むかし書いた随筆(五)

*** ミュンヘンのホテルにて ***

 最近世界の名だたる豪華ホテルの案内書を企画したので、貴方の推薦できるホテルの名前と内容を報せてほしい、というアンケートがある出版社から舞いこんだ。そう言われてみて、私は人に紹介できる豪華ホテルに泊った覚えのないことに気がついた。一流めいたホテルになら泊った覚えもないではないが、名前も忘れてしまったほどどれも印象に残っていない。

 私の好きなホテルは小じんまりした清潔なミニホテルである。ミュンヘンにはよく行く。必ず泊るのが「オペラ座そばのホテル」という名の、裏小路ぞいの目立たぬ宿である。値段が安い。一泊百マルク前後、現在のレートで七千円弱である。安ければ通例、設備が悪い、バスが付いていない、調度が壊れたりしている、中心街から遠く、交通不便である、などの欠点のあるのが普通だ。ところがこのホテルは入口が小さく、地味なのに、内部は一流ホテルに負けない良い設備で、バス付きであり、しかも名の示す通り、バイエルン州立歌劇場横の大通りから一本奥へ入った小路にあり、じつに足の便がいい。

 オペラの前売券を買う時間の余裕がなかったときや、ふらっと今晩オペラでも見ようかと思いついたときなどに、私はAbend Kasse(当夜券前売り場)に並んで、大急ぎで、その夜の切符を手に入れる。それから開演までには大抵一時間くらい間がある。劇場の前の店でコーヒーを飲んで待つしかない。

 ところが、件(くだん)のホテルに泊ったときには、劇場から至近の距離なので、自室に戻って、一風呂浴びて、服装を整えて――ミュンヘンでは今でもオペラには男性が黒衣正装、女性が長衣正装ときまっているー―、おもむろに心の準備をして、出かけることができる。オペラを見る前のこの一寸した気持ちの調節はとても大切である。ことにワーグナーなどは腹ごしらえをしておかないと、途中で空腹になって困ることがある。私はホテルの自室にバナナやクッキーを用意しておく。まずこれを食べ、髭をそる。ワイシャツを新しくする。

 こうして気持ちを整えて、やっと開演十分前に自室を出ても、それで充分に間に合うこのホテルの便利さは、私のミュンヘン滞在にはいつも欠かすことのできない快適さの条件である。

 あるとき、フロントで、前夜舞台に見た巨体のバリトン歌手が、メイドと無駄口をきいているのに出会った。今夜ミラノへ飛んで、明後日はベルリンだと、彼は大きな声で喋っていた。そういえば、フロアで金髪長身のソプラノ歌手に出会ったこともある。ホテルの従業員は、歌手たちにとてもなれなれしい態度で接している。

 そうだったのか、ここはオペラ歌手たちの常宿だったのだな、と私は合点がいった。私にこのホテルを最初に紹介した日本人の友人が、ここは旅なれたドイツ人のいわば“ミュンヘン通”だけが知っている穴場のホテルで、外国人観光客には知られていないが、結構人気が高く、だから予約は早めに手を打つ必要がある、と教えてくれたのを思い出した。

 ドイツ人は無駄な出費を極力惜しむ。安くて、しかも内容がいい、そういう所に人気が集中する。ブランド名で商品を買ったり、見栄(みえ)で豪華ホテルを選んだり、そういうことはたしかに少ない。彼らがイタリアや南スペインへ大挙して出掛けて行くのは、南国の太陽への憧れもあるが、諸物価が安いというのがじつは最大の動機である。しかも、その安い外国に諸物持参で、バンガローで自炊してホテルに泊らない。それがドイツ流儀である。一流のオペラ歌手といえば、高収入で、どんな豪華ホテルに泊っても不思議ではない、と人は思うが、そこがさすがにドイツ人である。

 「オペラ座そばのホテル」はこのように実質本意で、ドイツ人の趣味に適う宿だが、さりとて貧弱なのではない。ホテルと同経営の附属レストランは高級料理店である。ワインも料理も超一流だし、ボーイもお仕着せをつけ、メイドも優雅で美人が多い。私は民族衣裳をつけてサービスする一人の若い娘さんに注目していた。ドイツ女性に例の少ない、溢れんばかりに笑顔をたたえた愛嬌の良さが気に入っていた。北ドイツ女性は概して突慳貪(つっけんどん)だが、南ドイツの女はやっぱりいいな、と心のなごむ思いがしていた。

