く再出発」では、GHQは日本の伝統文化と
    その精神を破壊した、などと述べている。

    54号の工藤さんの巻頭言までは”まとも”だったが、55号からは突然「反米」色を強く打ち出すのである。
    もちろん上記筆者には個人的には「反米」の人もいただろうが、表には現していない
    (個人の考えと組織とを厳密に区別していた、と考えられる)
    つまりここで『つくる会』は反米色を鮮明にしたのである。
    もちろん、『つくる会』の内紛と直接関係がある。

    早い話『つくる会』は反米主義者に乗っ取られた、と考えても良いだろう。
    内紛におけるみっともない争いの裏に、このような「路線の変更」があったと、私は見ている。
    これは重大な「変貌」、場合によっては会員への裏切りである。

    残念ではあるが、これは『つくる会』の death march の始まりではないだろうか。

  20. death march の始まり??

    また Vagabond氏の誇大妄想発信ですね。何と安っぽい、軽率きわまりない疑いでしょう。

    ブログを引っ掻き回し、関係者の反応に快感を覚えている御仁としか思えませんね。どこかの国の工作員とちがいますか。

    巻頭言は各執筆者が自由意思で書いている筈ですよ。

  21. 御大のような人の存在が裏切りとは考えないのね、祖先への

    あっしは悪制の中にも人士あり、って思ってました、今の教育界においてすら

    つーか、ここってつくる会とはもはや関係ないのでは
    つくる会のことだったら、そっち系のマニアックな板やブログがあるでしょうに
    そっちでやれば?

    ただ、今の薄っぺらい知識のままいくと、コテンパンにやられるかも
    ま、御大は心がお強いので大丈夫だとは信じてますが

  22. 『つくる会』のことを書いたが、少し勘違いがあったようだ。

    『つくる会』は「歴史(あるいは公民)教科書」を編纂するための団体であると思っていた。
    これまでは実際にそうだったが、しかし教科書は教科書会社が発行する。
    その執筆者は何も「つくる会」でなくてもよいのであって、どうやら
    岡崎久彦さんが中心になって編集するらしい。

    扶桑社は適切な人選をしたものだ。
    なぜなら彼は「反米的」ではないからだ。

    東埼玉人さんは、次のように述べている。(8月22日 20:44)

    「つくる会」の運動の中では、アメリカの占領政策を批判し否定することが当然のようになっており、特に東京裁判に対してそうであるが、文部省検定の歴史教科書にそのような考え方の記述がされる筈はなく、従って、占領や東京裁判を肯定的に評価する人が「新しい歴史教科書」を支持することも当然あるわけである。

    「つくる会」の機関紙である『史』の巻頭言が、同会の姿勢とは全く関係なく
    執筆者の恣意に任されるなどということは、およそありえないことである。

    東埼玉人さんの言うように「反米的(占領政策否定という意味)」教科書が世に出るはずはない。

    つまり、「つくる会」はひょっとすると教科書編集にはタッチしないかもしれない、
    というわけで death march などはどうでもよいことになる。

    \\\\\\\\\\\

    以下蛇足・・(いつも蛇足だと思われているかも・・?)
    『史』2006年7月号(通巻57号)には、第10回定期総会のことが書かれている。
    ここで岡崎さんも桜井よしこさんとともに挨拶している。
    しかし役員になっていないことを考えると一線を画しているようだ。
    お二人とも「教育再生機構」でも挨拶している。

    さらに理事の一人、石井昌浩拓殖大客員教授は「小異を捨て大同につく」ことの大切さを強調して、
    「つくる会の関係者が、いたずらに小異にこだわり口角泡を飛ばす争いを繰り返すことは、
    良識ある国民に愛想尽かしをされるだけである」と述べている。

    よい教科書をつくろうという運動においては「小さな違いこそ決定的な違い」ということは
    内部抗争で力を削がせる悪質なテーゼ(?)である。

    なお、馬鹿馬鹿しくて相手する気にはなれないが、
    「反米的(占領政策否定という意味)」でないことが、どうして「先祖への裏切り」
    になるのか・・説明を求めないから・・・念のため。
    反米的(同)であることの是非を議論することは結構なこと(私は議論するつもりはない。
    逃げるつもりもないが)。

    冷静な議論をさて置いて「反米的でないのは先祖への裏切り」ということこそ「狂信」なのだ。
    西尾さんは fanaticism を一番嫌っていたのではないかな・・?

