全集新内容見本(四)

推薦文より

 内容見本の文字が読みにくいとの指摘があったので、以下に表示しました。(管理人)

澁澤龍彦氏―「不自由への情熱――三島文学の孤独」
  三島さんの自決の問題が謎みたいに言われているけれども、これはぼくに言わせれば、世間で受け取られている常識的見解に反して、意外に単純な問題なんです。深いけれども単純なこと、おそろしいほど単純なことですね。ずばりと言えば、まさに「ニヒリズムとラディカリズムの問題で、それ以上でもそれ以下でもない。(中略)左翼の中にも三島さんの共鳴者が多くいるのは、当たり前のことでしょう。随分色んな人が三島論を書きましたが、このことをはっきり問題の焦点として見据えた人は、ぼくの知っている限りでは西尾幹二さんだけだったようです。この人は三島文学の愛好者でもないし、まことに穏健な思想の持主らしいんですけれども、ふしぎなこともあればあるもので、少なくとも問題の核心をつかんでいましたね。ぼくは敬服したおぼえがあります。
(「日本読売新聞」昭和46年12月20日)

中島義道氏――「西尾さんについて」
 西尾さんは真面目な人であり、正攻法が好きな人である。姑息な手段で勝つことを最も嫌った人である。西尾さんは、失点がないというだけの利点しかない人を嫌った。みずからを危険な場に晒さないで、安全無害なことばかり語る学者たち、裏で取り引きする人々を嫌った。つまり、人間としての「小ささ」を嫌った。これは、そのままニーチェの人間観に繫がる。……西尾さんは、みずから正しいと信ずることを、身体を張って主張し、一歩も譲ることがない。それはある(賢い)人々には愚直にも見えるであろうが、私にはこれが先生の一番好きなところだ。
(西尾幹二全集第6巻「月報」より)

梅原猛氏――『ヨーロッパの個人主義』書評より
 ここで西尾氏は、何よりも空想的な理念で動かされている日本社会の危険の警告者として登場する。病的にふくれ上った美しい理念の幻想が、今や日本に大きな危険を与えようとする。西尾氏の複眼は、こうした幻想から自由になることを命じる。(中略)西尾氏は、戦後の日本を支配した多くの思想家とちがって、何気ない言葉でつつましやかに新しい真理を語ることを好むようである。どうやらわれわれは、ここに一人の新しい思想家の登場を見ることができたようである。
(「潮」昭和44年4月号)

三島由紀夫氏――『ヨーロッパ像の転換』推薦の辞より
 西尾幹二氏は、西洋と日本との間に永遠にあこがれを以て漂流する古い型の日本知識人を脱却して、西洋の魂を、その深みから、その泥沼から、その血みどろの闇から、つかみ出すことに毫も躊躇しない、新しい日本人の代表である。西洋を知る、とはどういふことか、それこそは日本を知る捷径ではないか、……それは明治以来の日本知識人の問題意識の類型だったが、今こそ氏は「知る」といふ人間の機能の最深奥に疑惑の錘を垂らすことも怖れない勇気を以て、西洋へ乗り込んだのだった。これは精神の新鮮な冒険の書であり、日本人によってはじめて正当に書かれた「ペルシア人の手紙」なのである。

坂本多加雄氏――(政治学者)
著者の言論人としての活動を導いているものは何か。それは、おそらく、「なにものかに動かされたかのごとく、当時の世人の意に逆らう恐るべき真実を次々と言葉にするしかなかった『運命』」であろう。これは、著者自身がマキャヴェリと韓非を論じた文章の一節にみられる言葉である。本書は、そうした著者、西尾氏の「運命」から紡ぎだされた貴重な一冊に他ならない。
「異なる悲劇 日本とドイツ」(文春文庫 解説より)

草柳大蔵氏――(評論家)
 私は西尾幹二さんという学者が好きだ。『ヨーロッパの個人主義』以来の愛読者の一人である。自己顕示か、さもなくば八方美人が群居している日本の論壇の中で、この人だけは自分にも大衆にも顔をむけず、「現実」に顔をむけている。恐るべき数の「現実」から真実を読み取り、それを適切な言語にかえて論文を書き、メディアでの発言を続けている。その知的エネルギーはたいへんなもので、西尾さんの著書を読みはじめると、まるで超特急の列車に乗ったかのように、思考の途中下車ができなくなってしまう。
『「労働鎖国」のすすめ』(光文社 推薦の辞より)

坂本忠雄氏――(元「新潮」編集長)
 「新潮」は戦前は文壇雑誌そのものだったが、戦後の再出発に当たって昭和21年の坂口安吾「堕落論」を皮切りに、文学を詩・小説・文芸評論の枠から広げ、文学の文章によってその時代の文化の精髄を読者に伝える役割も果たしてきた。西尾さんが敬愛する小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、竹山道雄等の後を引継ぎ、この新しい領域を次々に切り拓いたことを、私は同世代の編集者として心から感謝している。
(西尾幹二全集第9巻「月報」より)