 一昨年(1992年)春のことである。ドイツは交通ゼネストを経験した。もう何十年としたことのない大規模ストライキである。統一のために旧西ドイツ市民が強いられた金銭的犠牲に対する償いを求めてのストであって、旧東ドイツの各州はこのストに参加していない。ミュンヘン市街はたちまちゴミの山に埋もれた。私はフランクフルトへの旅を諦めた。空港も閉鎖されて、帰国の日程さえも脅かされかけていた。しかしオペラ劇場はなにごともないかのごとく毎晩開かれていた。ホテルの高級料理店も、毎晩客で賑わっていた。民族衣裳の美人の娘さんの笑顔にも、私は夜ごと接することができた。

 激しいストは間もなく終った。私のミュへン滞在も終わりに近づいていた。ホテルのフロントの男と激しかったストのその後の混乱について話を交わした。そして私は、かの娘さんがストの期間中、市外の村から片道三時間もかけた徒歩通勤でホテルに一日も休まずに通ったのだという話を聞かされた。郊外へ抜けるS電(バーン)が止まったからといって、ホテルの活動は止まらない、と男は言った。私は、このホテルの質実さを支えているのは、お客さんの好みだけではない、例えばこの娘さんの健脚であり、けなげさでもある。「なるほど」と、なにかが分かったような気がして、ひとり呟いた。

  初出(原題「ミュンヘンのホテル」)「小説新潮」1994年2月号

むかし書いた随筆(四)

*** 子犬の奇跡 ***

 わが家には一歳二ヶ月の雌の柴犬がいる。中学生になった一人息子が犬を飼いたいと言い出したとき、私が一番反対した。世話をするのは必ず私か家内かになる。子供はすぐ飽きる。愛犬家の知人が一日に二時間は飼犬のために割いていると聞いて、忙しいわが身には不可能だと思った。しかし、一度犬を意識すると、不思議なもので、駅前通りのペットショップの前に立ち止まるようになった。立ち止まると、自然に檻の中の子犬が目に入る。私はこましゃくれた犬が好きではない。いかにも犬らしい素朴なのがいい。生後四十日の柴犬の兄妹が組んずほぐれつしているのを目にして、ほとんど衝動的に飼う決心をした。

 しかしそれでも家内はなおためらっていた。小さな座敷犬でないと持ち運びに大変だというのである。わが家では夏になると必ず軽井沢の山荘に行く。車を運転しないわが家の場合、籠に入れて、提げて運べる程度の犬でないと、成犬になってから手に負えなくなるという、いかにも女性らしい実際的な慎重意見だった。

 私は家内をペットショップに連れて行った。檻の中で一番元気のいいのは一匹の雌だった。雄をもしのぐ勢いだった。私は最近の大学に多い、男子学生をしのぐ活撥な女子学生のことを思い出しておかしかった。家内は内懐にその生きのいい雌を抱き上げた。急におどおどと怯えているその小さな生き物の仕草と手触りが彼女からためらいを取り除いた。大きくなったらどうしよう、などと言いながら、彼女は衣服の内側に包むように抱いて、家に持ち帰った。

 子犬には息子がミミという名を与えた。何だか猫の名前みたいだな、と思ったが、息子の小学校時代の好きな女の子の綽名がミミちゃんだと聞いていたから、まあいいやということになった。後でオペラ『ラ・ボエーム』の悲運のヒロインの名前もたしかミミであることに気がついた。ミミは終幕で哀れな病死を遂げたはずで、縁起でもないと思ったが、時すでに遅い。

 ミミは最初足許も覚束なく、行動範囲はわずか一平方メートルていどだった。顔が可愛いというのでもない。口許がまっ黒で、不細工である。何という珍妙な顔だろう、狸の子みたいだ、と私は言った。いつか外に出すつもりだったが、季節も寒いので、しばらく室内で飼った。やがて家中を走り回るようになるのに多くの時間を要さなかった。スリッパをくわえて廊下で暴れる。洗濯物置場から下着や靴下を引っぱり出すのには弱った。屑入れ箱は何度叱ってもひっくり返した。階段を昇りたくても、最初昇り方が分からず、恨めしそうに見上げていた。三段ほど昇って、用心している期間がわずか一、二日で、あっという間に最上段まで駆け上がれるようになった。私は犬の成長の早さに驚いた。六ヶ月で初潮を見た。最近は食べ物が良くなったので、昔の犬より早いのです、とペットショップの人が言ったのも、人間世界のことを言っているように聞こえて、おかしかった。

