天下大乱が近づいている(一)

 身辺にさして格別のことも起こらない凡々たる生活をおくっているが、ときどき説明のできない不安が押し寄せてギクリとすることがある。敏感になっているのは私ひとりではないように思う。

 昨日偶然に会った友に私は言った。
 「カオスが近づいていますね」
 「そうですね。私もそうだと思います」と彼は応じた。詳しく語らないでも、こちらの言わんとする処を近い友人は分かっているのである。

 カオスとは混沌ということである。天下大乱、無秩序ということである。

 金融の不安、食材の不安、年金の不安、教育の不安、救急医療の不安、物価上昇の不安・・・・・・・そしてそれらいっさいを守ってくれるはずの政治の機能麻痺の不安がなかでも一番大きい。

 日本人は反省好きの国民といわれるが、たしかにそうで、反省ばかりして、自分の外にいる敵の正体を正確に見て、それと闘うことから問題を解決していくという具体的で、手堅い精神に乏しい。政治が頼りなく不安なのはどうやらそのせいである。

 昭和20年3月の東京大空襲を訴える訴訟団が結成されたと聞いて、日本人もようやくそこまで自覚を深めるようになったかと私は喜んだが、すぐ吃驚(びっくり)した。訴訟の相手は日本政府だというのだ。アメリカ政府を訴えるのではないのである。何という倒錯だろう。

 原爆症の補償も日本政府が支払っているようだが、よく考えればおかしな話である。講和条約が結ばれた後では旧敵国政府に戦災の補償を要求できないのは当然である。だから自国政府に求めざるを得ない、という話ではおそらくない。原爆を落としたのはたしかにアメリカだが、それを誘発したのは日本で、だから日本政府に責任があるという奇妙にして不可解な論理が罷り通っていることをわれわれは知っている。

(「修親」2008.5月号より)

つづく

お知らせ

 昨9日の「路の会」5月例会のゲストはぺマ・ギャルポさんで、チベット情勢を詳しくうかがいました。チベットの歴史、清朝の侵略、英国の干渉、戦前における日本人の国家建設への協力など。ダライラマ法王の選出の仕組みには聞き耳を立てました。

 本10日は「坦々塾」で、メンバーの二人のお話のあと、私も少し話し、ゲストは田久保忠衛さん。国際情勢の激変する中での日本外交のお話をうかゞいます。これから会合へ向かいますので、時間がなく、ダライラマ法王のこともチベットのことも今詳しく書けません。

 今夜23時から、文化チャンネル桜で私の「GHQ『焚書』図書開封」の第22回「大川周明『米英東亜侵略史』を読む」があります。お知らせします。

 徳間書店からの出版予定『GHQ「焚書」図書開封』はかねて4月刊と予告していましたが、新事実の発見が相次ぎ、改筆加筆が大幅に生じ、作業が遅れていますが、6月前半刊行と決定しました。現在作業は96パーセント完了しています。近く発見の方向について、あらためて報告します。

管理人注:このエントリーは私の手違いにより、一日遅くアップされました。そのため、内容に日にちの誤差があり、チャンネル桜のお知らせが間に合いませんでした。申し訳ありませんでした。

非公開:「皇太子へのご忠言」続篇(一)

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西尾幹二先生

「WiLL」の第二弾は、第一弾にも増した感銘を覚えながら拝読しました。
前号では衝撃が読者の心を捉えたと思いますが、今号は国難に瀕する「覚悟」が読者をゆるがせたに違いありません。
皇室が信仰に根ざす故に、不合理であるという根本を鋭く指摘されており、小生がかねてより考えていた皇室感とも全く一致します。それが、いつもながら先生の論旨の明確さに支えられて展開するので、痛快ですらあります。
不合理だからこそ美しい歴史として国民の尊崇の対象となるのです。

しかしながら、いかに先生の本稿が素晴らしくても、肝心の皇太子夫妻の耳に声が届くのかどうか、それが問題なのです。
皇太子本人が決定すべき事項が余りにも多く、それをペンディング、若しくは放棄しているのですから残念ながら解決の糸口は絶望的だともいえます。誰も皇太子夫妻に直接諫言できる側近がいないまま時間が過ぎ、天皇・皇后は無念を抱いたまま加齢されてゆきます。

