桜の咲く少し前

 三月は人の亡くなることが多い。桜の咲く少し前によくある。今年もドイツ文学の恩師登張正実先生が89歳で逝った。先週護国寺で葬儀があった。

 先生はご長寿で、東大をやめてから20年近くになる。成城大学をおやめになってからもかれこれ10年になるのではないか。

 若い頃よくお宅に伺ってお酒をいただいた。先生は酒豪だった。奥様のお手ずからのお料理でご接待いたゞき、学生の頃から先生を囲む若い人の輪ができていて、私もその仲間に入れてもらっていた。

 先生ご夫妻は私が結婚したときの仲人でもある。今から14年前までは普通にご交際はつづいていて、そして、突然切れた。切れた、というより私が遠ざかった。平成4年(1992年)夏のことである。

 私はマックス・ウェーバーをめぐる勉強会の席で丸山真男氏に二度ほどお目にかかったことがあり、登張先生のことが話題になった。格別に政治的な話題ではない。お互いに知人の動静を語り合うざっくばらんな雑談である。私はこのようにいわゆる左の知識人とも隔意なく附き合っていたし、向うも私に気兼ねする風はなかった。彼らは今では左翼知識人として名だけ有名なかたがただが、大抵はもう死亡されたか、第一線から退かれている。

 ところでゲーテの研究家、ドイツ教養小説(Bildungsroman)を専門とされた登張先生は左翼などというものではまったくない。いわゆるノンポリである。人柄の良い、穏やかな方で、普通の程度の「進歩的」考え方の持ち主であった。

 平成4年は天皇訪中の是非をめぐって世論が湧いていた。私は訪中に反対だった。大概の知識人はそうではなかった。天皇は中国に行って自らのことばで謝罪すべきだ、という考え方に立つ人が圧倒的に多かった。

 登張先生もそうだった。今でこそ天皇の訪中反対は普通だと思うが、私の異論は当時は少数派だった。司馬遼太郎氏に対中謝罪の名文を書いてもらってそれを天皇にもたせて中国で謝らせろ、などという「大胆な」意見を申し立てる人もいたほどの時代の空気であったから、平均的な登張先生が訪中賛成の論に傾くのは当然だったかもしれない。

 先生はとにかく天皇に中国に行って謝ってもらいたいの一点張りだった。私との間で数度に及ぶ往復書簡があった。私は先生に異論を申し上げるのにも、世の中に抵抗するのにも、緊張感とエネルギーを要した。先生と電話で論争したこともある。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の始まる5年前の出来事である。

 私は朝日新聞論壇欄に天皇訪中に反対する意見を書く機会を与えられた。平成4年(1992年)7月17日付の次の記事がそれである。

いまは天皇訪中の時期ではない
 

 東欧とソ連の共産主義体制が雪崩をうって崩壊した後、世界の人の目は中国、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)、ベトナム、キューバという残された国々の動向に注がれてきた。ことに中国の動きが焦点である。私は最近二ヶ月ほど東欧と旧東独を歩いて来たが、いまだに密告、秘密警察、強制収容所が支配するアジアの共産主義諸国のことは想像するのもいやだ、という人が多かった。東欧では過去を忘れたがっていた。過去を思い出すと頭がしびれるという人もいた。

 ドイツでは、なぜアジアでは変化が起こらないのか、と問われた。ところが中国は近ごろ、海空軍力を増強し、これまでの領海防衛から一歩出て、外洋への前進作戦に転じている不気味な動きさえある。地図入りでこれを私が初めて詳しく知ったのもドイツの新聞でだった。台湾や東南アジアはすでに神経質になっている。世界から置き去りにされた唯一の大国である中国はいまいら立ち、焦り、次にひそかに何を画策しようとしているのか分らないのが恐ろしいと書かれていた。しかし中国が独り共産主義体制を維持できるわけもなく、変化は早晩、時間の問題であろう。

 7月9日の本欄で、民社党国際局長の伊藤英成氏が、今こそ日中友好のために天皇陛下の訪中を実現すべきである、と書いているのを読んで、私は正直いってほとんどわが目を疑った。自民党内部でも天皇訪中問題が首相による最終決断の時期を迎えていると報じられているので、世界の常識と日本の常識とがいかにかけ離れているかをここでも痛感しないではいられなかった。いったい陛下のご訪中は今が果たしてその最適の時期だろうか。この際ぜひ、慎重に考えてみていただきたい。