 予想どおり息子は犬の世話をしない。家内にはもとより、私にも相当の負担が掛かってきた。毎日の散歩は私の課題、というより義務になった。運動不足の身には決して悪いことではない。私は勤務のない日には、時間の許す限り、犬と歩く。朝起きると、必ず近所の井草八幡宮の境内から善福寺川沿いの道を約三十分歩く。犬は一回の散歩では満足しない。夕方、もう一回連れ出し、しばしば一時間歩く。

 途中で犬好きの人によく声を掛けられる。まだ子犬の頃は道往く人から可愛いと言い寄られ、私は得意だった。帰ると家内に、また今日も誉められたよ、と報告した。路上で若い女性たちに取り巻かれることもあった。彼女たちはミミの周りに群がって、なでたり、抱き上げたりした。私はもとより悪い気がしない。

 ミミはこうして誕生日を迎え、成犬になった。そして、一つの奇跡が起こった。母犬は十五キロほどの中型犬だが、ミミは一年たっても八キロを超えない。大型の猫とさして変らぬサイズである。一体どうしてこういうことになったのだろう。いかなる遺伝のなせる業であろう。ミミは今でも私の膝の上にのる。柴犬は小型の方が良いのだ、と聞いて、大満悦である。勿論、今夏も山荘には手提げ籠に入れ、汽車に乗せて連れて行く。

  初出 時事通信社『内外情勢』1994年5月号
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追記:

 「子犬の奇跡」の後日談をお伝えします。ミミはいま11歳の老犬で元気ですが、体重が8キロ超えなかったのは3歳まででした。その後妊娠し、3匹の子をもうけてから、ブクブク肥って、遺憾なことにいま13キロもあり、運ぶのは容易ではありません。仔犬はもらわれ先で「モモ」「リリ」「ヤヤ」と名づけられてそれぞれ元気です。

11/8加筆修正

むかし書いた随筆(三)

*** 私は巨人ファン ***

 私は巨人ファンである。そういうと怪訝(けげん)な顔をする人が多い。ことに大学の研究室や講師控室や出版社の編集室などでそう告白すると、呆れたという顔をする人さえなかにはいる。巨人ファンは知識人、教師、編集者の世界では少数派である。肩身が狭いのである。だから、あまり口外しないようにしている。阪神ファンや中日ファンが大学の建物の中で大口を叩いているとき、巨人ファンは鷹揚(おうよう)に構えて、にこにこ笑って、気に掛けていないというような顔をしていなくてはならない。

 巨人が優勝しそうな強いシーズンにはことにそうである。しかし、今シーズンの後半のような、負けがこんできて惨めなときでも、あまり巨人のことは話題にしない方が良い。私の口惜しさを回りの誰も分かち合ってはくれないので、精神衛生上にはなはだ良くないのである。阪神ファンなどは、チームがあんな救いようもない状態でも、ファン同士は結構気脈を通じていて、互いに同情し合い、いちゃいちゃし合っているので、救われている。これに比べ巨人ファンはつねに孤独である。

 巨人ファンの中でも、原のファンだとでも言おうものなら、驚かれるくらいでは済まない。完全に軽蔑されるであろう。幸い私は原の格別な贔屓(ひいき)筋ではない。昨年の日本シリーズで西武に敗れたのは、本塁送球を怠ったクロマティのせいだと思われているし、私もそれを否定しないが、原が打つべきときにきちんと打っていれば、否、三回のチャンスにせめて一回打っていれば、巨人の優勝だった。

 王監督時代を通じ、原と江川に頼って、肝心なところで落とした試合がいかに多かったか。巨人の四番打者は、毎年三冠王が期待されるような本物のスラッガーでなければいけないし、巨人のエースは七、八年で二百勝をクリアーする本格派速球投手でなくてはいけないのである。そういう意味で私は、今の巨人ではなく、王、長島、金田時代の巨人のイメージを守りつづけている懐古派かもしれない。

 しかし、ファン心理というのは不思議なもので、一度なると、取り替えがきかない。よくあちこち浮気するファンがいるが、ああいうのは贋物(にせもの)である。まして、巨人が負けさえすれば嬉しい。あとはどこが勝っても構わないという、いわゆる「アンチ巨人」派という人種がいるが、あれは野球ファンとは言い難い。「アンチ巨人」派はインテリと称する連中に多い。あまり深く考えずに反権力・反政府の方向を何となく「正義」と看做(みな)すあのばからしいインテリ心理と、深層においてつながっているように思える。そして、これが私の身を置く職場や交際社会に、まるでゴキブリのようにごまんといるので、衆寡(しゅうか)敵せず、私はほとんどお手上げである。

