西尾幹二先生
「WiLL」の第二弾は、第一弾にも増した感銘を覚えながら拝読しました。
前号では衝撃が読者の心を捉えたと思いますが、今号は国難に瀕する「覚悟」が読者をゆるがせたに違いありません。
皇室が信仰に根ざす故に、不合理であるという根本を鋭く指摘されており、小生がかねてより考えていた皇室感とも全く一致します。それが、いつもながら先生の論旨の明確さに支えられて展開するので、痛快ですらあります。
不合理だからこそ美しい歴史として国民の尊崇の対象となるのです。
しかしながら、いかに先生の本稿が素晴らしくても、肝心の皇太子夫妻の耳に声が届くのかどうか、それが問題なのです。
皇太子本人が決定すべき事項が余りにも多く、それをペンディング、若しくは放棄しているのですから残念ながら解決の糸口は絶望的だともいえます。誰も皇太子夫妻に直接諫言できる側近がいないまま時間が過ぎ、天皇・皇后は無念を抱いたまま加齢されてゆきます。
西尾先生の二回にわたる論文を皇太子夫妻が心を開いて読んでくれることを祈るばかりです。
とにもかくにも小生は、先生の本稿がこれまでの凡百の皇室特集を粉砕して余りある内容だと思いました。
皇室問題には一歩距離をおかれてきた西尾先生が、ここへきて直言を書かれたことの意義は大きく、一人でも多くの読者に読んで欲しいと念願してやみません。
取り急ぎ愚考まで。
加藤康男
拝復
肝腎なことが起こると貴方が必ずお手紙をくださるのがありがたく、いつも貴方がどう考えてくれるのかなと思いながら書くことも多いのです。雑誌はまたバカ売れしたようで、二度増刷したそうです。増刷分だけで5万部だと昨日会社の人が自慢していましたが、妻子を殺された人の手記も大きかったのでしょう。花田さんは根っからの編集者魂の人なのですね。
雑誌はそんなにたくさんの人に読まれても、私に感想を書いて下さったのは貴方おひとりでした。友人たちはいつも誰も何も言わないのです。それだけに貴方のメールを嬉しく存じました。
仰せの通り、現実はそんなに大きく動きません。当事者が読んで心を入れ換えるなんてあり得ませんから、結びの一文に書いたように、もうすべてが遅すぎるのかもしれません。
ただせめて一つでも変わることがあるとすれば、例えば『文藝春秋』が座談会でお茶をにごし問題を先送りするような、姑息な編集方針を改めるようになることです。
言論で何を訴えても変化は小さいものです。ものを書くということは非能率で、空虚な作業だと思うことは常々ですが、せめてものを書く人間だけでも「責任」ということをもっと考えてくれればと思います。編集者が官僚化してはおしまいです。
それから、よほど過激な左の人でない限り、いまはみな天皇制度の擁護の立場に立った上であれこれ言って、現状を守ろうとしますね。今後私に反論の文を寄せる人が出てきたら必ずそういう書き方になります。
最初のページに私が「天皇制度を擁護している知識人の論文の中にこそ、本当に信じていない人間に特有の利口な無関心が顔を覗かせている」と書いておきましたが、大部分こういう人ばかりです。
そして大切なのは、私も「利口な無関心」に半身を入れているのですよ、と私が言っていることであって、この点に気がついてもらわないと本当のことは分らないのです。
皇室問題は信仰だということ、信仰だから半分は信じられないのだということ、そして神話への信仰が基本だということ、神話はつくり話だと思っていますかいませんか、と皆さんに問い質したのがあの論文です。
加藤さん、貴方はちゃんと見抜いて下さいましたね。不合理ゆえに美しい、という貴方の言葉に置き換えてこのことを述べて下さいましたが、このことが分る人は少いのです。
大概の人は自分の観念に安住するからです。皇室問題に関する私の定まった観念はありません。私は自分が信じられるのか信じられないのか、そのことを自分の心に問い掛けているだけです。
そして、それは皇室問題だけでなく、すべてのものを書く行為の基本ではないでしょうか。
自分が簡単に信じられることは書いても仕方がないのです。先々どうなるか分らないこと、よく見えない未来を見えるようにすること、つまりそのつど賭けること――それは信じられるか信じられないか分らないことに挑戦するということと同じ態度です。
誰しもが分っていること、みんなが信じている「観念」に乗ってものを言うのはもっとも価値のない行動です。
ですから、私は福田内閣批判をしきりに書く人の気持が分りません。国民の100人のうち99人は福田はダメだと分っています。言論人はこんな安易なテーマを捨てるべきです。
言論人は群衆の一人になってはいけないのです。
私は安倍晋三氏が保守言論界の宿望を担って登場し、首相にならんとしたときに、この人はダメだと書きました。政治が分っていない人、性根の据わっていない人と見抜いたからです。
しかしあんな形で内閣をほうり出すということまでは予想がついていたわけではありません。たゞ私は自分が信じられない、と書いただけで、固定したどんな「観念」も私は持っていません。信じられないのを自分の心に問うただけです。
福田康夫氏は最初から言論人の誰にとってもダメな人とお見通しでした。であれば、今さら彼について論を張るどんな意味があるのでしょう。
皇室問題も基本は同じだと思います。私は信じ、そして信じていないのです。だからこそ強く信じることができるのです。不合理だから美しいという貴方のことばを大切にしたいと思います。
近くまた一杯やりましょうね。鰹のうまい季節がきました。あれの旬のときは酒もうまいのです。
西尾幹二