    また「脅し」をかけるなんて、それでも言論人か!

  23. 実はね、ルーズベルト大統領は日本軍が真珠湾を攻撃してくるということを事前に知っていたんだ。
    その証拠に空母(エンタープライズ)を真珠湾から退避させている。
    彼はともかく日本軍に先に手を出させたかったんだ・・・。
    真珠湾攻撃は彼の陰謀さ。

    ずっと前からこういう話は聞いていた。

    ところで、1941年当時「航空機は軍艦を沈められるか」に、
    たいていの軍人の答えは「ノー」だったようだ。
    しかし、可能であることを証明したのは他でもない、真珠湾攻撃とマレー沖海戦だった。
    航空機の方が強い、と主張した軍人もあっただろうが、実戦で証明されない限り
    支持する人は少なかっただろうし、主要な作戦にはなれなかったに違いない。

    真珠湾ではたいていの軍艦は昼寝をしていた。
    だからケンカにはならなかった。

    実はマレー沖海戦(1941年12月10日)こそ航空機の優位を如実に証明した最初の出来事だった。
    イギリスの誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」も巡洋戦艦「レパルス」も戦闘態勢だった。
    そこへ日本の航空機が襲い掛かった。
    あっけなく2隻は沈んだ。

    空母が戦艦より重要だと気づいたのは、日本よりもアメリカだった。
    空母を退避させていたのはその前で、重要性に気づいていたわけではない。

    実際、大和に対抗したアイオワ級戦艦4隻(アイオワ、ミズーリ、ニュージャージ、ウイスコンシン)
    48,500ton 33knot は1943~44年に就役している。(建造が始まったのはもっと前)

    ルーズベルトは日本軍が飛行機で真珠湾を攻撃してくることが分かっていながら、
    「手を出すな」と命令したのだろうか。
    「第一撃は敵から」の”原則”に立っても、自分がその立場にあったら絶対にそういうことはしない。

    飛行機は空母だけにあるのではない。
    陸地の飛行場にたくさんいたはず。
    日本機が最初の一弾を落とせばそれで(ルーズベルトの)目的は達せられる。
    軍用飛行場から飛行機を飛び立たせて待ち構えていることは出来たはずだ。

    戦争中撃墜された飛行士を救助するため多大な努力を惜しまなかったアメリカ軍が、
    「アリゾナ」などの乗組員をむざむざ殺したとは、到底考えられない。

  24. 【「つくる会」の運動の中では、アメリカの占領政策を批判し否定することが当然のようになっており、特に東京裁判に対してそうであるが、文部省検定の歴史教科書にそのような考え方の記述がされる筈はなく、従って、占領や東京裁判を肯定的に評価する人が「新しい歴史教科書」を支持することも当然あるわけである。】

     私がこう書いたのは事実だ。
     しかし
    「だから、アメリカ占領政策を肯定するのが当然だ。」
    などということを言っていないことは明らかだ。
     御大のデマゴーグとしての本領が、このたびの書き込みにも遺憾なく現れている。

     占領政策に対する批判、何よりも日本人の「自己の歴史を回復しよう」とする強い意志がなければ、「つくる会」の運動の立ち上がりなどあり得なかった。検定の枠の中であっても、日本人の誇りを回復させる教科書を子供達に届けること、そして将来、占領政策に対する批判を検定の枠内に組み入れるようにすることを目指していたのである。
     運動の面において、占領政策を批判しない人が参加することを拒まないのは、当然のことである。(参加してもらわなければ、占領政策の不当性に対する理解も得られない。御大のような石頭、若しくは意図的に「理解」を拒んでいる人は別であるが。)

     御大に対して、改めて批判は行うが、帰宅して当日録を開けたとたん、御大の書き込みを目にしたので、取り敢えず記す。

  25. ’小異を捨てて大同に付く’自分のような唯の生身の人間には、例へ一円でも捨てる事さへ容易ではない又、誰かに遣ったら其の見返りを、たとへ口には出さずも心中で期待する。