 私が巨人ファンになったのは中学生の頃だった。三番青田、四番川上の時代である。川上の赤バット、大下の青バットが子供たちを熱狂させていた時代である。

 私は中学一年のときに“少年ジャイアンツ・クラブ”というファンクラブに入って、写真集などを集めた。ラジオの中継を必死に聴いた。対南海戦で、三対零と負けていた九回裏二死満塁ツースリーで、川上がサヨナラ・ホームランを打った、あのまるで絵に描いたような有名な試合も、私はラジオで聴いていた。そして、興奮して、部屋中を飛び回ったのを覚えている。

 少年の心を燃え立たせた熱い、熱い思い出に、私は一生素直に、忠実でありたいと思っている。インテリぶってわざとお澄まし顔にひねくれてみせるなど、じつに馬鹿げている。そして、原ではなく、川上、長島、王に匹敵する不動の四番打者の出現する日を夢みつづけることにする。

    初出「NEXT」1989年1月号

むかし書いた随筆(二)

***やさしさと弱さ***

 テレビ番組で新婚カップルに、プロポーズの言葉は何でしたか、とアナウンサーが質問すると、たいてい「僕と結婚して欲しい」「僕について来て下さい」の男性主導型の答えが多く、「二人で人生を一緒に歩もう」というような男女間の対等と共同の姿勢を示した答えはめったに聞かれない、これは非常に困ったことだ、とある婦人評論家が、近頃の若いカップルに疑問を呈していた。すなおで従順な女を喜ぶ男の身勝手が、結局女を一本立ちの人間にしないで、駄目にしているのだ、と彼女は言いたいのである。

 しかし私に言わせれば、これはまったく逆に考えることもできるのではないかと思う。

 やはりテレビでよくやる若い男女の番組を見ての感想なのだが、女性はどういう夫を望むかと聞かれると、たいてい「やさしい人」「誠実な方」と答えるようである。私にはどうにもよく分からない答えである。まるで雄々しい男性像を望む若い女性はいないかのごとくに見えるからである。

 よく考えてみれば、男のやさしさなどというのは、なにか事が起こるまでは裏に隠れているのが普通なのであって、いかにも外見上やさしそうにみえる、表面的なやさしさは、人生の危難に出遭えば、たちまち女への残酷さに一変してしまわないとも限らないだろう。

 ただのやさしさ、みかけの誠実さは、人間としてのどうにも救いようのない弱さの表れかもしれないのである。男が女を駄目にしているというのなら、みかけの「やさしさ」「誠実さ」を求めたがる若い女性が、今の男を駄目にしているのだと言えないこともないだろう。男女は相関関係なのに、なんでも男のせいにするのはおかしいし、女性がとかく自分の失敗までをも男のせいにしたがるのは、女性が一本立ちの人間になっていないなによりもの証拠のように思える。

 こういう男女が結婚して、いざ子育てという段階になると、互いに都合のいいことは全部自分のせいにし、具合の悪いことはみな相手のせいにして、そういう調子で何年も経るうちに、妻はただ愚痴だけをこぼし、夫は聞かぬふりをして妻の攻撃をかわすだけの、一種独特な、あの不正直な「家庭」という城が出来あがるのである。

 子供は父親をいっこう尊敬せず、母親をできるだけ利用しようとする、「甘え」を武器としたずるい性格を手に入れるようになるであろう。お父さんがしっかりしてないから子供がこんな風になった、もっと厳しくしつけて下さい、とよく夫を責める妻がいる。しかし父親らしくさせるのは、母親の毎日の態度なのである。

 お父さんの職業や収入をいつもお母さんが口ぎたなくののしっているような家庭であれば、子供もやがていつしか父親を軽んずるようになるだろう。しつけなどできるものではない。

 そういう家庭に限って、親子の断絶だなどと大げさに言いたがる。なにか事件が起こって、急にわが子の気持ちがさっぱり分からんなどと言いだすが、両親は子供にだけ正直であることを要求して、つねひごろ自分の方は子供に対してさほど正直であろうとしなかったことに、まるで気がついていないのである。

 いけないのは、なんでも相手に責任をなすりつける、人間としての弱さである。男にも女にもこの弱さはあるが、母親は子供という愛の対象を得ると、この点救いがたい弱さを暴露しがちである。女はたしかに愛において強く、深いが、自分の愛していないものに対しては不公平になりがちである。男だって愛によって盲目にもなるが、自分の敵をも公平に評価する目は、女よりはいくらかましだと、私はつねづね考えている。

初出(現代「ずいひつ『父親たち』(5)人間としての弱さ」)『ベビーエイジ』1978年9月号