 私は欧米の中国政策がすべて正しいといっているのではない。天安門事件の直後、中国を見捨てなかった日本外交を私は理解した。天安門事件を人権侵害として非難したフランスは、ソ連がリトアニアに兵を入れても、ゴルバチョフを見捨てなかった。距離の近い者には特殊な事情がある。それを私は分っている。だから日本政府が欧米の反対を押し切って中国に経済援助を再開したことを私は是とした。

 しかし、われわれが是とすべきはそこまでである。われわれが孤立する中国に同情の手を差しのべるのはいいが、世界から誤解されないのはそこまでである。われわれが友邦とする欧米各国、われわれと体制を共にする台湾や東南アジアが批判し、疑問とする現在の中国に、天皇が赴き、世界中の批判や疑惑をわが皇室がもろにかぶってよいのだろうか。天皇を政治にまき込まないのが、戦後日本の大切な約束だったはずである。

 日本の政官界には、ロシアに対しては警戒心が盛んだが、中国に対しては心情的にのめり込む人々が少なくない。そして大局を見失う。2月に訪欧した銭其琛外相は、天安門事件を忘れていない欧州各国の外相から、握手を拒まれたといわれる。中国は今年、国防予算を12パーセントも増額した。パキスタン、アルジェリア、イランに原子炉を売り、シリアにも売ろうとしている。

 中東から北朝鮮まで核武装地帯を作ろうと裏で画策しているという疑惑も、欧米にはある。中国の平和意図をもっと信じてもよいという人もいるだろう。私も中国を好戦国とは思いたくない。

 ただここで大切なのは中国の評価ではなく、そういう疑惑や不安が世界に広がっている折にわざわざ天皇が訪中することの当否である。中国が共産主義体制を克服してから訪中されるのでも決して遅くはない。訪中を断って日中関係が一時的に悪化しても、長い目でみればその方が中国の民主化には寄与するはずである。なおこれまでに中国の現職の国家元首が来日した例はないことも付記しておく。

 登張先生は私の新聞の記事内容に怒ったらしい。それからフツリと連絡がなくなった。記事のどこかが先生の逆鱗に触れているのである。それがどこかは分からない。

 私の書いた文章は今でこそ当たり前の内容であり、穏和しすぎるくらいに思う人もいよう。しかし、時代の空気はまだこの程度の段階であって、これを書くのにも抵抗があったのだ。

 人生は哀しい。恩師との関係はこれで切れた。私にも強いこだわりがあったからである。往復書簡の中の先生の片言が私を深く傷つけていた。私も沈黙しつづけた。そして歳月が流れた。

 マックス・ウェーバーの勉強会からも私は次第に足が遠ざかり、会そのものも消えてなくなったのか、連絡もいつしか途絶えた。

 興味深いことだが、平成4年のこの朝日への寄稿を私に取り持ったのが、明治神宮だったかの意を体して接触してきた高森明勅氏であった。このとき初めて聴く名で、お互いにまだ面識はなかった。高森氏がたしか「神社関係の保守派はかえってはっきり物が言えないから」と言っていたと覚えているが、明瞭には記憶していない。

 私の個人のこの15年史の中にもこうして政治は激しく影響した。会って謝罪することもなく、恩師は逝去された。謝罪する理由はない、というかたくなな心が私の内部にもどっかり居坐っていた。

 誰でもこのように歴史の中で個人の心が試されている。ひたすら自分の「神」のみを信ずればよい。それ以外にない。

 天皇訪中に反対したこんな程度の政治的見解でさえ人々の心に亀裂を走らせた時代を私は潜り抜けて生きてきた。これからはきっと私の15年史には出てこないもっと新しい、未知の問いが日本に迫ってくるに相違ないのである。結局はそれぞれの心が試される。それに耐えられない人々が恐らく無数に出てくるに違いないと私は予想している。

 何に耐えられなくなるかといえば恩師や先輩や同僚、あるいは組織の中の人間関係に過度に配慮して、妥協して、自分が自分でなくなるようなことをして、それでいてその自覚がまるでない性格障害者が急増することである。知能も高く、才能もあって、ただ自分でしていることが社会的に何であるかだけが分らない人を性格障害者というのだ。今の時代に早くも至る処で急速に増えているのがこうした人々であるのはじつに恐ろしい。言論人、知識人の世界にむしろ例が多いことこそ真の問題であろう。