    ’大異を持って大同に付く’彼我の違いを明白にして大同に付く、つまり和する。このほうが生身の人間には自然の様な気がします。

  26. 御大はこれから何を言い出すだろう。
    御大は終戦時は5から6歳なはずだから、実際には殆ど記憶はないはず。私の姉は御大とほぼ同じ年齢だけど、B29がひゅるひゅるひゅるといやな音を出して東京の住宅密集部を焼夷弾攻撃をしていた記憶はまったくないそうだ。

    そういう意味では7年間のGHQに与えられた概念はご当人が意識していなくても一番影響を及ぼした可能性がある。7年間は12歳から13歳で一番多感な年齢なはず。このころの時代の情報は新聞やラジオであってそれらはすべて報道規制されていた。そして確か昭和1桁代生まれの江藤 淳の戦後三部作といわれた本の一部である「閉ざされた言語空間」が出たのはもっと後だったと思う。江藤淳も書いていたけど言語空間だけじゃないのね。日本は憲法によっても強い規制を受けている。もしかするとGHQの原因ではないが、日本語の習慣的な使い方そのものが「閉ざされた言語」になっている可能性がある。『小異を捨てて大同につく』という言葉そのものが意見に対するブレーキを示すわけだけど、そのアンチブレーキに対応する言葉が必ずある。『付和雷同』とか『和して同ぜず』という言葉がそうなんだけど。『小異を捨てて大同につく』が絶対になるとアンチブレーキが効かなくなる。

    学校教育でも争うことは悪いことだと教育していた。喧嘩になった場合の解決方法は『三方一両損』と『喧嘩両成敗』と『小異を捨てて民主主義的に大同につきなさい』と『最後まで気の済むまで言葉でやりあいなさい』と『正しいとはこういう意味です』と説明するなど千差万別がある。民主主義を日本的に見れば話し合いであり、多数決原理であり、小異を捨てて大同につくことになる。そう考えると御大の書いている「小異を捨てて大同につく」という教育を受けたことは嘘じゃないだろう。

    すると米国の宣伝で染まった御大の思考構造は簡単で米軍黄門様と民衆を虐める極悪非道の悪代官日本軍と受け取ったと考えればいいわけだ。するとこんなことを言い出しそうだな。
    ①サイパンでの民間人自決行為とそれを許した無責任日本軍と民間人を救おうとした正義の味方の米軍将校という構図かな。
    ②だまし討ちをした日本軍とそれに対する準備不足のなかでフェアに戦った真珠湾の米軍という構図かな。
    ③それとも戦争が負けるのをわかっていて本土決戦をしようとした日本軍と自国軍の本土決戦における被害を防ぐために行った原爆攻撃は日本が悪いのだといいだすか。
    ④特攻隊の非人間性と米国の映画で見る自国兵士を大事にする人間性の対比をしだすのだろうか。

  27. 山田さん、
    早とちりで、あなたのご意見を読み違えておりました。

    ‘大異を持って大同に付く’彼我の違いを明白にして大同に付く、つまり和する。このほうが生身の人間には自然の様な気がします。

    なかなかそういう心境にはなれない「凡夫」ですが、そういう気持ちは大切です。
    今後心がけたいと思います。

    \\\\\\\\\\\\\\

    東埼玉人さん、
    あなたは 2006年08月28日 23:16 で次のように書いている。

     しかし
    「だから、アメリカ占領政策を肯定するのが当然だ。」
    などということを言っていないことは明らかだ。
     御大のデマゴーグとしての本領が、このたびの書き込みにも遺憾なく現れている。

    【アメリカ占領政策を肯定するのが当然だ。】
    などという結論がどこから出てくるのだろうか。

    よく読んで欲しい。そんなことは書いていない。
    デマゴーグなどという扇情的な言葉を使う前によく読むことだ。

    もう一度書く。

    反米的な教科書は採用されない。
    「つくる会」が反米的になっても、(同会の会員、役員は)教科書の主要な著者にはなれない。
    故に、私にとって「つくる会」の重要性は薄れた。

東埼玉人 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です