西尾先生の二回にわたる論文を皇太子夫妻が心を開いて読んでくれることを祈るばかりです。
とにもかくにも小生は、先生の本稿がこれまでの凡百の皇室特集を粉砕して余りある内容だと思いました。
皇室問題には一歩距離をおかれてきた西尾先生が、ここへきて直言を書かれたことの意義は大きく、一人でも多くの読者に読んで欲しいと念願してやみません。

取り急ぎ愚考まで。

加藤康男

拝復

 肝腎なことが起こると貴方が必ずお手紙をくださるのがありがたく、いつも貴方がどう考えてくれるのかなと思いながら書くことも多いのです。雑誌はまたバカ売れしたようで、二度増刷したそうです。増刷分だけで5万部だと昨日会社の人が自慢していましたが、妻子を殺された人の手記も大きかったのでしょう。花田さんは根っからの編集者魂の人なのですね。

 雑誌はそんなにたくさんの人に読まれても、私に感想を書いて下さったのは貴方おひとりでした。友人たちはいつも誰も何も言わないのです。それだけに貴方のメールを嬉しく存じました。

 仰せの通り、現実はそんなに大きく動きません。当事者が読んで心を入れ換えるなんてあり得ませんから、結びの一文に書いたように、もうすべてが遅すぎるのかもしれません。

 ただせめて一つでも変わることがあるとすれば、例えば『文藝春秋』が座談会でお茶をにごし問題を先送りするような、姑息な編集方針を改めるようになることです。

 言論で何を訴えても変化は小さいものです。ものを書くということは非能率で、空虚な作業だと思うことは常々ですが、せめてものを書く人間だけでも「責任」ということをもっと考えてくれればと思います。編集者が官僚化してはおしまいです。

 それから、よほど過激な左の人でない限り、いまはみな天皇制度の擁護の立場に立った上であれこれ言って、現状を守ろうとしますね。今後私に反論の文を寄せる人が出てきたら必ずそういう書き方になります。

 最初のページに私が「天皇制度を擁護している知識人の論文の中にこそ、本当に信じていない人間に特有の利口な無関心が顔を覗かせている」と書いておきましたが、大部分こういう人ばかりです。

 そして大切なのは、私も「利口な無関心」に半身を入れているのですよ、と私が言っていることであって、この点に気がついてもらわないと本当のことは分らないのです。

 皇室問題は信仰だということ、信仰だから半分は信じられないのだということ、そして神話への信仰が基本だということ、神話はつくり話だと思っていますかいませんか、と皆さんに問い質したのがあの論文です。

 加藤さん、貴方はちゃんと見抜いて下さいましたね。不合理ゆえに美しい、という貴方の言葉に置き換えてこのことを述べて下さいましたが、このことが分る人は少いのです。

 大概の人は自分の観念に安住するからです。皇室問題に関する私の定まった観念はありません。私は自分が信じられるのか信じられないのか、そのことを自分の心に問い掛けているだけです。

 そして、それは皇室問題だけでなく、すべてのものを書く行為の基本ではないでしょうか。

 自分が簡単に信じられることは書いても仕方がないのです。先々どうなるか分らないこと、よく見えない未来を見えるようにすること、つまりそのつど賭けること――それは信じられるか信じられないか分らないことに挑戦するということと同じ態度です。

 誰しもが分っていること、みんなが信じている「観念」に乗ってものを言うのはもっとも価値のない行動です。

 ですから、私は福田内閣批判をしきりに書く人の気持が分りません。国民の100人のうち99人は福田はダメだと分っています。言論人はこんな安易なテーマを捨てるべきです。

 言論人は群衆の一人になってはいけないのです。

 私は安倍晋三氏が保守言論界の宿望を担って登場し、首相にならんとしたときに、この人はダメだと書きました。政治が分っていない人、性根の据わっていない人と見抜いたからです。

 しかしあんな形で内閣をほうり出すということまでは予想がついていたわけではありません。たゞ私は自分が信じられない、と書いただけで、固定したどんな「観念」も私は持っていません。信じられないのを自分の心に問うただけです。

 福田康夫氏は最初から言論人の誰にとってもダメな人とお見通しでした。であれば、今さら彼について論を張るどんな意味があるのでしょう。

 皇室問題も基本は同じだと思います。私は信じ、そして信じていないのです。だからこそ強く信じることができるのです。不合理だから美しいという貴方のことばを大切にしたいと思います。

 近くまた一杯やりましょうね。鰹のうまい季節がきました。あれの旬のときは酒もうまいのです。

                              西尾幹二